年末年始ブログその2
先述のように、この年末年始、なぜか僕は今更のようにEdward Van Halenに関する記事や書籍を読みたいという衝動に駆られていた。
結果的に、そのうち読まなきゃなと思っていた、EVH氏の死後に出版された代表的な書籍をふたつ、(“Eruption”および”Tonechaser”)を読むことになった。
もちろん、彼のインタビューは昔から、雑誌のみならず様々なウェブサイトの記事や記録などで何度も読み、触れている。
だが、彼の死後に発表された様々な書籍や、雑誌の特集を、わざわざお金を出してまで買って読むことはこれまでしていなかった。
僕が知りたかったのは、Edward Van Halen氏のロックスターとしての側面ではなく、一人の音楽家として世界に向き合う中で抱えていた苦しみや、苦悩や、内面に抱えていた問題についてだ。
今更のように彼の言葉に触れたくなったのは、ひとつには今現在、僕自身が抱えている苦しみのためだろう。
僕は別に有名なミュージシャンではない。無名のインディバンドの人にすぎない。それは幸運なことだったと思う。生活上の悩みは尽きないが、ドラッグやアルコールといった問題は抱えていない。メジャーなアーティストと比較すれば、露出は僅かなものだし、リソースこそ限られているが、はるかに自由に音楽を作り、鳴らすことができる。
しかし、それであっても、やはり苦しみというものがある。それは、他人に言ってもわかってもらえない類の苦しみというやつである。
もうひとつは、やはりこの世界の現在の状況だろう。
おいおい、笑っちゃうな、もうこんな世界に生きていたいなんて思わないぜ、こんな悪い場所とはおさらばして、とっとと天国へ行きたいものだ。
そんなふうに本気で思って、もう何年経つだろう。何年も経って、どうしようもないと思うところを何度通ってきただろう。何回生まれ変わって、何回やり直しただろう。
もちろん、僕はどちらかといえば、間違いなく、夢や希望ではなく、絶望から音楽を始めたタイプの人間だ。華々しい成功ではなく、すべてに絶望してあきらめるところから、ある意味で仕方なく音楽に向き合ってきた人間だ。この世界に夢なんて持たなかった。ロックは死に、何も無い荒野が目の前に見えている中で、僕は最初の音を鳴らした。
世の中にはそれが見えてない人の方が多いと思うが、基本的にはずっと、そんな荒野を、僕は何十年も歩いてきた。滅亡した後の世界みたいな感じだね。
だが人間世界のすべてに絶望しても、神の救いは十字架に確かにあったので、じゃあそれに従って生きてみるかと、とりあえず死ぬまでは生きてみることにしたのである。
だから、世界の状況や、社会の状況。音楽業界や音楽シーンはもちろんのこと、キリスト教をはじめとする宗教、信仰の世界まで含めて、世の中が腐り、人間が罪にまみれてダメダメで、あらゆるものは滅んでいくしかない。
そんなことは、最初から織り込み済みだ。それが前提で生きていたし、それを前提として音を鳴らしてきた。
だから、成功して有名になって活躍するぜ、みたいな、一般のバンドマンやミュージシャンが考えている事は、僕からしてみるとずいぶん遠い世界の完全なる他人事だといえる。言葉は選んだつもりだ。
だがそういった事をすべて承知の上で音を鳴らし、ここまで歩いてきたとしても、それでもやはり、そこには戦いがある。まあ、いわゆるいつもの、霊的な戦い、スピリチュアルバトルってやつだ。
その戦いがどんなものなのか、それは当人にしかわからない。当人と、神だけしか知らぬことだ。それはすべて、自分と神との間だけにある約束なのだ。
だからこそ僕は、歴史上の偉大な芸術家について、また尊敬するミュージシャンたちについて、彼らを一般的な価値観の基準で批判したり、人間的に不完全であることを糾弾することに違和感を感じる。
別に悪人を許せとか、罪を見逃せと言っているわけじゃない。
だが、偉大な芸術家が、人間的にも「全う」であることなんてあり得ない。
それはパッケージディールであり、part of the packageだ。
芸術家にとって、本当の自分は作品そのものだ。媒介となった人間はただのvesselであり、strawであり、その肉体は抜け殻に過ぎない。
戦場から帰ってきた兵士がそうであるように、あるいはパンチドランカーのボクサーのように、偉大な作品を作り上げた後の芸術家は、だいたいみんな、ぶっ壊れているものだ。
恥ずかしながら、自分も壊れていると思う。
そう発言するだけでも尊大かもしれない。
しかし人間はそういうものだ。それが実感だ。
僕が初めて、うーん、これは、自分は少しずつ、壊れていっているな、と感じ始めたのは、おそらく2012年頃が最初だったと思う。
どうせ逆らっても駄目だろうとわかっていたので、そこから僕は、「いかに効率良くダメ人間になっていくか」という事をテーマに自分に向き合ってきた。
だが、だいたいもって、いかにももう、限界かなという感じが、ここ数年ずっとしていた。
2023年に体験した火事は、大変ではあったが、ある意味では自分に喝を入れ、初心に戻るためには必要だったのかもしれない。
そして、昨年の段階でもうバンド活動とかフェードアウトしてゆっくりしようかなと思っていたところ、若きドラマーKenshinくんとの出会いによって、また忙しくなってしまったのは前述の通りである。
僕は一番好きなアーティスト、All time favoriteはVan Halenだといつだって言ってきたし、その影響をまったく隠していないが、いつも思うが、Eddie Van Halenほど世界的に有名なロックスターで、かつもっとも理解されず、誤解されている人も珍しいと思う。
僕は少年時代からVan Halen、そしてエディ・ヴァン・ヘイレンの作り出す音楽に夢中だったが、(僕の世代だと、すでにVan Halenに夢中になるキッズは少数派だったことに着目されたい。90年代のキッズである。オルタナ世代だし、メタルのギターヒーローはもっとテクニカルな人がいっぱいいた)、大人になり自分のバンドで音楽を作り鳴らす中で、もっと様々な音楽に触れるようになり、どこかの時点で「Van Halenを卒業せよ」というメッセージを受け取り、実際にそうしたように思う。
僕は、20代、30代、そして40代を迎えてからも、限られた範囲ではあるが、手の届く範囲、触れられる範囲の中で、なるべく新しい音楽、その時代の音楽を聴き、学び、知るように努力してきたと思う。それが自分の作る音楽に反映されたかどうかはともかくとして。
だが、もうこの年齢になると、そろそろもう新しいものを無理して聴かなくてもいいかなと思い始め、少年の頃に聴いていた、心から好きだと思える音楽を中心に、また音楽を楽しもうとしている。それはもちろん、初心を思い出すための行為でもある。
そんな経緯もあって、うーん、じゃあまたVan Halen聴いてみよう、みたいな気分になったのである。
で、そうやってEdward Van Halenについての本を読んだり、インタビューを読み返したりしていたせいだろうか。
なんかチャンネルが合うものがあった。
歩いていると、メッセージが降りてきた。
Edward Van Halenの、声を感じた。魂を感じた。霊を感じた。命を感じた。
ちなみにそれは、歩きながら聴いていたのは、それはやはり”Fair Warning”を聴いていた時である。すごいね、あのアルバムは、やはり。
それは結構、短い時間のことだったけど。
(まあ、やっぱり有名人だからね、忙しいんじゃないかな、天国に行っても)
それで僕には、十分だった。
なんかぜんぶ、わかった気がした。
やることの意味が。
音を鳴らすことの意味が。
歴史を見渡して、その意味っていうのかな。たぶん上から、天国から見ればわかるんだろうけど。
なんだか納得がいかない、と思っていたいくつかの事が、その答えがわかったような気がしたよ。
いつも思っていたんだよ。
たとえば強大な敵がいるとする。
別に敵じゃなくてもいいんだけど、時代とか、歴史とか、人類の未来とか、世界の問題とか、そういう、どうしようもないくらいに大きなものと戦わなきゃならないとする。
そんなもん、どうやって戦えっていうんだ。
そう言いたくなる。
そして、そんな時に、音楽なんて何の意味があるんだ、って、そう思う。
言われたんだよ。
「音楽以外に戦う方法があるのか」って。
その通りだな、って思ったんだ。
そもそも、ロックンロール、ロックミュージックは、まだ生まれてから100年経つか経たないか、ってところだろう。本格的に形になってからは、まだ100年も経っていないんだ。
それが人類史上、どんな力を持つのか、どんな影響を与えるのか、今の段階ではまだわからないんだ。
そして結論を出すのも、まだ早すぎるのさ。
自分はもう壊れていて、抜け殻に過ぎず、決して若くもないから、もう終わりかなって思ってもいたんだ。
でも、そうじゃないって思ったのさ。
力が湧いてきたんだ。
「ロックし続けろ」って、そうEddie Van Halenに言われた気がしたのさ。
「おい、何やってるんだ、ロックし続けろ」ってね。
言葉じゃない。それは、命だ。
それですべてわかった気がしたんだよね。
たとえばキリスト教で言って、聖書の中で、誰に共感する、みたいな話があると思う。
新約聖書で言えば、直情的だけど熱いペテロに共感する人は少なくない。
僕は昔から、新約聖書でいうと、なんだか共感を感じるなあって人が2人いた。
ひとりは、他でもないイスカリオテのユダだ。
人類史上もっとも有名な裏切り者の代名詞であるユダ。
いつも、きっと自分みたいなやつだったんだろうな、って思ってた。
あるいはそれは、ロックに出会う前の自分かもしれない。ロックに出会って変わる前の自分って言ったら、それはまだ少年時代のことだったけれど、ロックミュージックに出会っていなかったらどういう人間になっていただろう、って考える事がある。そうしたら、僕はまんまユダのキャラクターだったかもしれない。ロックに出会って救われた、変わったと思っているけれど、それでも自分の中には、いまだにユダのような人格があると思う。まあJudasていったら、非常にヘヴィメタル的だしね。
もうひとり、素で共感を覚えるのはパウロだ。
パウロは偉そうだ。各地の信徒に向かって、いつも偉そうに御高説を垂れている。でも、言ってる事はそこそこ正論だから、あんまり逆らえない。そこには、なんだかもう、勘弁してくれよと言いたくなるほどの、正しさ、熱さ、そしてくどさがある。
遠藤周作はパウロのことを「強すぎる人」だと書いていたように記憶している。
僕もきっと、そのような人間だろう。もちろん、弱い面が大いにあるのだが、基本的な面において、きっと僕には「強すぎる」面がある。そのことで人を遠ざけることもあるだろうし、それが原因で嫌な顔をされることもあるだろう。そんな自分に嫌気が差すことも人生の中で度々あったから、僕はなんだかパウロの「強さ」に共鳴する。
初期のキリスト教にとって、パウロは偉大な宣教師であり、またやり手の営業マンだった。僕にそのような手腕があるとはまったく思わないが、あの大上段から「福音」を振り翳してためらわないくどさと強さは、なんだか共感を覚えるものがある。
パウロがキリストに出会ったように。
世を去ったミュージシャンが、よみがえった、ここに生きている、そのような実感を得ることは、僕にだって初めてじゃない。個人的にも、少なくとも二度はあったと思う。
音楽は永遠だから、それは別に不思議なことじゃない。
そういう意味では、僕はパウロに倣っていい。
甦ったロックンロールを新たな信仰へと高める役目を背負ってもいい。
僕の神に対する信仰は、ロックンロールへの信念と深く結びついている。
他の何でもなく、僕はロックンロールを信じているのだという事が、あらためて理解できた。
それはもうキリスト教ではないじゃないかと言われれば、それで構わない、と僕は答えるだろう。
ロックンロールに形はないのだから。
説教を垂れて押し付ける必要すら、そこにはもうないのだ。
ただラウドに鳴らせ!