この文章は、「ヘヴィメタルチャーチ」の関係者の皆さんに宛てて、Judas Priestについての話題で盛り上がっていた流れで、私が見たJudas Priestのライブについての感想を書き記したものです。Judas Priestというバンドについてだけでなく、自分にとっての個人的なヘヴィメタルへの思い、ヘヴィメタルへの関わりについて書き記しており、自分にとっても大切な内容だと感じていますので、「せっかくなので」、ここにも記録しておきたいと思います。
「Judas Priest来日公演感想文」
Tak “Tone” Nakamine
さて、先日12月12日に、横浜ぴあアリーナMMにてJudas Priestの来日公演を見てきました。
Judas Priestは、僕にとっては、13歳の頃にロックを聴き始めて初めて好きになった、いわば「初恋のバンド」です。
それゆえに、プリーストについて書くと、冷静な評論といったものは書けず、どうしても自分にとっての個人的かつ内省的なものになってしまいます。
ですから、そのような過度に個人的な感想の文章を人に見せること自体、ためらいがありますが、今回は自分の人生の中で、ヘヴィメタルおよびロックミュージックというものを振り返り、改めて考察する大切な機会となったような気がしていますので、自分の中でそれらを整理するためだけでも、文章に綴る意義があると思いました。
まず、僕はJudas Priestのコンサートを見るのは、記憶に間違いがなければこれで5度目です。
2001年のDemolitionツアー、2009年のLoudpark(British Steel再現ツアー)、2012年のEpitaphツアー、2015年のRedeemer Of Soulsツアー、そして今回のInvincible Shieldツアーです。
思い出すと、それはすべて嫁さんと一緒に見たものなので、長い年月人生を共にしてくれて、なおかつヘヴィメタルのコンサートを一緒に見てくれる嫁さんには感謝しかありません。
このようなキャリアの長いベテランのバンド、1970年代から第一線で活動しているようなレジェンダリーなバンドが、こうして今でも来日公演をやってくれるだけでも凄いことです。
考えてみれば現在は、80年代から90年代にかけて活躍した多くのバンドも、その多くはフェアウェルツアーをやって演奏活動から引退しようとしている時代です。またJudas Priestについて見ても、たとえば2012年のEpitaphツアーの頃には、そのツアータイトルからも想像出来るように、引退、キャリアの終焉という印象が漂っていました。
そんな中で今回のJudas Priestの来日公演には、不思議なことにそのような「終焉」といった雰囲気が感じられなかったように思います。少なくとも、ステージ上に描かれる世界の中には、そのような「終焉」といったテーマではなく、もっと前向きで力強い何かが提示されていました。答えをすぐに言ってしまうのであれば、それは「伝統」と「継承」であると思います。そしてショウは続いていくのだ、という果てしのないエンターテイメント魂でしょうか。公演の最後にステージ上に映し出された”The priest will be back”という言葉に、強い感動を覚えたのはきっと僕だけではないでしょう。ちょうど007の映画の最後には、必ず”James Bond will return”と書かれているのと同じだと思います。
その”The Priest Will Be Back”という言葉に象徴される、決して死ぬことのないヘヴィメタル魂、そして根性。伝説と伝統を背負う偉大なバンドならではの、これこそが一流のパフォーマンスなのだという事をひしひしと感じさせるステージでありました。
早速個人的な事になりますが、僕にとってのJudas Priestの位置付け、いやヘヴィメタルという音楽そのものに対する、自分の中での位置付けについて言及しておきたいと思います。
誰しもそうであるように、僕も自分の短い人生の中で、それなりに色々な音楽を聴いてきました。その中で、本気で惚れたバンド、好きになったバンド、いくつもあります。それはメタルのジャンルに限られません。むしろどちらかといえば、そのように本気で好きになったバンドは、メタル以外のジャンルの方が多かったかもしれない。
先程書いたようにJudas Priestは僕にとっては「初恋のバンド」です。一番好きなヘヴィメタルバンドだと言っていい。僕にとっては、ロックを聴き始めた思春期の頃の記憶や体験と結びついていて、本当に自分にとって大切な意味を持つ音楽です。けれども、人生の中で一番好きなバンドかというと、決してそういうわけではない。音楽やバンドに順位を付けること自体、意味がないのですが、自分にとってのフェイバリットバンドを列挙していくと、Judas Priestは、ベスト5にはおそらく入って来ません。ベスト10であれば、なんとか入ってくるかなというところです。
これは僕にとっての「ヘヴィメタル」という音楽そのものとの関わりにも関係しています。僕は多分ヘヴィメタルという音楽を愛している。自分自身はヘヴィメタルギタリストであり、ヘヴィメタルという音楽表現の可能性を信じてもいる。けれども、自分は本当にヘヴィメタルが好きなのかと問われると、はっきり答えられない。それは、世間一般に溢れているメタルミュージック、メタルバンドの中で、僕が本当に好きなのは、その中のほんの一握りに過ぎないからです。僕は70年代や80年代の古典的なヘヴィメタル、ハードロックが好きなところがあるので、そういったスタイルの問題も関係している部分がありますが、かといって新しいスタイルのバンドが嫌いなわけではないので、問題はスタイルや時代性ではなく、別のところにあるのです。
答えは自分自身なんとなくわかっています。恐らくはこういう事なのです。僕は確かにヘヴィメタルを愛しているかもしれない。だけれども、僕の考えるヘヴィメタルという概念と、世間の人々が考える一般的なヘヴィメタルとの間に、おそらく乖離があるのです。そしてその乖離は、恐らくは時代と共に大きくなっていったのかもしれない。誤解して欲しくないのですが、僕の言うその「乖離」とは、音楽スタイルやサウンドそのものではなく、それ以上に精神的な部分に存在しているものです。
僕にとってJudas Priestは、自分の考えるその「ヘヴィメタル」という概念に、最も近い音を鳴らしてくれるバンド。これこそがヘヴィメタルだよな、という、そのものずばりの音を鳴らし、ヘヴィメタルという概念を最も純粋に提示してくれるバンドでした。
いや、逆ですね。僕は少年時代、思春期の頃に、Judas Priestを通じて「ヘヴィメタル」という概念を知り、Judas Priestから「ヘヴィメタル」という概念を教えられたのです。ですから、僕にとって「ヘヴィメタル」とはJudas Priestそのものであり、Judas Priestこそが「ヘヴィメタル」であるのです。
説明の順番があべこべになりましたが、そういった理由、世間一般に鳴らされているヘヴィメタル、メタルと、僕の考える「ヘヴィメタル」との間に存在する乖離。それが理由となって、僕はヘヴィメタルに興味を失っていきました。そして、メタル以外の様々な音楽を聴くようになった。誰もが一度は経験する「ヘヴィメタルからの卒業」だと言えます。僕の場合、その「ヘヴィメタルからの卒業」がいつ起きたのか。それは15歳の頃でありました。ですから僕にとって、本当にヘヴィメタルが好きで、ヘヴィメタルばかりを聴いていた時代は、13歳から15歳の頃の約3年間。つまりは中学生時代であるとか、思春期の頃、と言い換えることができます。それから自分はヘヴィメタル以外の様々な音楽を聴くようになり、そして大好きなバンドにいくつも出会っていったのです。なにしろまだ中学生、中坊の頃でありますから、また今と違ってインターネットといったものは無い時代ですので、当時聴けたものは、それでも限られていたかもしれません。しかし、それでも良い時代のヘヴィメタルを、多感な思春期の頃に集中して聴いたことは、自分の音楽人生にとって非常に大きなインパクトとなり、そして恐らくそれが、自分の人生を決定付けたのです。
色々な理由でヘヴィメタルへの興味を失くし、10代そして20代、1990年代から2000年代、それはヘヴィメタルにとっては冬の時代でありました。そんな時代に純粋な古臭いヘヴィメタルを演ることは、事実上不可能。ヘヴィメタルは終わった音楽、死んだ音楽であり、音楽を鳴らす者としても、自分は新たな挑戦をしなければならなかった。どちらにしても、自分は紋切り型のヘヴィメタルには興味を失くしていたのです。かといって、古き良きクラシックは、依然として好きではあったのですが。
これでJudas Priestを見るのは5回目だと書きましたが、熱心なファンにしては、回数は意外と少ないかもしれません。すべてのツアーを見ているわけではない。たとえば再結成で盛り上がっていた2005年のAngel Of Retributionツアーに関しても、僕はそれほど興味がなく、冷めた思いでスルーしていたのです。
その、すべてのツアーを見ておらず、回数もそれほど多いわけではない、という点については、ヘヴィメタルそのものに対しての自分の複雑な思いを綴ることで、説明に代えさせて頂きたいと思い、個人的な思いを書き綴りました。
いずれにしても、リスナー、ファンとして、また同時に自分もインディバンドで演奏する在野のミュージシャンとして。自分の追い求める「スタイル」は、Judas Priestが鳴らすような紋切り型のヘヴィメタルに止まりません。もう少し幅の広い、血の通ったメッセージや生活感を伴った、いくつかのスタイルを組み合わせた広義のハードロック、ヘヴィメタルとなります。現代ではそれはメタルとは呼ばれないかもしれませんが、少なくともLed Zeppelinや、初期のFleetwood Mac (Peter Green)くらいまでは遡りたいという事です。オルタナティブロックも鳴らしたければ、インディロックも鳴らしたい。パンクの影響もあれば、グラムの影響もある。プログレッシブロックと呼ばれる事もあれば、ブルースの影響を指摘される事もある。結果的にどう呼ばれようと構わないのですが、つまりは自分は分不相応に欲張りだったのだと思います。ヘヴィメタルに殉ずるよりは、あれもこれも、好きなものはすべて取り入れたかったのです。
しかしそうであったとしても、自分の中からJudas Priestの影響が消える事はなかった。自分たちの音楽の中に、「ヘヴィメタル」の要素があるのだとしたら、間違いなくそれはJudas Priestから来るものなのです。自分の考える「ヘヴィメタル」とは、Judas Priestに他ならないのですから。そして、それは少年時代の自分の心と体に、精神と魂に、深く刻み込まれたものなのです。それを忘れる事は、人生の中で決してなかった。
個人的な前置きが非常に長いので、少しずつコンサートそのものについての論評に移っていきたいのですが、結論から言えば、これまでに見たJudas Priestのライブの中で、今回の2024年のライブは、最も強く印象に残る、もっとも大きな感動を覚えた、つまりは「一番良かった」ライブでした。
これはもちろん自分個人の感想であり、そのように感じたのは自分自身の内面の様々な事情が関係している事も事実です。けれども、客観的に見てもバンドの調子は良く、現在のJudas Priestはとても良い状態にある事は確かであり、同様に良い感想を持った方は多いのではないでしょうか。
一番良い。一番感動した。まるで13歳の少年に戻ったような気分で楽しめた。
そのように感じたのには、いくつかの理由があります。
思い返してみれば、これまでに何度かJudas Priestのコンサートを見た事があるとは言っても、それらはすべて、「後ろ向き」な気持ちで見に行っていたような気がします。
しょせんJudas Priestのような古いバンドは、レガシーアクト、ノスタルジックアクトに過ぎないという思いです。ヘヴィメタルとはすでに終わった音楽であり、再結成後のJudas Priestを見に行くという事は、思い出に浸るために、過ぎ去った何かを懐かしむためにのみ、見に行くというふうに捉えていました。考えてみると、これまでにJudas Priestを見に行った時にも、「よっしゃ、ぜひ見に行きたい」という感じではなかったのです。その多くの場合には、嫁さんに「ねえ、見に行かない?」と言われて、「うーん、それなら、行こうかな」といった感じだったように思います。(またここでも、素晴らしいパートナーと一緒になれた事に感謝をしなければなりません)
しかし今回は、初めてそういった後ろ向きな気持ちではなく、前向きな気持ちでJudas Priestを見る事ができました。それは今年2024年に発表されたアルバム”Invincible Shield”が素晴らしい内容だったからです。僕にとっては、それはノスタルジックアクトが作るぬるい作品ではなく、「プリーストが戻ってきた」「ヘヴィメタルの王道がここに甦った」と思えるほどの内容でした。それはかつてのプリーストとは違いますが、Richie Faulknerという若武者が(もう若くないけど、笑)、ブリティッシュ・ヘヴィメタルとJudas Priestの伝統を引き継ぎ、新たな形として完成させたものです。Invincible Shieldに表現されていたのは、そのような「伝統の復活と継承」でした。
だからこそ、今回僕は現在進行形の伝説として、過去ではなく未来に進んでいくバンドとして、初めて前向きな気持ちを持ってJudas Priestを見ることが出来たのです。
(アルバム”Invincible Shield”についての感想は、今年の春頃に、バンドのブログにも書き記しています。こちら )
そして僕はあらためて、そこにブリティッシュ・ヘヴィメタルの本質を見出し、体験することが出来ました。
あるいは時代の流れという事もあるかもしれません。ハードロック、ヘヴィメタルの黄金時代であった1970年代、1980年代から、そこから時代はすでに何周も回り、今では逆に様々な音楽スタイルについて、時代を越えて俯瞰するようにフラットに見ることが出来るようになっていると思います。だからこそ、その時々の流行に流されずに普遍的な表現を貫いてきたJudas Priestのようなクラシックバンドの良さが際立ちます。もっともプリーストは、そういったクラシックロック、クラシックメタルのバンドの中にあって、常に流行を意識し、時代と共に進化し、新しい表現に取り組んできたバンドですが、その本質には常に普遍的なヘヴィメタルの真実があったという事です。
では、そのヘヴィメタルの真実とは何か。普遍的な表現とは何なのか。
いきなり話を飛ばして、自分なりの結論を書いてしまいます。
ヘヴィメタルとは、人間の暗部を表現する音楽であると思います。
そして、人間の歴史の暗部を伝える音楽でもあると思います。
なぜなら、人間という存在にせよ、歴史にせよ、その暗部にこそ真実が存在するからです。
そこに、ドラマ、感情、ロマン、激しさ、様々な要素を以て芸術表現、エンターテイメントへと昇華させるものです。
そこには、本質的にブルーズに通じる視点があり、また古典文学や神話に繋がっていく世界観があります。それは人間性というものを鋭く捉える普遍的な価値観です。
歴史、風土、文化。ヘヴィメタルの表現はそういったものに基づいています。
僕は常々、ブリティッシュロック、ブリティッシュ・ハードロックを理解するためには、文化の研究もそうですが、何よりもガーデニングをやるのが良いのではないかと思っていました。ガーデニングを通じて、英国の風土と、そこに込められた考え方を肌で感じるのが、ブリティッシュロックの本質に迫るのに有効ではないかと思うからです。
ガーデニングと言えば、日本にもまた、優れた庭園文化があります。
そして日本の風土、自然も、都市化した現代ではそこに親しむ機会は減ってはいますが、本来とても奥深く、豊かで美しいものです。また日本には、歌舞伎や能といった優れた伝統芸能があります。
そして日本には歴史があります。
またそこには悲劇があります。
僕が、人生の中でこれまで見てきた様々なものの中で、もっとも「ヘヴィメタル」を強烈に感じるものがありました。
それは、大磯の澤田美喜記念館で見た、昔のキリシタンの遺物でした。
迫害されたいにしえの時代のキリシタン、その信仰と悲劇。それを物語る数々の遺品は、歴史の暗部と、そこに封じ込められた真実を物語っていました。そして、それらは強烈なまでに「ヘヴィメタル」を叫んでいたのです。
もちろん、京都や奈良の神社仏閣からも、ロックを、メタルを、感じることがあります。古い建築物や、運慶快慶の残した彫刻に、インスパイアされない日本人アーティストはいないでしょう。しかし、古都を訪れても、日本の各地を訪れても、勝利し繁栄した武将の華々しい物語よりも、そこに存在した「キリスト」の痕跡を辿る方が、僕は圧倒的にそこに「ヘヴィメタル」を感じることが出来る。
ヘヴィメタルの表現の中には、信仰、宗教といった要素が色濃く込められている。それはたとえ歴史のおもてから忘れ去られても、人々のDNAに、意識を超えた本能的な記憶の中に、刻み込まれているものです。”Hellion”を、”Screaming For Vengeance”を、”Stained Class”を、”Painkiller”を聴いて、私達の血が熱くなり、魂が高揚するのは、そのような人類のDNAに込められた歴史の果てに埋もれた信仰心が刺激されるからではないでしょうか。
Sister Rosetta Tharpeのサウンドに衝撃を受け、ロックンロールのサウンドは、信仰心(ゴスペル)から生まれたと信じている僕にとって、エレクトリックギターのサウンドとは、まさに神性そのものの表現です。力強さ、優しさ、美しさ、荒々しさ、猥雑さ、純粋さ、輝き、光、そして闇、それらすべてを兼ね備えたエレクトリックギターのサウンドは、信仰そのものを表現する最も適した手段なのです。だからこそ、そのエレクトリックギターのサウンドの可能性を最大限に解き放ったヘヴィメタルという音楽を、私は信じています。
さて、もう少し一般的なコンサートレビューを書いていきたいと思っています。
先程すでに書いたように、僕は今回のJudas Priestのライブを、とても楽しむことが出来て、非常に感動し、強い感銘を受けました。
大満足だったと言えます。もし唯一の不満があるとすれば、それはギタリストがグレンとKKではない、というその事実のみでした。
僕はリッチー・フォークナーの仕事ぶりには大いに満足していますし、”Invincible Shield”という傑作を作り上げた今となっては、リッチー・フォークナーこそがJudas Priestだと考えていますが、それでもライブの中において、いくつかの曲の中では、そこに鳴っているギターがGlenn TiptonとK.K.Downingではない事に違和感を覚える瞬間がありました。それがどの曲だったかは、すぐには思い出せないのですが、その中のひとつとしてRapid Fireは挙げられると思います。もちろん良い演奏だったのですが、いくつかの点で違和感があったのです。これはレコードに比べてチューニングが下がっていることも原因かもしれません。およそすべての曲で、アルバムに比べて半音下げの状態で演奏していたようです。今時のメタルバンドの演奏は、チューニングをスタンダードから下げない方が珍しいので、ヴォーカルのキーを考えた場合には、わずか半音下げたのみでライブを通して歌えているロブ・ハルフォードは凄いと言えます。今年来日した大物の中には、実質Van HalenトリビュートツアーであるSammy Hagarがいましたが、現在のサミーはもっとキーを下げて歌っているだろうと思います。
同様に違和感のあった曲としてはElectric Eyeが挙げられます。GlennとKKならではのクラシカルなサウンドの再現率が低く、またギターサウンドにかけられたコーラス/モジュレーションが必要以上に不自然に感じられました。
またAndy Sneapはほとんどリズムギターに徹して堅実なプレイでバンドを支えていましたが、Painkillerのリフにおいて、ダウンピッキングが追いついておらず、「ちゃんと弾けていなかった」感があったのは指摘しておかなければなりません。個人的にはあの曲のリフはオルタネイトピッキングで弾いた方がまだ結果が良いのではないかと思っています。
本来はグレンとKKによるツインリードであるはずのJudas Priestですが、Richie Faulkerの加入後、現在ではほとんどのギターソロはリッチー君が担当し、もう一人のギタリストであるAndy Sneapは最低限いくつかのソロを弾くのみで、あとはハモリ担当という形になっています。記憶が確かならば、僕が前回プリーストを見た2015年のコンサートの際には、グレン・ティプトンはシグネチャー・ソロとでも言うべきいくつかの曲のソロを弾くのみで、大部分のギターソロはすでにリッチー君が担当している状態でした。私は同じ病気で父親を亡くしているので、少し見ただけでグレンの病状がわかったのです。そして同じギタリストとして、グレンがかつてのように楽曲を弾いていない(弾けていない)という事にもすぐに気付きました。リッチー・フォークナーがステージ上で担っている役割を見るにつけても、当時のJudas Priestというバンドが背負っている事情と、K.K.Downingが敢えて身を引くようにして脱退した理由もなんとなく察せられたものです。
どちらにしても現在のJudas Priestにおいて、リッチー・フォークナーは「単独リードギタリスト」であり、ギターソロの大部分は彼が担当しています。ひとつの例を挙げれば、Paikillerでは本来は曲中のソロはGlenn Tiptonが担当し、エンディングのソロはK.K.Downingが弾いていましたが、現在ではそのどちらもRichie Faulknerが弾いています。Andy Sneapも数曲のギターソロを弾いていたと思いますが、その中に”Electric Eye”が含まれていた事は注目に値すると思います。
ギターについての話題に触れるのであれば、リッチー・フォークナーはかなり楽器を取っ替え引っ替えしながら演奏していました。シグネチャーモデルであるフロイドローズの付いた青いフライングV、これも新たなシグネチャーである青いエスクプローラー、一部の曲でレスポールカスタムと思われるギターを弾いていたのも印象的でした。どちらにしても彼が一貫して使っているのはGibson系のギターであり、しかも厳密に言えばヴィンテージ的な楽器ではなく、現行モデルの系統のGibsonギターです。現行Gibsonの「緩い音」を、フロイドローズの金属的な倍音で引き締める事で、伝統的なヘヴィメタルにちょうどいいサウンドを得ているという印象です。70年代製のレスポールカスタムが往年のヘヴィメタルで活躍したことからも、Gibsonの現行モデルの流れにあるギターが一般的なハードロックにプレイヤビリティの上で適しているという事も言えます。しかしトッププロであるRichie Faulkerのシグネチャーモデルですから、本人が所持して演奏している楽器は、一般に販売されているGibsonよりももう一段階タイトな仕上がりになっていることも十分考えられるでしょう。
リッチー君のプレイは何一つ文句の付けようがないものでした。加入したばかりのEpitaphツアーで見た頃にはまだ個性が確立されているとは言い難く、なんだかZakk WyldeとDoug Aldrichを足して平均化したような、そつはないけど面白くもないプレイヤーだと感じましたが、今では完全にJudas Priestの顔となり、Judas Priestと一体化してバンドの音楽スタイルそのものと言える堂々としたプレイを聴かせています。ギタリストという事でいえば、Glenn Tiptonは1947年生まれで世代的には完全に「1970年代初期のギタリスト」なのに、時代に合わせて進化してあれほどのプレイをした凄い人だと思うのです。しかし世代的にみれば若い世代のギタリストの方が技術的にはアドバンテージがあり、リッチー・フォークナーのそつのないプレイはそれを裏付けています。”Painkiller”のギターソロを完璧以上に弾き切ったリッチー・フォークナーは実に見事でした。今となっては、PainkillerについてはGlenn以上に良いソロを弾いていると言っていいと思います。
またリッチー・フォークナーの良いところは、そのような若い世代のギタリストらしいそつのないプレイをしつつも、まるで1970年代のギタリストのような雰囲気、ヴァイブを持ち合わせているところです。”Crown Of Horns”のイントロ等の短いソロタイムにおいて、マジカルな音を奏でて魅了するリッチー君の姿には、Jimmy PageやTommy Iomiといった70年代のハードロック黄金時代のギタリストを思わせる何かがありました。
アンディ・スニープも、リッチー君ほどではないにせよ、何度も楽器を持ち替えて演奏していました。しかし大部分の曲で弾いていたのはJacksonのいわゆるランディVです。黒いモデルを弾いていましたが、ライブの終盤で白いモデルも登場して非常に印象的でした。僕も日本製ですがほぼ同じモデルを所有しているので印象に残りました。リッチー君のような派手なシグネチャーモデルではありませんが、エクスプローラーも使っていました。その中でもライブ中盤で使用されたHamerのエスクプローラー、Hamerのモデル名で言うところのStandardについては言及しておきたいところです。Judas Priestの二人のギタリスト、グレンとKKは、黄金時代のキャリアを通じてSG、フライングV、ストラトキャスター等様々なモデルを一通り使用していますが、ファンにとって最も印象に残っているのは80年代中期以降、ほぼシグネチャーモデルのような状態で使用されたHamerのギターでしょう。アルバムで言えば、グレンとKKがHamerのギターを使い始めたのは1984年の”Defenders Of The Faith”からです。83年前半のライブ映像においてグレンとKKがHamerを弾いている姿が見られるので、83年の後半にレコーディングされたこのアルバムではHamerのギターがメインで使用されていると推測されます。前のアルバムまでのいかにも1970年代的なクラシックなギターサウンドと比較して、”Defenders”においてはギターソロの鳴りと音の伸びが異常に良くなり、素晴らしいギターソロとなったのはHamerギターの導入が一因にあると考えています。Andy Sneapがこの今では貴重なHamerのエクスプローラータイプを入手した事は、昨年ギター関係のフォーラムで話題になっていましたが、ライブを見て、僕はAndyはアルバムにおいてHamerが使われた”Love Bites”のサウンドを再現するために、Hamerを入手したのだと思いました。僕は基本的にプリーストのヘヴィメタルサウンドにはやはりセットネック構造のHamerが適していると思っているので、いかにメタルの定番とはいえAndyがスルーネック構造のJackson Randy Rhoadsモデルをプリーストに持ち込んでいる事には抵抗がありました。しかしどちらかといえばやはり近代的なメタルサウンドを狙っている曲でJacksonを使用し、クラシカルなサウンドの曲ではエクスプローラーを使っているようなので、アップデートされたPriestのサウンドという意味ではこれもアリかなと感じました。
この日のライブ会場は横浜ぴあアリーナMMという事で、かなり規模の大きなアリーナです。僕はどちらかと言えば、大きな会場でライブを見ることには否定的な方です。どうしても音響が良くないし、バンドとの距離も遠い。バンドの本来の音が感じられない事が多い。メッセージ的にも伝わらない。過去にも大きな会場で著名なバンドを何度か見ましたが、やはりつまらない、満足できない、違うと感じることが多かった。しかし今回のJudas Priestはそんなことはありませんでした。会場に詰めかけたファンが皆熱心な昔からのファンで、熱気と熱意に溢れていた事も理由だと思います。音響的にも決してベストではなく、リード楽器のみが聴こえる状態で、基本的に低音はボケていたと思います(この場合リード楽器とは、ヴォーカル、スネア、ギターソロを指します)。逆に言えばリード楽器がちゃんと聞こえていただけでも、会場の音響は優秀だったと言えます。しかし、たとえ会場の音響に制約があろうとも、今のPriestにはそんなことは関係なかった。本当に素晴らしい、確固として伝えるべきものをしっかりと持っている一流のバンドにとっては、音響の良し悪しなど二の次で関係が無いのだという事を実感しました。
ロブ・ハルフォードについては凄かったとしか言えません。僕も一応はシンガーのはしくれですから、この日のロブの歌唱についても、100パーセントのベストコンディションでない事は容易にわかりました。あの年齢で、過密日程で来日ツアーをこなしているのですから、無理もない事、当然のことだと言えます。しかしどこかで聞き齧ったには、それでも前々日の公演よりは声が出ていたそうです。しかし、たとえ100パーセントでは無い状態であっても、要所要所ではきちんと凄まじいハイトーンの絶叫を聴かせ、メロディの省略、いわゆるフェイクも最小限で見事に長丁場のワンステージを歌い切っていました。チューニングは半音下げとは言っても、逆にこの年齢で、ハイトーンが連発する楽曲をわずか半音下げたのみで演れるというのは驚異的なことです。やはりロブ・ハルフォード、ヘヴィメタルを象徴するシンガー、その凄まじいハイトーンヴォイスは天性のものであり、その表現力は誰にも近づけない領域にあることを再確認させられました。スクリーンに映し出されるロブの風貌はまるでベテラン演歌歌手のような風格と貫禄を感じさせ、その表情からはヘヴィメタルの歴史と伝統、そして長年に亘るミュージシャン人生の中で培われた芸人根性が窺われました。
スコット・トラヴィスについてはドラムプレイ云々よりも、本編最後の曲であるPainkillerを始める前にMCを取りしゃべったのが印象的でした。印象的というよりは、意外という感じです。身長が190センチ以上ある大きな体格とは裏腹に、意外と高めの声であり、しかもイギリス人のバンドの中にあって、明快なアメリカンアクセントでしゃべる様子はなんだか新鮮でした。
イアン・ヒルは常にそうであるように、ライブの間じゅう定位置からほとんど動かず、頭を振りながらSpectorのベースを刻みアンサンブルを支えていました。会場の音響のせいもあって、ベースプレイはあまり聴こえなかったというのが本当のところです。
僕にとってのライブのハイライト、もっとも感銘を受け、自分的に熱くなれた曲は、やはり”Invincible Shield”です。最新アルバムのタイトルトラックであるこの曲は、リッチー・フォークナー君の手によるものだと思いますが、Judas Priest史上においても屈指の名曲であると断言出来ます。この曲が聴きたいがために、僕はこの日のライブを見に来たと言っても過言ではありません。Judas Priestの精神を感じさせるシリアスなサウンド、スリリングなブリッジのリフ、コード進行が目まぐるしく変わるドラマティックなギターソロ、そして男の魂を震わせるツインリードの泣きのメロディ。Judas Priestとはこうあるべきだ、という要素がこの曲にはすべて詰まっています。Invincible Shieldというタイトル、そのテーマとメッセージ性も、今の時代には合っていると個人的には感じています。この曲がハイライトである理由は、もちろんこの新曲が、Judas Priestの「ヘヴィメタルの王道」の復活を告げる曲だという事もありますが、それ以上に、ライブにおいてこの曲だけは「トリビュート」でも「コピー」ではなく、「本物のオリジナル」として聴くことが出来るからです。グレンとKKが居た時代の再現ではなく、今ここで、現在形で示される伝説として体験できる、ある意味で本物のJudas Priestだからです。ギタープレイの面でも、GlennとKKをなぞった過去の再現ではなく、Richie Faulknerとしてのプレイであり、リッチー君の本来のギタープレイ、その流麗でメロディアスな魅力が遺憾無く発揮されていたと思います。
今回のライブにおいて、新作”Invincible Shield”からは、タイトルトラックの他には”Panic Attack”と”Crown Of Horns”の合計3曲が演奏されていましたが、どれも素晴らしく、過去のクラシックと比肩してもまったく劣らない演奏であると感じました。また今回のライブでは、最新作を除けば前作”Firepower”、前々作”Redeemer Of Souls”といったリッチー・フォークナー加入後のアルバムの楽曲は演奏しておらず、その点からも最新作”Invincible Shield”に賭ける思いとメンバーの自信の程が伝わってくるように思います。
今回のツアーのセットリストはMetal GodsやThe Sentinelといった定番の曲を外す代わりに、興味深いディープカットと呼べる楽曲がいくつか入っていますが、その中で白眉だったものとして”Saints In Hell”を挙げることが出来ます。1978年の”Stained Class”に収録されている、あまり目立たない曲ですが、今回のライブでは素晴らしい演奏で非常にライブ映えしていました。背後のスクリーンに映し出された「影絵」による印象的な演出の効果も相まって、この曲が本来持つストーリー性とドラマティックな要素が、ゾクゾクするような興奮を伴って伝わってきました。
一人のミュージシャンとして言えるのは、録音、レコーディングというものは完璧ではありません。様々な理由により、レコーディングされた楽曲には、その曲が本来持つパワーが完全には表現されていない事があります。特に古い録音では、そういった傾向が強いかもしれません。長い年月を経て、その曲が本来持っていたパワーが、ライブという場において解き放たれる。そのような事もあるのだということを、改めて学びました。
その他のディープカットとして、個人的に嬉しかったのは”Devil’s Child”でしょうか。”Screaming For Vengeance”の最後に収録されているこの曲の、猥雑でロックンロール的なノリが、僕は非常に好きなのです。ディープカットという程ではありませんが、序盤で演奏された”Riding On The Wind”も非常に興奮しましたし、定番の”Turbo Lover”や”Living After Midnight”も非常に楽しかった。
逆にサウンドに違和感を感じていまいちノレなかったのは先述したようにElectric Eyeでしたが、その他にこれもPriestが昔から演奏している曲ですがThe Green Manalishiにもいくつかの理由で僕にはいまいちノリきれないところがありました。この曲は周知の通り、オリジナルは初期Fleetwood Macであり、つまりPeter Greenの手になる曲です。若い頃は知らなかったのですが、僕は今ではPeter Greenの大ファンであり、彼が居た時代の初期Fleetwood Macが大好きです。(後年のヒットバンドとなったFleetwood Macとは分けて考える必要があります) 普通に考えれば、ブルースバンドであったFleetwood Macよりも、ヘヴィメタルバンドであるJudas Priestの方がヘヴィで激しいとなるのが当然なのですが、事実はその逆で、Fleetwood Mac (Peter Green)のバージョンの方が、様々な意味で何倍もヘヴィなのです。そういった理由もあってか、僕はJudas Priestの演奏するこの曲のバージョンに、いまいち乗れなくなっているのかもしれません。しかし、ブリティッシュ・ヘヴィメタルの源流という意味において、この曲を取り上げてカバーしたJudas Priestのセンスは流石だと思います。(おそらくGlenn Tiptonの趣味でしょう)
いずれにしても、少年時代からPriestのファンでありながら、時代状況という事もあり、初めて「前向き」な気持ちで、なおかつ「現在形」で体験する事の出来たJudas Priestのライブでした。
年々規模が縮小していくロックの世界にあって、今の時代にあってもこのような大きな会場、大きな規模でツアーを行なっているJudas Priestは偉大だと思います。もちろんそれは、1970年代から君臨を続ける世界のトップバンドだからこそ可能なことですが、僕も様々なバンドを見てきたつもりですが、今回ばかりは本物の一流というものの姿を見せられた気がしています。
そして本物のヘヴィメタル、その伝統、時を超えた普遍性、そしてそれが継承され、果てしなく続いていく姿を見せてもらうことが出来ました。
この2024年に至っても、時代が21世紀になり、時代や世界が何周も流れ変わっていっても、Judas Priestはやはり一貫して変わることなく、信念を維持(Keep the faith)し、ヘヴィメタルの本質を貫き続けていたのです。
何周も時代が巡った今だからこそ、目先の流行ではなく、本物の普遍性を持った伝統のロックこそが強いのだということを実感します。そして、それはここで終わりではない。伝統の魂は、未来永劫続いていくものなのです。
私も、仮にもヘヴィメタルに関わる人間として、そしていちインディミュージシャンとして、様々な事に気付かされました。そして、自分の血の中にもやはり、ヘヴィメタルが流れていることを実感しました。流行の音楽、おしゃれな音楽、そういった音楽も私は好きです。そういった音楽を演奏したいという思いも、少なからず自分の中にはあります。しかし、今年は色々な事に答えが出た年でもありました。本物は続いていく。本物はすべてに勝る。そして自分にとってその本物とは、やはりヘヴィメタルなのです。私はあらためて、Judas Priestのファンになりました。思春期であった13歳の頃の気持ちに戻り、私は今あらためて、ヘヴィメタルが、Judas Priestが好きなんだ、と思うことが出来ます。やはり自分は、「ヘヴィメタル」を演奏すべきなのです。Judas Priestに負けないような、伝統と革新を引き継ぐようなメタルを。
“The Priest will be back” 最後に映し出されたその言葉を見て、私は本当に感動を覚えました。さて、本当に次があるのだろうか。数年後、ロブ・ハルフォードは本当に再び元気な姿を見せてくれるのだろうか。それは誰にもわかりません。しかし、それでも伝統は継承されるような気がしています。わかりきった事ではありますが、現在、Judas Priestの「別働隊」であるKK’s Priestにおいて、Tim “Ripper” Owensは鬼神の如き凄まじい歌唱を聴かせています。その努力が「来るべき時」のためである事を、おそらくは世界のメタルファンは感じ取っていることでしょう。
しかし、誰が、どこで、といった要素は、実は重要ではありません。Priestが続いても続かなくても、それが実現しようとしまいと、やはりヘヴィメタルの伝統の魂は、繋がっていくものなのです。だからこそ”Priest will be back”、そこにShow must go onという言葉に象徴されるミュージシャンの魂を感じ、私は感動したのです。
自分の中にも”Judas Priest”があります。日本の歴史、キリシタンの歴史、そして自分の持つ信仰。私は自分にとってのヘヴィメタルを見つけたように思います。時間はかかるかもしれませんが、まだまだこれから、この日本に地において、日本の風土、歴史、文化、伝統、そういったものに基づいた、新たな伝統と言えるヘヴィメタルを、この手で作り上げたいと思っています。やれるかどうかは、わかりません。しかしその志には、何ら偽りはありません。
p.s.
まだまだ書きたいことは沢山あるのですが、これ以上長くなってしまうのは問題ですので、ここでひとまず筆を置きます。荻野先生のアルバム評へのアンサーとして、僕もPriestのアルバムレビューを書き、そこに自分のPriestとHeavy Metalへの思いをさらに書き綴りたいと思っていますが、それはまた来週、後日の事としたいと思います。
p.s.p.s.
今の時代の常として、この日に私が見たJudas Priestの公演の様子も、すでにYouTubeにアップされています。僕もまた後でそれらの映像を見返してみて、コンサートを振り返り感想を新たにしたいと思っています。ライブはどうしても現場で見なければわからないものですので、僕が持った感想とはまた違う感想をもたれるかもしれませんが、もし興味を持たれたら、ぜひご覧になってみてください。