ある種のデスブログ(じゃなくてプレイヤーブログ)として名高い、この勝手に書き綴っている日本語ブログに、またも思わせぶりなことを書いてみる。
祈りつつ書いたことは、わりとなんとかなっていることが多いように思うからだ。
いつも言っているように僕は遠藤周作のファンだ。
遠藤周作はカトリックの人ではあるが、僕の意見では確実に「ヘヴィメタル」な人であって、日本で孤独にクリスチャンヘヴィメタルをやっている僕は、常に遠藤周作氏のことを、日本のクリスチャンヘヴィメタルの先輩として尊敬している。
氏の作品はこれでもかってくらいにいっぱいあって、
あまり読書家とは言い難い僕は、これまで氏の作品の、おそらく10ぶんの1も読んでいないだろう。
だが、時々、暇を見つけては、少しずつ読んでいる。
で、毎回、「すげえ!!」と驚嘆し、感嘆している。
そんな中で、この前、「真昼の悪魔」という作品を読んだ。
遠藤周作氏は、宗教的なテーマの重々しい作品だけでなく、軽い気持ちで読めるエッセイや、かなり面白いコメディなど、エンターテイメント性の高い作品もいっぱい書いているから、
「ミステリー」と銘打たれていたこの本も、たぶんエンターテイメント性の高い軽めの作品なのだろう、と予測して読み始めた。
が、読んでみると、確かにエンターテイメント性は非常に高かったが、やっぱりずしりと重く、鋭く、えげつないほどにヘヴィな作品だった。
そこには「悪魔」というものの存在がクローズアップされていたが、
僕は思った。
姿も見えず、定義もできず、この人の住む世の中で、とらえどころのない「悪魔」というものを、
その姿や作用を、ここまで赤裸々にはっきりと、描き出してしまっていいものだろうか、と。
読み口は確かに軽いし、ぱっと見て、あまり重い作品とは感じない人もいるかもしれないが、
僕はかなりの衝撃を感じた。
それは絵に描いたファンタジーみたいな姿ではなく、
霊や魂の領域における悪魔というものの姿を、かなり克明に描き出していたからだ。
で、これはネタバレになるが、
ネタバレになるが、
(古い作品だからあまり気にする人もいないだろうが)
ネタバレになるが(もういい)、
ミステリーとは言っているものの、
物語の中で人は誰一人、死なない。
だが、物語の中で、人が一人も死んでいないにも関わらず、
僕はめっちゃ恐怖を感じた。
底なしの暗闇を覗き込むような怖さを感じた。
それは、確かに人は誰一人、死んでいないかもしれないが、
魂というものの死、
そして社会そのものが悪魔に乗っ取られていく様子が、
的確に描かれていたからだと思う。
魂の死、っていうことは、それは永遠の死、ってことである。
悪魔ちゃんは、いろんなものを差し出すが、いろんな価値観を呈示し、提供するが、
悪魔ちゃんが本当はいちばん欲しがっているものは、この、人の魂、ってやつだ。
それは、ゲーテが書いていたとおりだと思う。
そして、信じる、ってことは、やはり同様に、魂の中にしか無いものだと思う。
人間社会には、この娑婆と呼ばれる人の世には、様々な価値観がある。
善悪がはっきり、わかりやすく分かれていて、白と黒とで、その作用や効用を分類できればよいのだが、残念ながら現実はそうではない。
悪魔ちゃんは、そんな人の世において、「この世の王」として実権を握り、人を繁栄させ、そして様々な価値観を指し示す。たとえば大義とか、秩序とか、そういう名前を付けて指し示す。
その目的は、別に人類を絶滅させることじゃない。
物理的な破滅をもたらすことでは、必ずしもない。
悪魔ちゃんの目的は、神に成り代わることだ。
神に成り代わり、この世の作用と価値観の中心に、自分が座ることだからだ。
(でもって、そういうこをとやってる人間って、この世界にはいっぱいいると思う。)
なんにせよ、悪魔ちゃんの目的は、物理的な破滅ではなく、『悪の価値観による繁栄』だ。
なぜなら、それこそが、大いなる『人の魂の死』を意味するからだ。
まるごと、どっさり、ぜんぶ根こそぎ、人間の魂を持っていけるからだ。
僕はしらんけど、サタニズムってものがあるとすれば、目指しているのはそういう「繁栄」なんじゃないかと思う。
で、もって、それは、現代において、AIや、コンピューターのアルゴリズムが支配し、人間がデバイスに隷属する時代にあって、まったくもって現実になってきている。
そのうち、ていうか、たぶんもうかなりのところまで、人間はロボットのような存在に成り下がり、本来の人間性や創造性を、失ってしまっているのだろうから。
僕は、この「真昼の悪魔」の中に、その悪魔の倫理や、悪魔のロジックや、悪魔の作用が、あんまりさっくり、あっさり、ばっちり描かれているものだから、おいおい、えげつないな、と、爆笑してしまい。
そして、同時に、なんかやっぱり、はっと気付かされて、この曖昧な現代社会の中で、なんやかんや迷っていたことが、はっきり見えてくるような気がした。
たとえば、霊の目で見て、本質的に間違いなく悪魔の作用を持つ存在があったとする。
けれども、そんな「人物」とか「団体」でも、案外と世の中的には、けっこう愛されていたりとか、あるいは慈善事業をやっていたりとか、人々に尊敬されるポジションにあったりする。
これについては、面倒だから実例は挙げないけれど。
そして、僕はいずれの「人」も「団体」も非難する気はないけれど。
(人が悪いんじゃなく、作用を及ぼす悪魔ちゃんが悪いのだ。)
でも、なんか、ああ、そうだよね、と思ったのだ。
この小説の中でも、良いことをやろうとした者が、かえってひどい目に遭い、
そして、悪意を持った人間の行動が、かえって良い結果をもたらしたりと、
この世の、人間の社会の中の仕組みや構造というものは、これが白、これが黒ってはっきり言えない。
それは、それくらいf-ed upした、混乱した世の中、悪の価値観が張り巡らされた世の中、罪が支配する社会だから、だと思う。
けれども、思わせぶりに言うのであれば、現代の世相において。
現代の世相に照らして、ひとつ書き記しておくのであれば。
もし仮に、誰かが、
「愛」や「自由」よりも、「秩序」や「法」を上に置くのであれば、
それは悪魔から来る考え方だ。
悪魔の価値観だ。
と、
そう、勇気を以て記しておきたい。
しらんけど。ゆってもケースバイケースだろうから。
けれども、そういった悪魔の価値観が、大手を振って世界中を歩くようになった時。
どういうことが起きるのか、僕は恐ろしい。
これまでの人間の歴史の中でも、悪魔ちゃんはそのように暗躍し、それによって「人間」は数々の恐ろしい行いをしてきたように。
この21世紀という時代の中で、悪魔ちゃんが人間をどのように狂わせ、どのような行いをさせるのか。
それを考えると、僕は恐ろしくてたまらない。
けれども、これはプレイヤーブログ (prayer blog)だから、書いておく。
そのような悪魔を追い払い、悲劇が起きるのを防ぎ、勝利するためには。
政治の領域でもない。
武力の領域でもない。
数の論理でもない。
経済の力学でもない。
霊の領域における、勝利こそが、唯一もっとも必要なのだと。
そう信じたい。
そう信じようと思っている。