令和の最初の日、僕はやっぱり、XTCのEnglish Settlementを聴いて、80年代な気分に浸っていた・・・
このあまり機能しているとは言い難い日本語サイト(ほぼ日記帳)については、書こうと書かまいと、あまり気にする人もいないかもしれないが。つーか英語のブログを更新しろよ、という感じだ。そっちの方が優先だろうに、やっぱりハードルが高い。
4月1日に元号が発表されてから、ブログを書かなきゃなって思っていた。
(エイプリルフールだったし、れいわと言ったら冷雨が降った、ジョークのひとつも言えない日本国民のために、天がツッコミを入れたのか)
そして気が付けば6月1日になっていた。
ということは、2ヶ月も書くことをさぼっていた。
ごめん。
本当にごめん。
だって元号が変わるっていうのは、そんなに頻繁に無いことだ。
「明治が始まりました」
とか、
「昭和が始まりました」
とか、
その時、どんな感じだったんだろう、
人々はその時、どんなことを考えていたんだろう、
って、思うじゃないか
だから、インターネット社会の感覚で、
新元号になってから一ヶ月遅れたけど、、、って思うけれど、
何年、何十年、何百年たってから振り返れば、
まだまだ令和になったばかりの貴重なタイミングだと思うから・・・
令和、って、まだキーボードの日本語変化がされないから、打ちづらいよね、、、コピペする方が早い・・・って、自分で設定すりゃいいのか、辞書の設定を。あれ、どうやってやるんだっけ・・・ああなんか、キーボードの入力がおかしくなった。やめときゃよかったかな。
毎回言っているが、ブログに書きたいネタ、話題は、いつだっていくらでもあるのだが。
令和って元号が発表された時には、あぁ、ダサいな、って。
でも、結構たくさんの人がそう思ったんじゃなかろうか。
政治的なことはあんまり書きたくない。
僕は政治を信じていない。
信じていないっていうのは、英語で言うところの I don’t believe in politicsという意味だ。
音楽っていうのは結局、政治かもしれない。
それは、僕にとっては最初からそうだったし、また、やればやるほどそう思う。
宗教(信仰)っていうのも結局、政治かもしれない。
それも、知れば知るほど、やっぱりそう思う。
現実の世の中っていうのは、あらゆることが、政治によって動いているからだ。
僕は民主主義ってやつを信じている。
それは、英語で言うところの I believe in democracyという意味合いにおいて。
けれども、今の時代における人間社会の政治のシステムが、必ずしも機能しているとは思っていない。(ソーシャルメディア時代になってからの惨状は、書くまでもない)
というよりも、そもそも僕が音楽を始める最初の地点において、政治というものに絶望したからこそ、僕は音楽を始めたと言える。
つまり、ああ、これはダメだな、とっくに手遅れだな、じゃあせめて、音楽を鳴らそう、っていうことだ。
これは、多少話が逸れるが、若い頃からバンドマンやってて「よく言われるセリフ」であるところの、「夢があっていいですね」っていう言葉。
いや、ほとんどの(病気系の)バンドマンは、夢があるからバンドをやっているわけではなく、夢をあきらめなきゃいけなかったからこそバンドをやっているんですけれど、っていう、その状況と、ちょっと似ている。
目の前にあるのは夢なんかじゃなく、苦い絶望だけですが、っていう。
わかるだろうか。
あるいはこれは、特定の世代のみが持つ感覚なのだろうか。
また、右や左といった政治的な立場についてもあまり信じていない。
それは、あまりにも定型に、単純に過ぎると思っているからだ。
一応、自分はリベラルな方であるといつも公言しているが、それについても確信は持てない。issueによっては妙に保守的なことを言い出す事もあるからだ。
いつも言っている冗談のひとつであるが、
アメリカにおいてはキリスト教徒というのは、一般的に右寄りで保守的な人が多い(一般論であり、そうじゃない人もたくさんいます)のに対して、
日本でキリスト教徒と言えば、どちらかといえば一般的に左寄りでリベラルな人が多い(一般論であり、そうじゃない人もたくさん知っています)、
という、ちょっと笑える事実からも、政治的な「立場」なんていうものが、実は案外と曖昧で信用ならないものだということが、わかるように思う。
そういえば、前に、タカ派のキリスト教徒のアメリカ人と、イスラムの過激な人たちは、実は案外といろんな点で意見が共通してるので、実は気が合うんじゃないか、っていうジョークみたいなミームだか動画があったな。(御存知のとおり、旧約聖書は一緒だしね)
いつものことだが前置きが長い。長過ぎる。
令和という元号に関して、
なんか字面がダサいよな、という印象はどうしても否めず、
また、左寄りの人たちの中からは、
「命令には和やかに従えということか!?」
と拒否反応を表明している人も多かった。
その気持ちはわかるし、俺たちロッカーはいつだって反骨精神を持っていなければいけないので、その反骨精神には共感し、支持し、応援したい。
つまり、命令されて平和になるなんて、そんなのはまっぴらだ、そんなのは本当の平和とは言えない、という言うんであれば、それは正しい。
また、キリスト教の人たちの中からは、
聖書の、旧約聖書のイザヤ書の60章17節の聖句を持ち出して、これは聖書の言葉だ、って言っている人もいた。
「わたしがあなたに与える命令は平和 あなたを支配するものは恵みの業」というやつだ。
神に信頼し、have faith in God、であれば、これはすげえ力強い言葉であり、とんでもない祝福だ。
それも、ばっちり凄い話だと思う。
これについて書くと、それで話がすべて終わってしまいそうだ。
反骨精神ってのはあるけれど、それは「神が、キリストさんがそう言うんなら、そうするぜ」ってなるからね(笑) それが本当に神の命令なのなら、それによって平和になるさ、だがそれは本当に神の言葉なのか、ってね。
そんなものが、誰に見分けることが出来るというのか。
しかし、日本の天皇ってことを言えば・・・
いや、この話は長いしやめておきましょう。
でも、俺はめでたいことだと思うぜ。
いったい世界のどこの国家に、聖書のry
で、結論を言うと、僕はこの「令和」って元号を、結構気に入っている。
僕が感じたのは、
それはつまり、この元号を考えたのが誰で、どういう意図で決めたのにせよ。
今、この国を支配している人たちが、どういう人たちで、そこにどういう宗教のつながりが、背景としてあるのか知らないが、
いずれ宗教家も当然関わっているであろうから、
それらの人たちは、きっと念頭にあったはずだ。
令という漢字の意味だよね。
これは、同じ読みで「霊」と読むことも出来るし、実際に意味もすごく近い。(スタンド目線で)
そういう意図が念頭に無かったとは思わない。
つまり、僕はこれを「霊が和する」、あるいは「令が和する」と読みたい。
「命令によって和する」んじゃくて、「令が和す」としたい。
ここ何年か、世界の政治状況はかなり混迷を極めているけれど、
「令が和す」という主題は、この現在の世界の状況を解決するためにもぴったりと当てはまる。
どちらにせよ、僕の周囲の人も言っていたけれど、
この国を支配する人たちが、どういう意図でそれを名付けたにせよ、
それに意味を与えるのは僕たち民衆であるし、
より本当の意味で、「霊の平和」が訪れると願いたい。
ていうか、きっと普通にそうなるだろう。
劇的にそうなるのは奇跡とは言わない。
なんか知らん間に普通にそうなるのを奇跡と呼ぶ。
もうひとつ思ったのが、「なにこの昭和カムバック感」っていうことだ(笑)
これは、そう思った人、たくさんいるだろう。
昭和が、もういっぺん、バージョンアップして戻ってきた感がある。
こんなにゆるくていいのかな。
それは、ここ何年かの、音楽のサウンドの流行や、若い人たちのファッションの傾向が、(なんか肝心の部分が抜けている気がするものの)、非常に80年代的になってきている、ということ含め、大いに感じる。
良くも悪くも、実際の80年代にあった「ギラギラ感」は無く、ただ、そこから随分と毒を抜いたところの「キラキラ感」だけが、何倍かに希釈されて戻って来ている感覚はあるけれど。
そのことについて、嬉しいな、と思う気持ちもあれば、嬉しくないな、ダサいな、と思うところもある。(こんなにゆるくていいのかな)
ただ、僕はこれは、自分にとって、そしてまた、僕を含めた世界にとって、やり直しのチャンスが与えられたものだと、そう解釈している。
タイムループかよ。
もうすぐ西暦も2020年になろうとしているのに、世界は変わらない。
たとえばBTTFに描かれた2015年すら、もう何年も経過してしまった。(いいけどね、別に。逆に、そういうもんだし。たとえば他の近未来SFで言えば・・・そう考えると、面白くなってくる)
人間ってやつは、もっと可能性に満ちているはずなのに、
この世界は、もっともっと、素敵な場所になるはずなのに、
僕たちは神様から課された宿題をやるのに、ずいぶん遅れてしまっているみたいだ。
けれども、やり残した宿題がまだあるのだとしたら、
いちばん大事なことを、まだ僕たちはやらなきゃいけない。
それは、神の令にあって平和を実現することだろう。
ひらたく言えば、愛し合うことだろう。
でなけりゃ、いまだに世界が続いている理由がわからない。
令和の時代になったその日、僕はやっぱり、XTCの”English Settlement”を聴いていた。(感想はまた別途)
そして、80年代が戻ってきたデジャブ感(知らんけど)を感じていた。
人間の持つ、ひとつの優れた特性として、忘れっぽいということがある。
何も無かったように、80年代がループして戻って来たような、ゆるく国際化した東京を見ていると、そんなふうに思う。
みんな、何があったのか、忘れているに違いない。
あるいは、そもそも気付いていないのかもしれない。
けれども、この”English Settlement”を聴くだけでも、80年代初期にこれを描き、表現していた人々が居たとして、
その表現や概念を、後の時代の人々は忘れている、そして、何も変わっていない、そんなふうに思う。
そんなことを言えばもちろん何千年でもさかのぼる。
ラヴェルであれバッハであれキリストであれモーセであれ。
忘れているからこそ繰り返す。
繰り返して、またここに昭和が形を変えて、少しのノスタルジーと、心配になるほどのレイドバック感をともなって戻ってきた。
今、1979年がループして戻って来ているのか。
(こんなにゆるくていいのかな)
でも、僕はそれを自分たちに与えられたチャンスだと解釈する。
やり直しのチャンスだ。
80年代と言えば、ヘヴィメタルの黄金時代。
そして、ジャパメタ、日本のヘヴィメタルの青春時代だ。
若者たちのファッションや、サウンドの傾向が、きらきら、あるいは、さらさら、と、(よくもわるくも国際化し平均化したアジアの安っぽさを匂わせながら)、80’s化してきているのに比して、そこに「ヘヴィメタル」だけは、不思議なまでにやはり戻っていない。
だからこそ。
令和元年。
これは僕にとっての、ヘヴィメタル元年だ。
あるいは10年前も同じようなことを言っていたかもしれない。
でも、今回は元号が変わった。
国が、政府がそう言ってるんだよ。
だから、オフィシャルだ(笑)
We are officially in the heavy metal era.
And it is called Reiwa.