写真は本文と関係ありません;)
音楽といっても色々ある。
僕の意見では、人間はまだ音楽というものの使い道をわかっていない。
音楽というものは色々な機能を持っている。
けれど、人間はまだそれをあまりわかっていない。
たとえば音楽療法とか、ヒーリングの効果について言われることがある。
それだけではなく、もっと様々な機能を音楽は持っているように思う。
けれども人間はまだそのポテンシャルを見つけていないような気がしている。
そもそも音楽をやろう、音楽を鳴らそうという時に、そこには様々な動機がある。
様々な理由、様々な目的がある。
このことは今までにも何度も問いかけてきたし、音楽をやろうという人間なら、きっと最初から問いかけていることではないかと思う。
若い頃にくらべると、少しは世の中というものがわかってきた。
今でもあまりわからないし、もともと極端に世間に疎いけれど、以前よりは政治というものがわかってきた。
政治というのはつまり、世の中にある力とか、力関係みたいなやつのことだ。
そういった政治とか、得る、失う、奪う、奪われる、勝者、敗者、支配者、被支配者、といった関係性が世の中にある上で、そこに働く力関係や力学のことだ。
人を動かす、というか、人を操る力とか、権力とか、英語で言うところのpowerというやつだ。
普通はそういうのは、小学生くらいで自然に理解するものだと思うけれど、僕はこの年齢になってやっと少しずつ、そういったものがあるのだ、ということに気付くようになってきた。
だいたいの人間は、そういった力学の中で、そういった力学に従って生活しているからだ。
つまり、いわゆる国の政治みたいなものも、政策とか理念とかじゃなくて、そういった支配と被支配の力関係の中で成り立っているのだということがわかってきた。(今頃わかった)
そういった世の中の中で、(よのなかのなか?笑)、音楽を鳴らそう、なんていうときに、人には様々な理由、動機、目的があると思う。
昔はロックというものは反骨精神であるとか、音楽で世界を変える、みたいな動機で鳴らされていた時代もあったかもしれない。1960年代とか、そういう理想をもって鳴らされた音楽もあったのではないかと思う。
もしかすると本来ロックとはそういう音楽なのかもしれない。
けれども現実には、もっとちがった様々な理由で、これまでも、今も、音楽は鳴らされてきた。
その中には、良いものもあったけど、それほど良くないものもあったと思う。
けれども、たとえばそれがバンドにせよ、そうでないにせよ、ポップミュージック、ロックミュージックを鳴らそうとする時、その多くは、その政治的な力学の中での地位の向上を目指して鳴らされたのではないかと思う。
世の中の、政治的な構造の中での、地位の向上を目的に、多くの者は音楽を鳴らしたのではないかと思う。
処世術のひとつとして。
そして確かに、音楽にはそういう機能を持たせることも出来る。
政治的な地位の向上。
たとえば、コンサートにたくさん人を集めること。
人を動員すること、人を動かすこと、それは政治的な力の発動とも言える。というより、現実にはほとんどそういうことだろう。
ツアーで遠征し、各地を回ること。
多くのレコードや商品を売ること。
メディアというものは政治の道具の最たるものだけれど、そのメディアを使い、人々を支配する側に回ること。
多くの人に名前や姿を知られること。
これが正しいのだ、ということを声高に宣言し、その声を様々なデバイスで増幅すること。
それらのことはだいたいすべて、政治的な力の顕現として行われることだと思う。
そのように政治的な構造の中で、今よりも上の立場に上がり、支配される側ではなく支配する側に回るために、多くの者は音楽をやっているのではないかと思う。
けれど、そういうことは、誰も言わない。
そういった当然の前提といったものは、ほとんどの場合には言及されない。
あまりにも皆、それを当然の前提として生きているからだろうか。
けれど、ちゃんと聴いてみれば、それがどのような目的で、どのような前提で鳴らされた音なのか、ということは、わかるように思う。
鳴らされた音の向こう側に、どのようなスピリット(霊的なもの)が存在しているのかは、耳のある人ならわかる。
けれど、実際にはほとんどの人は、それに気付かないのかもしれない。
あるいは最初から気にしていないのではないかという気もする。
看板とか、歌詞の中のちょっとした言葉とか、表面はいくらでも飾ることが出来る。
けれど音の中に込められた霊だけはごまかせない。
いつも言う例だけど、わかりやすく言えば、歌詞の中で「愛がすべてさ」と歌っている曲であっても、音そのものは「金がすべてさ、力がすべてさ」と言っている曲は、たくさんある。きっと皆さんも心当たりがあるだろう。
政治的な地位の向上というのは、つまりは点数を稼ぐことだ。
世の中において、政治の力学というものは、点数というのか、ポイントによって支配されている。
そのポイントというのは、現実の世の中では具体的にはお金というものになる。
そのお金というものへの向き合い方が、人間は何をするにおいても、ひとつ前提としてあるのだと思う。お金と、それに伴う力ということ。
でもたぶん僕はそのへんを最初からひどく間違えているのだろう。
たとえば政治的な地位を獲得して、その上で世の中を変える、という考え方もある。
ミュージシャンでよくある例としては、僕らの世代のわかりやすい例として、本当はハードロックが好きであるが、コテコテのビジュアル系で人気を得ておいて、メジャーな地位を獲得したら、化粧を落として音楽性も変えていく、といった方法論が挙げられる。
そういった考え方の人もたくさんいると思うが、僕自身はそうした方法論で誰かを救えるとは、到底思えないからだ。
またお金ということで言えば、成功した者が、慈善事業などに寄付をするということもある。そうしたことも世の中を回すためには大切なことであると思うが、やっぱり僕には、それで本当に誰かを救えるとは、到底思えないのだ。
本当の意味で誰かを救うためには、
それはひとつしかないことを、僕たちはもうわかっているだろう。
それはつまり、十字架を背負うしかない。
(一応、クリスチャンバンドの人なので)
さて現代のソーシャルメディア社会の中においては、そのポイントというのは、お金というだけでなく、インターネット上、ソーシャルメディア上の数字ということに置き換わってきたと思う。わかりやすく言えばLikeというかいいねの数ということになるのかもしれない。
もう世界はソーシャルメディアの支配する時代になって久しく、ソーシャルメディア上の数字が現実を支配するような世界となって久しいのであるから、現代の現実の中では、政治的な地位の向上ということについても、そういったインターネット上のプラットフォームの中で、それがTikTokであれインスタグラムであれ、数字を稼ぐといったことがその象徴になっている。
これから、インターネットがさらに発展し、メタバースみたいなものが世の中に浸透していくに連れて、それらはさらに現実に置き換わっていく。
現実は、それらのものにどんどん置き換えられていくに違いない。
だからこそ、それらのプラットフォームの支配権を握るために、みんな必死になっているのだろう。
現在の時点ですでに、現実というものは半分くらい、ゲームみたいになっている。
つまりそれが音楽であれ、他の何かであれ、政治的な力というものは、ゲームの中でポイントを稼ぐのと同じことになっている。
そのゲームにちゃんと参加して、うまくプレイできる者は点数を稼いで発展するのだと思う。
その反面、僕みたいに、「そもそもそのゲームを信じていない」みたいな人間は、競争以前の問題で、まったくうまくやれていないね、笑。
世界の現実が、どんどんゲームの世界に近づいていくにつれて、それはまた同時に示唆も与えてくれる。
それは僕らの生きている現実そのものが、そもそも最初っからゲームだったんじゃないか、ということだ。
僕はいつもこの世界は牢獄なんじゃないかと思っていた。
この牢獄の中に閉じ込められている刑期の間、そこでやらなきゃいけないことっていうのが何かあって、僕らはいずれそこから出ていく。
けれども、牢獄の中で権力を握っても何の意味があるだろうか。
牢獄の中で地位や名声を得ても、何の意味があるだろうか。
意味がないとは言わないけれど、たぶんあまり重要なことでは、ないのではないか。
また僕らが日々躍起になって追い求め、稼いでいる「ポイント」は、果たして僕らが「刑期」を終えた後でも有効だろうか。
つまり、僕らがひとつのゲームの中に生きているとしたら、僕らがこの牢獄の中で稼いでいる「ポイント」は、このゲームの外に一歩出たら、実は何の価値も無いのではないだろうか。
本当のポイントは、実は違うところでカウントされているのではないだろうか。
たとえばYouTubeのチャンネルで、登録者数が何人、とかいたとする。
その登録者の数が、多い、とか、少ないとか言って一喜一憂する。
ライブ配信の視聴者の数を気にしたりする。
ミュージシャンならSpotifyの登録者とか視聴回数の数で一喜一憂する。
けれども時々思う。
僕らの世界は、僕らの人生は、別のところで、もっと優れたシステムによって、もっと大きな規模で「配信」されているんじゃないかと。
人間というものは、クリエイション、創造性を持った生き物だ。
なぜかというと、人間は神の形をかたどって作られているからだ。
だから創造主たる神の創造性を模倣するようになっている。そうやって進歩していく。
現代において人間は、ゲームとか、オンラインゲームであれ、ソーシャルメディアであれ、仮想現実であれ、そういった概念とシステムを作り出した。
そしてまたひとつ、世界の現実をより深く認識できるようになった。
だから、もし世界がゲームだったら、といった小説や漫画も、今ではたくさんある。
僕が思うに、現実は、それらの物語よりも、もっと複雑なのだと思う。
たぶん神の世界で配信されているものは、もっと規模がでかい。
そこにおいて、牢獄の中の僕らが追い求めている「ポイント」や「点数」は、たぶんあまり意味を持たないと思う。
だから神が配信しているドラマの中において、本当の意味で視聴者に喜んでもらえる生き方を、たぶん僕らはした方がいい。
いったい君の人生のチャンネルを、天使だか星だか知らないが、どれだけの人数の視聴者が見ているのか、それはわかったもんじゃないからだ。
こういった理由で僕はこの世界における政治や、政治力学や、お金や、力や、成功や、名声といったものには興味が薄い。
欲しくないわけではないけど、別にいいかな、と思う気持ちの方が強くなってしまう。
僕が音楽を鳴らす理由が、政治的な理由でないことだけは確かだ。
政治的な地位の向上は、僕はたぶんどうでもいい。
そして、そういうの抜きで鳴らされた音楽に、ひとつでも多く、出会いたいなと思う。
黎明期のロックとか、初期のパンク、初期のメタルだけでなく、古いブルースとか、ソーシャルメディア時代になる前の小規模なインディロックあたりが、手堅いけれど、そういう音楽は今でもどこかにあるはずだから。