自分の身を振り返って、果たしてこれでよかったのだろうかと思うことが度々ある。
もっと自分に、自分たちに出来ることがあったのではないかと思うことがある。
単純に歳を取ったということかもしれない。
ここは「クリスチャンロックバンド」のウェブサイトだから、どうしても話にキリスト教の要素が混じる。
宗教っぽい要素が入る。
宗教ってことで言えば、
僕は高校時代から「かもめのジョナサン」で有名な作家リチャード・バックの大ファンだが、
(とはいえ、クリスチャンになった今では遠藤周作の方がもっと好きになってしまったが)
そのリチャード・バックが、何かの小説でこういうシーンを書いていた。
確か”One”だったかな。
(細かいところは覚えていないから、違うかもしれない)
とある山中で、一人の老人が「神の書」を発見する。
空から天使が降りてきて、神の啓示があり、そこに「真実の書」が示される。
その内容は、まさに宇宙の真理であるとか、世界を救う愛の教えだった。
その場に居合わせた主人公は、歓喜して、「この教えを世に広めよう」と意気込むが、
その老人は静かに笑うと、その「真実の書」を焼き払ってしまう。
そして「今宵は素晴らしい夜じゃ。新たな宗教から世界を救うことが出来たんじゃからのう」といって微笑むのだ。
その老人は、その神から与えられた「真実の書」が、邪悪な内容だとか、間違った内容だったから焼き払ったわけではない。
その逆で、その内容が、正しいものだったからこそ、焼き払ったのだ。
「正しい」教えが、人類社会にもたらす害悪というものを、その老人は知っていたのだ。
その「正しい」教えをめぐって、人々は争い、憎み合い、分裂して殺し合うようになる。
また、その「正しさ」の名のもとに、多くの理不尽が行われるであろうことを、わかっていたのだった。
みたいな内容。
このエピソードは、印象的だったから、なんとなく覚えているんだけれど。
僕もつくづく、かねがね、キリスト教の最大の欠点は、その「正しい」ことだと思っている。
僕は仮にもキリスト教徒だ。
キリスト教の教義とか、イエス・キリストの十字架による救済であるとか、イエス・キリストの教え、そういったものを信じている。
少なくとも、信じているつもりである。
そして、その教えが、とても、ものすごく、絶対的に、正しいものであることを知っている。
信じている、というよりは、知っている。
知っているからこそ、「だからこそ危ない」みたいなことも、ちょくちょく考える。
こんな絶対的な「正しさ」を、人が手に入れた時。
その「正しさ」を人が振りかざした時。
そして、それを間違った方向に使ってしまった時。
どんなことが起こるかは、ちょっと考えれば誰にだってわかる。
そして、人というのは、大抵の場合には、間違う生き物だ。
(皮肉なことに、人間は間違うものである=罪を持った生き物である、というのが、キリスト教の教義の基本の部分であると思う。)
なるべく、最低限、政治的な話題には触れたくないとは思うものの、かといって、真面目に生きようと思う時、自分の意見や考えを表明することは、人として自然なことだとも思う。
アメリカはもう駄目なんじゃないかね。
そう思った人は、きっとたくさんいるだろう。
どっちが正しいとか、どっちの勝ちとか、誰が正しい、とか、そういうことじゃなく。
もうずいぶん、手遅れなくらいに、「毒」が社会全体に、国全体に、回っているんじゃなかろうか。
というより、そうとしか思えない。
という話。
首都ワシントンDCで、年明け早々に起きた出来事。
後々になってこれを読んだ人は、歴史の教科書でも参照して下さい。
人類の歴史みたいなものが、ちゃんと健全に続いていれば、の話だけど。
自分の身を振り返って思うこと、っていうのは、こういうことだ。
ちょくちょく、最近、歳をとったせいで、振り返ってしまうのは、
[Tone, Hassy, Jake]の黄金ラインナップ(?)でやっていた当時、何度かアメリカに演奏しに行って、結構チャンスをつかんでいた時に、もっとアメリカを攻めて、向こうで多少なりとも成功をつかめばよかったのに、という話。
うちのバンドって、色々と運営上の問題とか、難しい点がたくさんあるんだけれど、たとえばアメリカに行って、「クリスチャンバンド」として演奏し、人々と交流する中で、「言語の問題」とかあって、あとは、これは別に隠してはいなかったけれど、メンバーのHassyとJakeはクリスチャンではなかったから。
3人でバンドをやっていて、かの国で人々と交流し、演奏活動をしていく中で、そもそもメンバーのHassyとJakeは、「何が起こっているのか」あまりわかっていなかったんじゃないかと思っている。言語。カルチャー。宗教。などなど。
(これは、実のところインターネット上においてもそうなんだけれども。)
そういったこともあって、僕たちは「3人で一丸となって成功を目指す」という感じにはならなかった。
これは仕方の無いことだ。
けれど、これもいつも言っているけれど、それでも僕たちは10年間、共に活動し、一緒に音楽を作った。たくさんの音楽を。
だから僕たちは、いいチームだったし、そういった成功を目指さなくても、僕は、仲間として、共に時間を過ごし、彼らと音楽を作り続けることを選択した。それでも一緒に音楽を作ることを選択したんだよ。
そのことについて、後になって振り返り、もっとチャンスをつかむために、色々出来たのではないか、とか、もっと積極的に活動することが出来たのではないか、と考えることがある。
けれど、もし、多少なりの成功をつかんだとしても、「日本人のクリスチャンメタルバンド」である僕たちに、社会であるとか、世界を変える力は、きっと無かっただろう。
今回のようなことがあると、思うのだ。
自分たちに、「クリスチャンロックバンド」として、もっと出来ること、発信できるメッセージがあったのではないか、と。
そして、こんなことがあると、その逆に、こうも思う。
やはり、これは神の御心だったのかもしれない、と。
2013年以降の僕らの活動は、XTJやCalling Recordsを通じて、さらに”Jesus Wind”や”Nabeshima”を通じて、「日本」「日本におけるキリスト教」というテーマに向き合ってきたわけだが。
そこで得たものは大きかった。
少なくとも、音楽的には、その実りはとても大きかった。
何年もかけて、また、海の外での成功と引き換えにしても、追及するだけの価値はあった。
もし、多少なりとも、かの国で成功みたいなものをつかめたとして、
その後の、そして、現在の社会情勢の中で、僕たちはかえって、色々なものを間違えることになったのではないだろうか。
つまり、「ああ、あの国はこんなふうになってしまったのか。僕はあの国から距離を置き、『日本』に向き合って正解だったかもしれない」みたいな思いだ。
日本人にはどうしても西洋とか舶来の物への憧れがあるとされるが、正直なところ、僕は、アメリカという国に対しての憧れみたいなものは、あまり持ってはいなかった。
もちろん、「アメリカンロック」「アメリカンハードロック」は大好きだし、何よりVan Halenに憧れてはいたが、大人になって現実が見えるようになった時、その”Van Halen”すら、実は「アメリカ的」ではなく、もっと別の異質ものであったことに気が付いた。
21世紀になってから僕が好きだったかの国の音楽シーンは、アジア系を含む種々雑多な人種が、小さなベニューで、小さなインディバンドの中で、エスニックな要素と種々雑多なビートとノイズを鳴らす、そんな光景だった。
けれど、それすらも陳腐化し、商業化されてしまった時、僕の中にはかの国への音楽的な憧れは、あまり残らなかった。
(「オルタナティブロック」が、1990年代後半以降に「メインストリームロック」になったように、「インディロック」も2010年代には「メインストリーム」になったのだ。)
で、自分のバンドで、アメリカの「クリスチャン」な人たち、クリスチャンミュージックの業界の人たちと、少しは関わったわけだけれども。
2014年以降、XTJをやっていく中でも、他の部分でも、僕はかの国の人たちに、どちらかといえば失望することが多かった。
どんなところに失望したのかは、それは今ここに書く必要はないから書かないけれど。
でも、それと同時に、「キリスト教」というものにも、少しずつ失望していったのも事実かな。
現代では、アメリカにおいてはヘヴィメタルというものはかなり「死んで」いるので、色々な意味でも、日本のメタルバンドはヨーロッパを目指すことの方が多いと思う。
そんな中で僕たちがアメリカに縁があったのは、それはたぶんやっぱり「キリスト教」ということだろう。
それも現代の商業化されたキリスト教、という意味で。
あとは、やっぱり僕はVan Halenの大ファンであることから逃れられなかった。
そしてもうひとつ、政治的なことも、きっとあったんだろう。
日本人として、政治的にかの国と向き合う、という意味合いも、たぶん。
これは脱線の与太話であるが、
一般的な日本人でキリスト教にあまり馴染みのない人は、たとえばカトリックとプロテスタントの違いもはっきりとわからないという人もいるかと思う。
僕だって、大人になってからクリスチャンになり、ただの平信徒だし、正式にちゃんと勉強したわけではないから、よくわかっているとは言えないが。
しかし、音楽家とか、芸術家、アートの立場から言うと、素材としては実はカトリックの方が面白くて使いやすい、ということは、度々思う。
つまり、プロテスタントというのは、基本的に偶像崇拝をけっこう厳しく禁止している文化であって、「宗教画」とか「彫刻」とか、いかにも宗教的な「儀式」とか、法衣を着た「僧侶」とか、ローマ法王とか、「懺悔」とか、そういういかにも「絵になる」要素っていうのは、プロテスタントだとあんまり無いわけだ。
プロテスタントは、簡素で、偶像とかなくて、「儀式」みたいなものも、あったとしてもシンプルだし、牧師も大抵は普通の格好だし、あとは「慣習」みたいなものも薄いので、なんというか、「絵にならない」わけだ。
(もっとも、いまどきの大きな教会は、バンドサウンドやEDMで賛美して、レーザー光線もばんばん飛んで、牧師も芸能人みたいで、派手かもしれないけどね、笑)
そこへいくと、カトリックは、劇的でドラマティックな、演出としてビジュアル的に映える要素がいっぱいある。そして、世界各地の「風習」とか「慣習」とか混じってたり、そういう意味では、文化的には面白い要素がふんだんにある。
なので、アートの素材としては、カトリックはとても面白い。
いわゆる「宗教」だし、宗教組織だし、宗教としての歴史だし。
なので、芸術家としての立場で見た時、素材としてカトリックは面白い、というのはたぶん言える。
けれども、たとえば、日本の「マンガ」とか「アニメ」とか「映画」とか「ドラマ」とか、そういうもので、「キリスト教」を小道具として描く場合には、たぶん「カトリック的なもの」の方がビジュアル的に派手なので、使いやすいだろうと思うのだが、そういうのがいかにもわざとらしくステレオタイプに描かれると、プロテスタントの人からすると、かなり「もやっとする」ものがある。
(あるいは本当のカトリックの人たちは、もっともやっとしているかもしれないが)
つまり、「それじゃないよキリスト教は」みたいに思ってしまうわけだ。
間違った描写やめれ、偏見やめれ、と思ってしまう。
話が逸れた。
大事なことを書かなきゃいけない時に限って脱線する。いつもだけど。
たとえば、今回のワシントンDCにおける「議会突入」の事件。
たとえばトランプさんの支持者、その支持者層。
その中には、いわゆる保守派のキリスト教徒の人がたくさんいる、とされる。
これはいつもためらわずに言っているし書いているつもりだが、僕はどちらかといえばリベラルだ。
少なくとも自分では、リベラルだと思っている。
けれど、僕はクリスチャンロックバンドをやって、多少であってもアメリカのクリスチャンの人たちと交流した経験がある。
それゆえに、そうした「保守派のキリスト教徒」の人たちに対して、結構好感を持っている。
聖書には「地の塩」という表現があるが、
僕が出会った中でも、保守派のキリスト教徒の人たちの中には、そういったまさに「地の塩」といったような、素朴で、善良で、純真な人たちが多かった。
僕らの音楽を好きになってくれるファンの人たちの中には、そういった保守派のクリスチャンの人は、たくさんいるだろう。
そしてまた、僕たちはここまで活動をしてくる中で、実際にそういった「保守派のクリスチャン」の人たちにも、ずいぶん助けられてきた。
保守派のクリスチャンの人たちは、そういった意味で、人情味にあふれ、親切で、義理堅い人たちであると思う。
はっきり言ってしまえば、僕はそんな彼らのことが大好きだ。
けれども。
たとえそうだとしても。
そうであったとしても。
僕は今回の事件は、そして今のアメリカをはじめとする世界の状況は。
僕はこれは、キリスト教の敗北であると思う。
そう受け止めている。
僕はただの一人の平信徒であるが、
それでも一人のクリスチャンアーティストとして、その事実を重く受け止めている。
キリスト教というものは、正しい。
正しい教えだ。
だからこそ、その「正しさ」が、いつのまにか。
自らの都合に置き換わり、
自らのエゴに置き換わり、
集団心理に置き換わり、
それが制御不能な暴力となってしまうこと。
それは、とても簡単なことであると思う。
とても簡単に、それは起きてしまうのだと思う。
それは、教育なのか。
文化なのか。
経済なのか。
民主主義なのか。
銃なのか。
自由なのか。
はたまた、信仰なのか。
それが何であれ、人が真に神を理解することは、難しいことだ。
だからこそ、人は謙虚に、自らを省みて、勉強を続けなければならない。
書きたいことはたくさんある。
けれども、僕は、これは、世界中のキリスト教徒が、重く受け止め、考えなければならないことだと思っている。
誰が間違えたのか、そしていつから間違えたのか、それは定かではないが、
現代において、キリスト教は、いつのまにか、信仰を正しく伝えていなかったのだと、その事実を見つめ、重く受け止めるべきだ。
キリスト教は敗北した。
世界最大の民主主義国家であるはずのアメリカにおいて、敗北した。
これは、現代社会における、あきらかなひとつの宗教の敗北であると思う。
だが、よく考えてみれば、歴史上、キリスト教は、このように何度も敗北してきた。
数々の宗教戦争が起きた時。
異端裁判や、魔女狩りが行われた時。
キリスト教の名のもとに、侵略や虐殺が行われた時。
宗教団体の組織が腐敗し、聖職者が不正や犯罪を行った時。
イエス・キリストは、人類を救うために十字架にかかったが、
その時、イエスは、このようにキリスト教が「敗北を繰り返す」ことが、予見できていただろうか。
それは、もちろん、予見していたのだ。
イエスさんは語っている。「え?俺が平和をもたらしに来たとでも思ってんの?とんでもない。俺が来たってことは、むしろこの世に争いをもたらすことなんだぜ」って。(マタイの福音書10章)
イエスさんは、自分がもたらす「宗教」とか「救い」が、人々の間に分断を生むことは折り込み済みだった。
たとえそうであっても、人の魂が救済されるために、彼は「愛」なんてものを人類社会に持ち込んだのだ。
そして、その「宗教」がもたらす過ち、その罪についても、イエスは自分で背負ってみせた。
イエス・キリストは、人類のすべての罪を、その十字架で背負ったのだから。
キリスト教は、いつから間違っていたのか。
最初から間違っていたんだよ。
アダムの時から、間違っていたんだ。
皮肉みたいにして、教義にそう書いてあるんだよ。
キリスト教が正しかったことなんて、たぶん歴史上一度も無いんだよ。
人間っていうのはそういうものだ。
だからこそキリストは、十字架にかかったんじゃないか。
そして、キリスト教の歴史は、大きなフラクタル構造のような相似形の繰り返しであり、その罪の救済は時を越えて果てしなく続いていく。
だからこそ、キリスト教会が間違い続けたとしても、キリストは勝利し続ける。
そしてその勝利は、驕る者、勝ち誇る者ではなく、泣く者、悲しむ者、そして悔い改める者に与えられる。
だから、俺たちキリスト教徒は、つねに自らを省みて、「悔い改め」なければならないんだ。
別に俺なんかが言わなくても、世界中の牧師さんや、神学者さんや、各分野の人たちが、きっと言っているだろう。
けれど、俺も一応、クリスチャンアーティストのはしくれであるから、社会の状況を重く受け止めて、言葉を記しておきたかったんだ。