エレクトリックギターという命題

 

ここでギターについての話題を書かせていただこうかと思う。

7月のアメリカ遠征にて使用したギターについて書き記したいのだ。(おっと、上記の写真は違うギターです。記事の分類の関係で、紛らわしくてごめん。)

 

どこから書けばいいのか。

こうした場合、僕はいつも前提から書き始める。物事の前提をまず話しておかなければ、具体的な内容に触れられないからだ。だから前置きが非常に長くなる。

だから、ひょっとすると今日はその「前置き」だけを書いて終わるかもしれない。
そうすることにしよう。

これは僕の考えるエレクトリックギターという楽器についての「前置き」であり、エレクトリックギターについて語るにあたっての「前提」だ。

 

僕はどちらかといえばGibson派だ。
それは、Gibson社のギターを所有、使用しているという意味ではない。
エレクトリックギターの種類を大きく分けて、Fenderスタイルの「ボルトオン構造、シングルコイル」のギターと、Gibsonスタイルの「セットネック構造、ハムバッカー」のギターがあるとすれば、僕はGibsonスタイルのセットネック構造およびハムバッキングピックアップ搭載のギターを好む傾向が強いという意味だ。

Fenderスタイルのボルトオン構造のギターというのは、簡単に言ってしまうのであれば、それはストラトキャスターの事であり、また、Gibsonスタイルのセットネック構造のギターというのは、簡単に言ってしまえばそれはレスポールの事である。

 

現代のエレクトリックギターを巡る状況、そしてそこに至るまでの歴史には、様々な事がある。だから、単純に「Gibsonいい」とか「Gibsonだめ」とか言えないところがある。

そして、ロックの歴史が間違いだらけであるのと同じように、エレクトリックギターの歴史とそれを巡る社会状況もまた、間違いだらけであると思う。だから僕の私見では、世間に流通しているエレクトリックギターの8割以上は「間違い」という事になる。(だからといって、そういった間違った楽器で音楽が作れないわけではない。それもまた、重要なポイントだ。所詮楽器は道具であり、もし自由に音楽を作るのであれば、人間の意志と創造力の方が遥かに大事なのだ。)

 

エレクトリックギターというのは面白いものだと思う。人類史上、他にはなかったような、非常に面白い楽器だと思う。

これはいつも言っている僕の持論だ。
エレクトリックギター、エレキギター、と言っても、それによって思い浮かべる音色、サウンド、プレイ、音楽は様々だ。
それはエレクトリックギターが、多様性のある楽器であり、また多様性のある現代のロックミュージック、ポップミュージックの中で使用されてきた楽器であり、電気的に音色を作り、加工する事が可能な楽器であるからだ。

そして電気的に音を作る事が前提でありながら、プログラミングによって演奏可能なシンセサイザー等と違い、高度に肉体的、身体的な要素がある。

ソリッドボディ構造により、弦の微小な振動、そして木材やパーツの微小かつ素朴な音のキャラクターを引き出し、それを電気的に増幅し大きな表現力へと変える事が出来る。

 

エレクトリックギターは高度に個人的な楽器であり、高度に個人的な表現手段だ。

「エレクトリックギター」と言って思い浮かべる音色は人それぞれ。演奏スタイルも人それぞれ。そして、それは実際、ギタリストの数だけ存在する。
だからこそ、イメージする事、想像する力が大切なのだ。

ギタリスト、エレクトリックギターの演奏者は、自分にとっての「エレクトリックギター」がどのようなものなのか、確固たるイメージを持ち、定義し、またその定義を常に問いかけなければならない。もちろんそのイメージは時に形を変え、時には形を壊し、発展し続けるものだろうと思う。

イメージする事が大切なのだ。それがギタリストの創造力という事でもある。

そして、そのイメージする形は、いわばそのプレイヤーの精神の形だ。肉体性のフィルターを通しているが、それは演奏者の精神の形、想像であり創造の力そのものだ。

これは超能力、あるいは映画のスーパーヒーローが持つスーパーパワーに近いものがある。そして、伝説的な漫画「ジョジョ」に登場する「スタンド」を思い浮かべるのはあながち間違いではない。どのような形、どのような力、どのような機能を持っているのか、その多様性において、エレクトリックギターが具現化する力を形にするのであれば、それは確かにそれぞれの人間が持つ「スタンド」のようなものになる。もちろん、それはどのような楽器であっても成り立つ事なのだが、エレクトリックギターは、その多様性の幅、精神の増幅性、そして肉体と精神のダイレクトな繋がりの強さにおいて、他の楽器には見られない特殊性があるように思う。
いちギタリストとして、僕はそう感じている。

 

エレクトリックギターには多様性がある。
その形、ボディシェイプすら、様々な形が存在していて、厳密に決まった形というものが無い。これは、他の楽器ではなかなか見られない事象だ。
いわゆるポインティギター、尖った楽器であるとか、彫刻のような造型を施したものであるとか、ありとあらゆる形のエレクトリックギターが存在する。

いわゆる変形ギター、フライングV、エクスプローラー等に代表されるものもあるし、SG、ファイヤーバード、レスポールJr、Fender系でもいわゆるオフセットボディのジャズマスター、ジャガー、ムスタングといったバリエーションが存在する。そして、それぞれの形に特有なサウンドがある。

もちろん、どのような形のギターでも良いし、それぞれのサウンドの良さを生かして音楽を鳴らせばいい。それは自由であり、その自由こそがロックの本質だ。

 

けれども、僕も年齢を重ねて、つまりは歳を取ったせいか、エレクトリックギターとは、結局のところ「ストラトキャスターとレスポール」なのだという解答に辿り着いた。

別にフライングVがいけないわけじゃない。エクスプローラーだって名機だ。
そして、テレキャスターだってもちろん不滅だ。

テレキャスターは、間違いなくひとつの原点であり、テレキャスターを否定出来る者は居ない。現代のエレクトリックギターの始祖と言える存在であると思う。太さとキレを併せ持ったその力強いサウンドは、あるいはストラトキャスターやレスポールの上にあるものかもしれない。

だが、その原点たるテレキャスターすらやはり越えて、神はストラトキャスターおよびレスポールを選ばれたのだと思う。なんでそうなったのかは知らん。きっと形が、使い勝手が、そして周波数が、ちょうど良かったのだろう。

 

歴史上の偉大なギタリスト達は、皆、レスポールとストラトキャスターの両方を駆使して音楽を鳴らしてきた。

ストラトがトレードマークになっているギタリストであっても、レスポールを使っているし、その逆もしかりである。

音楽を作ろうとすれば、ギタリストには結局、ストラトキャスターとレスポールの両方が必要なのである。

「なんかしらんが」そうなってしまったのである。
ロックの歴史上。ブルーズの歴史上。
ストラトキャスターとレスポールが、両極たるふたつの頂点、定番の道具となった。

理由はわかんない。
神がそう選ばれた、としか言えない。
だから「なんかしらんが、そういうものだ」としか言えない。
そして僕も「なんかしらんが、いつのまにか」、ああ、ストラトとレスポールなんだな、という心境にたどり着いてしまった。

 

ただ、このふたつの楽器には、やはり違った特色がある。
まったく正反対と言える性格がある。

様々な違いがあるが、ロックおよびエレクトリックギターの歴史を考えた時、その最たるものは、カスタマイズ性ではないかと思う。

 

僕が思うに、レスポールは完成した楽器だ。
1950年代の段階で、(いわゆる”バースト”において)、レスポールはだいたい殆ど、楽器として完成した形になってしまった。
それは、完成形であり、最終形であると思う。

それとは対照的に、ストラトキャスターには大きなカスタマイズ性、つまりカスタマイズ、改造の余地がある。

1950年代、1960年代前半において、その「基本」の形は提示されているものの、それはあくまで「基本」であり、ロックの歴史を見れば、そこから「発展形」がいくつも生み出されて来た。

レスポールが1950年代において、すでに「完成形」の「ゴール」であったのに対して、1950年代に提示されたストラトキャスターは、あくまで「基本形」であり「スタート地点」でしかなかった。

 

その応用、発展の余地があった事こそが、ストラトキャスター、つまりFenderスタイルのギターが、時代が進むに連れてエレクトリックギターの主流となっていった理由であると思う。

ピックアップを交換し、ハムバッキングピックアップを搭載し、SSHや、HSHといったコンフィギュレーションで使用する事。
ブリッジを交換する事。様々なトレモロ(ヴィブラート)システムを搭載する事。
ダブルカッタウェイのストラトの基本形を維持しつつも、微妙に形やサイズを調整する事。
指板のアールを変更する事。フレットを交換する事。フレット数を増やす事。場合によっては弦の数を増やす。
ボディ材を変更する、指板やネックの材を変更する、またそれとの組み合わせでピックアップを選び、狙った音を作っていく。
こういった変更のいくつかはレスポールでも可能であるが、それでもやはり、こういった自由な仕様の変更は、ストラトキャスターの方が適していた。

 

であるからして、現代のギタリストの多くは、基本形のストラトキャスターを下敷きにしつつ、そこから自分の使いやすいように仕様を変更し、自分専用の道具を作っていく(選んでいく)事になる。

もちろん人によっては、また音楽性によっては、特に改造や仕様の変更をすることなく「基本形」のままで使う人もいる。あるいは、そういう人の方が多数派かもしれない。基本形の、普通のストラトキャスターでいい、そういうギタリストも多いだろう。だが、それでも1950年代、1960年代のストラトと比べた場合には、細かい所での現代的なアップデートが為されている事が多いはずだ。

そういった中で、音楽シーンの中での現実的な仕様としてポピュラーになっていったのが、SSHのピックアップコンフィギュレーションを持つストラトキャスターであろうと思う。現代の音楽シーンの中で、ギター一本で幅広い状況に対応するとなれば、だいたいそれが最適解となる、というか、なったのだと思う。SSHのピックアップ配列のストラトタイプのギターというのは、1980年代以降のギタリストにとっては、それくらい「標準的」であり、「ありふれた道具」だと言える。

 

カスタマイズの自由度が高いストラトキャスターに比べれば、Gibson系の楽器は意固地で融通が効かないところがあるのではないだろうか。

「なんでもやりますよ」といったストラトキャスターのカスタマイズ性に比べると、Gibson系の楽器には「俺はこれだ。これが俺の音だ。俺はこれしかやらん」といったこだわりの要素がある。そんな気がする。

そして、僕はどちらかといえば、そんなGibson系の楽器に魅力を感じる方である。

 

Gibson系のギター、セットネック構造のギター、つまりはレスポールという事になる。これは僕の持論だが、そのレスポールという楽器を巡る世間の状況は、非常にややこしく、そこには非常に難しい問題がある。

僕が思うには、世間にはきちんと作られた本物の「レスポール」は非常に少ないし、また、そういった「本物のレスポール」の音も、世間ではほとんど認知されていない。そしてまた、その結果と言うべきか、楽器としての「本物のレスポール」に対しても、世間のギタリストの間では、そもそも需要が無いのが現実であると思う。

そんな中で、ちゃんと作られた「本物」と言えるレスポールに出会うのは非常に難しい事だ。

そして「本物」と呼べるようなレスポール(セットネックのエレクトリックギター)を作れるメーカーも、世の中には非常に少ないように思う。「作れる」という言葉は適切ではないかもしれない。技術的に可能であったとしても、商売としてはそうではないのかもしれないからだ。
どちらにしても、ちゃんとしたレスポール(セットネックのエレクトリックギター)を作ってくれるメーカーは少ない。

 

僕が日本の楽器メーカーであるDeviserさん(Bacchus, Momose, Headway等)のファンになったのは、Deviserさんは、そういった「日本製の丁寧に作られたちゃんとしたレスポール」を作ってくれる、貴重なメーカーであったからだ。

前にも書いたけれど、Deviserさん、Bacchusブランドは、2020年代に入り、パンデミックの時期を境目として、なんとなく方向性が以前と変わっており、フィリピンの自社工場で作られていたGlobal Seriesも一般的なインドネシア製のものへと変更となり、今後も僕はファンでいられるかどうか、確信は無い。

もちろん、現在でもDeviser社は素晴らしい楽器を作っていると思うけれど、エレクトリックギターは高価かつ豪華なMomoseブランドに比重を置いているようで、質実剛健で素朴な仕様であった日本製のBacchusは現在では貴重なものになっているように思う。

 

僕はBacchusの日本製のレスポールに出会って、ギタリストとして非常に大きな衝撃を受け、それ以来「魂を込めて丁寧に作られたセットネックの楽器こそが至高のものである」と考えるようになった。(それに出会ったのは2013年の秋頃の事だ。)

その考えは、基本的には今でも変わっていない。

だが、エレクトリックギターとは価値観であり、この世界の価値観とは多様なものだ。

ひとつの価値観だけで、世界のすべてを判断する事は出来ない。
そのように、やっぱり音楽を作っていけば、たとえ「レスポールが至高」と考えていたとしても、「ストラトキャスター」(およびその派生系、発展系の楽器)は必要になってくる。

不思議な事に、レスポール(セットネック系のギター)を至高と思えば思うほど、その対極にあるストラトキャスター(ボルトオン系のギター)に惹かれる自分に気付くのだ。

 

 

だが、エレクトリックギターの歴史、ロックの歴史を紐解くと、そこにはGibson(レスポール)、Fender(ストラトキャスター)の二大巨頭のどちらとも異なる、第三の流れがある。

いや、第三の流れ、という言葉は正確ではないかもしれない。
GibsonとFenderという二大巨頭を前にした時に、当然発せられる、宿命とも言える命題である。

 

その命題、第三の流れとは、つまりVan Halenである。

Van Halen、Edward Van Halen、エディ・ヴァン・ヘイレン。

この偉大なるギタリストの存在を抜きにして、エレクトリックギター、そしてロックギターの歴史を語る事は不可能だ。

そしてエレクトリックギターの歴史の観点からすれば、エドワード・ヴァン・ヘイレンこそ、生涯かけて、その宿命とも言える命題に取り組んだギタリストだ。その命題とは、言わずもがな、GibsonとFenderの融合である。

 

ストラトキャスターとレスポールの融合、いいとこ取り。

Eddie Van Halenが、自作のストラトキャスターにハムバッキングピックアップを載せて、どっかーん、とEruptonを鳴らした瞬間から。

80年代のメタル、ハードロックが生まれ。
テクニカルなシュレッドギター、いわゆる速弾きギタリストの歴史と発展が始まり。
エレクトリックギターの新たな可能性が開かれ。
いわゆるスーパーストラトという新たな楽器が生まれ。
それから、それから、等というように、Eddie Van Halenの功績と音楽界に与えた影響を列挙していけばきりがない。言うまでもない、周知の事実。The rest is historyというやつだ。

 

そんなエディ・ヴァン・ヘイレンは、こと楽器としてのエレクトリックギターという点で言えば、そのシグネチャーモデルの開発を通じて、「GibsonとFenderのいいとこ取り」という命題に対して、本気で取り組んだ人物だったと言えると思う。

それは、エドワード・ヴァン・ヘイレンという、ロック史上最大のギターヒーロー、世界的なスーパースターだからこそ、可能な事だったのだと思う。

著名なギタリストがシグネチャーモデル、オリジナルモデルのギターを発表する、なんて言っても、現実にはそこには様々な制約がある。世間のほとんどのシグネチャーモデルは、ストラトキャスターの発展形の域を出ないはずだ。

まったく新しい形で、ゼロから設計し、GibsonとFenderの究極の融合を目指す、なんていう大それた事は、ロックの世界でもただ一人、Eddie Van Halenだからこそ可能だった事だ。

 

それは、エディ・ヴァン・ヘイレンという希代の天才にしてスーパースターだったからこそ、追い求める事の出来た命題であり、ロマンであり、見果てぬ夢であった。

 

彼は最終的に、それに成功したのだろうか。

それに対する意見と評価は人それぞれだろうと思う。
けれど、僕の考えでは、答えはノーだ。

Eddie Van Halenは、いや、つまり、世界で最も偉大なスーパースターであるエディ・ヴァン・ヘイレンを以てしても、ストラトキャスターとレスポールの完全なる融合という大命題を果たす事は、出来なかったように僕は感じている。

あるいは理論の上では出来ていたのかもしれないが、現実にはならなかった。

 

もちろん、相当に近いところまでは行った。
だが、最終的に何かが足りなかった。

何が足りなかったのだろうか。

敢えて言えば、それを理解する事は、アメリカ人、西洋人には、きっと難しい事だろう。

日本人ならわかる。
なんかしらんが、そんな気がしている。

なんかしらんが、の部分は、僕にはわからん。

これが僕の前提だ。
次回へ続く。

 

+

ちょっとした追記だ。

最近僕は、2000年代後半のモデルと思われるBacchus Handmade Series(日本製最上位)のG-Studioを弾く機会を得た。アルダーボディで、おそらく2008年ではないかと思われる。

G-Studioというのは、つまるところSSH配列のストラトである。
見た目にも特段に変わったところはなく、オーソドックスな普通の仕様の楽器。
世間にはSSH配列のストラト系のギターなんて、星の数ほどある。

 

だが、実際に弾いてみると、やはり衝撃を受けた。

USA製のHamerの楽器とよく似た鳴り方をする。
僕が過去10年来使用してきたHamerのコリーナ製フライングVとも鳴り方が似ているし(もちろんストラトとフライングでは音の傾向は違うが、なんというかヴィンテージでオーガニックな鳴り方が同じ)、
また、過去に幾度となく試した事のあるHamerのボルトオンやセットネックの鳴り方と共通したキャラクターがある。

つまりヴィンテージギターのようなあたたかくキャラクターに溢れた、豊かで非常に大きな生鳴り、そういったキャラクターだ。ミッドが豊か過ぎる、とでも言おうか。

 

僕はUSA製のHamerに対して、ちょっと豪快すぎてアメリカンすぎて無理、みたいなイメージがちょっとあったが、そこまでではないにしても、この2008年製(?)のG-Studioに対して、ヴィンテージ級のオーガニックな鳴りまくり状態を感じた。

今はどうなのかわからないが、良い時期の日本製Bacchusは、Hamer USAに負けていかなった、という事であると思う。

そして、それがセットネックのモデルであれ、ボルトオンのモデルであれ、本当に良いギターというのは、このようなオーガニックで豊かな鳴りを持っており、ギター本来の音とでも言うべきそのキャラクターは共通している、という事であると思う。

 

Bacchusさんのギターは、特に過去においては見た目も仕様もオーソドックスで地味であり、2000年代当時にこれらのHandmade Seriesの楽器に注目していたギタリストは、少なくとも一般的なマーケットにおいては決して多くはなかっただろうと思う。だが、その実はこのようにとんでもないクオリティを持つ楽器だった事を改めて体験した。

 

と、そう言っておいて、エレクトリックギターには用途、適性、そして価値観というものがある。

このようなヴィンテージ風味の豊かな鳴りとキャラクターを持ったギターは、ジャズやブルーズなどと言った音楽には適しているかもしれないが、歪ませた音色でヘヴィメタルを演奏しようとすると、やはりいろんな面で適さないところがある。

僕の手元にある、同じBacchusでもGlobal Seriesの安価なモデルがあるが、それらの楽器も良い生鳴りをもっているものの、このG-Studioほどではない。そして、歪ませてメタルを弾こうとすると、その安価なモデルの方がしっくりくるようだ。

 

何事にもほどほどということがあり、ロックやメタルを演奏する際には、多少鳴り方にブレーキがかかったものの方が良いこともある。鳴り過ぎない方が、整った音になるという事もある。
そしてまた、一般的にヴィンテージの価値観では質が低下したとされる1970年代の楽器があったからこそ、その後のヘヴィメタルの隆盛に繋がって行ったということも、ロックの歴史を見る上で、間違いない事実だろう。

 

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