世界を手に入れる方法

 

 

[世界を手に入れる方法]
すいませんこんなくだらない投稿にわざわざ生成AI使ってしまいました。汗。

 

新約聖書の冒頭で、イエス・キリストが荒野で40日間を過ごし、悪魔の誘惑を受けるという場面がある。
悪魔が、「私に従えば、この世界を全部おまえにやろう」「ついでにパンもやろう」みたいに言って、イエスが「いらへんわ、そんなん」「パンよりうどんのがええわ」とか言った場面である。(うろ覚え)(師曰く、汝うどんのみに生きるべからず)

これはなんだか、とある古いゲームを想起させる。
つまり、僕らが至極小さい子供であったころ、ドラゴンクエストという、日本のRPGの草分けとなったゲームがあったのだ。確か、その最後の方で、魔王、たしか「竜王」とかいう名前の魔王が、「私の仲間になれば、世界の半分をおまえにやろう」とか言う、有名な場面があったのである。
で、実際、魔王の誘いに乗って、世界の半分をもらおうとするとどうなるかと言うと、暗い方の半分である「闇の世界」をもらう羽目になる、というオチだったと思う。画面が暗くなりゲームオーバー。いわゆるバッドエンドである。

 

このように悪魔というものは、基本的に嘘つきだ。
悪魔の誘惑というのは、たとえ誘惑に乗ったとしても、欲していたものは決して手に入らないようになっているのである。悪魔は嘘をつく。悪魔は裏切る。悪魔は約束なんか守らない。だって悪魔なんだもん。「こ、この悪魔め!」と罵っても、「その通りですが、何か」と返されるのがオチだ。

おい、このイチゴを食べてみろよ、美味しいぞ。
悪魔がそう言って誘惑してきたとする。
人はそれを見て、「ああ美味しそうだ。あのイチゴを食べたら、さぞかし良いだろうな」と思う。
だが、実際に食べてみると、「げげっ、なんだこれは、毒イチゴじゃないか」とか、「これは腐ってるじゃないか」とか、そういう結果になるだけで、決して考えていたような「美味しい思い」は出来ないものだ。

 

人間の欲望とか、欲求というものはだいたいそういうものだと思う。
物質的な欲求、現世的な欲望、そういったものを通じて、人間というものは、およそだいたい、悪魔というものに騙されているのだと思う。

繁栄はいいぞ。富はいいぞ。名声はいいぞ。
だが、それらの欲求が実際に満たされることは決してない。満たされないどころか、大切なものを失い、虚しくなるだけだ。
それらのものは、ぜんぶ幻だからである。

そんなわけで、僕らのヒーロー、救い主である主イエス・キリストさんは、悪魔ちゃんに「世界をやるぞ」と言われても、それが何の価値もない幻だと知っているので、「いらへんわ」と突っぱねたわけである。

 

けれどもここで、キリスト教徒としてはちょっと怒られそうな発想ではあるのだけれど、「世界を手に入れる」とはどのような事なのか、ちょっと考えてみたい。

つまり、悪魔ちゃんは常に嘘つきなのであるが、そうじゃなくて、本当の意味で世界を手に入れるにはどうしたらいいか、真面目に考えてみたいのだ。

幻ではなく、本物をつかむにはどうしたらいいか、という事である。

 

もちろん、世界なぞ、掴んだところで空しい。
それは、諸行無常という仏教の真髄を表す言葉だけでなく、聖書においてもEcclesiastes、つまり「伝道者の書」において繰り返し書かれている通りである。

しかし、テーマとしては面白いので、考えてみたいのだ。

世界を手に入れるには、どうしたらいいのか。

 

もちろんこの場合、もっとも効率が良い方法は、怪人を味方に付けたり、島根県出身の助手を雇ったりして、世界征服のための秘密結社を組織する事だ。おそろいの黒いボディスーツを発注して、それらをバイトさんに着せて「シェー」とか「ミャー」とか叫ばせれば完璧だ。そこから遥か長い苦難の道のりが延々と続くが根性で乗り越えることとして具体的な過程はすべて省略する。おめでとう。君は世界を征服した。

だが果たして、武力で世界を征服したとして、それで本当に世界を手に入れた事になるだろうか。
各国政府を屈服させ、世界の支配構造の頂点に立ったとして、それで君は幸せになれるだろうか。
翌日から、君は支配者として、世界中の国々の政治とか経済とか軍事とかそういう面倒くさいことを全部取り仕切らねばならなくなる。それが支配者の責務だからだ。君はそれに耐えられるか。たぶん僕なら2時間も持たないだろう。

 

人類の歴史上、偉大な支配者や征服者が数多存在した。
アレクサンダー大王であれ、アウグストゥスであれ、始皇帝であれ、曹操であれ、チンギス・ハーンであれ、徳川家康であれ。誰でもいい。本棚が埋まるくらいにはいっぱいいるだろう。

彼らは皆、偉大な軍事的、および政治的な指導者であっただろう。
そして人の世においては彼らの名は轟き、そしてきっと栄華を極めていただろう。
もうちょっと俗っぽい言い方にすれば、彼らはものすごく出世したのである。
どうだ、お前も出世したいか? したいだろう、ホレホレ。

だが、それで世界は彼らのものとなっただろうか。

 

そもそも、世界を手に入れるとどんないい事があるのか。

美味い飯が食える?

たぶん食えることだろう。しかし、たとえ世界を手に入れたとしても、人間の胃袋に入る量などたかが知れている。世界中の美味しい食べ物をすべて食すというわけにはいかない。

「よーし、俺は世界を食ってやる!」
そして男は決意を固め、グルメの道を極めるべく、あるいは世界一の料理人になるべく、旅立っていくのであった。
むしろ「食」という道においては、そっちの方が、「世界を手に入れる」ことに近いだろう。別に政治的軍事的に支配者になる必要はない。

 

いい女が抱ける? (下品な表現でスミマセン。わかりやすいので。)

まあ確かに王様になれば、美女をはべらせることも出来るに違いない。
しかし、それで果たして「本当にいい女」に出会えるだろうか。本当にいい女は権力では手に入らない。やってくるのは、一般的な意味で見栄えの良い「そこそこ」の女性だけだろう。そして百歩譲っても、本当の恋というものは出来まい。権力と欲望を前提とした関係だからこそ、王様の心は決して満たされず、だからこそ歴史の中で「傾国」として国を滅ぼす女性が出現するのだ。

 

名誉が手に入る?

果たしてそうだろうか。
支配者になる。権力者になる。つまりそれは、人の上に立つこと。人の上に立ち、すべての人間が、自分に向かって跪く。それはそれは、気持ちのいいものかもしれない。
でもそれって、結局自己満足じゃない? 自分のちっぽけな自尊心のために、権力を使い、大勢の人間を殺戮しちゃったりするのか?

 

人は皆、勝者になりたいものだ。そして、自分は人より優れていると思いたいものだ。
人間にはプライドというものがある。人間というものは、自分が可愛いのだ。これは、どんな人間でもどうしようもないくらいに強い欲求だ。だからこそ、人間というものは簡単に悪魔に操られてしまう。

 

支配者となり、権力者となった人間は、すべての人を従わせ、自分の名を残そうとする。
自分の銅像を立てて偉大さを強調し、人々に自らを崇めることを強要し、不老長寿を望んじゃったりして、最終的には、自らが神の位置に立とうとする。
人間ってそういうものだ。
自分が神だと、自分は神よりも偉いんだと思いたいんだ。
笑っちゃうけど、それが人間の欲望の行き着く先だ。

皇帝がそうやって神のなんたらかんたらな自分の権威を宣言する時、隣で悪魔ちゃんが笑っている。たぶん大笑いしている。この人間ウケるわー、って腹を抱えていると思うよ。
全部幻なんだからさ。彼が手に入れたと思っているものは。

 

世界が手に入ったら、どうする?
もし世界が手に入ったら、君はどうしたい?

うーん、僕は、旅がしたいかな。
この世界がどんな場所なのか知りたい。
この世界にあるいろんな景色を見てみたい。
この世界に生きるいろんな人間を見てみたい。
人々の暮らしを、文化を、歴史を、人生を見てみたい。
そしてそれを音楽にしたい。
それだけでなく、この世界に鳴り響く、さまざまな音楽家たちの生み出す音を聴きたい。
そして、その音の渦の中に自分も飛び込んで、自分の音を鳴らしたい。
俺は、世界を鳴らしたい。
ああ今、確かに、世界が俺の中にある。

 

音を鳴らす事は、自分にとって、世界を手に入れる事と同義だったのだ。

「世界を食ってやる」と言って旅立った美食家の青年にとって、食の道を極めることがそうであったように。
世界中の料理を研究し、食べて食べて食べまくった彼の中には、確かに「世界の食」が形作られ、存在しているだろう。もちろん、それは人類全体の食文化の歴史からすれば、それでもほんの一部だ。でも、それでいいんだ。

世界は自分の中にあるんだよ。
そのことに気づくんだ。

 

僕は少年の頃、Van Halenの音楽を聴いて、アメリカン・ハードロックの象徴であるそのVan Halenのサウンドに、広大なアメリカの大地を思い描き、心を躍らせていた。

けれども大人になって実際にアメリカに行ってみると、本物のアメリカは色々な意味で、想像とは違っていた。

だけどそれでいいんだと思う。
少年だった僕の中には、すでに心の中に理想のアメリカが存在していたんだよ。
その理想のアメリカを、鳴らしてしまえばいいんだ。自分の手で。

なんならアメリカだの日本だのちっぽけな事言ってないで、宇宙を鳴らしてしまえばいいんだ。
それが本当の自分ってものだろう。
それが本当の世界ってものだろう。

もし望むなら、世界中の音楽を学べばいいじゃないか。
ナポレオンだろうとチンギスハーンだろうと、自ら支配できた範囲はちっぽけなものだね。栄華を極めても、それでも世界のごく一部さ。
でも音を鳴らすことには、限界なんて無いね。
そして学ぶことにも、限界はない。

 

 

またここには、マタイの福音書の6章あたりに書かれた「天に宝を積む」というテーマもある。

天に宝を積むってどういうことだろう、って問われたのさ。
それは難しいテーマだよ。

どんなに財産を持っていても、お金を持っていても、宝物をしまいこんでいても、天国には持っていけない。

形のあるものは幻だからだ。
形っていうのは本質じゃないんだ。
形のないもの、概念や真理といったものの方が本質なんだ。

 

天国に、どんなものなら持っていけるんだろう。

僕はギタープレイヤーだから、物事をエレクトリックギターを通じて考える。

世の中にはコレクターと言われる人たちがいる。
高価なギターや、貴重なヴィンテージギターをたくさん持っている人がいる。

けれど、たとえそのような素晴らしい楽器をたくさん所有していたとしても、天国には持っていけない。

だが本当にそうだろうか。
僕にはなんとなくわかるんだな。それは僕がギタープレイヤーのはしくれであるからだ。

 

愛用の楽器があったとする。
共に旅をして、数々のステージを共にした、手に馴染んだ愛用の楽器だ。

木材や金属のパーツで作られた、物質としての楽器は持っていけない。
それはいつか壊れ、滅び去る運命だ。
物質っていうのは、すべて仮のものだからだ。

だけど、概念としての楽器は持っていける。
僕にとってのエレクトリックギター。
僕にとっての理想の楽器。
それがどのようなものかは、僕の手が、心が、よくわかっている。
たとえ実際に手にしていなくても、心で鳴らせるくらいだ。

 

そっちが本質なんだ。
形のない概念こそがすべてを生み出すもとなんだ。
その概念、イメージ、想像、いや創造。
それを現実にすることこそが、プレイヤーの本分だからだ。
だから僕は愛用のエレクトリックギターを天国に持っていけると確信している。
僕の心の中に、確かな概念としてそれがあるからだ。
そして天国に辿り着いた時、それは地上では叶わなかったような、本当の意味での理想の楽器になっているだろう。
木材や金属といった物質的素材の限界から解き放たれた、本当の姿を取り戻したギターとなっているだろう。
そのために、僕は今この地上で、サウンドを追求しているのではないかと思うくらいだ。

 

プレイヤーとしての視点だけじゃない。

たとえばコレクターでもそうだし、ギタービルダー、ルシアーでもそうだし、リペアマンでもそうだ。

物体としてのギターは持っていけない。
けれども、それらの音楽を愛する人たち、ギターを愛する人たちは、ギターという楽器についての深い理解を持っている。

その構造や、原理を理解している。
サウンドだけでなく、その歴史や、存在意義を理解している。
そしてそのさらに向こうにある本質というものを理解している。

そして、その理解した本質は、きっと天国までも持っていける。

だからそれらの人々は、たとえばギターを愛していたのであれば、同じように天国で、理想のギターを手にできるはずだと信じている。それは地上のギターとは、また違った形のものかもしれないけれど。

 

ギターひとつとってもそんな感じだ。
だから、世界だって同じだ。
本質をつかむことこそが、世界を手に入れることなんだ。

そして、その本質はきっと、十字架の形をしているんだぜ。

 

どんな道でも、究めればそこに辿り着くと信じています。

 

 

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