Love Wars 2025
または
愛の導きに従い未来をつかむ戦いに身を投じる
(90年代J-popみたいなタイトルだな)
Traditional Family Valuesという言葉がある。
こういうことを書くと、海外のクリスチャンの友人たちがきっと勘違いするだろう。自動翻訳機能はいい迷惑だ。(Facebookの自動翻訳はひどいものだ)
ごく個人的な感傷に過ぎないのだが、自分のために書き記しておきたいのだ。
戦国ものの漫画や小説を読んでいると、時折、今僕らが生きているこの時代は「戦時」ではないかと思うことがある。
それはつまり「平時」の対義語としての「戦時」ということだ。
平時であればあいつは幸せな人生を送っていただろうに、戦時であるがゆえに人並みの幸せを捨てて戦うことになった、みたいな文脈だ。
最近何度も口にしているようだが、僕はもともとこのTraditional family values、伝統的な家族の価値観というものを大事に思ってきた方だ。
つまり若い頃、少年時代の僕は、そういったものを信じていた。
平和な家庭。健全な家族の営み。価値のある仕事。普遍的な価値観。社会正義。その延長にある社会や国家というもの。
個人的な話だが、10代の若い頃、僕は一人の女性に恋をした。思春期の頃の話でもあり、それは自分の人格形成、ひいては人生そのものに大きな影響を与えたと言っていい。
その人と会って思い描いた人生は、おそらく僕にとっては「平時」の人生だったのだと思う。公正な社会の中で、伝統的な価値観を守って生きることができる人生だ。
また音楽的には、その方と生きる人生は、ヘヴィな音楽でもハードな音楽でもなく、よりおしゃれでポップなジャンルを選択することだっただろう。(説明はしないが、具体例すら挙げることができるくらいには根拠のある事実なのだ)
だがそこになんだか神の介入があり、僕はその人物とは至極対極的なもう一人の女性に出会った。いうまでもなくそれは「うちの嫁さん」であるMarieのことである。だから、敢えてカウントするのであれば、僕は人生の中で女性に恋をした経験はその2回だけであるわけだ。(なんか気恥ずかしいのはなぜだぜ) (親しい友人の方は興味があればその二人の女性がツーショットで一緒に写ってる写真をお見せするがね)
その女性(うちの嫁)は、色々な意味で「伝統的な家族の価値観」からはかけ離れた人物だった。だからこそ僕は用意されていた一般社会のレールから悉く外れ、音楽や芸術に向き合う人生を選ぶこととなった。(選んだっていうのは言葉のあやで、僕自身としては自分で選んだつもりはないのだが)
そしてまた音楽的には、彼女との人生を選ぶということは、自分が本来信じるヘヴィメタル、ハードロックといったカテゴリに分類される音楽の流派を選ぶことでもあった。
だから僕の人生においては、彼女(うちの嫁)こそがヘヴィメタルであり、若き日の青春時代において、この二人の女性に出会ったということは、象徴的な人生の岐路であったと言える。
だが同時に、それは「戦時」の生き方を選ぶということではなかったのかと、今にして思い当たる。
インディーの、在野の芸術家として何処にも属さず生きる人生を選んだ僕たちは、ある意味で世間一般の幸せや、それらの基準とは離れた世界で生きている。
その事実や、その事から来る葛藤を心に抱きながら、常にある種の寂しさを覚えつつ生きてきたが、それが「戦時」の生き方を選んだからだと考えれば納得がいく。
世界は「戦時」であり、「非常時」ではないかと考える時がある。
というよりも、スタート地点のあの頃にすでに、僕は最初からそう考えていた。
平和な世界であれば、音楽をやる必要なんてないのだ。少なくとも僕にとってはそうだ。
満ち足りた世界に生まれたのであれば、何かに反抗してロックを鳴らす理由など無いのだから。
そうではないと考える人もいるかもしれない。
この国は平和であり、世界は平常運転であり、すべてはうまくいっている、と考える人もいるかもしれない。
だが僕にはそうは思えなかった。
今はどのような「戦時」で、僕たちは何に対して戦っているのか。
この問いに答えられるものは、混迷を極める今の世界情勢にさえも答えを出せるだろう。
でも基本を押さえれば、答えはいつだってシンプルだ。
これは愛の戦いだ。
人類は愛によって導かれている。
人類の歴史は愛によって導かれ、愛によって動いてきた。
そしてロックミュージックは、愛を体現するものだ。
「非常時」だと考えたからこそ、僕らはこのような生き方を選んできた。
そして、そのための音楽を作ってきた。
音楽の持つ力を信じて。
そして、そのような「非常時」だからこそ、僕たちは”Traditional Family Values”から背を向けた。
いや、背を向けたわけではない。僕は本来自分の中にその「伝統的、普遍的な人間の価値観、家族という価値観」をしっかりと持っているのだ。
ただ、それは結果的にそれは自分とは縁遠いものだった。手の届かないものだった、という言い方になるだろう。
僕は現代のキリスト教世界における価値観の対立の中で、一般的な政治的イシューの対立軸の中に自分の立ち位置をずっと見出せなかった。
自分の中には本来、普遍的、伝統的な価値観が根付いている。だが、それと同時に、リベラルな生き方も同じくらい必要だと感じる。
だが自分の中にも確かにあった「家庭」や「人生」への憧れと、「戦時」ということに思い当たると、少しだけ自分のしてきた事が見えてきたように思う。
つまりはこのTraditional Family Valuesという言葉に象徴されるように、家族というものの在り方を考えると、その根底にある性の在り方をめぐる価値観も含めて、人が生きることの根幹が見えてくるような気がする。
伝統的な家庭の価値観から離れ、より自由な生き方を求めた人たちは、愛を求めた人々だ。自由を求めた人々だ。この世界に足りない何かを、戦いつかむために、その身を最前線に投じた人々だ。
それらの人びとは、愛の戦いに必要だ。
理想的な家庭を築き、また伝統的な価値観の中に生きることが出来た人々は、誠実な人たちであり、また幸運な人たちだ。彼らもまた、愛の戦いに必要だ。
それらはすべて、愛に導かれた計画であると思う。
人類の行く末はわからない。
これからの人類の行く末には多くの問題と困難が立ち塞がっていることには相違ない。
だけど、それらもすべて愛の法則の中にあり、人類は愛に導かれて未来を作っていく。
どんな「家族」の形も、どんな「性」のあり方も、どんな「生き方」も、どんな「戦い」も、すべては愛の形だ。
僕たちはLove Warsを戦わなくてはいけないのだ。
「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(第一コリント 13:2)
たとえ理想的な家族の形があったとしても、そこに愛がなければ、それは”home”とはならない。
彼らは家庭に、社会に、この世界に愛を取り戻すために最前線に身を投じたのだ。
律法という形から我々をあえて解き放つことで、かえって律法を成就したキリストと同じことだ。
伝統的、普遍的な家族というものを大切に思うからこそ、そこにある愛という本質を求め、その形から解き放たれるのだ。
そしてまた時が来れば、「平時」と呼べるような幸福な時代が来れば、彼らが鳴らした愛の上に、新たな形での普遍的な「家庭」が築かれるだろう。
だから、僕が戦っているのは、政治的なイシューの対立軸のどちらでもないね。
愛というものの大きな作用と、その願い、その法則。
それを阻もうとするもの、停滞させようとするもの、逸らそうとするもの。
そういったものとの戦いに他ならない。
それは言葉にして落とし込めるようなものでない以上、また人の世の価値観ではっきりと白だ黒だと言えるものでない以上、やはり僕は一般的な政治的議論には興味がないと言わざるを得ない。つまり愛とは水とか、炎とか、光とか、そよ風とか、そういったものに近いのであって、それは国家とか、政治権力とか、社会規範とか、イデオロギーとか、そういった概念の枠からはみ出してしまうものだ。
やっぱりロックンロールの中にすべて込めればいいような気がするな。愛そのものを鳴らせばいいんだと思える。
まったく関係ないんだけど、今じゃあんまりそういうのも少ないかもしれないけれど、よくお店や、公共スペースのBGMで、The Beatlesのプレイリストが流れていたりすることがあると思う。
僕はいつもそれを不思議に思う。
こんなもん、ビジネス的な場所でちょっとでも流しといていいのかな、って。
初期のひたすらポップなやつはまだしも、中期以降の楽曲群は特に。
あんなの流してたら、
「うおお、俺はこんなことをしてる場合じゃない。俺はこんなつまらない仕事をしている場合じゃない。俺は自分の生き方を変えなければ。俺には、世界には、もっともっと大切なものがある。今すぐ、俺は愛のために生きなければ!」
ってなって、みんな仕事なんか辞めちゃうんじゃないか、って思うから。
それとも、みんなちゃんと聴いてないのか。ただのBGMとしか思っていないのだろうか。
でも本当は、みんなそうなるべきだと思うね。
わかってるんだろう?
(キリスト教の初期、いわゆる初代教会とかってそんな感じだったんでしょ?)
ゆっても、愛っていうものを知るのは難しい。
多くの人は、それをただの帰属意識や、利己心、自尊心、集団心理と履き違えているのかもしれない。
だから愛を伝えなければ。
本来、それこそがキリスト者の使命だったはずなんだがね。
この”Love Wars”という曲は、笑えるし、政治的な対立軸をふまえた意図的な「ひっかけ」の曲だし、半分はジョークなんだけど、確かにこのことについて歌っていることには違いないよ。