いつもの徒然日記である。
この内容は、コロナウイルスによるquarantine、緊急事態宣言による自粛が始まった3月末、4月初旬あたりに書きたいと思っていたものだ。
けれども”Nabeshima”アルバムの作業に追われてブログを書くことに時間が取れなかった。
リアルタイムで見る内容としては、少し遅きに失した感があるかもしれないが、記録のために所感を書き残しておきたい。
何でもそうだけれど、いったいこの世界で何が起きているのか、本当にわかる人間はいない。
神の視点で上から俯瞰しないと物事は見えないし、また、見たとしても、人間の身である以上、ある一定の角度、ある一定の視点からしか事象を認識することが出来ない。
360度、あらゆる方向から同時に物事を見るというわけにはいかない以上、人間の認識には限界がある。
だから、ウイルスの影響により生活が一変してしまった世界中の状況に対して、今、何が起きているのか、ということを正確に言える人はいないだろうと思う。
世界中で色々な状況があると思うけれども、こと日本国内に関していえば、
これが果たしてウイルスと戦っているのか、
あるいは政府と国民が戦っているのか、
あるいは保守と進取の対立なのか、
あるいは官民のコラボレーションであるのか、
民主主義の前進なのか後退なのか、
Twitter上の大騒ぎであるのか、
社会の改革であるのか混乱であるのか、
弱者の救済なのか、置き去りであるのか、
文句を言っているのか、前に進めようとしているのか、
よくわかんない状態になっていると思う。
この状況に対して、どのような態度を取るかはそれぞれの選択であって、人それぞれの自由であると思う。
(付け加えておくが、僕は神ならぬ一人の無力な人間である以上、たとえしたくとも世の中に向けて大したことは出来ない)
そもそも、4月初旬の時点で、結論として何を書きたかったのか、僕はもう忘れてしまったので、この記事は論旨のはっきりしないままグダグダになるかもしれないが、
ウイルスのもたらした影響について、
社会なり政治なり経済なりITなり環境なり自然なり宗教なり、
いろいろな視点で語られている中で、それらはすべて確かにその通りだと思うのであるが、
僕がひとつ感じたのは、人間というものは果たして他者を受け入れることが出来るのか、ということだった。
ひとつ思ったこととして、
今、人間が問われているのは、果たして人類は、個人個人は、他者の存在を受け入れることが出来るのか、という命題が、
この状況の中で、問われている命題のひとつではないか、と、そう思ったのだった。(どこかの進次郎並みの日本語ポエム文法)
インターネット、ソーシャルメディアの社会の中で、今、世界中でそうだと思うが、特に日本は、なぜだかこのタイミングで、皆が政治や社会に対して様々な意見を積極的に発言する機会になっている印象がある。
その事に対して、良い印象を持つ者もいれば、良くない印象を持つ人もいるだろうと思う。
かねてから言ったり書いたりしているみたいに、僕はその状態を、基本的に歓迎すべき良いものとして受け止めている。
率直に言えば、そのような状態は「居心地が良い」と感じるのだ。
右から左まで180度、あるいは360度、様々な立場の人がああでもないこうでもない、と言って「収集がつかなくなっている」状態。
僕はそんな状況を見て、どちらかといえば「うん、これでいい、こうでなくっちゃ」と感じる方だ。
で、もって、音楽シーン、ロックンロール、音楽、をめぐる状況を見ても、そういう状況になって久しい。これは言うまでもないと思う。多種多様に細分化されたジャンルの中で、意味分からんくらいにニッチな表現が世界の津々浦々で鳴らされている。
こういった世の中、こういった状況の中で、人はどのような態度を取り、どのような選択をし、どのような反応を示すのか、興味深いと思っている。
前向きな反応、後ろ向きな反応。
何をもって前、あるいは後ろとするのかも基準は一概に言えないけれども、それらの反応を分けるのは何なのだろう、とずっと考えていた。
で、ふたつほど思い当たったことがあった。
ひとつが、他者を受け入れることが出来るか、ということ。
もうひとつが、「救済」(ないしは天国、ないしは理想の世界)を信じているかどうか、ということ。
そうなのかな、と思った。
で、面倒だから結論に急いでしまおうと思う。
ひとつめ。
人間は他者を受け入れることが出来るのか、ということ。
つまりそれは、自分と違う意見を持った者、自分と違う立場の人、それらを受け入れられるか、ということなのだけれども。
自分と違う意見を聞く、っていうのは、結構きついことだと思う。
なんかしらんが、人はそれを難しいと感じる。
感情的に、なのか、本能的に、なのか。
生まれ育った地元のスポーツチームを応援するみたいにして、人は環境だか、なんだか知らないが、それぞれに「立場」みたいなものがあって、それを否定されると、なんかしらんが精神的につらいと感じるものらしい。
なので、自然と、当然のこととして、人は集まることになる。つまり、自分と同じ立場、自分と同じ考えの人同士で、集まることになる。それは、その方が楽だからだと思う。
そういった人の集まりというものは、地域、言語、人種、文化、などの分類があったと思うけれども、今の時代にあるいわゆる「政治的な分断」というやつは、単純に地域や人種やバックグラウンドによらず、もっと純粋に精神的なものに依っている気がする。たぶんそれはこの5年くらいの間に、たくさんの人が指摘したり議論しているだろう。
地域性や肉体性だけでなく、インターネットの時代になってから、それらはそういった地域やら物理的な障壁を越えて、like mindedな、同じ考えを持つ人が集まることが可能になり、可視化されるようになり、また声を持つようになった、んだと思う、たぶん。
それがいったい、何によって分けられているのか、興味があるのだけれども、より本能的な何かに基づいているような気がしているので、考えても仕方がないというか、考えると余計につらくなるだけのような気もしている。
さて本能といえば、
人間というか、動物というものは、基本的に自分と違った存在を認められないものであると思う。
基本的に動物というものは、自分と違う存在を否定するようになっていると思う。
それは本能的な生存競争というか、生存本能に基づいていると思う。
動物、というか生物というものは、生殖とか、分裂だかなんだか、自分と同じ種族を増やし、子孫を残す、というのか、要するに増えていくようになっている。
そしてその同じ種族の中であっても、やはり生存競争があり、オットセイであれクジャクであれカマキリであれ、子孫を残すという仕組みの中にあってやはり競争というものがある。
また、生きていく上での食物連鎖の中でも、弱肉強食であるとか、焼肉定食であるとか、そういう言葉に見られるように、生きていくということは基本的に「殺し合い」である。要するに適者生存を通じてお互いを否定しあう競争である。
食う、ということはいかなる形にせよ、基本的に他者から奪う、ということであるが、かといって自分が食わなければ、今度は自分が食われることになる。
この競争というものは、自然界の中にあってなんだか最初っから前提のようにあるものであり、それは人間が商売とかの経済活動をする上でもそこにあるし、ちょっとバンドをやったりするだけでもやっぱりあるので、生きていくことは基本的に全編にわたってどうやら競争するものであるらしい。
(それらの前提をよくわかっていない、飲み込みの悪い人間もたまに存在するが、僕もそのうちの一人だ。)
さて、人間には男と女というものがある。
性別というシステムがある。
それは人間だけではなく、動物とか、多くの生物にはそのシステムが備わっている。
なんで男と女、オスとメスがいるの? って、小さな子供に聞かれたとしたら、そんなもんしらんがな、神様に聞いてくれ、と答えるしかないが、
ごく狭い範囲においての回答であれば、僕はひとつふたつ、答えることが出来るような気がしている。
回答の内容はみっつ、かな。
それはひとつは、ひとりのものが絶対的な権力を地上において持つことが無いようにするため。ふたつめは、この世界に多様性をもたらすため、そして最後のひとつは、ドラマのためだ。
なんかしらんが、神はドラマを欲しがっているものらしい。それはあの聖書であるとかキリストの壮大な自作自演っぷりを見ても想像ができるだろう(笑)
主演オレ、脚本オレ、演出オレで全部やっちまってるようなものだと思うから、神自身が。キリストは映画監督がカメオ出演どころかいきなり主演で乱入してきたみたいなものだ。しかも一番いいところで(笑) 人間はだいたいその崇拝者か単なる背景かよと思わないでもないが、神は人にもそのドラマを演じてみせよと言うておられるように思える。
この弱肉強食の世界設定において、そんなドラマを仕掛けた神に対しては、僕はもし直接会うことがあればいっぺん殴ったろかとかねがね思っているのであるが。(こんなことを言うと一般のキリスト教徒の皆様から怒られるけどね)
この世を支配している黒幕であるところの誰かさん。たとえばわかりやすく不死のヴァンパイアの一族がいるとする。
そして宇宙を支配しているところの神さんについて、「神様」なんて書いたときには皆が思い浮かべるイメージがあるだろう。白い髭の杖を持った老人とか。
僕はそれらの一般的なイメージとは多少違った形で「神」というものを考えている。
僕の考える神のイメージは、父なる神、であると同時に、膝を抱えた孤独な少年の姿だ。神なんてものがいるとすればそれは相当に孤独なものに違いないからだ。
そしてこの世界の「黒幕」とか「支配者」に対しても一般的なイメージとは少し違うように考えているだろう。
わかりやすいたとえとして不死のヴァンパイアがいるとするならば、この世に不死のヴァンパイアほどに哀れな生き物は存在しないだろうから。
僕らがそれらの者たちにしてやらなければならないことは、憎むことや敵対することではなくて、哀れんでやることである。
その膝を抱えた孤独な少年に対しては、同情もしてやりたいし、俺はお前のことを忘れていないぜ、と声をかけてやりたい気持ちもあるが、やはりまずは最初に一発殴ってやらないと気が済まないだろうと思っている。もちろん相手は神であるからして、彼がその気になれば僕なんぞは存在ごと消し飛んでしまうのであるが、そんなことは関係がないのだ。そう、関係ないんだよ、そんなことは。
クリスチャンミュージック、ゴスペルというものはちょっと卑怯な芸術であって、それはその芸術自体の出来の如何にかかわらず、自分が神にしてもらったことを思い出すことによって泣けてしまうというメカニズムが存在し、つまりキリスト者と言われる者は誰しも、自分が神に受けた恩を知っており、魂がそれを覚えている。それは罪の許しであり救済であり、また抱え切れぬほどに果てしのない祝福であるのだが、であるからして神、中でも「キリスト」としての神に出会えばやはり僕も涙を禁じ得ないであろうが、それはさしおいてやはり、孤独な少年であるところの「父なる神」に対してはやっぱりそれでもなお、全部ほっといてやっぱり一発ぶん殴ってやりたい。
そういうものだろう。
僕は一般に考える宇宙人というものについても似たような認識であり、
どんなテクノロジーなり霊的に高位な力を持っているのか知らんが、「大したことない」と認識しており、また「哀れな連中である」と考えている。
どっちにしてもこんな地球くんだりまで来るような宇宙人はそうに決まってる(笑)
しょせんどこまでいっても、宇宙人とて生き物である以上、人間よりちょっとだけ優れているってだけだろう。そう考えている。
霊的ななんちゃらかんちゃらも似たようなものだ。
インターネット上や世の中に数多ある陰謀論の中にはそうした宇宙人もおそらくたくさん登場するのだろうけれども、以上の理由から僕はそれらを崇拝しようとも思わないし、また「アテ」にしようとも思っていない。
会えばきっと楽しいとは思うし友達にもなれるだろうが、時空を越えて宇宙を旅するようになっても、まだそんなもんなのかよ、と落胆するに決まっているからだ。
景色が広がれば最初は楽しいだろうけれど、そのうちすぐに飽きてしまうだろう? 限界っていうのはあるべくしてそこにあるのであり、本質的に限界を越えるっていうのはまた違う話だからさ。
もちろんどこかの星で流行している音楽は教えてもらいたいけれども。
そこに音楽なんてものがあれば、の話だけどね。
話がそれた。
ドラマの話から神の話になり、そこから大幅に逸れた。
話を戻すけれども、
生物に男と女、オスとメス、があるのであれば、それは何故なのか、その理由は知らないが、
狭い範囲で言うのであれば、僕が思い付いた理由は先述した3つのものである。
一人の者が絶対とならぬため
多様性をもたらすため
ドラマのため
そのみっつだ。
記憶が曖昧で、本当かどうか定かではないが、昔、なんかのテレビで見た気がする。
男と女、オスとメスという生殖の上での性別がある、ということは、遺伝子の輪っかが閉じていないことであり、それによって遺伝子だか染色体が消耗し、生き物にはシステム上の寿命が存在するようになった、みたいな話。うろ覚えだし、真実かどうか定かではない。
もしそういうのがなければシステム上の寿命は基本的に無かったかもしれず、そうであれば、歴史の中で一人の個人であるとか、特定の少数の人間が絶対的な存在として君臨し続けるということがあり得ることになる。
けれども現実にはどのような暴君も、独裁者も、極悪非道な権力者も、殺人者も犯罪者も、現実に神の目からみたスケールにおいては可愛いものであり、
それはどのような権力者であってもやはりその力は100年も続かないからだ。
だからこの世界に男と女というシステムがあるということは、神は地上において絶対的な存在を許していない、ということになる。
またこの男と女というシステムが多様性を確保しているということも言えると僕は考える。
理論上、この男と女という生殖の上での選別システムを通じて、人間また生物は「好ましい方向」へと進化していくはずであり、またそれを通じて「好ましい」方向へと画一化されていくはずではないかと思う。
けれども現実には必ずしもそうではないような気がしている。
それは人には個人個人に「好み」や「価値観」というものがあるからであって、物事の良し悪しを図る際にその基準が一定では無いからだ。
ごくごくあたりまえの幼児でもわかるようなことをわざわざ書いている。なので恥ずかしい。
食べ物や飲み物、音楽についても好みや価値観があるのであるから、男と女、ないしは人生の中における大切なことであるところの家族や結婚といったことについては尚更その価値観は多様なものとなるはずであり。
なので現実には男と女というシステムはこの人間世界におけるところの多様性を担保するように働いていると思う。
つまり男と女、オスとメスというシステムがある、ということは、神はこの世界に多様性をもたらそうとし、世界は多様性に満ちているべきだ、とお考えになった、と、そういうことだと僕は解釈している。
そんで、3番目の「ドラマ」については、これは説明するまでもない。
ていうか説明するのも嫌だし。
みんな、嫌というほどよく知っているだろう。
生きていく、ということは、この「ドラマ」というものを血を流しながら噛み締めていくことだ。
僕なんかが何も言える資格はないが、みんな、だいたいそういうものじゃないかと思う。
そして、事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったもので、結構な確率で、この「ドラマ」というものは、予想もしなかったような不思議な形をもって、それぞれの人間のもとにやってくる。
そこに「運命」を感じるか、「悲劇」を感じるか、「愛」を感じるか、「神」や「奇跡」を感じるか。
それは、人それぞれであろうと思う。
(もちろん、いわゆるセクシャルマイノリティの人に怒られないように付け加えるのであれば、いかに生殖の上で「男と女」のシステムであったにせよ、それをめぐる命の形、愛の形は、誰にも予想ができないほどに多種多様なのだ。だからこそそれはロマンでありドラマなのじゃないか。いちいち言うまでもないことである。)
で、もって、こういった男と女のシステム、そしてドラマによって築かれたこの世界を受け入れるかどうか、ということは、すなわちそれは多様性を受け入れるかどうか、ということであると思う。
成熟した人間、
成熟した男、とは。
(女性については自分はわからんので言えない)
つまり成熟した人間、成熟した男、というものがあるとすれば、それはこの世界におけるその「多様性」というものを理解し受け入れるというその一点にあるような気がしている。
神が作り賜いし「男と女」の世の中にあって、それがもっとも大切な、前提となるルールだからだ。
それはつまり、自分と違う価値観を持った人間や、その存在を受け入れることが出来るかどうか、ということだろう。
非常に馬鹿馬鹿しいようなのであるけれども、
今、このウイルスの影響下において、人間の世界の中で問われているのは、一番大きなものはこれではないかと僕は感じている。
多種多様な意見を持つ者がいて、
様々な立場の人間が居て、
それが皆、さわがしく声を上げる中で、
それでも「いいじゃん」と言って皆を受け入れ、
その上で自らも声を閉ざすことなく戦い続け、
皆で協力して問題に向き合うことが出来るかどうか。
みたいな感じだ。
で、僕は社会性のない無力な人間であるから、見ているだけであるが、
世の中の皆さんはかなり頑張っているように、僕の目には思える。
そんな世界の皆さんに僕は尊敬を感じる。
どんどん文句を言うべきだ(笑)
世の中は問題だらけなのだから。
こういう時に、今この時に、いくらでも皆でがんばって、少しでも世の中を良くしていかなければ。
今この時が、世の中を変えるきっかけであり、そのスタートなのだと、振り返ってそう思えるようにしなければ。
なぜって、たぶん本当に、これは始まりに過ぎないのだろうから。
「男と女」の多様性の「ドラマ」の中に生きる僕ら人間は、その「多様性」を基本原則として成り立つ民主主義を実現し、理解し、前に進めていくべく、戦っていくべきだ。
つまりそう考えると、「男と女」の世界に生きる人間は、最初から民主主義を原則とするように設計されている。そんなふうに思える。
さて、そんな世界に生きる僕たち人間であるが、この生物の世界には、そういった「男と女」オスとメスの「多様性」のシステムに依らずに生きている、そんな生物も存在する。と思う。生物学者さんに聞いてみないとわからんけど。
自らと同じ存在。
自らとまったく同じ遺伝子をひたすらコピーし、複製し、多量に数を増やしていく、ただそれだけを目的とし活動する生物。
もはやそれを生物と呼んでいいのかも僕はわからないが、生物に遺伝子ってものがあり、その複製、伝えていくことを目的とするならば、それだけに特化して他は剥ぎ取ってしまった存在。
考えたことは無いだろうか。
もし、世の中に自分と同じような意見、自分と同じような好み、自分と同じような考えの人ばかりだったら、もっと居心地がいいのに、って。
人はだれでも、生物である以上、そんな「自分しかいない世界」を夢想することがあると思う。
それを地で行って、本当に、自分とまったく同じものを複製し増殖することを目的とした生物。
それは言うまでもなくウイルスというものだ。
ウイルスの流行とはすなわち、「世の中が自分だけになればいいのに」そんな存在がはびこっていくことだ。
それがどんなに破壊的なことなのか、それは皆知っているだろう。
で、もって、そのウイルスそのものよりも破壊的で、伝染力が高いのは、そういった排他的な思想、利己的な考え方が、人間の精神を介して広まっていくことだ。
まともな人はみんな言っているように、僕ら人間が、今、本当に戦わなきゃいけないのは、こっちのウイルスの方だ。
さもないと病気のウイルスにも勝ち目はない。
どんな存在にも、どんな生き物にも、やっぱり存在理由があり、神から与えられた役割というものがある。
ロボットであってもそうだし、芸術であってもそうだと思う。
だからひたすらに自己複製を続けるウイルスにも、やはり世界の中で、役割があると思う。
人ってのは他者の存在を受け入れ難く、いつだって自分のことが可愛いものだ。
けれども、人間はウイルスよりはちょっとは優れている、ということを、示さなくてはいけない。
自分は多様性のある、やかましい世界で、他の誰とも違う自分の音を鳴らしていたい。
さて、段落が完結してしまったけれども、
もうひとつ思い当たったことは、こういった場面、ないしは様々な問題や議論に向き合うにあたって、人々の意見や反応を分けるものは何なのだろう、と考えていった時に、僕は「天国」ないしは「救済」に思い当たった。
それは教義で言うところの宗教の教義としてのそれではなくて、もっと漠然とした本質的なもののことだ。
そこに「天国」があるかどうか。そういったものが「ある」と信じているかどうか。
この世界に「救済」があるかどうか。そういったものが「ある」と信じているかどうか。
あるいは「理想」があるかどうか。「理想の世界」が存在し、それを実現することが「可能」だと信じているかどうか。
それを「今」「ここで」実現したいと望んでいるかどうか。
それぞれの立場や立っている場所に関わらず、人々の反応が「なんか精神的に」分かれるのは、見た目上の政治的な立場や信じているものの教義に関わらず、つまるところそのへんじゃないかと感じる時がある。
なぜならそれを「信じる」のは結構勇気のいることだからだ。
それが何にせよ、「信じる」っていうのは結構なリスクがある。
また「信じる」という行為は危険なものでもある。
どこかの新興宗教の例をあげるまでもなく、また世界の歴史で起きた宗教戦争を見るまでもなく、「神」という概念は非常に危険なものだ。
かといって、じゃあ何も信じずにいられるかというと、世の中は、人間はそんなふうには出来てはいない。
(実利優先の人間ほど、新興宗教のカモになりやすい。)
でも「理想」を信じるかどうか。
そこには結構な違いがある。
この世は不正に満ちており、情け容赦のない弱肉強食の世界である。
そう思っている人もいる。
けれど、そうではなく、人々が信じ合い、助け合う世界を夢見ている者もいる。
それは結構勇気のいることだ。そしてやっぱり、人によってはそれを危険なことだと言うだろう。
この世界は、弱肉強食の競争の世界である、とされている。
聖書とか見ても、旧約聖書なんかかなり血なまぐさい。御存知のとおり。
けれどその聖書にはやっぱり、天の国にあっては、ライオンも兎も一緒に仲良くしている、みたいに書いてある。(うろ覚え)
つまり天国ってところは、天の国ってやつは、弱肉強食ではないのだ。
食ったり食われたりする必要は無いってことだ。
で、好むと好まざると、クリスチャンってやつは、その「天の国がこの地上においても実現しますように」と何百年もの間、何千年もの間、祈り続けてきた。
キリスト教徒の人たちはジョン・レノンを否定する人も結構多いと思うが、ジョン・レノンが「想像してごらん」と言ったとすれば、やっぱりそれも同じことのように僕には思える。
そんな僕のことをナイーヴだと呼びたければ構わないが、それはむしろ想定のうちの出来事だ。
「天国」を信じているかどうか、って、結構大切なことじゃないかと思える。
天になるがごとく、地にも実現しますように。
そう考えるのは、とても自然なことだ。
地で開くものは、天でも開く、だっけ。天国の鍵。
政治の上では知らんし、経済の面でも知らん。
けれども霊の上で見るならば、そこじゃないかと思う。
世界のどこで、どっちを向いてそれを「信じて」いても構わない。
なぜなら最後には、それを辿っていったとすれば(辿る勇気があるのなら)、それはひとつのところにつながるはずだと信じているからだ。
それを辿る勇気と心意気を、人には持っていて欲しいものだと思う。
人の世において芸術に意義があるとするなら、やっぱりそこだと思う。
だから、わざわざこんな面倒くさい「クリスチャンロック」みたいなことをやっている。
真実を辿る心意気を失くしたら、芸術に意味なんて無い。
自分ではこれでも宗教音楽家のはしくれであるつもりです。