そんなわけで、僕らはクリスチャンメタルバンドです。
でも、それっていったいどういうこと?
普通のバンドとどう違うの?
ちょっと書いてみたいと思います。
英語ブログに書いたやつを直訳です。
元の文章はこちらです。
https://imaritones.net/2021/05/07/what-does-it-mean-to-be-a-christian-band/
これは説明するのがとても難しい。
人によってたくさんの答があると思う。
でも、僕たちの場合はこんな感じっていうことを説明したい。
僕たちが信じているのはこういうことだ、っていうのをお見せしたい。
僕たちはクリスチャンバンドなのか?
自分たちでは、そう思っている。少なくとも僕は自分のバンドを「クリスチャンバンド」と呼びたいと思っている。
でも、もし君がそれに同意してくれなくても、僕らは別に構わない。もし君が僕らはクリスチャンバンドじゃない、って言うのであれば、それはそれでまったく構わない。
正直なところ、「クリスチャンバンド」の正確な定義ってやつを、僕は知らない。
僕が思うに、ポイントは、このバンドは神のものだ、っていうこと。バンドのオーナーシップを持っているのは、神様なんだ。決定権っていうものは神様が持っている。けれども神様は、僕たちに選択肢を与えて、判断を委ねてくれているけれども。
だから僕らはまるで神に雇われた社員みたいな感じだ。僕らはベストを尽くして努力しているけれども、時々、神様は僕らの考えとは違ったことを言うことがある。そしたら、それに従わなきゃならない。
そして、そこには神が与えた使命みたいなものがある。クリスチャンバンドとか、クリスチャンアーティストっていうものには、それぞれに神が与えた使命があると思う。普通のバンドと、クリスチャンのバンドの違いは、そこにあるんじゃないかと思う。
クリスチャンバンドだ、っていうのは、別に僕らが「聖人君子」だとか「天使」みたいだ、っていうことじゃない。
クリスチャンミュージシャンだからといって、別に僕らが「いい人」っていうわけじゃない。
僕らはただのロックンローラーだ。僕らはただのロッカーだ。
ロッカーっていうのは、怠惰なならず者だ。半端者で、社会不適合者だ。
僕らは社会的にも、経済的にも、道徳的にも、ただの役立たずに過ぎない。
けれど僕らは音楽を鳴らし、音楽を作る。
ただ、僕らはそれをなるべく良いものにしたい。
だから僕らは神のための音楽を作ろうと決意した。
それだけのことだ。
僕らは別に、「良い子」になりたくてクリスチャンロックをやってるわけじゃない。
僕らはそれほど「良い人たち」ってわけじゃない。(良い見本とは言えない)
僕らはただ、クリスチャンロックこそが最高のロックだと信じているから、それを演奏しているんだ。
僕らは、ロックンロールが神様からの贈り物であると信じている。
ロックの歴史をよく調べれば、ロックンロールは最初から「クリスチャン」だったことがわかる。ロックンロールのゴッドマザーと呼ばれたシスター・ロゼッタ・サープは「クリスチャン・ロッカー」だったんだ。
ロックはそこから長い歴史を経て進化してきた。けれども、様々なスタイルが生まれ、様々なサウンドが鳴らされた後、ロックはその本来の使命を成し遂げなきゃいけない。
それは、神の愛によってこの世界を変えることだ。
クリスチャンロックは、ロックの進化の最終形態であり、究極の形だ。僕たちはそう信じている。
僕たちは、ゴスペル/ブルース/ハードロック/ヘヴィメタル、という音楽の歴史の流れを信じている。
僕たちが伝統的なハードロックのスタイルで演奏しているのはそれが理由だ。
また同時に僕たちは、インディ/ガレージ/オルタナティブ/マスロック/プログレッシブ、といった音楽も好んでいる。僕たちは伝統的なロックのフォーマットから離れないが、けれどもそういった「すべての陽気なノイズ」の要素を組み込むことによって、新鮮なサウンドを得ようと努力している。
僕たちはロックンロールというものを信じている。それは、ロックンロールがゴスペルから生まれたものだからだ。僕たちはゴスペルとブルースの歴史を信じている。僕たちは、ロックンロールというものが、人間がその信仰および信条を、もっともダイレクトに、肉体的なエナジーと、スピリチュアルな情熱を伴って表現できる芸術手段だと信じている。
僕らはハイプというものは信じていない。僕らは名声というものも信じていない。僕らはお金というものも信じていない。けれども信仰の力を信じている。音楽の力を信じている。僕らは音楽の中に真実があるということを信じている。信仰の中に真実があるのと同じように。
僕らはたぶん、ロックンロールの真実を見つけたと思う。僕たちが音楽を作り始めたのは、それが理由だ。
けれども面白いことに、僕たちが見つけたその真実ってやつは、イエス・キリストが十字架で死んで、甦ったっていう、その真実と、とてもよく似ていた。
そう、僕らは、ロックンロールの真実は、イエス・キリストだっていうことを、ばっちり本気で信じている。
僕らは、ロックンロールの真実(本質)と、キリスト教の真実(本質)が、同じものであると信じている。(そもそも真実というものは、最初からひとつであるはずだ)
僕らはロックミュージックっていうものについて真剣に考えている。
ロックミュージックっていうものについて考える時、僕らは、インディスピリット(独立自尊の精神)ってものが、とても大切だと思っている。
ロックンロールは、その歴史の中で、大きなビジネスへと変化していった。
たくさんの偉大なバンドや偉大なミュージシャンたちが、素晴らしいことを成し遂げてきた。
けれども、その最後の使命を達成するために、ロックンロールは再びインディースピリットを取り戻さなくてはならない。
別にビッグなバンドである必要はない。実際のところ、それらの伝説的なバンドは皆、ビッグであるからこそ、それ以上先には進めなかったんだ。
転がったサッカーボールをゴールに蹴り入れるために、インディバンドがその役割を果たさなくてはならない。ロックンロールの最後のゴールにたどり着くために。
別に世界的に有名なビッグスターである必要はない。イエス・キリストは当時、イスラエルの一部地域のローカルスターだったと思う。
この音楽的な使命を達成するのに、大きな数字は必要ない。けれどもたぶん、インディスピリットは必要だ。そして、そう、それを「信仰」(faith)と呼ぶことも出来る。
おかしなことだけど、ロックミュージックのインディーズスピリットと、信仰の本来の精神っていうのは、とてもよく似ているものだったんだ。
そして、たぶんこのインディーズスピリットっていうもののせいで、僕らは特定の教会とか、特定のキリスト教の団体とかのバックアップとかを一切持っていない。わかってるって、それは僕らが、怠惰で不品行なロッカーだからだって。僕らは一般的な教会からは、あんまり好かれてはいない。(中には、好きになってくれる教会もあるみたいだけど)
僕らがトリオ、スリーピースのスタイルで活動しているのも、おかしな話なんだ。
この話をしたかったのは、それは僕らは当初、Van Halenになりたかったし、Led Zeppelinになりたかったからだ。だから、リードシンガーというものが欲しかった。
けれどもメッセージ性とか音楽性とか、様々な理由で適任のリードシンガーを見つけることが出来ず、僕たちはスリーピースの形で活動することになった。
だけどクリスチャンミュージックを演奏するようになって、いくつかの大切なことに気が付いた。
僕たちのバンドには「フロントマン」は必要ない。なぜなら、イエス・キリストがフロントマンだからだ。
僕たちはロックスターになる必要はない。なぜなら僕たちにとってのロックスターはイエス・キリストだからだ。
ジーザスこそが、世界で唯一の本物のロックスターなんだ。彼こそが一番ビッグなスターだ。僕たちは、彼のために演奏しているに過ぎないんだ。
だから、いつの日か天国に行ったら、ジーザスが僕らのリードシンガーになってくれるに違いない。
(けれど、彼はクリス・コーネルよりも良いシンガーだろうか。それが重要な問題だ)(冗談だってば)
じゃあ結局のところ、クリスチャンバンドと普通のバンドの違いって何?
僕が思うに、大きな違いは、どこに目標があるかだと思う。
たぶん、多くの一般のバンドにとっては、ゴール、目標っていうのは成功することだと思う。
有名になる。大きなお金を稼ぐ。スターになって大きな規模のコンサートをする。名声を得て、世界中で賞賛され、尊敬される。
それが、普通のバンドの考える成功の姿だと思う。
けれども僕らはクリスチャンバンドだ。
僕たちは、そういった世俗の成功というものを信じていない。
僕たちは、いわゆる普通の成功というものを信じていない。
それは僕たちが謙虚だから?
そうじゃない。どちらかといえば、僕たちは欲張りなんだ。
僕たちはそれ以上のものを求めている。
もっと良いものを求めている。
僕たちは天にある成功を求めているんだ。
そのために、天国における成功をつかむためには、僕たちは世俗における成功は必要ない。
聖書には、信仰を持つことによって、世間の人たちから憎まれるということが書いてある。
(ヨハネの福音書17章14節をはじめとして、いくつもそういうことが書かれている。マタイ10:22、ヨハネ15:19、ヨハネ16:33など)
だから、僕たちは、たとえ世間から嫌われたとしても、あんまり気にしない。
ロックバンドがこんなことを言うのはおかしいかもしれないが、僕らは別に、人気者になるためにこれを始めたんじゃない。僕らはメッセージを伝えるためにこれを始めたんだ。愛を伝えるためにこれを始めたんだ。そして、愛っていうのは、成功とか、お金とか、有名とかは全然関係ない。
僕らは数字というものを信じていない。僕らはお金というものを信じていない。僕らは名声というものを信じていない。
この世界では、成功というものはすべて数字で測られる。
数字がなぜ重要かといえば、数字はお金を意味するからだ。そして、そういったものは理解しやすい。
けれども、愛というものは理解するのが難しい。
ロックンロールというものは、簡単に見えるかもしれないが、実はとてもディープで精神的なものだ。そこにロックンロールの本質がある。音楽の中に真実があるのだ。
僕たちは、その音楽の中にある真実というものを追及したい。その真実というものを鳴らしたい。簡単なことではないけれど、そう努力している。
僕たちは、ロックミュージックの中には「道」というものがあると信じている。
僕らはその「道」を追及し、それによって美しい何かを作りたい。
そしてその「道」というものを世界に示したい。
僕らはその「道であり、真実」である存在が、イエス・キリストであると信じている。
それが僕たちの見つけたロックンロールの真実だ。
僕たちはそれを、人生をかけて追いかけたい。
それを実現するために、僕たちは「偶像崇拝」というものを、なるべく避けなければならない。
なぜなら現実には、音楽ビジネス、そしてロックの世界は、偶像崇拝でいっぱいだからだ。
偶像崇拝っていうのは、別の言い方をすると「宗教商法」と呼ぶことも出来る。
僕らはクリスチャンバンドであって、宗教の要素を持ったバンドであるけれども、僕たちはこの「宗教商法」というものは、なるべく避けたいと思っている。
とてもおかしくて皮肉なことだけど、世間には普通のバンドであっても、この「宗教商法」でビジネスをやっているバンドはいっぱいいる。きっと、思い当たることがあるんじゃないだろうか。
たくさんのバンドやアーティストが、こういった宗教商法、あるいは「偶像崇拝」の手法を使って、ビジネスを行っているんだ。
僕たちは、オーバーナイトサクセスというものを信じていない。
僕らが音楽を作り始めた時、僕らは別にロックスターになることを考えていなかった。
僕らが考えていたのは、画家や、小説家や、彫刻家や、その他の職人みたいになることだった。
そのためには時間がかかるってわかっていた。ハイプされた若くて有名なロックスターというものは、自分たちの目指すものじゃないとわかっていた。
じゃあ、僕たちのゴールは何なのか。
こういったことを言うことは出来る。
天における成功。
神に栄光を。
イエス・キリストを讃える。
神の言葉を述べ伝える。
こういった、いかにもクリスチャンの人が言うような目標を並べることは可能だ。
そしてもし出来るのであれば、
祖国である日本を少しでも変えたい。
日本社会の信仰や精神的な状況を少しでも変えたい。
日本の人たちにもっとジーザスのことを知ってもらいたい。
これはたぶん、僕たちの持っている一番大きな夢であり目標だ。
けれども、もっと大切なことがある。それが何かわかるかい?
僕らは、愛のメッセージを君に伝えたい。
ジーザスの愛のメッセージを、君に届けたい。
君がジーザスに会うことが出来るよう、少しでも助けになりたい。
そう、僕たちは、君に会うそのためだけに、これをやっている。
君に愛を届ける、ただそれだけのために、僕たちはこれをずっとやっているんだ。
たった一人。
もしそのたった一人に、本当に、心と魂で触れて、
そしてこの「永遠の愛みたいな命みたいな何か」で、その人の人生を変えることが出来たら、
それで僕たちの使命は成功だ。
また僕たちは日本のバンドだから、だからこそ達成したいいくつかの目標がある。
僕たちは、キリスト教っていうものが、ただの西洋の宗教だとは必ずしも考えていない。
僕たちは、キリスト教の精神っていうのは、「武士道」とか「和」といった、日本の精神の中にも見出すことが出来ると信じている。
僕たちは、日本人としてのアイデンティティを保ちつつ、イエス・キリストを信じることが出来るということを、世界に向けて証明したい。
日本には、この「武士道」という美しい精神がある。
また「大和魂」と呼ばれるものがあり、それは日本人にとってはとても大切なものだ。
この大和魂というものは、他者を許し、すべてを受け入れる大きな心を持つことであると、僕は理解している。
これらの日本の伝統的な精神の中には、キリスト教と共通するものが多く見出せる。
新渡戸稲造がその有名な著書の中で言っていたように、僕たち日本人は武士道の精神的土壌の上にキリスト教を学ばなくてはならない。その時こそ、武士道は完全なものとして成就されると僕たちは信じている。
武士道の精神を以てキリストを理解した時、僕たち日本人は世界のどの国にもひけを取らない、美しい精神の花を咲かせることが出来ると信じている。
僕たちは音楽で、そのことを証明したい。
僕たちはキリスト教の歴史に対して、大きな尊敬を抱いている。
けれども、人間の為すことはすべてそうであるように、キリスト教の歴史も決して完璧なものではなかった。そしてそれは、ヨーロッパの文化に基づいた、ヨーロッパの歴史だった。
僕たちは、信仰を持った日本人は、世界に対して新しい何かを提示できると信じている。世界をより良くするための何かを。
僕たち日本人は世界のキリスト教の歴史にきっと貢献できるはずだ。
今までに無かったような形で、世界に対して、イエス・キリストとは何かということを、新たに示すことが出来るかもしれない。
僕たちの使命は、橋の役割を果たすことだと思っている。
日本と世界をつなぐ、文化的な橋だ。
精神的、文化的、音楽的な違いを橋渡しする役割だ。
僕たちは日本の人たちに、キリスト教ってどういうことなのか伝えたい。
それと同時に、世界のオーディエンスに対して、日本の精神ってどういうものなのかを伝えたい。
多くの人々にとっては、これらの言葉は、掛け声や建前に過ぎないかもしれない。
多くのバンドにとっては、これらのことは、単なる言い訳なのかもしれない。
けれども僕らは、どういったわけか、これらのことを割と本気で信じてしまった。
それは決して、僕らが賢かったからではない。
単に僕らが、クレイジーだったからだ。
2021年5月6日
Takahiro “Tone” Nakamine
(Toneと呼んでください)
(photo by Shinichi Ohara photoshin.com )