昨年のいつだったか、用事でデパートに寄った際に、和服売り場できれいな着物が展示されていた。
そもそもいまどきデパートとかあんまり行かないと思うし、いまどき和服とか着物もあんまり着ないと思うので、それは贅沢品というか、文字通りの晴れ着であり、高い品物だ。高い品物だからデパートの良さそうなお店で展示されているものだ。
誰が買うのかは知らないし、しかしそんなことを言ったら、僕は普通にお店で服を買うということすら滅多にしないくらいファッションに無頓着な人間なので、僕に聞いても無駄というか、とにかく僕は物を知らない。世間も知らないし、服飾関係はよりいっそうのこと知らない。
しかし僕はその美しい晴れ着、着物、和服、を見て、なんだか複雑な気持ちになった。そしてまた、なんだか切ない気持ちになった。
きれいな着物である。
どういった女性が着るのだろうか。
(うーん、いや、いまどき必ずしも女性とは限らぬかもしれぬ)
僕は思った。僕は自分の嫁さんに、こんなものを着せてあげる機会があるだろうか、と。
僕はインディのバンドマンである。世間の色々と距離が遠く、一般的な意味での「豊かさ」であるとか、「幸せ」であるとか、「社会的地位」みたいのとはほど遠いところで生きている。
よって、このような高価な晴れ着だか着物だかを嫁さんに着せてあげるような機会は、たぶんない。
けれどもどうしてそのようになんだか切ない気持ちになったのだろう。
ああ、うちの嫁さんがこんなの着たらどうだろうな、と考えてみたのと同時に、また、しかしこのような高価な着物を身に着けることと、-(それを着る女性にとっての)-幸せということが、自分の中でどうしても結びつかない。これはドラマの見過ぎだろうか。あるいは時代劇の見過ぎだろうか。いや、そもそもドラマもテレビも見てないぞ。
同時にまた、人にとっての幸せとはどのような事だろうかと考えた。
僕はギタープレイヤーであるからして、物事を楽器、音楽、演奏、エレクトリックギターといった視点から考えることが多い。
同じ日、、、ではなかったかもしれないが、そのデパートに寄った同じ週、僕は教会に置いてあったアコースティックギターの弦を張り替え、メンテナンスという程ではないが軽く調整をした。またどういうわけか教会にエレクトリックベースが2本置いてあるので、それらの弦も張り替え、またブリッジ等の調整を行った。どちらも僕の所有物ではなく、教会のものである。
それは比較的に安価な楽器ではあるが、それでもやはり、その性能を生かすためには、調整やメンテナンスをする必要がある。
調整をしながら、楽器について考える。この楽器を作った人たちは、職人さんは、どのようなことを考えていただろうか、と考える。もっともいまどきの楽器は、職人さんというよりは、効率優先で生産され、自動化されたプロセスも多いかもしれないが、なんらかの形で人の手を経ていることに違いはないだろう。
楽器にとっての幸せはどのようなものだろう、と、そんなことを考えることがある。
そんなことを考える人はあまりいないかもしれないが、楽器に関わる人間なら、弾く人であれ、作る人であれ、直す人であれ、そのようなことを考えたとしてもおかしくはない。
僕は音楽のある家庭で育ったので、ピアノであるとか、楽器に対する態度というものは普通に持っているつもりだが、皆がそうであるとは限らない。まだ10代の学生だった頃、うちの嫁さんが自宅に遊びに来た時に、ピアノの上に平気で飲み物とか置いたりするのを見て面食らったものだ。同様に、どこの家庭でも、アップライトピアノが物を置くための棚と化している光景を見かけることがあるのではないだろうか。
リビングルームや生活空間に溶け込み、生活の一部となって、インテリアを置くための棚となる、というのも、あるいはアップライトピアノにとっては、ひとつの幸せの形であるかもしれない。そこにはきっと、お子さんたちの笑い声や、幸せな家庭がある。(ような気がする) たとえ演奏される機会は多くなくても、人々の人生の一部となるということは、楽器としての役割を果たしていることになる。
うちにはぬいぐるみが結構ある。嫁さんが大ファンであるところの「そうにゃん」もたくさんいる。もっとも、たくさんあったぬいぐるみのかなりの部分は、例の2023年の火事の際に手放すことになってしまったけれど。
ぬいぐるみにとっては、ずっときれいなまま展示される、というのもひとつの形であるが、お子さんの遊び相手になり、すっかり汚れて、よれよれになり、ぼろぼろになる。それもまた幸せの形だ。ぬいぐるみなのだから、どちらかといえば、かわいがられてぼろぼろになる方が、本望であるような気がする。
楽器というのは、結構切ないものだ。
家具と化して演奏されないピアノというのはその典型であるが、音楽というものが、生活上に必須ではない、いわゆる贅沢品であり、「文化」「芸術」みたいなレイヤーに存在するものであるから、楽器というものが、その本来の用途で、本来の性能を発揮する機会は、決して多くはないように思う。世にある楽器の大部分は、そのような切ない立場にあるのだと思う。
アート全般に言えることであるが、絵画とかでもそういうことがあると思う。人の目に触れてこそということは言えるが、じっくりと鑑賞してくれる人間が、果たしてどれほどいるものだろう。
エレクトリックギターや、ベースといった楽器についても、一流のトッププレイヤーに愛用され、世界中の大きな舞台で演奏に使用される、そんなふうに使われれば、楽器も本望だろう。そのような一流の舞台、第一線で使用されれば、それは間違いなく楽器としては幸せだ。
だが、そんなふうにトップクラスの扱いを受ける楽器は、ごく一部だ。
だからして、かく言う僕も、自分の所有する楽器に対しては、いつもこう思っているものである。
「ははは、すまんな。もっと世渡りの上手いプレイヤーの手に渡っていれば、君らも陽の当たる場所で音を鳴らすことが出来たのかもしれないが、無謀にも日本でクリスチャンヘヴィメタルなんてものを演奏している僕に気に入られてしまったからには、おっきなステージはあきらめてくれ。そのかわり、ばっちり鳴らして、ライブに録音に練習に、使い倒してやるぜ〜」
みたいに。
(ギターいじリスト管理人のおうちで妥協してくれ〜、というのを言いたい)
アマチュアミュージシャンや、インディバンドのプレイヤーであっても、あるいは趣味として演奏するプレイヤーであっても、お気に入りの楽器となり、そのプレイヤーの「相棒」みたいになって使用されるのであれば、それは楽器にとっては幸せなことだろう。たぶんステージの大小は関係ない。情熱をこめて演奏されたかどうか、それだけが大事だ。
とにかく楽器にとっては、演奏されないこと、本来作られた目的のために使用されないこと、それがいちばんの不幸だ。ヴィンテージギターが、使用されずにミントコンディションで保管される、あるいは展示される、っていうのも、ひとつの形ではあるが、やはり本当にいいのは、演奏されることだ。
だから、僕だって、しがないインディバンドのギター弾きではあるが、良い楽器を見れば、弾いてやりたい、生かしてやりたい、と思う。
だからこそ、楽器の手入れや、メンテナンスもするし、愛情と敬意を持って楽器を扱う。
無名のプレイヤーがそうであるように、多くの楽器にとって、「輝く瞬間」というのは、ほんの短いものであり、その機会も多くはないだろう。
けれど、その一瞬のために、楽器の調整をしっかりと行うわけだ。
だからこそ、教会の礼拝において、賛美の演奏に自分の楽器を役立ててもらうというのは、光栄なことであるし、ワーシップのイベントで、バンドの人たちに自分の機材を役立ててもらうのも嬉しいことだった。まあいまどき、(ロックシーンが地盤沈下したのと反比例して)、世界的に見ても、教会の礼拝におけるワーシップバンドの演奏というのは、ギターやベースといった楽器が生かされる場としては好例のひとつであると思うね。
また、教会に遊びにくるお子さんが、僕のギターを楽しそうに(めちゃくちゃに)かき鳴らしているのを見て、ああ、こういうふうに弾かれるのも、楽器としては正しい使われ方であり、幸せであるに違いない、と思った。クラシックの弦楽器みたいなデリケートな楽器と違い、エレクトリックギターは(ボルトオン、メイプルネックのものは特に)そうそう壊れないものであるので、やんちゃな子供たちに乱暴に扱われてちょうどいいくらいである。そもそもパンクとかハードコアとかそうやって演奏するんだし。
ともかくも、楽器の調整をしていて思ったものだ。
このような比較的安価な楽器であっても、手入れをして、調整をして、ステージで(パーティーで、教会で、練習で、etc)音を鳴らす瞬間のために大切にされるのだ。
それは人間であっても同じだ。普段あまり役に立たない自分のような人間であっても、きっと神は、すべてを備えて、メンテナンスをして、人生の中で輝くその時のために、一人一人を大切に扱ってくれているに違いない。と、そのように思ったものである。
楽器にとっての晴れ舞台、輝く瞬間とは、そういったステージでの演奏であったり、楽器として使用される瞬間だろう。
僕らのような無名のインディバンドであっても、ライブで演奏に使うだけでなく、普段の練習、バンドのリハーサルから、写真撮影に使われたり、動画撮影に使われたり、ミュージックビデオに使われたり、作曲に使われたり、レコーディングに使われたりと、色々な形で活躍の場がある。
また、これは切ない話だが、僕もこれから年老いていくにあたり、そんな自分の老境に寄り添ってくれる楽器というものを必要としているように思う。たとえば華やかな舞台から離れたとしても、そんな年老いたプレイヤーに寄り添い、慰めてくれる楽器があれば、それは楽器としての役割を立派に果たしたことになるだろう。
では、人間にとっての、晴れの舞台、輝く瞬間とは何だろう。
人生の中で、人が「生きている」大切な瞬間とはどのようなものだろう。
言ってしまえば、それはすべての瞬間がそうだろう。命ってそういうものだから。
楽器であれ、着物であれ、音楽であれ、それらはすべて、人を中心としたものだ。
人間の生活があり、人生があり、命があり、愛があり、笑顔があり、それらを生かすために、作られ、使われるものだ。
だからこそ、職人さんは長く愛用することのできる楽器を一生懸命作るし、洋服をデザインする人は、あるいはそれが人の人生を左右するかもしれない、と思って、一生懸命素敵な服を作る。
とあるパーティーでいかしたダンスミュージックが流れていたことで、恋に落ちる二人もいるかもしれない。
うーん話が終わってしまった。
では、男女の愛にとっては、それは何であろう。
愛の成就とは、結婚し、子供を産み育て、家庭を築くことであろうか。
もちろん、それも正解であろう。
しかし、ふたつくらい前の記事でもちょっと書いたかもしれないが、僕らは残念ながらお子さんを産み育てて家庭を築くということはできなかった。
では僕と彼女にとっての愛の成就とはなんだろう。
彼女にとって、二人にとっての幸せとは何であろうか。
その答えはわざわざここに書くようなものではない。
でも、それは共に歩いてきた旅路であり、冒険であり、そのすべての瞬間だったんじゃないかな。
そして、それは高価な着物とか、豪華なドレスとかとは、ぜんぜん関係ないものだったことは事実だ。
高校生だった彼女が「バンドやりたい」って言ったんだよね。
それで、僕は何年、何十年もかけて、それにふさわしいバンドを用意した。
たぶんそれだけのことだったんだと思う。
晴れ着とか関係ないって言ったけど、彼女はここ何年かステージ衣装に羽織を着て、インディだけどインターナショナルに、あちこちのステージに立ってるよね。
かっこいい、awesomeって言われて、とても好評で喝采を浴びているよ。
でっかいステージではないかもしれないけど、
これで妥協してもらえるかな。
この物語は、まだまだ続きがあるはずだからさ。