さて、先月、2025年2月に、ようやく新しいアルバム “Coming Back Alive” をリリースすることができました。
ひとつ、いろいろな意味での「一段落」がついたことを感じています。
まずは、前作”Nabeshima”のリリースにあたり、ドラマーのShinryuと共に、[Tak, Marie, Shinryu]の3人で活動した、約3年半の旅路。この “Coming Back Alive”をリリースしたことで、2021年から行ってきたバンド活動に、ひとつの締めくくりを付けることが出来たと思っています。
また、2023年6月に起きたあの火事以来、麻生キリスト教会に導かれ、そこでアルバムのレコーディングを行なった。そのリリースに漕ぎ着けることができた、という、ひとつのストーリーの帰結。
さらに言えば、この”Coming Back Alive”は、Imari Tones (伊万里音色)というバンドのストーリー、特にその創作という面においては、締めくくり、「ハッピーエンド」と呼ぶことのできる作品です。率直なところ、僕にとっては前作の”Nabeshima”をリリースするところまで来れただけでも、奇跡だと思えた。それが、そこからさらに「戻ってきたよ〜!」の”Coming Back Alive”でカーテンコールを鳴らすことまで許されるとは、思ってもみなかった。まさに夢のような出来事だと言うことが出来ます。
もちろん、まだまだ音楽を作り続けますし、この先の創作の構想も十分にありますし、すでにこれから鳴らす音を見据えておりますが。
しかし、昨年のアメリカ遠征以来、侍ドラマーShinryu師範の脱退、そしててんやわんやの中でのアルバムリリースと、僕たちとしては心機一転、新しいことを始めるきっかけとなりました。
ひとつのステージ、ひとつの旅路が終わり、また先へと進んでいく。まだ見ぬステージ、まだ誰も鳴らしたことのない音を求めて、新たな航海を始める時がきたのだと、僕たちはそう解釈したのです。
心のどこかでは、「ああ、もうクリスチャンバンドなんて、やめちまおうかな」という思いがあります。
もちろん、僕は、大人になってからクリスチャンになったクチであり、そもそも音楽を通じ、ロックミュージシャンとしての信条と信仰がひとつになるような気持ちでキリスト教徒になり、クリスチャン・ヘヴィメタルを鳴らすことを決意しました。
だからこそ、最初から「宗教」なんぞに期待はしていなかった。神そのもの、そしてイエス・キリストをこそ信じているけれど、人が作り上げた宗教組織や、人の血に染められた宗教の歴史など、まるきり信じてはいなかった。どうせろくなもんじゃないことは、最初っから予想していた。
されど、歴史の裏側で信じる者たちが刻んできた生、命、流した血、汗、涙、人間の善意とたゆまぬ努力。そこにいつでも在り、寄り添っていたであろうキリスト。それを信じています。
だから最初からわかっていて、そのつもりだったはずです。
わかった上で、心から信じる音を鳴らしていたつもりです。
けれど、最近は、もうキリスト教徒であることがつらくなって来る、つまらなくなって来るような状況が、世界に多い。
いつも思う。
キリスト教の最大の欠点は、「正しい」ことそのものだと。
キリスト教は正しいんです。
聖書の歴史に基づいた、イエス・キリストの十字架。
その真理、その救いは、これ以上ないほどに正しい。
人類史上ただひとり、ただひとつ、ただいちど、神の子であるキリストだけが成し遂げた救いであり、ただひとつの真実なわけです。
けれど、そんな「絶対の真実」「絶対の正しさ」を与えられた時、多くの人間は、その正しさを自分のために振りかざすようになる。それを他者を排斥する武器として使おうとするんです。
あからさまなカルトから、一見常識的な組織に至るまで。大なり小なり、キリスト教の世界の中は、そういう人たちで満ちていると思わされます。
「正しいこと」「正しさ」の誘惑に勝てる人は、誰もいないんじゃないかと思えてきます。
「だったら、俺はもう、正しくなんかなくていいよ」
誰かがそう言い出してもおかしくない。
というか、そもそもイエス・キリストというのはそういう存在だったんじゃないか。
「正しさ」の律法でがんじがらめになっていた当時の宗教、ユダヤ教の世界で、法よりもさらに上にある「愛」を示したキリスト。それによって生まれたキリスト教の信徒たちが、同じように正しさの呪縛にがんじがらめになっているのははっきり言ってギャグなのですが、そのへんの「オチ」までちゃんと書かれているのが聖書という書物の妙だと思うのですが。
世界の歴史を見れば分かる通り、また昨今の世界情勢を見てもわかるとおり、宗教というものは、政治の道具として使われます。
僕は、世界に対して、政治的に物申したいという気持ちもある。
日本のバンドとして、またクリスチャンロックバンドのはしくれとして、政治的な発言、発信をしたい気持ちは大いにある。
けれど、僕はそれはちょっとつまらないと思う。
若い頃ならともかく、僕にはそういったことはもう苦しい。たぶん、すぐに飽きるか、疲れてしまうだろう。
僕はキリストは政治的なものを超えた存在だったと思う。
だから、キリスト教の救済は、政治的な立場とは関係がない。僕はそう信じている。
ある人は信仰を理由に、ひとつの政治的な立場を取る。同じように、また別の人は信仰を理由に、反対側の政治的な立場を取る。そういうものだと思う。
みんな政治について躍起になるのは、人間というものは権力が大好きだからだ。そして、人は誰も、支配される側ではなく、する側に立ちたいのだ。どうしようもない性分だと思う。人間は、馬鹿になりたくないばかりに、自分よりも高い位置からものを見ている人間によって、操られてしまうのだ。だったら、僕は馬鹿にされる立場で構いやしないよ。正しくなくて構わない。
僕は政治で世界が変わるとは思わない。政治によって何かが変えられるとも思わない。つまり政治というものを信じていない。
だが、民主主義というものはそれでも信じている。それは、民衆の、人々の意志による統治ということを信じているからであり、またそれは、humanity、つまり人間人類というものは、理想に向かって進歩し、より良い明日に向かっていくものであり、また最終的にはすべての人が救われるということを信じているからだ。
だから人類の霊的な救済こそが問題であり、政治っていうのは、良くも悪くも人類総体の霊的状況の具現化に過ぎない。そういったことをテーマにした曲を書いたか? ああ、書いているよ。いくつか書いているはずさ。
世界の状況を見ると、本当は政治的なことも発言したいんだ。
そういった発信をしているアーティスト、ミュージシャンを尊敬している。
だけれど、上記の理由から、僕はそれをやらないかもしれない。それについて、許していただきたい。
僕はどっち側にも友達がいる。
世界にいる僕らのファンには、クリスチャンバンドである以上、保守派の人も結構多い。だが、そうじゃない人も結構いる。
音楽の良いところは、霊的な情報を直接伝えることができることだ。
そこには解釈の自由があり、直接に政治的な情報は乗っていない。同じ曲を、右側に理解することもできれば、左側に解釈することもできる。それがいいんじゃないか。
それらの霊的な発信が、どのような影響をリスナーに、そして世界に及ぼすか。それは、作曲者の手を離れたところにあるものだ。もともとインスピレーションってやつは、天から降ってきたものであって、自分のものじゃない。
だから、たとえ政治的なメッセージがあったとしても、それらはすべて音楽の中に込めておきたい。それでいいじゃないか。それで許してはもらえないか。僕らのこのImari Tonesという表現媒体は、残念ながら政治的なものではない。すべてを霊の言葉に託して、音楽の中に込める方が、僕たちにとってはミュージシャンとしての本分が果たせるようだと思う。
つまりは論ずるよりも行動ってことかな。身を以てメッセージを発したい。それがいちばんいい。
きっと時が来ればね。
人には神を認識することは出来ないんじゃないか。
そんなふうに思うことがあります。
宗教という枠の中で、聖者たちがどのような教えを説いたとしても。
どのような正しい真実を提示したとしても。
全き愛を示して見せたとしても。
その教えが、正しいかどうかにまったく関わりなく。
結局は、この世界と、人の心を動かしていくのは、霊の世界の問題であり、その人の持つ霊、そして魂の問題である。
どんな人でも、自分の霊性の外側にあるものを認識することは出来ない。
高い霊性によって、物事を感じ取り、見極める目を持たなければ、どんな教えを説こうとも、結局は人は神を認識することは出来ない。
その「認識」という問題を解決しないことには、人類は救われない。
ガンダム的なアレですね。アニメの世界では古典的な問題提起かも。
人の霊性に働きかけ、それを向上させるための芸術であるはずなんですけどね。
才能のある芸術家は皆、それをわかっている筈だと僕は思っているのですが。
かといって、霊性の向上とか、霊の目とか言い出すと、ヨガの修行を始めたり、目玉のマークの付いた組織が暗躍したりするので、いっそう怪しくなってしまう。
霊というものは目に見えず、触れることの出来ないものであるわけです。
信仰というものもそうです。
そして、音というものも同じく、感じることはできるけれど、目に見えず、触れることの出来ないものであるので、感じ方次第という事もあり。
その結果、音という分野も、霊という分野も、インチキ、詐欺、嘘、オカルトが商売として罷り通る世界であるわけです。
もちろんそれは、オーディオもそうだと思うけど、楽器、エレクトリックギターの世界にもそのような「インチキ」が、大手を振って罷り通り、市民権を得て一般的に広まっている世界であるわけです。一介のギタリストとして、僕はそれを身を以て知っている。楽器業界に怒られるけどね。
まあ、人間の世界なんてどの業界でも同じかもしらんけれど。
そんな中で、本当に神に出会うということはどういうことなのか。
そして神を、たとえその一端であれ、認識するということはどういうことなのか。
そもそも人間には、何かを正しく認識する、という事自体、容易ではないわけです。
現実をありのままに見て、ありのままに受け入れることのできる人は、多くはない。
まずは現実をありのままに見る力を養わなければ、神を認識するには至らないんじゃないのか。
もっとも、僕は信じることは「才能」だと思っている。
それは努力ではない。年月でもない。勉強でもない。能力でもない。
それはある意味で、運とか、運命みたいなものだ。
愛と同じだ。
出会ってばかりの相手に、何かがピンと来て、一目惚れという事がある。(都市伝説かも)
それは努力じゃない。よくわからないフィーリングによるものだ。
そのフィーリングを「神の導き」と考えてもいい。
聖霊が働くことなくして、人には何かを成し遂げることはできやしない。
だから愛するのも霊の導きであり、信じるのもまた、霊による導きだ。
そこに人間個人の限界と認識を超えた何かがあると信じている。
だが、そんな奇跡はそうそうたやすく起きるものだろうか。
だからこそ、奇跡を見つけた人間は、それを広めなければ。
だがどうやって。
霊感のひらめき、ちょっとした気づき、霊の認識。
認識の状態を、あるいは霊性そのものを、どうやって他人に伝えることができる?
(もちろん、わかったうえでとぼけています)
そのような霊の情報を、生きた人間の無限の情報を、命の波動そのものを、そして創造の世界にある根源的なアイディアを、直接に伝えるような方法が、この世界に存在するのか??
伝えることは難しい。
伝わる人は少数でいいと思っている。
でも、そこからきっと、世界の霊性に、いわゆるスピリチュアル・バトル、天上の戦いってやつに、風穴を開けてやる。
本当に信じるやつが、一人いればいい。
今でも僕は、そう思っている。
そう、「今でも」だ。
僕はね、もともとミュージシャンになろうとか、思っていた方じゃないから、まともな職について、まともな家庭を持って、まともな人生をやりたかった。
でももう駄目だな。とっくに駄目だということに気づいていた。僕の人生は、そういったものの外側にある。僕は人間という存在を、彼らの喜びや悲しみを、外から眺めて、憧れ、そして自分とは関係ないもののように、取材対象のように観察しているだけだ。そのように感じて久しい。
まあ、出家したと思えば納得がいく。実際に神に身を捧げたわけだ。
だから、残念ながら、まともな人生をやっているとは言えず、僕たちには子供というものはいない。
でも、昔、まだ若かった頃には、子供を持ちたいという気持ちが残っていた。
そして、それが男の子であれ、女の子であれ、どのような名前を付けるかは決めていた。
それをここに書くことは、もちろんないけれど、その意味を問われるならば、その名前は「神を見る」という事を意味するんだ。(なんか偶然に世紀末拳法漫画で似たような話があったが、それとは違うぞ)
そして、その名前にひっかけて、まだ見ぬ自分たちの「子供」(子供たち?)に捧げるメッセージとして、僕は「美しいものを観よう」という曲を書いた。
確か2004年の晩秋か、暮れぐらいの出来事じゃないかな。
僕がクリスチャンになったのが、2007年の12月、クリスチャンバンドやるぞって言い出したのが2008年のこと。だから、その曲を書いたのは、クリスチャンになるよりも前の出来事だ。
「認識」というのは、こういうことだと思うね。そして、神に出会うということも、やはりそういうことだと思う。
認識には、先とか、後とか、そういったことはないし、時間や空間によっても阻まれることがない。
知識というものがある。
知識は役に立つものだが、僕は知識なんて全然持ってない。
でも知識よりも上に、理解というものがある。
理解よりも上に、たぶん体験というものがあるかもしれない。
けれど、認識というのは、それらよりもさらに上にあるもののように思う。
物事の根源を認識していれば、知識も、理解も、体験すらも必要がない。
たとえば聖書というのは、そういった物事の根源の「認識」に満ちた書物であると思う。
でもその「認識」を誰もが得られるわけではない。
やはり霊によって読まなければ、一字一句理解することは、いや「認識」することは出来ない。
たとえば僕たちだって学校で教わったものだ。小学校や中学校の国語の授業でも教わった。
文学作品を読む時には、行間を読むように教わったものだ。
人気の作家が書いたものでさえ、そのようにして読むのだから、神の手によって成った書物を読むにあたって、それ以上のものが求められるのは当然だと思うのだけれど。
聖書の一部の文字通りを都合よく抜き出して、それを自分のために、他者を攻撃するために使うなんてもってのほかだと思わないかい。
大切なのは言葉の向こう側にある「認識」であり、言葉の向こう側に居られるお方そのものなんだけどなあ。
神は生きている、って、そういうことじゃないのかい。
君たちは、神を殺したいのか。死んでいてくれた方が都合がいいのじゃないか。
キリストの十字架を、そうまでしてまでなかったことにしたいのか。
正しさの呪いで、人をがんじがらめにしたいのか。
ロックが鳴らされた後の時代にあって、いまだに人にくびきを負わせようというのか。
今という時代は、決して幸福な時代ではないと思う。
音楽を愛する者にとって、ロックを愛する者にとって、幸せな時代ではない。
自由を愛する者にとっても、きっと幸せな時代ではない。
また人間らしく生きようとする者にとっても、幸せな時代ではないだろう。
ロックが死に絶えていく様子を僕らは見せつけられた。
誰もがひとつひとつ妥協し、目の前の小さな成功と引き換えにするうちに、いかにロックが魂を失い、つまらないものに成り果てたか、僕たちは目撃した。
自由が人々の中から消えていく様子を僕らは目撃している。
どれほど簡単に、人々は自由というものを、他のくだらないあれやこれやと引き換えに放棄してしまうか、僕たちは見てきた。
AIのアルゴリズムに支配され、人間らしさをひとつひとつ否定され、剥ぎ取られていく時代に僕たちは居る。
人工知能が人間に追いつくよりも前に、人間の方がAIみたいになるだろう。
もうちょっとしたら、人はみんなコンピューターやロボットみたいな画一的なものになるだろう。たぶんもう半分くらいそうなっている。アルゴリズムに従属し、AIみたいになることが、賞賛されるようになるのだ。
そして、それは世界で起きている悲劇の一端でしかない。
聖書の著者は、預言者たちは、人間のそういった「認識」の限界を知っていたはずだ。
人間が内包する限界を認識していてはずだ。
それは聖書の預言者に限らない。
東洋の歴史における仏教の高僧たちも同じ事で悩み、葛藤していたはずだ。
イエス・キリストもまた、その人間の認識の限界を痛いほどに知っていたはずだ。
人類が、それをいかにして克服できるのか。
いや、克服なんて出来ないだろう。イエスはそれをわかっていたはずだ。
けれど、風船に穴を開ければ、やがて空気は外へと出ていく。
バケツに穴を開ければ、水は流れ出す。
バケツの外には何がある? 今度は風呂桶か。スイミングプールか。あるいは下水道か。
どんなルートを辿るとしても、
やがて水は、認識の海へとたどり着く。
それが神の法則であれば。
僕はできれば、
ぶち破る方の人間でいたいよ。
開いた穴から、外へと出ていく方の人間でいたい。
たまに折に触れて、僕はこう発言してきた。
なんだか僕らは、正義のヒーローが死んでしまい、バッドエンドへ向かっていくタイムライン、世界線に生きているみたいだ、と。ドラゴンボールで言うところの、孫悟空が心臓病で死んでしまった世界線である。
たとえば僕にとっての唯一最大のヒーローであったVan Halen (Edward Van Halen エディ・ヴァン・ヘイレン)は、1999年以降、引退状態となり音楽を作ることをやめてしまった。つまり、居なくなってしまった。(もちろん、2012年のアルバムと、2015年のライブアルバム、ラストツアーで、僕にとってのVan Halenというオトシマエは付けてくれたけれど)
どこで間違ってしまったのだろう。僕は時々そう思う。
果たしてこれは僕のせいなのか。
僕があのような選択をしなければ、今でもVan Halenはロックし続けてくれたのか。
僕が何かを望みすぎたがために、世界の滅亡と引き換えにしてしまったのか。
果たしてこれは僕が望んだことなのだろうか。
僕はこんな世界は望んではいない。
望んじゃいないはずだ…!!!
自分にとって大切なものであった青春時代、ティーンエイジャーの頃を思い出し、
その頃の自分に語りかける。
そして気づいたことがある。
自分が本当は、何を欲していたのか。
そうしたら、これでいいのだと思えてきた。
自分の力で、これを変えられるかもしれないと思えてきた。
つまり、ロックとは、世界そのものを鳴らすことだったのだと。
そう理解した。
そして、それはすなわち、世界を作ることに他ならない。
そんな力量が自分にあるだろうか。
理解は及ばない。
つい最近まで及ばなかった。
たぶん今でも追いついていない。
では、認識は?
最初から。
とっくに認識していたよ。
夢を見ていたティーンエイジャーの頃に。
その頃、確かに僕は世界を掴んでいた。
僕は夢なんて持っちゃいなかった。
でも、本当の夢はそれじゃなかったんだな。
僕が見ていた夢は、そういうことじゃなかったんだよ。
僕が見ていた夢は・・・・