ガラスの外の営業マン

 

相変わらず、これから始まるバンドの営業活動について考えている。

営業について考える中で、
大切なことのひとつに、自分は果たして何と戦っているのか、戦うべき相手は何なのか、を知ること、見極めること、それがあると思う。

 

Glass Ceilingということをよく考えることがある。
それは日本人がロックを鳴らす時に、いつでも付いて回る。
それは、不思議なことに、面白いことに、たった一音、ギターのコードを鳴らすだけでもそこにある。
(それは、まっすぐに思った通りに「心の音」を鳴らすことの難しさでもある)

一番問題なのは何かというと、困ったことに、その音を鳴らす本人、つまり大多数の日本人が、その「ガラスの天井」に気付いていないことだ。
気付かずに、無意識のままで当然のように、そのガラスの天井の中に収まってしまうことだ。

もっと言ってしまえば、多くの人は、生まれた時からその「ガラスの天井」の中で生きて、その外のことは一切考えない、考えられない、ようになり、その範囲の中でのみ生きている。
その「外」で鳴る音は聴こえない、その「外」で起きていることは見えない。

つまりほとんどの人は、最初の一音を鳴らす前から、もう何かをあきらめ、何かを妥協していることになる。言い方を変えれば、音を鳴らす前から負けている。

 

これは世界中の人に言えることだけれども、日本人はこの「ガラスの天井」の境目がかなりくっきりしていると思う。日本人は「暗黙の了解」っていうスキルが高いからかもしれない。それはみんな経験上なんとなくわかるんじゃないか。

 

これの原因は政治的なことで、
もっと根本を辿れば霊的なこと、精神的なことでもある。

 

まぁ言ってしまえばそれは「支配構造」ってことなんだろうけれど、ね。

 

それは見事なまでに世の中の隅の隅にまで行き渡っている。

 

たぶんソーシャルネットワークの時代になって、その支配とか監視の網は、生活や精神の奥にまで浸透したと思う。

 

だから「自由に音を鳴らす」っていうことが、たとえギターのコードの一音さえも、出来なくなっているわけだ。

 

 

このGlass Ceilingっていうのは何も日本人だけのことではなくて、
アメリカ人にももちろんあることだけれども、
たぶん日本人に与えられているスペースとか天井の高さの方が狭い。

そういった政治的に許される範囲の中でしか音を鳴らせないし、
今の時代には世界的に活躍している日本のバンドも、規模の大小を問わずたくさんいるけれども、皆、その「許される範囲の中」であるガラスの天井の内側で音を鳴らしているわけだ。ガラスの天井の「許される範囲」の中で音を鳴らすバンドだけが、成功することを許される。

だから基本的に商売でやってるバンドがヒットを狙う、という行為は、この「許される範囲」を探るということであると思う。

(ううむ、なんか、Metallicaの”The Unforgiven”が聴こえるなぁ。苦笑。)

意地の悪い言い方をすれば、それはどちらかといえば、悪魔にお伺いを立てる行為に似ているだろう。

 

 

でも本当に「信仰」を持って、「神」に対してまっすぐに音を鳴らそうと思うのであれば、この「ガラスの天井」を打ち破らなければいけない。

僕が「クリスチャンロック」「クリスチャンメタル」の道を選んだのは、たぶん究極的にはそこなんだけれど。

 

 

日本にキリスト教がなぜ根付かないのか、日本にイエス・キリストの福音を広めたい、とか、そういう議論ってキリスト教の人たちの間にはいつもあるけれども、
時々、思うことがある。
日本人には、政治的な理由で、本当の神を信じることは「許されていない」のではないかと。
そのために、政治的に、精神的に、文化的に、様々な制約が設けられているのではないかと。

つまりほとんどの日本人にとって、本物の神を信じる、っていうことは、そのガラスの外にある。最初から手の届かないところ、考えることも出来ない範囲にある。
キリスト教のミッショナリーが日本人に宣教する際に、精神の底にあっていちばん問題になるのは、たぶん「拒否」ではなくて、「あきらめ」だ。
その「あきらめ」から来る無関心だ。

自分には無理だと、最初から決めてかかっているのだ。

日本人は八百万の神の国で、寛容かつ柔軟だから、たとえばキリスト教文化に憧れを持っている人、好意的に思っている人も少なくない。けれどもキリスト教の話を聞いた時に「いやいや、私なんか」と「謙遜」をもって身を引いてしまうのは、たぶん日本人特有の反応なんじゃないか。

 

 

うちのバンドのステージ上での役割っていうのは、この「ガラスの天井」を破ってみせることだ。ガラスの向こう側には、こんな素晴らしい世界があるんですよ、って。うちのバンドのライヴショウで「楽しさ」を感じてもらえるとすれば、それはこの「ガラスの向こう側の世界」の楽しさだ。

(もっとも、それを僕に最初に見せてくれたのは、キリスト教の人たちではなく、Eddie Van Halenという一人の天才だった。)

(そして熱烈なファンの一人として言うならば、かの大スターであり最大の天才ギタリストであるEddie Van Halenをもってしても、彼のミュージシャンとしての人生を振り返るのであれば、それはこの「見えない天井」との戦いだったと思う。そのstruggle(苦難)を感じて、理解することが、耳のいい人には出来るはずだ。)

(たぶん同じことがMichael Jacksonについても言えると思うが、僕は大ファンというわけではなく、詳しくないのでわからない。)

 

それは時代状況についても言えることであって、
今の世代はまっすぐにロックが鳴らせるなんて思っている若者はほとんどいないだろう。

(どっちにしろどんなジャンルであっても、今の人間が望むことは、最初の一音を鳴らす時点で、まっすぐに音を鳴らすこと、ではなく、ソーシャルメディア上で映えること、だろう。笑。)

だからこそ、70年代や80年代がいくらノスタルジーと新しいグリッターをまとってリバイバルしたとしても、「ロック」だけはリバイバルされない。
ロックは終わった、ロックはあの時代だけのものだった、と大衆に思わせたい、そういう人たちがいるのだと思う。

 

そうじゃない。
本当に新しいということはそういうことじゃない。
ガラスの天井の中で鳴らす音に、新しいものなどひとつもない。
なぜなら時という概念はいつだって見せかけだ。
その向こう側にあるものこそが、本当に「新しい」ものなのだ。

 

 

世界の大衆に、そして日本人に課せられた「ガラスの天井」。
霊の上での、信仰の上での、音の上での、そして生活の上での「目に見えない牢獄」。
人類を神に出会わせまいとする、霊的な支配構造。

 

うちのバンドが「成功できない」理由を挙げるとすれば、一番の部分はそこだと思う。

それを知っておくことはとても大切だ。(知ってたけど。笑)

知らなければ戦うことも出来ないから。

なので、それを今度は「成功した理由」に変えなければならない。

 

 

ロックは死んじゃいない。
神も死んじゃいない。

神は生きている。
ロックンロールは生きている。

それを宣言することだと思う。

 

それが、僕が「営業」すべき「新しい世界」だ。

 

 

世の中の敏腕と言われる営業マンの人たちは、こういったことも考えるのだろうか。苦笑。

たぶん、黙って何も言わずに「ガラスの天井」に従うのが、商売というものだと思うけれど、そうじゃない人も、いるかもね。

 

 

僕がはじめた最初の頃を思い出そう。
あの時代、すでに少なくともオーバーグラウンドでは「ロック」は死に絶えていて、
僕の目の前にあった光景は、「何もない荒野」だった。

それでも僕は踏み出した。

死に絶えたロックの破片を、その砕け散った破片を、世界のどこかで探し、拾い集める旅路だった。

そして僕は見つけたはずだ。自分にとっての究極の答えを。究極の音を。

 

今、状況は、あの当時よりも悪くなっているかもしれない。
でも、良くなっていることもある。

そして、扉はきっと開いている。
僕一人が通るための扉じゃない、皆が通るための大きな扉が。

(それでもまだ、「狭い門」には違いないだろうけれども、見た目で判断してはいけない。さらに多くの人間が、そこから向こう側の世界へと行けるのだから)

その扉を開け。
精一杯に開け放て。
それが僕の仕事だ。

 

目の前には相変わらず荒野が広がっている。

あの頃を思い出し、もう一度、勇気を持って踏み出そう。

僕は帰還する。
扉をくぐった、その先で、確かに僕はそれを見つけた。
新しい世界をこの地球に持って帰る。

 

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