週末と終末の区別はつけなくていい

数日前に書いた文章だけれど、ポストするのをためらっていたが、まぁ載せてしまおう。
本当はもっと音楽に関することを書きたいが、いつも言っているようにこの日本語ウェブサイトはほぼ日記の役割しか果たしていない。気にする人もおるまい、といつも思って駄文をしたためている。

 

日本ばかりでなく、世界中で大きな音楽関係のイベントが中止になったりしていて、僕も驚いている。最たるものとしてSXSWが中止となったのは、34年の歴史の中で初めてのことらしい。

誰が仕掛けたんだか、神だか自然だか陰謀だか知らないが、自然災害や病気が引き起こす災害同様に、人の心が引き起こす災害が怖い今日この頃。

さてこれだけ世界中で「やばい」状況が次々と起きてくると、
世界中のいわゆるキリスト教徒の人たちが、そうでない人たちも巻き込んで、
「週末パニック」(終末)を起こすのもそう遠くないことだろうと思われる。

自分は仮にも「芸術家ww」のはしくれであるので、終末なんてものは自身の内外における宇宙において幾度となくシミュレーションしており、(そこを言葉で説明することなど到底不可能だが)、それゆえ、むしろ自分なりに信じているからこそ「終末、なにそれ美味しいの」というスタンスを出来る限りキープして行きたいと思っている。

少なくとも喜び勇んで大騒ぎはしたくないということだ(笑)

自分らのとこの教義や、組織の都合の中だけで考えてたら物事なんて見れない。
終末と週末の区別が付かないくらいで丁度いい。

 

けれどもだからといって、現実の上では自分はまったくの無力であり、間違いなく弱者だろう。
信仰なんてもんは本来「役に立つ」とすれば死んでからであって、現実には何の役にも立たんというのが前提だ。芸術もそんな感じだ。でなければローマ法王がPRグッズなど売るものか。
死に方は選べないし、ただひとつ選べるものがあるとすればどんな顔をして死ぬか、という、そこぐらいだろう。
「ざまあみやがれ」と言って中指を立てて死にたいからこそロックしている。そういうものじゃないか。
「愛しています」と言って笑って死ぬために愛を信じる。
そういうものだけど、だからこそ自分は弱者として真っ先に死ぬことになるだろう。
まあそれで構わんよ。

だからこそ「死ぬことと見つけたり」の武士道と、
キリストが十字架で愛そのものとして死んでみせた本質は、共通するのだよね。

そこには不可能なんてない。
そう言って死んだと、墓標には記して欲しい。

 

さて、そうして考えると、
世界中がこれからどのくらいどのような混乱に陥るのかわからないが、
日本人というのは現代において信仰というものを根本的に持たぬ人が大多数の国民であるが、
だからこそ案外と最後まで良識を保ち冷静でいられる人々ではないかと期待している。
もちろんそこには良い面ばかりでなく悪い面もたくさんあるけれど。
(この国の人たちは、世界滅亡のまさに「当日」まで、普段どおり満員電車に揺られて出社するであろう、ということは、これまでに起きた災害の際にも身に染みて感じたことではないか)

だが見た目上の文化や信仰といったものは一皮、二皮、剥いていけば、今時のグローバル化されたインターナショナルな世界においてはあまり関係がなく、
最後の最後まで何かを「信じて」いられるというのはまた別の話だ。
「愛」ってものがそうであるように、「信じる」っていうのがどういうことなのか、説明できるやつなんて誰もいやしないのだから。

世界中のいろいろな事もそうだけれど、
日本も今、かなりやばい状況にあるだろう。時代の状況の中で、という意味において。あるいはもっと根本的な意味において。

けれど、この国の「政治」とか「制度」とか、別に軍事でも教育でも何でもいいんだけど、
そういったものはいつだって駄目であったにせよ、
そういったものが破れた後、その後、そこから、こそが、日本人の本当の強さであるのは、前の世紀に起きた敗戦を見てもわかることだろう。

大和魂、っていうのは、最後まであきらめず、雄々しく勇気を持って戦うこと、だと思いたかったが、
現実に僕が見た「大和魂」というのは、
悲劇を受け入れ、ある意味あきらめを以て、悲劇を許容し、それでも歩み続けることだった。
あまり格好いい、とは言い難い。
雑草魂と奴隷根性の区別も付け難い。
でも、それが現実だったから仕方ない。

そこに「美徳」があるかと問われれば、僕は無いと思うし、
そこに「未来」があるかと問われれば、やっぱり無いだろう。
けれどもそこに「ブルース」があるかと問われれば、それはあるかもしれない。
そして「ブルース」の中からは、ひょっとすると、新しい何かにつながるものが残るかもしれない。

では日本人に本当の意味でブルースが鳴らせたのか、
今はそれは問うまい。

だけどもそういう意味で、この国の「政治」にはすでにひとつも期待を持ってはいないが、
この国にいる愛すべき「人々」には、僕はまだ期待を持ち続けたい。

 

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