2025締めくくりノーフィルター

 

 

またナルシスティックな投稿で大変すみません・・・
2025年の最後に自撮りしてみた。
ふっふっふ、そろそろまたプロフィール写真を更新する時が来たようだな。

 

ノーフィルターである。もちろんそうは言っても写りのいいやつを選んでいるけれども。
年齢を考慮すると、なんの化粧もなしに、美化フィルターをかけずに自撮りをポストするのはエチケットに反する。僕の場合、普段見た目にもファッションにもほとんど気を配ることなく、お化粧なんてまったくしないのでなおさらだ。
それでも部屋の照明をうまく利用して、比較的きれいに自撮りしたと思う。
現在の自分の年齢、現在の年相応の姿を記録しておきたいという意図だ。

思い立ってMarieの顔もノーフィルターで撮影してみた。
ノーフィルターのはずだが、照明だか、スマホの色調だか、意外ときれいに写ってしまった。
ただこれは言えるが、彼女がきれいだからこそ、僕も元気で若々しくいられるのは事実だ。

 

ロックミュージックがヴィンテージ化していく時代だからこそ、自分も人間として、またプレイヤーとして、ミュージックメイカーとして、ヴィンテージになっていきたいと思っている。それは、最近思ったのではなくて、始めた当初、20歳くらいの最初からそう思っていたのだ。

 

写真ではまだわからないかもしれないが、今年は白髪がずいぶんと増えた。
40代の前半くらいまでは、白髪を探すのは、四葉のクローバーを探すような感覚で、見つかったらラッキーくらいのものだったが、ここ2、3年で確実に増えてきて、かなり目立つようになった。ぱっと見はわからないかもしれないが、ちょっと髪をかき上げてみれば、内側の方は結構白いのが増えている。

無責任に生きているせいか、あるいはロックミュージックを演奏し続けているからか、同年代の人たちと比べて、比較的若さを維持している方だとは思っているのだが、さりとて不老不死というわけにはいかない。

 

自分は左右のバランスも、肉体的なバランスも精神的なバランスもひどく悪く、こうして写真に撮ってみるとそのバランスの悪さが如実に表れる。あちゃー、という感じである。(もちろんマシな写真を選んでポストしているのだが)
残念なのは、自撮りの写真を撮る時に、インカメラで左右が反転した状態だと結構良い写真だと思えても、左右を正常に戻してみると残念な顔をしている事だ。つまりこれは、鏡を見た状態で、自分ではちゃんとしていると思っているが、現実には他人から見た時には残念な状態だと言うことを意味する。自分の人生はだいたいそんなものかもしれない。

 

これも写真ではわからないかもしれないが、顎とか口元のひげの中にも、少しずつ白いのが混じってきた。これも去年まではほぼゼロだったのだが、今年はなんか、この「白いひげ」が毎月ちょっとずつ増えていっているくらいの感覚だ。
きっと来年はもっと増えるに違いない。

あと2年もすれば、髪の毛もかなり白いのが目立つようになるんだろうと思う。
今のとこ、ささやかなインディバンドをやっていて、インターネットの写真や映像の上では、まだそれほど「ごまかさずに」やっていられるのだが、もう2、3年のうちには、ヴィジュアル面でも趣向を変えて、年齢にふさわしい佇まいを出していく事になるだろう。

和装なら「人間椅子」みたいな感じでもいいし、でも最終的には髪が白くなったらイエス・キリスト、じゃなくて、北斗の拳の「トキ」のコスプレが目標である。もし髪がなくなればスキンヘッドでお坊さんにすればいいし。しかしうちはクリスチャンバンドであることを鑑みると、頭が薄くなったら「フランシスコ・ザビエル」にすればウケるのではないかという気がしている。
いや、むしろ「フランシスコ・ザビエル」で笑いが取れるようになってからが、うちのバンドの黄金時代となるのではないだろうか。結構本気でそう思う。それは、ようやくもって世間と和解するという事を意味している。

 

僕は数字というものを信じていないのもあって、年齢を具体的に言ったり、書いたりすることはあまりない。よって生活の中で、本気で自分の年齢を忘れることがある。意識の問題か、言霊ということか、よくもわるくも年相応になりきれないのはそういった所にも原因があるかもしれぬ。

確か誕生日に、回転寿司の「エイジシュート」をやったのが3年ほど前か。
今、来年とか再来年に、エイジシュートをやったらえらい事になるだろう。もはや命懸けかもしれない。今のところ、胃袋の容量的にまだ「大食い」はそこそこできるが、食べた後にもたれる確率は増えてきたように思う。本気でエイジシュートをやるのであれば、予算もそうだがルールの設定が問題で、値段が高く美味な高級1カンネタをいくつまでカウントとして許容するのかの問題がある。もうこの年だと、現実的に達成するためには10皿ぶんくらいは許容してもらいたい気がする。全然どうでもいい話題ではある。

まあでもそんなふうに美味いものを腹一杯食って死ぬんだったら、それもいいかな。笑えるしね。天国行って、「君はなんで死んだの」って聞かれたら、きっと答えるのが楽しいだろう。「いやあ、寿司を食いすぎてね」って。間抜けだよね、すっごく。むしろ最高。

 

時代は変わる。
僕はだいたいもう自分の音楽は鳴らしたし、創ったと思っている。もちろん、まあまだ創らなくてはならない音、鳴らさなくてはいけない音はある。そして達成すべき事はまだ山積みだ。
しかし、自分の偽らざる感覚としては、もうとっくに死んでいるし、とっくの昔に死んでいておかしくない。むしろ、とっくの昔に死んでいるべきである。

自由を鳴らせた時代、ロックンロールの時代は終焉を迎えようとしている。
これから激動となっていくであろう変化の時代に、自分は生きていく自信などまったくない。
本当の戦いはこれからということかな。
だが、もはや滅びるだけであると思えば気も楽だ。

せいぜい言いたい事言って、やりたい事やって死のうではないか。

 

肉体の劣化や、衰えは気にならない。
自分の人生、そして肉体はあくまでツールであり、ヴィークル(乗り物)にすぎない。
鳴らした音が、霊となり、波となり、生命となって宇宙に永遠に響けばそれが本当の自分なのだ。

一般の人はみんな誤解していると見えるが、芸術家とか音楽家とか、そういった人間にとって、存在の本体は作り上げた作品である。人間としての自身の肉体は、いわば抜け殻である。良きものをすべて作品に込め、命懸けで創造した後、抜け殻となった人間本人は、壊れているのが普通だ。

 

しかし、その壊れ具合を楽しむ余裕くらいは、残しておきたいものだ。
歴代のロックスターと呼ばれる人たちには、多くの場合そのような余地は残されていなかった。それは名声(fame)とは猛毒であり、非情な徴税人のようなものであるからだ。
だが僕は無名のインディであるから、そういった余裕を持つことも可能かもしれないのだ。
もしそうだとすれば、それはとんでもなく幸運であり、幸福なことだと思う。(僭越極まりない発言を許していただきたい。)

もし許されるのであれば、結末はどうあれ、この旅路を最後まで歩いてみたい。

 

 

+

ついでの話題であるが、以前、確か2013年か、2015年か、2016年か、覚えていないのだけれど。確か羽田空港に所用で行った時に、そこのレストランで、突然、白髪の老婆に声をかけられた事がある。
ずっと前に「日記」(ブログ?)にも書いた事があるかもしれない。

白髪の小柄な老婆に声をかけられ、その方は僕のことを見てこう言った。

「ひゃっひゃっひゃ、若いの、おぬし、おもしろいホクロを持っておるな。ほら、その口元のホクロのことじゃよ。お主は幸運の持ち主じゃ。そのホクロがあれば、きっと一生、食うには困るまい。なあに、当たるも八卦、当たらぬも八卦、ただの占いじゃよ。気にしない、気にしない」
(台詞は脚色が入っています。)

 

脚色は入っているものの、確か、口元のホクロを指して、あんたは食いっぱぐれることはない、という趣旨のことを言われたのは事実でした。

僕は占いというものはあまり信じない。
それは、一般的にクリスチャンはそういったものを信じない人が多いのも事実であるが、それ以上に霊的な事象の捉え方による。

それはつまり占いの要素として、夜空の星であるとか、手相、人相、なんやらかんやら、いろいろな判断のための基準、要素、素材があると思うのだが、それらはもちろん、ある種の事実を指し示してはいるものの、この世の様々な現象、事象と同じく、それらは「今、仮にこのような状態にある」という事を指しているに過ぎない。

だからそういった「要素」は、一時間後には変化しているかもしれないし、明日にはきっと間違いなく変わっている。天気予報と似たり寄ったりだ。科学的な根拠に基づいて行われるはずの天気予報ですらあんまり当たらないのに、占いで物事を指し示すには、ある種の高度な人間的洞察力が必要となる。あるいは通りすがりのお婆さまは、そのような人間的洞察力を持っていたかもしれないし、持っていなかったかもしれない。

 

僕は、手相であれ人相であれ、恥ずかしくって占ってもらう気にはとてもなれない。わかる人が見れば、ああこいつはえらく残念な人間だ、という事が、文字通り丸見えであるに違いない。(別に占い師でなくとも、一般的な人を見る目があれば、それがわかる人はバイトの面接でも私を採用しないだろうけれど)

僕は30代半ばの頃に、気がつけば顔にホクロが結構多かったのだが、ああ、これらのホクロは、人相を見る事のできる人が見たら、きっと全部、いろいろな意味で残念なホクロなんだろうな、と思っていた。

しかしそういったバランスの悪さ、人として欠けているものも、すべて込みで自分という人間が存在しているのだから、まあ仕方ない。
ここまで来れただけで幸運というものだ。感謝するしかあるまい。

 

そのような事が、昔あったのだが、
それから何年も経過し、今になって、なんとなく思う事がある。

あのお婆様は、口元のホクロの事を指して、「食いっぱぐれることはないだろう」と言った。
しかし、それほどの眼力の持ち主であれば、きっともっと色々な事を読み取っていたはずだ。
それらを総括して、一言、「食うに困る心配はない」と言ったのだ。

でも、きっとそこには、もっといくつかの意味があったはずだ。

 

たとえば、ひとりのバンドマンとして。インディで無名のバンドをやっているしがない一人のバンドマンとして。

地元の仲間とやっていた10代の頃はともかくとして。
そして、Marieさんに出会って、一人で孤独に音楽を紡ぎ始めた頃から始まって。

この伊万里音色 (Imari Tones)という変な名前のバンドを始めてから。
今に至るまで。

僕は常に「バンド」というものに困ることがなかった。

もちろんメンバーの変遷は幾度もあったし、それらの変遷の折には、数ヶ月といった多少の空白期間はあったものの、「バンドが組みたいのに組めない」とか「メンバーがいない」といった状況は、まったく経験しなかった。

これも何度が書いたが、昨年Shinryu師範が脱退して以来、僕らはもうバンドをやる気はなかったのだが・・・少なくとも1年、2年くらいはやるつもりはなかったのだが・・・こちらから募集もしていないにも関わらず、若き才能あるドラマーがやって来た。そして、おそらく今、演奏のレベルは上がっており、現時点ではともかく、将来的には過去最高の「理想のサウンド」に手が届くと思っている。

 

バンドというものがいかに難しいか、僕も身をもって理解している。
だからこそ、一介のバンドマンにとって、バンド活動に空白がない、バンドという形をずっと保って活動してこれた事が、いったいどれほど幸運な事か、それは想像も出来ない程だ。
特に、僕のような人間にとってはなおさらのことだ。

 

そして、それはもちろん、ひとつのことに限らない。
人生のいくつかの分野において、おそらく僕は不思議と恵まれている。

もし何かあるのだとすれば、それは自分の力ではきっとない。
そして、だからこそ、僕はいわゆる運命というものを、いわゆるGod’s guidance (神の導き)というものを、信じてもいいのではないかと、今にしてじわじわと確信を感じ始めている。

 

なんか本当に大食いチャレンジで事故って死ぬような気がしてきた(笑)
天国に着いたらあのお婆さんに言われるんだろう、「ほら、言ったじゃろ」って。

 

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