これは書かずにいられないやつだ。
音楽レビューである。
僕がこのバンド、+/-{plus/minus}という名前のアメリカのインディバンドと出会ったのは、2007年の事だった。
このバンドとの出会い方は、かなりドラマティックだった。
その事は前にも書いたことがあると思うが、それは、まだウェブサイトが古い時の、日記帳のCGIに書き付けたものだから、残っているかわからないし、残っていても見づらいかもしれない。
僕は2007年、自分の人生で初めてアメリカという場所に行った。それは、テキサス州のオースティンという町だった。
そこでは、SXSWという音楽のフェスティバル、というか、カンファレンス、というか、見本市が開かれていた。
今ではSXSWと言えば、たぶん音楽だけでなく、コンピュータや、映画や、様々な分野のビジネスや起業家が集まる大きなイベントになっているだろうと思う。よく知らないが。
が、当時はまだ、インディーズミュージックの祭典といった雰囲気が色濃く残っていた。
僕はその場所で、初めてこの+/-{plus/minus}というバンドの音楽に触れた。彼らのライブをいきなり見て、衝撃を受けた。
その出会いが、どれほど衝撃的なものだったかを言葉で説明する事は出来ない。
だが、いまだに無名のインディバンドを続けている僕であるが、この時、2007年3月のオースティンで、彼らに出会わなければ、僕はきっと、その後間もなくして音楽をやめていただろう。
出会わなければよかった。笑。
いつものジョークだ。
彼ら、プラスマイナスの音楽に出会わなければ、僕は無事に音楽をやめて、平穏な人生を送れていたかもしれないのだ。
彼らに出会ったから、僕は新しい目標を見つけ、自分の鳴らすべき音を見つけ、そしてその後の人生が変わった。
それ以来、僕はその「プラス/マイナス」という奇妙な名前のバンドの大ファンになった。
自分には好きなバンド、好きなミュージシャンはたくさん居るが、+/-{plus/minus}は僕が人生の中で本気で好きになったバンドの、ベスト5に入る。いや、あるいはベスト3に入るかもしれない。それくらい、好きになった。
たとえば、「人生の中でこれまで見て最高だったライブ」「生涯最高のライブは何か」と聞かれたら、僕はどう答えるか。
熱心な音楽フリークの皆さんに比べたら、僕はそれほどたくさんの本数、ライブを見ているとは言えないかもしれないが。(とはいえ、バンドをやっていると、有名なアーティストはともかく、インディのショウはたくさん見る機会がある)
その中で、人生に残るような意義のあるライブ、決して忘れられないライブ、いくつもある。
けれど、やはりその最高潮のものは、2008年の来日時に見た+/-{plus/minus}であったと思う。
インディバンドのライブだから、規模は小さい。だが、それゆえに本物を感じられる。
彼らは、4枚目のアルバム”Xs On Your Eyes”をリリースしたばかりだった。ちょうど、いちばん脂の乗っていた、バンドの絶頂期であったかもしれない。
あの時のライブは、たぶん、どんなビッグなバンドを、どんな大会場で見るよりも、熱く濃密な体験だった。
僕の周囲にいる音楽仲間、友人、バンド仲間たちには、このバンド、「プラマイ」の良さは、あまり伝わらなかった。
わかりやすいアリーナロックでもなければ、めちゃくちゃポップというわけでもない。ルックスも決して良いわけではない。一聴して何か飛び抜けた要素があるわけでもない。
また、僕は一応、メタル畑の人間であるから、周囲にもどちらかといえばメタル系の音楽を聴く人間が多く、そういった人たちには、この繊細なバンドの良さが伝わりにくかったという事もあると思う。
だが、僕にとっては、この+/-{plus/minus}という比較的にobscureなバンドは、間違いなく世界最高のロックバンドのひとつである。そして、僕が思うに、間違いなくロックの歴史の中で、「もっとも遠くの、果ての果てまで行ったバンド」であると思う。
僕の考えるロックの歴史がある。
それは、ゴスペルを基にして、ブルーズといった個人の表現から始まって。
ロックンロールのバックビートが世界を席巻し。
ロックバンドの創造性が解き放たれ。
先駆者たちによって黄金時代が作られ。
そしてその規模は大きくなり、商業的なものになった。
だが、そのピークを過ぎると、本質のスピリットを失っていった。
アリーナロックの時代が終わった後に来るのは、インディロックの時代だったと思う。
規模の大きな商業的な音楽ではなく、もっと個人的なレベルで、それぞれの人生を鳴らす表現。
しかしそれは、ロックの本来の目的と、本質を考えるなら、ゴールと呼べる場所であったと思う。
そこでは、巨大なアリーナロックには決して鳴らすことの出来なかった、もっと自由で、更に進化した、美しい音が鳴らされるべきだ。
それが僕の考える、ロックンロールミュージックのひとつの究極のゴールの形であり、また21世紀のロックの理想型だ。
だが、実際にそんな音が鳴らせるミュージシャンは、決して多くない。
インディだから、そしてインディロック、ポストロックだから鳴らすことの出来る、そんな音を、本当の意味で鳴らせるアーティストは、ほんの一握りだ。
プラスマイナスは、そんなインディロックの理想を鳴らす事が出来る、希有な才能を持ったバンドであったと思う。
どんな現代の、最先端の「なんちゃら」というサブジャンルの音楽でもない。
どんなにテクニカルで凄まじい演奏技術を誇るプレイヤーでもない。
なんちゃらプログレでも、なんちゃらジャズでも、なんちゃらコアでもない。
本当の意味でロックのメッセージと本質を失わず、もっとも最先端の、もっとも未来のロックを鳴らしたのは、彼らかもしれない。僕は今でもそう思っている。そして、全盛期、と言ってしまっていいのか、2000年代の彼らは、それくらい凄いバンドであったと思う。そして、それくらいの魅力があった。
僕は、この記事と前後して、おそらくbloodthirsty butcherに捧げられた映画である「ソレダケ」についての記事も書くだろうと思う。
bloodthirsty butchersもまた、僕の中では空前絶後と言っていいくらいの巨大な存在だ。あれは他に比較できる存在がないくらいの特別なバンドだ。
だが、そんな孤高の存在であったブッチャーズに、唯一、並走、そして伴走する事が出来たのが、海を越えてニューヨークを拠点としていた、このプラスマイナスではなかったかと思う。だからこそ、この両者の親交は深く、互いに影響を及ぼし合う存在だった。
その深い関係は、2017年に彼らが来日した際にも、そのライブの中に、鳴らす音の中に、はっきりと感じ取れた。その場に居た人は、きっと同意してくれるだろう。プラスマイナスのライブでありながら、あの場には確かに「吉村秀樹」が、「ブッチャーズ」が居たからだ。
だが、吉村秀樹の逝去を以て、bloodthirsty butchersの歴史に、ひとつの終止符が打たれたように、物事にはいつだって終わりというものがある。
僕が思うに、ソーシャルメディアが世界を支配し、人々がストリーミングを通じて音楽を聴くようになったのと時を同じくして、インディロックの時代も終わりを告げたように思う。
というか、たぶん吉村秀樹氏の逝去を以て、僕の中ではロックの歴史そのものが終わってしまったのかもしれない。
そのようなタイミングで届けられた、彼ら+/-{plus/minus}の前作、”Jumping The Tracks”を、僕はかなり複雑な気持ちで受け止めた。
それはやはり、傑作ではあったものの、そこには、より先へ進む音を鳴らそうとする意志は、あまり感じられなかった。むしろ、そこには諦念、悲しみ、挫折、停滞、そういったものが感じられた。
それはもちろん、そのアルバムのテーマが、そのようなものだったから、という事はある。また、個人の人生を表現する中で、人生の中における挫折や失敗を描く事は、ごく自然な事でもある。
だが、僕はやはりそこに、彼らの限界を感じていた。
そして、インディロックという表現形態の限界もだ。
だから僕は、その、今から10年前に発表された+/-{plus/minus}の前作”Jumping The Tracks”を聴いて、大いに泣いた。
それは色々な意味で喪失の経験でもあった。吉村秀樹氏の急逝だけでなく、様々な人生の出来事が、やはり僕の中でも重なっていた。
それから何年もの間、僕は基本的に、喪失の中で生きて来たと言っていい。
たぶん僕はこのような、時代、および、世界、そして音楽に対する「喪失」を、何度か人生の中で経験している。だが、それについて今は突っ込んで語らない。
僕はたぶん、ロックそのものをあきらめて、それからの人生を過ごして来たのだ。
(もっとも、ロックが死んだところから、ロックを失うところから人生が始まる、というのは、90年代が青春だった僕らの世代には、前提となる事柄だ。その下の世代がどうなのかは、僕は知らない。)
先だって、僕はこの自分勝手に書きなぐっている日本語ウェブサイトにも、Judas Priestの新作”Invincible Shield”のレビュー感想記事を書いたと思う。その折にも、この僕の個人的な「お気に入りのバンド」であるところの「プラスマイナス」について少し触れたが、
そこでも書いたように、
僕は基本的には、もう今の+/-{plus/minus}には、過剰な期待はしていない。
かつての、もっと若かった頃の彼らのように、時代の遥か先を行くような、ロックの本質をさりげなく貫くような、そして世界を変えてしまうような、そんな音は、もう期待していない。
歳を重ね、落ち着いて、味わい深い音を鳴らすようになった彼らに、そのような事を期待するのは酷というものだ。
2019年、そして2020年のパンデミック時に、発表された2枚のEPも、非常に好きではあるが、そこにはかつてのような切れ味は、あまり感じなかった。もちろん、プラマイらしい音だし、好きではあるんだけど。
だから、僕は今回、実に10年ぶりとなる彼らの新しいアルバム”Further Afield”にも、過剰な期待は抱いていなかった。
けれども、個人的にやはり、楽しみにはしていた。
その音が、今の自分にどのように響くのか。今の自分はその音をどのように受け取るのか、その点に興味があったのだ。
今の僕にとっては、+/-{plus/minus}は、破れた夢、叶わなかった夢の象徴のような存在だ。
どっちつかずな立ち位置で、(妙に幅のある、古典的な)ハードロック、ヘヴィメタルにカテゴライズされる音楽をやっている僕にとって、曲がりなりにも「オシャレ系」に分類される+/-{plus/minus}は遠い存在だ。ロミオとジュリエットとまでは言わないが、これはそれなりに、禁断の恋みたいなものである。
僕は人生に憧れがある。
なんというか、人間の生活に憧れがある。
だが、自分は、自分の音楽をやっている限りは、そのような「人生」には手が届かない。
そのような「人生」に基づいた音楽に興味がある。憧れがある。
その中でも、+/-{plus/minus}の音楽が表象していたものは、僕が求めて止まなかった理想の何かであったのかもしれない。
それが何を意味するのか、ここで敢えて語ることはしない。
僕はそれが欲しいと思った時期があった。
あるいは、心のどこかでは、今でもそう思っているかもしれない。
僕はそれに手を伸ばそうと思ったが、やはりそれは手の届かないところにあったのだと思う。
そもそも、僕はどこまで本気であったのか。
自分は何を選び、何を得て、何を失ったのか。
そして、自分にとって本当に大切なものは何なのか。
僕は、今でも自問する時がある。
結論から書いてしまうが、僕は、同時期に発表された、異なるジャンル、異なる世代のふたつのレコード。それらを聴き、受け取った。
先の記事でも書いたと思う。
自分が人生で、最初に好きになったバンドと、最後に好きになったバンド。
僕は今、この瞬間、このplus/minusの新しいアルバム”Further Afield”を聴きながら、胸がいっぱいになって、感情で満たされながら、言葉をタイプしているけれど。
おそらく、僕の心には、このプラマイの美しくセンスの良いレコードよりも、ダサくて古くて暑苦しい、古典的なヘヴィメタルのレコードの方が、深く突き刺さったのだ。
そして、それでいいのだと僕は思った。
少しは論評してみよう。
このアルバム、”Further Afield”には、結構、シンセサイザーの音が生かされている。たぶんアナログシンセという言い方でいいのだと思う。Moogとかそういうのではないかと思う。そして、公開されていたビデオの中で、メンバーのJames Baluyutは、Omnichordと呼ばれる日本製の電子楽器を持っていた。僕は恥ずかしながら、その楽器の存在は知らなかったが、音は明らかに、様々な(ピコピコ系の)音楽の中で聞き覚えのあるやつだ。
アナログシンセ、あるいは今時は、コンピュータ上のソフトウェアで鳴らされるものかもしれないが、どちらにせよ、そのようなシンセの音を生かした音作りというのも、時代の流れだろう。それは2010年代以降、そして2019年に発表されたEPでも感じられた方向性だった。
それが良いのかどうかは、僕には論じかねる。もちろんそこにはノスタルジーの要素があるのだけれど、世の流れはどうであれ、なるべくベタベタなシンセサイザーの使い方は+/-{plus/minus}にはして欲しくないと思っている自分も、どこかにいる。
アルバムの曲の中で、一番好きだと言えるのは、なんといっても”Gondolier”だろう。僕にとってはそうだ。
美しい曲だが、様々な情感を感じさせ、そして曲の後半、アンサンブルがアコースティックになり、空気感が変わって距離が近くなるところが非常に好きだ。そこからエンディングまでは、無言のサウンドの中に様々な思い、そして年月が込められているように思う。この音が聴けただけでも、僕は幸せに思う。
アルバムのリリースに先行してビデオが公開されていた、シングルの3曲。
僕は、最初に聴いた時、そのどれもが、いまいち地味な曲であると感じた。良い曲ではあったが、刺さるという感じはしなかった。
そして、ひょっとして、これはそういう曲をシングルに選んだだけで、アルバムの中にはもっと凄い曲があるのかな、と思っていた。(たまに、そういうことがあると思う、アーティストによっては)
だが、蓋を開けてみると、もちろん他の曲も味わい深いものの、やはり先行シングルとして公開されたのは、アルバムの中でもどちらかといえば尖った方の曲であることがわかった。
もちろん、それらは良い曲だ。
最初に公開された”Borrowed Time”も、印象的なサウンド、特徴的なリズム、そしてメロディがきゅんきゅんと胸に響く。
また”Gondolier”は先程書いたように名曲だと思う。前作で言えば”Bitterest Pill”に似たようなドラマティックなストーリーの語り口がある曲だと思う。エンディングの部分では、ノコギリというのか、musical sawが使われているね。ノコギリというと、どうしても、Netral Milk Hotelの曲を思い出してしまうけど。
そして3rdシングルの扱いであった”Calling Off The Rescue”は、確かに過去のプラマイの延長線上にあるバンドサウンドだ。訥々と奏でられるギターのアルペジオのフレーズ、これも前作に収録されていてもおかしくない作風で、どことなくブッチャーズを意識させる。込められた感情の爆発は胸に迫るものがある。
だが、かつての彼らの楽曲の中にあった、圧倒的な、特別な何かは、そこにはもはや希薄であるように思う。
あるいはこれは、彼らが変わったのではなく、聴いている僕の方が変わったのかもしれない。だが、そうであったとしても答えは同じ事だ。
“Driving Aimlessly”もいいんだけど、これは2019年のEPに収録されていた曲の”Redux”バージョンだが、僕は、うーん、前のバージョンの方が好きかな。エンディングのパートが省略されているしね。
あとは、最後のトラックである”Is It Over Now”、これってChrisが歌ってる??
全体に、聴きやすくなって、複雑で混沌とした要素が多かった昔の作品に比べると、確かにとっつきやすい作風になったのかもしれない。
けれど、+/-{plus/minus}を初めて聴くリスナーに、どのアルバムを最初に勧めるかと言えば、僕はきっとこの作品は選ばないだろう。ファーストアルバムを聴かせるか、あるいはセカンドから名曲”Megalomaniac”を聴かせるか、サードアルバムの前半を聴かせるか、4thアルバムは・・・ああもう、本当にわかりにくい、伝わりにくい、まどろっこしいバンドだ。
もっとも大切な事。
そういえば、僕は泣いていないのだ。
10年ぶりに届けられた、人生の中でもトップ3に入るくらいに愛したバンドの新作。
そのアルバムを、何度も何度も聴きながら、僕は一度も涙を流していない。
もちろんそこには、爽やかな感情がある。
歩いて来た年月と、積もった感情がある。
そこには確かに、人生を歩いてきた答えがある。
彼らは確かに、それを僕に伝えてくれた。
けれども、僕は泣いていない。
いや、心の中では泣いているのかもしれない。
けれども、泣きながらも、笑顔で、彼らに対して返事をしている自分が居るのだ。
“さようなら、+/-{plus/minus}”
そう、そこには約束があった。
たぶん、僕はその約束を果たしたのだ。
あるいは、果たしつつあるのだ。
あれは2013年の事だった。
ブッチャーズの吉村秀樹氏が亡くなったすぐ後の事だ。
吉村氏の「お別れ会」イベントが、世田谷区某所のライブハウスで行われていた。僕はそこに立ち寄り、吉村氏に心の中で別れを告げた後、東京ドームに向かった。そこで、実に15年ぶりの来日であった、Van Halenのコンサートを見たのだ。その日のライブは、2年後には公式のライブアルバムとして大々的にリリースされた。
そのコンサートの中で、僕は音を通じて、Eddie Van Halenから、無言のうちに、こう言われた気がした。
「Van Halenを卒業しろ」と。
たとえ大好きなものであったとしても、いつかは卒業しなければならない時が来る。
たぶん、これもまた、同じことなのだ。
僕はこれからも+/-{plus/minus}を聴くだろう。
こんなに「肌に合う」音楽には、そうそう巡り会えるものではない。
僕はこれからも+/-{plus/minus}に憧れるだろう。
この新作も、きっと何度も何度も聴くだろう。ちょっと退屈だなと思っても、それでもやはり聴くだろう。また何年か経って聴けば、泣ける時が来るかもしれない。
けれども、僕はたぶん、もう知っている。
自分が本当に求めるもの、自分が本当に目指す場所。
それは、ここではないということを。
こんなに偉大なバンドに対して、何も言えることなんかない。
僕は、彼らはロックの歴史の中でも、非常に重要な、偉大なバンドのひとつであると、やはりそう思っている。
ありがとう、+/-{plus/minus}
p.s.
そういえばSteve Albiniの追悼記事みたいなブログを書いていない。僕だって書けることはたくさんあるけど、たぶん書いてる時間がないので、勘弁してください。