個人的なことではあるが、引越しをした。
もともとこのバンドのウェブサイト、何度も書いてあるように、うちは基本的にどうしても海外向けにやっている色の濃いバンドであるから、この日本語ページは個人のブログというか日記のような運用をしている。
引っ越しはごく個人的なことだが、これは心象風景でもあり、心象風景は自分の内面の発露である創作、ひいては音楽を鳴らす行為にも関わることであるから、やっぱり書き記しておきたい。つまりは人生全般ってことだ。
引っ越しなんて小さなことだが、自分にとっては、やっぱりひとつの転機になり、気持ちの上では大きな転機になる出来事であるように思う。今回の引っ越しは。心機一転というべきか。
前の住居は、まあ当然賃貸のアパートであるが、思えば、かなり長い間住んでいた。8年半になると思う。
思えば、HassyとJakeと、「クリスチャンメタル」のバンドであるImari Tonesをやり始めたのが2008年の秋。それを初めて2年ほどした頃に、その住居に引越したので、そう思えばHassy&Jakeと一緒にやっていた時期を、ずっとここで過ごしたことになる。
僕は出身は愛知県であるが、現在、というか2007年以降、横浜に住んでいるが、横浜に住んでいるのは、なんでだろうね、なんかちょうどいい、ということがあるのだろう。
理由のひとつは、若い頃、嫁さんと一緒に初めて「二人で生活」をした場所が、ここであった、ということ。「約束」みたいなもんかな。同様に、大学時代を過ごしたのが、ここであった、ということ。そういえば「君と約束した場所」っていう曲があったな。
あとは、僕の敬愛する日本のミュージシャン/アーティストの方が、やはり横浜の方で、「そのあたり」にいると、その方の音楽がやはりすごくしっくりきた、ということ。そういう意味では、結構、「聖地」に住んでいたのだが、音楽的な、個人的には。
聖地っていうわけじゃないが、そういえば遠藤周作氏が、後年、町田市の玉川学園のあたりに「狐狸庵」と称して住んでいたことは有名かと思う。町田も結構近いので、特にここ数年、Calling Recordsのことが始まって以来、町田近辺には頻繁に行くことが増えた。
今回の引っ越しに際して、町田近辺も考えないではなかったが、やはり嫁さんに決定権があり(笑)、嫁さんの鶴の一声というべきか、彼女の希望で、物件が決まった。穴場的な物件と思われ、競争もあったと思うのだが、かなり嫁さんの電撃的な早業であったと思う。
そして、その場所は、やっぱり横浜であった。しかも、もっと横浜の中心に近づいてしまった。
昨年一年を通じて、そして、今もそれは問い続けているが、Hassy&Jakeと10年間やってきたImari Tonesがいったん終了し、次の形を模索する中で、またこれから作るべき”Nabeshima”に向き合うにあたって、いったいどのような形で活動をやっていくのか、いつ、どこで、だれと、どのように、それを行うのか、
特に、「どこで」の部分については、僕はかなり真剣に考えていた。しょせん、うちの音楽は海外に行かないとウケない音楽である。今まで、色々の事情で行動に移せなかった海外への移住も含め、あるいはこれからの人生、音楽人生を考え、首都圏から離れて地方に拠点を移すのがいいのか、など、あらゆる可能性を考えていた。
またややこしいのが、これから作らなくてはいけない”Nabeshima”は和風の要素を色濃く持った音楽だということだ。そんな和風のスタイルの音楽をやるのに、海外に行ってしまっていいものか、日本人でやるべきではないのか、あるいは逆に海外に行った方がいいのか。考えてもわからん。
そして”Nabeshima”は僕たち(僕と嫁さんのことである)にとっては、10代の出発点の記憶や感性ともつながった、個人的に大切な意味を持つ音楽でもある。それを作るためには、僕たち自身が、求めていた「幸せ」を見つけ出さなくてはいけない。
そのことを、Hassy&Jakeの脱退が決まってから、実際には2016、2017の時点でかなり決まってはいたのだが、ずっと考えていた。
それに対して、僕が「どうしたもんか」と考えあぐね、途方に暮れているところ、うちの嫁さんの出した答え、が、答えですらないのだが、その声は、「そうにゃん」というものだったのである。
これは、昨年のウェブサイト移行前のブログにも書いていると思う。
今では結構人気が高まっていると思われる、相鉄のキャラクター、いわゆる「ゆるキャラ」の「そうにゃん」に、嫁さんが夢中になり、暇さえあれば、そうにゃんそうにゃん言っているのである。
で、やっぱりうちの嫁さんとしては、「そうにゃん」に近い場所が良かったようなのである。通勤などの関係があるので、「がっつり相鉄線の沿線」っていうわけではないが、これは限りなく、ほとんど「相鉄線」の圏内である。
そして、物件を選んでいる際にも、うちの嫁さんは「そうにゃんハウス」とか意味のわからんことを口走っていた。つまり、この新しい住居は「そうにゃんハウス」だということらしい。なので、そんな「そうにゃんハウス」に住むことは、うちの嫁さんにとって当然の希望であった。
結果的に、今までよりも横浜市内の中心部にアクセスが良くなった。これは、色々の選択肢はあるにせよ、ひとつ間違いなく、音楽を制作する環境としては、今までよりも格段にやりやすい。
「作れ」ってことなんだろうな。ここで。
果たしてこの場所は、遠藤周作氏にとっての「狐狸庵」のような場所に、僕にとってなってくれるのだろうか。
思えば、僕の音楽人生は、バンドメンバーというだけでなく、嫁さんにかなり影響されており、悪く言えば縛られており、そこが限界になってしまっている部分があるかもしれない。しかし、もともと僕はうちの嫁さんに出会わなければ、そもそも音楽とかやっていないので、つまりうちの嫁さんがいなければ、そもそも生まれなかった音楽であるので、それは「そういうもの」なのだ。
思い出すのは、1998年頃の感覚だ。
数字にするともう20年前ってことになる。それだけ時間がたち、それだけ歳を取ったということだ。
けれども、情熱ってやつは歳を取らない。愛ってものも変わらない。信じるにせよ信じないにせよ。
当時はまだ僕は大学生という身分であった。もっともきちんと通えてはいなかったが。
数字を見ると愕然とするが(笑)、僕は上の世代に対して憧れることはあっても嫉妬することはないし、その逆に下の世代に対しても尊敬することはあっても羨ましいと思うことはほとんどない。
それは自分のとらえるべき時間をこの手にとらえている、という真実であり確信だ。そしてその経験した時の熱さと、思いの深さだろう。それは世代それぞれに違うものだが、その先にやはり共通した普遍はあるはずだ。
話がそれたが、1998年頃の感覚を思い出す。
その時も、確か引っ越しをした。今度の新居は、その時の部屋と、ちょっとだけ似ている。そして、状況も似ている。
あの時、僕は自分一人で、何のあてもなく、何の現実的な目的もなく、ただ一人で音楽を作ることを決意していた。決意していたわけではないが、決意すらせずに、ただ作り始めた。
今、また僕は一人だ。
いや、一人のようであって、一人ではない。
バンドもある。
音楽仲間もいる。
世界中にいる。
経験もある。
作ったものを聴いてくれる人たちも世界中にいる。
けれど、やっぱり、創作、ということに関しては、また「一人」だ。
いや、やっぱり「二人」だ。
そこが原点だ。
一周して戻ってきた感覚がある。
あの、新しい決意で始めた頃の感覚に、再び戻ればいい。
大して「出世」はしていないが、あの頃、持っていなかったものを、確かに僕は今、持っている。
あの頃、まだ若かった時であるので、嫁さんと離ればなれになっていることが、この上なくつらいことであった。
そんな中で、僕は音の中に踏み出したが、今こうして、「そうにゃんハウス」に、それこそ「20年以上」連れ添った経験とともに、嫁さんと一緒に、あらためて踏み出せる。
だからあらためて聴いてみよう。
自分にとって、大事な意味を持つ音楽の数々を。
そして、本来そうあるべき環境を作り出し、本来そうあるべき形を整え、本来そうあるべき音を鳴らそう。
あの頃の、純粋な思いを取り戻した上で、さらにあの頃に持っていなかったものを、より豊かに持ち帰って、今、これから、大切なものに向き合える気がしている。
だから僕は今、これまでにないくらいの幸福感を感じている。
この幸福感こそが、”Nabeshima”に向き合うために、きっと必要だった。
僕としては、”Nabeshima”を作るにあたって、やはり一度、心機一転し、環境を変える必要があった。
今回の「引っ越し」という個人的に小さな出来事は、現実的な意味の環境もだが、精神的な意味でも、創作上、そして人生の上でも、ひとつのきっかけとなってくれるように思う。
良い方向に向かっていくよう、祈っている。
それは、これまでもずっと祈ってきたのだから。
祈るって、どういう意味なのか。
あらためて、考えてみたいんだよね。
いや、考えるまでもない。
むしろ、人の生涯は、本来、祈りから出来ているのだから。