さて、自分および自分たちは、インターネットやソーシャルメディア上でのPRが決して上手い方ではない。
この日本語ブログ/ウェブサイトにおいても、バンドのページと言いつつも、僕は自分の個人的なことを書いてしまっている。
これは、半分以上は海外向けに発信しているバンドの性格上、日本の皆さんにはなるべく内情をあけっぴろげに伝えたいという理由と、それからこのバンドの音楽が非常に個人的なバックグラウンドに基づいたものである、という理由がある。
なので今回も、自分の音楽についての思いを書き留めておきたいという趣旨の記事である。
こうやって色々と日々、書いて自分の中の考えを整理する行為は僕にとっては必要なことだが、歳を取るとそのようにして記事/日記を書く頻度は少なくなってきた。
今日はその少ない機会のうちのひとつである。
今年、2021年に入り、ヘヴィメタルという音楽について何度も考える機会があった。
そして自分は本当にこのヘヴィメタルという音楽が好きだろうかと自問した。
それは、自分の音楽人生の集大成と言える作品”Nabeshima”をヨーロッパのレーベルからリリースするにあたって、それはヘヴィメタル系のレーベルであったし、またそれに伴ってヨーロッパやその他の地域のローカルなメタルバンドをいろいろ聴いてみるにつけ、アメリカ等(そして日本も)のメインストリームにおいて「すっかり荒廃してしまったもの」と思っていた、正統派のヘヴィメタルやハードロック(その定義はともかくとして)が、ヨーロッパの地方では結構普通に生き残っていることに気付き、そこでまた自問したのである。
僕は自分では一応、ヘヴィメタルの範疇に分類されるバンドをやっている。
そして少なくとも、自分たちでは、僕らはヘヴィメタルバンドですよ、と名乗ってきた。
もっとも、ヘヴィメタルの定義も時代によってかなり変わるし、現代の感覚からすれば僕らは「クラシックなスタイルのハードロックバンド」であっても、メタルバンドとは呼ばれないかもしれない。
だが僕は、本当にヘヴィメタルが好きだっただろうか。
ヘヴィメタルという音楽、ジャンルは、世間的に見ればマイナーな音楽のいちジャンルであり、また特殊な性質、性格を持った音楽であると思う。
けれども、ロックの歴史を通じてそれは何度か流行してきたし、若者に対して一定のアピールを持っているのも事実だ。
そしてまた、若い頃にはメタルが好きだった人とか、今は違う音楽を演奏しているけれど、入口はメタルだった、というプレイヤーはたくさんいるだろう。
普通は、ヘヴィメタルという音楽は、若い頃に聴いたとしても、歳を取るにつれて、それを卒業したりする。そういうパターンは一般的なものだと思う。
けれども僕は、僕らは、ずっと「ヘヴィメタル」を演奏し続けてきてしまった。
それは何故だったかと言われても、「さあ・・・」としか答えられない。
自分がヘヴィメタルを選んだのではなく、ヘヴィメタルの方が自分を選んだ、なんて言ってみるが、かっこつけてるわけではなく、実際にそんな感じに思っている。人様からの評価は別として。
体質として、もはやヘヴィメタルしか演奏出来ない、みたいなところがある。僕がどんなふうにギターを弾いてみても、結局メタル/ハードロックになってしまう、みたいなところがある。
それは、今ではベーシストとなったMarieも同様のことが言えると思う。
彼女との付き合いは知ってのとおり非常に長いわけだけれども、彼女が10代の高校生だった頃から「私はメタルが好き」「メタルをやりたい」と言っていたのを知っているわけだし。(思い返してみると、どんだけ、色々な意味で、貴重な存在かと思う)
そして彼女がStryperのあれこれに関わったこともそうだが、彼女は本質的には音楽愛好家やミュージシャンとは言えないかもしれないが、聴くとすればそれはどうしてもメタルであり、そしてやっぱりステージに立っても、彼女は自然とメタルになってしまう。
だから自分のことはともかく、Marieに関しては、ああこの人はメタルに選ばれた人なんだなあ、ということは思っている。
(ああ、そうだね、そんな彼女と一緒の人生を選んでしまったから、こうして今でもメタルを演奏している、ということは確かにあるね)
けれども、果たして僕は本当にヘヴィメタルが好きかと言われると、答えはとても複雑なものになる。
好きではない、とは言わない。
けれども、僕が考える「ヘヴィメタル」とは、世間一般の人が考えているものとは違うかもしれないし、というか、たぶん違う。
また、世間一般で「ヘヴィメタル」と分類されている音楽の中で、僕が本当に好きなものは、その中のおそらくはごく一部かもしれないからだ。
また、僕が本当にヘヴィメタルを好きになったのは、13歳、14歳といった思春期の、青春時代の若き日のごく限られた期間だけだったかもしれない。
僕の思春期におけるヘヴィメタル体験は、歴史を遡ってEddie Van Halenという最高峰と出会うことで、間違いなく一度、完結し、終焉している。
それはEddie Van Halenといえば、ありとあらゆるメタル系ギタリストに影響を与えた存在ではあるが、エディ本人は必ずしもヘヴィメタルギタリストというわけではなく、もっと大きく、広い意味での音楽家だったからだ。
だからその時点で、僕はヘヴィメタルという概念からは興味をなくし、より広い音楽そのもの、音楽を通じての様々な人間性の表現といったものに夢中になっていった。
で、そこから先は、様々な音楽を好きになった。
今でも僕は、ヘヴィメタル、あるいは古典的なハードロックも含めて、メタル系に分類される音楽を聴いているけれど、それは好きではあるけれども、半分は勉強の意味合いもある。
また、僕はその頃、というか、15歳くらいにおいて、同時にやはり「ヘヴィメタル」というものに興味を失う経験をしている。
中学3年生くらいで、ああもうなんかヘヴィメタルいいや、みたいに思った経験があるということだ。
それは、具体的に言えば、当時の流れとして、ひとつにはBlind Guardianというバンド、そしてもうひとつにはPanteraというバンドを聴いた。
それはどちらもそれぞれのサブジャンル、その後のメタルの流れにおいてとても重要なバンドであり、素晴らしいバンドであると思うけれども、そのどちらも、僕はうーん、ちょっとな、と思ったし。
かといってPanteraおよびDimebag Darrellはもちろん好きなギタリストだし、Panteraのアルバムで好きなやつもあるが、
(それに比してBlind Guardianとか体質的に無理だし、その後のAngraとかそういうやつも体質的に絶対に好きになれない) (だからそっち系の著名プロデューサーであるSascha Paethの下で僕らがレコーディングすることになったのは、結構皮肉なことであったのだ。)
それでも、ああヘヴィメタルというジャンルは、おそらくはその最も良かった時期というものはすでに終わっていて、これからどんどんダサくなっていくのだろうな、ということは、その頃、僕は十分に感じていた。
だから、基本的には僕のコンテンポラリーな意味でのヘヴィメタルへの興味は、その頃、その時点ですでに失われている。
あとは残ったものが自分の中にあるとすれば、それはそういった時代性を超越した本質であり、また古典としてのヘヴィメタルという概念であると思う。
そして逆の方向から言えば、ヘヴィメタル、ハードロックという音楽は、そういった時代性を超越したところでの本質としての魅力、奥の深さ、芸術表現としての可能性を十分に持ったものだった。
だからこそ僕は、これに向き合う価値がある、と思ったのだ。
これを人生かけて追及してみる価値がある、と思ったのだ。
その価値があったかどうかは、現状の自分を省みるに、自慢できる数字を持っていない以上、世間に対して自信を持っては言えないが、
けれども音楽や芸術、そして神に向き合った時には、確かにその価値があったと言えるものだ。
どちらにしても、僕がここで言いたいのは、僕はその後、大人になり、様々な音楽を聴いて(とはいえ、偏っているけれど)、その後、僕がいつも個人的に音楽ファンとして聴いていたのは、メタル以外の音楽の方が圧倒的に多かった、という事実だ。
過去に、デトロイト・メタル・シティなる漫画があって、その漫画の主人公は、本当はオシャレ系のポップミュージックが好きなのに、実際はデスメタルバンドをやっている、という設定であったが、ある意味では僕も似たようなところがあり、そして、実際に世間にはそういう人ってたくさんいるのではないかと思う。
メタルバンドをやっているけれど、本人が好きで聴いているのは全然違う音楽、みたいな人は、たぶんたくさんいるのではないかと思う。
さて、どちらにしても、である。
ヘヴィメタルにとっての暗黒時代である90年代に青春を過ごした僕であるが、
2000年代以降もメタル界のメインストリームの流れからは距離を置いていたし、
ぶっちゃけ興味も無かった。
そしてつまらんと思っていた。
ついて行けなかった、という言い方をしたければ、それでも構わない。
これは、国内のメタルシーンもそうであるし、
また海外、というよりはアメリカのメタルシーンでもやっぱりそうである。
で、基本的にはそのまま、現在に至る。
2000年代に自分のバンドが形になって以降は、
どちらかといえば、インディ、オルタナ、パンク等の方が好きだったし(ジャンル、カテゴリの呼び名は知らない)、
また自分にとってもっと大切な、人生の中で出会った音楽がいくつもあった。
もちろんその都度、メタル系の音楽もチェックしていたけれど、本当に好きになれたものは皆無だったと言っていい。
そして、そんなだから、僕は「一応、メタルにカテゴライズされるバンド」をやっていながら、21世紀のメタルの流れ、どこのジャンルのたこ壷にも入ることが出来ず、どこの界隈にも属することが出来ず、難しいバンド運営を余儀なくされてきたのだろう。
さて、では僕はどうして、どういった理由で、ある時期以降のヘヴィメタル・ミュージックを、嫌いになっていったのだろう。
これは難しい話であり、「いつ」とも明確に言えないし、そもそも古典的な時代、つまり70年代や80年代のバンドであっても、やっぱり「あまり好きではない」バンドがいっぱいいる。それは一般に大きな支持を得ている人気バンドであってもそうである。
たとえば、僕はJudas Priestの大ファンであるが、一般的に似た系統に分類されるところのIron Maidenは、あまり好きではない。もちろん良さはわかるが、個人的に好きになったことは一度もない。
たとえばMetallicaは、とか、たとえばDream Theaterは、とか、ひとつひとつ例を挙げていくときりがないので、やめておくが、しかし個人的にお酒をおごってくれるのであれば、いくらでも喜んで話そう。
一事が万事、そんな感じであるので、かなり好みが難しい、あるいは偏っている、と言えるだろうと思う。
ひとつには、ヘヴィメタルという音楽が、人の目を気にするものになっていったからだと思う。
いつからそうだったのかは、定かではない。
80年代にはすでに、ヘアメタルであるとか、商業化の流れで、そうなっていたのかもしれない。
けれども、僕の知る限り、90年代のある時期以降のヘヴィメタルは、確実に「人の目を気にする音楽」であったと思う。
つまり、表現の動機が、純粋に音楽的なものや、メッセージ性といったものではなく、それ以上に、人からどう見えるか、また世間一般でどう見られるか、そういったものを意識したところから発せられるものが多くなった。
本来、ヘヴィメタルは、媚びを売らない音楽であり、「お前等世間がどう思おうが、知ったこっちゃないぜ」と言って、あるいはそうでなかったとしても、自分たちの信念を貫かなければいけない。そういう音楽である。僕はそう理解している。
けれども、いつしか、人の目、世間の目を意識することが前提となった。
そして皆、その前提の上で音を鳴らし、音を語り、音を聴くようになった。
(きっとまだ精神が純粋だった頃の、初期のパンクにも同様の流れはあったことだろう)
僕は、80年代のグラマラスな、いわゆるヘアメタルと言われるバンドのルックスは、個人的には全然嫌いではない。しかし90年代のある時期以降の、マッチョ化したイメージのヘヴィメタルは、あまり面白さを感じない。
それはつまり、イメージはマッチョ化しているものの、そしてサウンドは確かにハードになっているものの、その表現および精神性は脆弱になっているからだ。音を鳴らす前に、前提として群れることや、人の目を意識するところから始まっている。それは、僕にはどうしても「弱い」ものにしか思えない。
別に、タトゥー、マッチョ、ビアード、スキンヘッドが悪いわけではないが、みんなそればっかになってしまうと、それって人と違うのが怖いだけじゃない、って思ってしまう。
そして、それと同じように、メタルコミュニティの住人は、衰退していくジャンルの中で、サブジャンルのたこ壷の中に身を寄せ合う羊と成り果てた。
一番声の大きい者の下に集まり、そして、そこにある音で皆が満足する。
いい音を求めることよりも、仲間はずれにならないことが最優先される世界になっていたと思う。
それはある意味、衰退しつつある世界の中では仕方のないことだったかもしれない。
またそれと同時に、ひととおりの表現が出尽くした後のヘヴィメタルの世界において、音楽というものは次第に頭で考えるものになっていってしまった。
これはジャンルが一般化し、陳腐化した、その帰結としては自然なことだが、ひととおりの表現が一般に浸透した後、ある意味民主主義的な帰結ではあるが、音楽というものが音による表現ではなく、記号として頭で考え、理解するものになってしまった。
つまり、記号化された言論と、形にできるビジュアル、および誰にでもわかる数字をもって、
大衆化された社会の政治力学の中で、音が計られ、生み出され、売られるようになってしまった。
そしてこれはインターネット化、ソーシャルメディア化した社会の中で、その状況には歯止めがかかるどころか、更に加速することになった。(現実の政治においてもそうであったように)
これは音の中に創造的なインスピレーションや、霊的なメッセージを読み取ることが出来る者からすれば、えらい退屈なことであって。
それはつまり、記号としての音の中には、何もなくて、それは容れ物だけ、看板だけの、からっぽの音だからである。
しかし皆は、その看板の文字を見て、そしてメニューブックに書かれた料理の写真を見て、素晴らしい、とか言うわけだ。実際には料理は提供されていないにも関わらず。
これは、音というものが形のない、つかみどころのないものだからこそ、起きる現象だ。
だからこそ、これも僕がよく言う持論だが、音、音楽、オーディオっていうのは、宗教と相性がいい。
そしてその逆に、音楽とかオーディオは、突き詰めるとだんだん宗教とかオカルトっぽくなっていく。
(形のない、つかみどころのない音というものに対しては、人はいくらでも嘘をつける)
(そして商売っていうのは、たぶん大抵そういうことだ)
基本的には、そういった記号ばかりで中身のない砂漠みたいな世界を、21世紀になってからこっち、僕は歩いてきたと思っている。少なくともメタル、ハードロックの世界においては。
また、今の時代にあっては、
もうそのような状況になってから久しいが、
70年代、80年代には全盛であったハードロック、ヘヴィメタルの世界も高齢化している。
そしてその世界においては、保守化、権威化が行き着くところまで行っており、新しいものは生まれにくい。
またそれらのファン層も次第に高齢化しているし、それらの「ファン層」の言動も、若い頃とはまったく違うものになっている。
Facebook等でメタル系の大手メディアの記事をちょっと見てみると、誰でもわかると思うが、(それがblabbermouthにせよ、ultimate classic rockにせよ、guitar worldにせよ)、それらの記事に付いている読者のコメントは、かなり後ろ向きなものが多く、そうした言論を見るにつけ、ああ、この土壌からはもう新しいものは生まれようがないのだな、と納得させられる。
これは余談になるが、日本でメタルファンとして生きてきた自分としては、「イングヴェイが嫌われている」というのはあまりピンと来ないことだった。
つまり、「アメリカではイングヴェイは嫌われているらしい」というのは、話としては聞いていても、実際にそれを実感することは出来なかったし、想像も出来なかった。
これは、日本ではイングヴェイはすごく人気があったから、日本の音楽ファンの感覚としては当然のことであると思う。
しかし、今、インターネット及びソーシャルメディアを通じて、イングヴェイに寄せられているコメントを見ると、
もちろんそれは誰もがゴシップと悪口を広めるソーシャルメディア時代のせいということもあるが、
ああ、本当にこれほどまでにイングヴェイは嫌われているんだな、ということを実感する。
なんかもう、Yngwieという名前を見たら、反射的に悪口を書き込む、みたいな人が非常に多いのだと思わされる。
イングヴェイが相手であれば、誰でも批判したり悪口を言っていいのだ、という風潮というかルールがあるみたいだ。
なんかほとんどいじめに近いくらいのものを感じる。
もちろん、イングヴェイは偉大なギタリストであり、非常に優れたミュージシャンであって、「嫌われる」ということには、その裏には一部では愛されているということも言えるかもしれない。
しかし、音楽の内容についてならまだしも、人格否定みたいなことを、一般のメタルファンがみんなそろって書き込んでいるのを見ると、そりゃもう、メタルの世界はとっくに保守化、形骸化、コミュニティとして終焉しちゃってるよね、みたいに思う。
さて、そんな「ヘヴィメタル」をめぐる残念な状況が、長らく続いている時代において、僕は果たしてこれからも「ヘヴィメタル」を愛していけるのか、という問題である。
もうひとつここで、触れなければならない問題がある。
それは、ひとつの理由としては、僕がクリスチャン・メタルをやっている身であるからだ。
たとえば僕がヘヴィメタルに夢中になっていた10代の頃、「ヘヴィメタルは悪魔の音楽だ」みたいなことを誰かが言ったら、僕は笑い飛ばしていただろう。「そんなわけないじゃん」って。
けれども、いつの頃からか。
僕はそれが笑えなくなった。
よく考えてみると、ヘヴィメタルにはやはり、最初の頃から、悪魔崇拝的な要素がある。
そもそも僕は「ロックンロールは神様からの贈り物」と信じており、
それがいかに、ロックの歴史を通じて、神が人に愛を伝えるための、まさにキリストの本質としての愛を理解するために、必然としか思えぬほどの奇跡で、ロックンロールが人類に与えられたか、ということについては、いくらでも長々と語ることが出来る。
そしてブルースの延長としてのハードロック、そこからさらにヘヴィメタルへとつながっていく流れは、自分の信じるロックンロールの形として非常に重要なものだ。
だが、どのようなものであれ、「創造」という神の作用があるならば、そこには必ず「破壊」であるとか「腐敗」といったような悪魔の作用がある。神が作ったものを、本当の意味で悪魔が壊すことは出来ないが、そうではなくて、神が作ったものを、悪魔が変質させ、その本質を、違うものへと、本来の本質から離れたものへとすり変えていくのである。
そしてヘヴィメタルにもこの流れがある。
というか、ヘヴィメタルはこの流れ、この作用の影響を直接的に大きく受ける位置にある音楽であったと思う。
僕の知る限り、まだ日本語訳はされていないが、
(僕のとこにも翻訳手伝わないか、って話来たけど)
メタル・バイブルってやつがあって、
そこには著名なメタルミュージシャンの「証」(キリストを信じるようになったストーリー)とともに、一般のメタルファンの「証」、つまり、私は昔はアンチクライストでドラッグに嵌まってブラックメタル聞いて悪魔崇拝してたけど、今では救われてキリストを信じています、みたいな話が、いくつも載っていた。
そういうのって、日本で普通に生活しているメタルファンからすると、あまり実感の無いものだけれども、ヨーロッパのメタルファンとか、そういうカルチャーの中で生活していると、たぶん十分にあり得ることなのだと思う。想像の域を出ないけれど。
いわゆるエクストリームメタルのサブジャンル、80年代から存在する、スラッシュメタルあたりを発端として、デスメタルとか、その他もろもろのエスクトリームスタイルが出て来た頃。
それらは、あくまでアンダーグラウンドなものだった。
僕も含め、一般のメタルファンは、オーバーグラウンドの、メインストリームのヘヴィメタルしか知らなかったから、そういった悪魔的な要素を持ったメタルミュージックを聴いていたのは、一部のマニアだけだったかもしれない。
けれども、本当にそういった悪魔的な方向性を持ったメタルミュージックは、確かに存在していたのじゃないかと思う。
だけど、インターネットが発達し、YouTubeで何でも見つけられるようになると、そういったアンダーグラウンドに封印されていたものも、もっと自由に聴くことが出来るようになって、オープンに世に出て来るようになってしまったよね。
だから、そういった「本当に悪魔的な精神性(霊性)を持つメタル」は、むしろインターネット時代の今の方が、昔よりも更に世に広まって、勢力を拡大しているかもしれない。
そしてそれは、きっとオーバーグラウンドにも影響を与え、浸透してきたに違いないのだと思う。
(これはもちろん、ブラックメタルやデスメタルがいけないって言ってるわけじゃない。世の中にはクリスチャン・デスメタルだって存在するし、ブラックメタルだって、僕だって聞いて、いいな、と思うやつはあるわけだから。)
それに対して、「ポジティブな霊性を持つメタルミュージック」が世の中にどれだけあるか、と聞かれると、いささか心許ないね。
たとえば「クリスチャンメタル」に分類されるはずのバンドを見ても、やっぱりいささか頼りない。
別にそれは、80年代のクリスチャンメタルみたいにいい子ぶってるバンドのことじゃなくて、アメリカあたりのクリスチャンメタルコアや、その他の現代的なバンドのことを指している。
アメリカで人気のあるメタルコア系のバンドには、実はクリスチャンバンドがとても多いが、彼らが本当に信仰を持って音を鳴らしているのか、という点においては、ひとつの象徴的な例としては、As I Lay DyingのTim Lambesisが事件を起こして逮捕された際などに、疑問符が付いてしまったし、そういった例は他にもたくさんあるよね。
個人的には、何年も前から言っているように、現代のクリスチャンメタルのバンドの中でも、唯一、これは本気で「かなり好き」と言えるのがDemon Hunterだったんだけど。
彼らも今やベテラン、古典と言える存在で、クリスチャンメタルの代表格のひとつみたいな立ち位置になっているよね。
ただ、全部の作品が良い、とは言えないのが、やっぱりつらいところなんだよね。
初期は良くても、だんだん時代に妥協した内容になってしまい、最近のはどうも、みたいな状況が続いている。(とはいえ、やっぱりいいね)
またオーバーグラウンド、メジャー、メインストリームのバンドを考えてみても、やはり色々なことがあって、僕は今ではとてもじゃないが「メタルが悪魔の音楽だなんて、冗談言わないでよ」みたいには、言うことは出来ない。
ひとつには先程述べたような、ある時代以降のヘヴィメタル全体の精神性の低下、もっと言えば本質を失ったことによって、メインストリームのメタルの霊性もどんどん低下していった、ということ。
これは、決して2000年代以降のバンドが、音楽的に質が低いと言っているわけではなくて、むしろその逆だったりするんだけど、それでも霊性としては、どんどん妥協し、質を低下させていったことは間違いないと思う。
もうひとつは、地盤沈下ということが言えると思う。
音楽業界自体の地盤沈下。
そしてこれは、メタル界全体の高齢化、保守化ともあいまって、音楽業界自体の縮小。および変質。
こういった中で、かつてはポジティブな霊性を持った音を鳴らしていたメジャーなバンドさえも、「どちらかといえば」悪魔的な領域にある音を鳴らさなくては、商売が出来なくなってきた。
これが、いつ頃からそうなったのか、どのようにして、それが起きたのか、個別具体的には、言うことは出来ない。
でも、気が付けばあのバンドも、このバンドも、いつの間にやら「悪魔に魂を売っていた」ように思う。
それが、どれほどヘヴィメタルの世界の大物たち、その中枢にまで及んでしまったかを考えると、うーん、音楽業界、ってやつは、みたいな、その本質を考えさせられる。
(馬鹿みたいだが、僕は、音楽業界はなんちゃらシェイプシフターによって支配されている、というビリー・コーガンの与太話を、ほどほどに、それなりに信じている。全部は信じてないよ。笑。)
要するに残念なのは、彼らは高い値段で魂を売ったんじゃなくって、時代のせいで、ジリ貧になり、安い値段で魂を売っぱらう羽目になったっていうこと。
どうせならLed Zeppelinの逸話みたいに、世界征服と引き換えに魂を売る、くらいのスケールでやったら、ロックだろうに、現実には、もっと安い値段で、悪魔に降らざるを得なかった、そんなバンドが、この時代にはゴロゴロいるような気がしている。
そんで、いつの時代にも、うだつのあがらない人たち、って居るでしょ。
もし、かつてのベテランの中に、そんな、うだつのあがらない、ぱっとしないミュージシャンがいるとしたら、たぶんそういう人は、魂を売ってない人なんじゃないかと思うよ。あるいは、売るのが下手だったか、売るほど器用じゃなかったか。
(だから、クリスチャンメタルの元祖であるStryperに関して、僕はいつも複雑な思いを抱いているし、厳しめの感想を言うことが多いけど、やっぱりなんだかんだ、応援はしてるのよね。彼らは、というかあの人は、悪魔に魂を売るには頑固過ぎるんじゃないかな。笑。)
そして、どれだけ早く、どれだけいい条件で魂を売ったかによって、かつての黄金時代とは違い、今ではメタル界の「序列」は、再編成されたんじゃないかな。
その新たな序列の中で、メタル界は再構成されて、悪魔の繁栄を迎えようとしているんじゃないかと思える。
まあ、繁栄する前に、もう腐り落ちるかもしれない。
人の世の歴史において、繁栄した帝国みたいなものはいくつもあると思うんだけど。
そこにあるいは、江戸幕府も含めていいのかもしれないけれど。
そういったものって、大抵において悪魔における繁栄だったんじゃないだろうか。
いつだったか、前にも書いたことがあるかもしれないけれど、僕は「悪魔の繁栄」っていうのは、あまり信じてなくてね。
そういった繁栄には目もくれない人間でいたいと思うよ。
ひとりの人間、というよりは、ひとりのミュージシャンとして。
一応、ブルースやってるつもりだし、僕も。
ブルース&ゴスペルかな。
で、そんな世界の状況の中にあっても(笑)
僕は今、ふたたびヘヴィメタルを愛そうと努力している。
なぜならこの世界にはいつだって「求道者」みたいな人たちが居た。
真面目に伝統を受け継ぎ、道を極め、道に殉じようとする志の高いミュージシャンたちが居た。
また、変わらない信念を持って、世間の商業主義とは距離を置き、それぞれの場所で鋼鉄の音を鳴らし続けている、そんな人たちもやはりいる。
かつてのブルースがそうであったように。
一部のブルースミュージシャンが確かに「道」を見据えていたように。
伝統的なハードロック、ヘヴィメタルの中には、普遍的に「道」が見出せるものなんじゃないかと思う。
そして、そこに時代とか、場所は関係がない。
人の使命はその「道」を追い求めることだろう。
「道」を究めることだろう。
もちろんその「道」の向こうにはジーザスが居る、と僕は言いたい。
だってChrist is The Wayだから。
で、話変わるんだけど、ひとつの例として、僕はスラッシュメタルは結構好きだ。
もっと言っちゃうと、スラッシュメタルがぎりぎりの境界線なのかもしれない、僕にとっては。
それより後の時代の音になるともうあまりリアリティが感じられない。
スラッシュメタルについても僕なりの意見がある。
けれど決して詳しくはないから得意気になって語ることは何もない。
ベイエリアクランチ、特にForbiddenが好きだ、っていうのは前にも書いたことがあると思うけれど、
理想的なスラッシュメタルのバンドを見つけるのは存外難しい。
スラッシュメタルは、大きくわけて、売れるためにスラッシュメタルではない何かになってしまう者と、内容が形骸化してスラッシュメタルという名のパロディになってしまう者とに分かれると思う。
本当の意味でスラッシュメタルを続けていられるバンドって、実際にはそうそういないんじゃないかという気がする。
そんな中で、ネットを流していたら、こんな「うだつのあがらない」バンドを見つけた。
スラッシュメタルに詳しい古参のファンの人なら、きっと誰でも知っているんだろうけれど。
Artilleryという名前の、デンマークのベテランバンドだ。
1980年代の初期においても、いかにも初期スラッシュといった傑作を作っている。なんか落書きみたいなネズミの描かれた「ひどいジャケット」でおなじみのやつ。
それからもスラッシュの本質を失わず、かつユニークな音を作り出してきたバンドのように思う。
そんな彼らが、今、歳を重ねて円熟の域にあるようで、彼らの新しいアルバム、ここ2作のアルバムが、なんだかプロダクションの質も良く、僕はかなり気に入ってしまった。
内容は、いかにも激しくスラッシュメタルしていた若い頃の作品と比べれば、大人しいのかもしれない。
スラッシュメタルではあるが、どちらかといえば正統派メタル寄りの、メロディ重視で構成もきっちりした音楽性になっている。
だから、オールドスクールが好きな僕の好みに合ったのかもしれない。
メタルバンドの人が、歳をとって円熟し、ブルースやジャズを始める、みたいな例はたくさんあると思うが、
スラッシュメタルの人たちが、歳をとって円熟した結果、なんだか古典的な正統派メタルに近くなる、というのも興味深い。
歌詞は、あんまりちゃんと見たという感じではないが、
多少の「アンチクライスト」なニュアンスはありつつも、逆の意味にも取れる内容で、それほど悪魔的な感じはしない。
いや、たとえ歌詞の上でちょっとくらい悪魔的な内容を歌っていたとしても、出している音がかなり生真面目なものなので、そんなふうに聴こえないのだ。
その、時代に先行した実力がありつつも、ヨーロッパの片田舎(デンマークは決して田舎ではないかもしれないが)で、アメリカのバンドと比較して商業的に決して大きな成功には恵まれなかったとしても、メタルを鳴らし続けるという根性が、音の端々に感じられて、僕はなんだかファンになってしまった。
ヘヴィメタルという音楽には、もちろん都会に合う要素もあるが、本当は田舎と相性が良く、時流から外れた田舎において、自分だけの信念を貫き、他に流されない自分のライフスタイルを持って生きる、という要素があると思う。
人間はいつかは歳を取り、またいつかは時流から外れて、過去の存在となっていくものだ。
そんな中で、時の流れを超越したところで、自分だけの普遍的な価値を見出すという美学がある。
それはヘヴィメタルという音楽のひとつの本質でもある。
そんな価値観に、僕も憧れ、それに殉じてみたいと思うし、またそのための音も鳴らしてきたはずだと思う。
そうはいっても、うちのバンドの音楽は、数々の相反した要素が混じり合ったものでもある。
故に、揺らぎ続け、その揺らぎの中にこそきっと本質があるが、
最新、最先端を求めつつも、それと同じくらい、あるいはそれ以上に、古臭い普遍を追い求めていきたいとは思っている。
もうひとつ、これは明らかに古典の範疇となるけれども、
古臭い正統派ヘヴィメタルのカテゴリであるが、KK’s Priestのアルバムがつい最近、出たタイミングであるから、やはり言及したい。
古い時代のJudas Priestが大好きな僕みたいなファンからしてみれば、KK’s Priestのアルバムはやはり、ふたたびヘヴィメタルを愛することが出来るようになるかもしれない、と思わせてくれるような力作に違いない。
正直、先行公開されていたいくつかの曲は、「ダサいな〜」と思っていたんだけれども、そのダサさを越えて、やっぱり「いいな〜」と感じる部分も多々あったのも事実で。
で、アルバム全部聴いてみると、やっぱり胸が熱くなるし、新鮮だ。
ありきたりのコード進行や、ありきたりのパワーコード主体のバッキング、そしてありきたりの、14歳のギタリストが書いたような単純なリフ、そんな感じなんだけど。
それでもやっぱり、何か新鮮だ。
それは、初期のハードロック、ヘヴィメタルが持っていた「初心」というものなんじゃないかと思う。
眼鏡をかけた文学青年が、青臭い理想を語るような、そんな「初心」。
あるいは昔の日本の子供が、「論語」を読んで理想の人間を目指すような、そんな「初心」。
でも、そんな「初心」こそが、1970年代とか、あの当時のハードロックの中にあった魅力だったんじゃないだろうか。
そして、こんなに真面目に作られたヘヴィメタルのアルバムを、聴いたのはいつ以来だっただろうか。
それが安直で、中学生が書くようなダサい内容だったとしても、それでもやっぱり、こんなに生真面目にヘヴィメタルを鳴らしているアルバムなんて、いつ以来に耳にするだろう。
こんな「初心」を鳴らすことが、再び可能なのだと、それを現代の世に指し示しただけでも、僕はこのアルバムには大きな意義があったと思う。
あとは、ごめん、KKのこと、なめてた、って、きっと長年のファンは、みんな思ったよね。
グレン・ティプトンが主導権取ってるものだとばかり、思ってたじゃない、多くの人はきっと。
でも実際には、KKのインプットは想像以上に大きかったんだ、って。
特に「これがヘヴィメタルだ」みたいなスピリットの部分において。
僕はもともとTim “Ripper” Owensの歌ってるアルバムも結構好きだったし、彼のヴォーカルは嫌いじゃない。
正直なところ、21世紀になってから聴いたプリーストのアルバムで、これが一番好きですね。
たとえるなら、“Nostradamus”の中の、ヘヴィな曲ばっかり集めたらこんな感じかな、みたいなアルバムだと思います。
タイミング的にIron Maidenの新作とか、スラッシュ系でももっと下の世代のイキのいい人たちとか、その他のベテランとか、あるいはもうちょっと今時な人たちとか、触れるべきなんだろうけれど、僕の今回の趣旨からは外れるから、時間も限られてるし、触れないよ。
あくまで古典としてのヘヴィメタルの話をしたかっただけだから。
でも僕らは”Nabeshima”という、和風メタルの二枚組を出したばかりだけど、偶然にもIron Maidenも”Senjutsu”というなんか和風コンセプトの二枚組を出したから、「真似しやがったな」と言ってもいいよね(笑)
80年代のヘアメタルもいろいろと、相変わらず、機会を見つけてさかのぼって聴いてはいるんだけれど。
最近、ネットでこのバンドを見つけてしまったよね。
Precious Metalっていう無茶な名前のガールズバンド。
アルバム通して聴くと、やっぱり捨て曲みたいのも多いけれど、
尖ってる曲に関しては、冗談抜きに全盛期のRATTやPOISONよりも良いってくらいじゃない。
特にこのヴォーカルが凄い。
当時のヘアメタルとか、女性に限らないけれど、特にこういったガールズバンドは、いろいろとプロダクション上の難点があったりするものだけど。
でも企画が良ければ、それでいいし、今のデジタル時代と違って、まだロックの香りが強い当時のアナログサウンドなら、僕は全然許せる。
ちょっとファンになりそうです。
それから、うん、そうだね。
長く続けていて、たとえ商業的に「あまりいい目を見ていない」としても、良心的なサウンドと、プレイを続けてくれる人。
ギタリスト、プレイヤー、何人も挙げることが出来るけど。
今はこの人をまたちょっと聴いてみたいかな。
ある意味80年代でもっとも過小評価されたメタルギタリスト、Jake.E.Leeですね。
まさに良心的なサウンドで、良心的なヘヴィメタル、ハードロックを鳴らしてきた人。
絶対的な存在であったE.V.H.亡き後の世界になってしまいましたが、古い世代のプレイヤーの一人として、新しい音楽をチェックしつつも、こういったベテランの活躍を励みに、円熟の境地を目指して邁進していきたいですね。