宗教商法が当たり前となった世の中で

 

 

さて、日本はナショナルエレクション(国政選挙)の季節であり、ここで政治や世の中の流れについて言及しないのはフェアではないと思うので、不必要かもしれないけれどこのブログをポストさせていただきます。

 

パーティーの場で政治と宗教、(そしてスポーツ)の話はすべきではないと言われる。ロックンロールは本来、楽しむためのものであり、誰も差別しないパーティーだ。
けれども、いつも言っているとおり僕たちはクリスチャンバンドであって、そのタブーを最初から破っていくことを前提としたバンドだ。

また、現在の世界を取り巻く深刻な状況を見れば、沈黙し続けるのは難しいことであり、また無責任なことでもあると言える。

 

正直な話をすれば、僕はすでに政治への興味を失っている。
もちろん投票はするし、身近な友人たちと政治の話のひとつやふたつはするだろう。
それは民主主義社会に生きる者の義務である。
けれども、僕は政治を信じていない。権力を信じていない。人間による支配のシステムを信じていない。そして、およそ政治家というものを信じていない。誰一人として信じていない。

 

政治というものは権力というゲームだ。だが僕はそういった権力というものを信じていない。人々が政治について熱心になり、時に躍起になるのは、人々が権力というものを信じていて、そして権力というものが大好きだからだ。誰が勝つか、誰が負けるか。誰が正しくて、誰が間違っているのか。誰が賢くて、誰が馬鹿なのか。権力の座をめぐる椅子取りゲーム。人々はそういったことに熱中するのだ。しかし、僕はそういったことに早くから興味を失っていた。

僕は権力で何かを変えられるとは思っていない。
本当に何かを変えるのであれば、他にもっと大切なものがある。たくさんある。

 

日本において、キリスト教は長い間、政治から遠い場所にあった。
日本ではクリスチャンは非常に少数派だ。少なくとも一般的な意味合いにおいて、日本のクリスチャンは政治権力から遠い場所にあった。
それはある意味で、神からの恵みであったと思う。

たとえばアメリカではキリスト教は政治的な力を持っているが、僕はアメリカの人々が大好きだけれど、一般的に言って、アメリカのキリスト教の好きでない部分は、過度に政治的なところだ。それは政治的になりすぎて、キリストの本来の教えとは違ってしまっているのだ。

 

僕たちは「クリスチャンヘヴィメタルバンド」だ。僕たちはクリスチャンバンドであり、それは「宗教のバックグラウンドを持ったバンド」だということだ。
しかし、誤解してほしくないのだが、皮肉なことに僕らは「宗教商法」は絶対にやらないと決意している。
僕らはイエス・キリストのfollowerであり、イエス・キリストをテーマにして音楽を作っているが、「宗教商法」の前提の上で音楽を演奏したことは一度もないということだ。僕たちは野良のインディバンドだ。特定の教会や、団体や、政治関係者の支援は受けていない。(通っている教会の設備を使わせてもらってはいるが。) あくまでただのインディーズのロックバンドとして、好きなように音を鳴らし、好きなように活動している。僕らは決して聖人ではないし、いくらでも批判してもらって構わない。

 

皮肉なことに、今の世の中には「宗教商法」が溢れている。
音楽の世界でもそうだ。
インターネット時代になり、音楽業界やロックの影響力が低下した時、多くのミュージシャンは、「宗教商法」によってファンを囲い込んだ。
そして結果的に、世の中では、まっとうにロックして真摯なメッセージを伝えるよりも、このような「宗教商法」によって人々を囲い込み、精神的な自慰行為をさせる方が儲かるのだ、ということがわかってしまった。そしてまた、この「宗教商法」は、政治であるとか、ナショナリズムといった事柄と相性が良い。そしてまた、排他主義とも相性がいい。

では宗教商法とは何か。あまり詳しく突っ込みたくはないのだが、あえて短い言葉で言えば、それは「自己欺瞞と自己満足による集団マスターベーション」ではないかと思う。これは悔い改めとは逆に位置するものだ。こういった考え方は分断を産む。「正しいのは自分たちだ。間違っているのは奴らなのだ」このような考え方が、宗教商法によって囲い込まれた集団を結束させるものだからだ。そして、このような自己欺瞞と偽りの自己肯定は、自分自身を神の座に置く行為であり、それが「偶像崇拝」であることは言うまでもない。

 

キリスト教の世界には、「正しい症候群」が蔓延している。
本来のキリスト教の教えでは、それは間違ったことのはずだ。なぜならキリスト教では、すべての人間は罪人であり、聖書には「正しい人間は誰もいない」と書かれているのだから。
「罪人」の宗教であるはずのキリスト教の世界であっても、僕たちはこういった「正しい症候群」に罹患した人々を多く見てきた。だからこそ、政治について語る時、この「正しい症候群」がどれほど危険なものか、僕たちはよくわかっているつもりだ。

 

現代の世界は、あらゆる価値観が崩れた後の世界だ。
今まで人類を支えてきた普遍的な価値観が破壊され、それらがプラットフォーム上の数字に置き換わり、AIのアルゴリズムに取って代わられる時代だ。
だからある意味では、文明社会はもう滅んでいると言える。僕はそう考えている。
そのような世界の中で、僕が欲しいもの、人として望むもの、戦って勝ち取る価値のあるものなど、なにひとつ無いと感じていた。

 

もしあるとすれは、身近な人、大切な人、愛する人と、少しでも価値ある時間を過ごすことだけだ。

そして、もしこの世界が、–人間性や人間らしさ、普遍的な価値観、そして本当の神への信仰が–、滅び去るのであれば、僕たちはその廃墟の中から、何もない荒野から、本質に根ざした新しい世界を生み出すのだすのだ。
それはゼロから、一からで構わない。

 

僕たちももう若くはない。混迷に向かう世界の中で、たくましく生き抜いていく覚悟があるかと言われれば、わからない。僕たちはもうとっくに、この世界には属していないような気がしている。

だが、この世界で自分が鳴らすべき音があるのであれば、最後の一音まで、それを鳴らしていくつもりだ。

 

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