僕はクラシック音楽のある家庭に育ったが、僕自身がクラシックに詳しい訳じゃない。
ピアノのレッスンを放棄したのは小学校の5年生だったか6年生だったか。
どちらにしてもピアノが弾けたことはないし、今だって弾けない。
僕が10代の頃に書いた曲にピアノを使ったものが結構あるのは、単に環境を反映してのものに過ぎない。そこにあったから使っただけ。
大人になってから、ピアノやキーボードを使った曲はほぼ書いていないし、今後もその必要性はあまり感じない。
手元に、どこで拾ってきたのかも定かでない「ホロヴィッツ」のCDがあって、古い録音で音質もあまり良いとは言えないもの、ということもあり、あまり聴いておらず、過去にちょっと聴いても、それほど理解できなかった。
だが、歳を重ねたせいなのか、単にタイミングだったのか、今、ちょっと聴いてみて、ものすごおおおおく驚いている。
驚く、なんてものではない、言葉にできない。
初めて音楽を聴いた、みたいな気がする。
古い録音を通じて、とんでもない情報量が溢れてきて、圧倒される。
これは夢なのか、奇跡なのか。
やっと、良さというか価値がわかったということなのか。
僕は持論として、オーケストラが多人数からなる軍隊だとすれば、ロックバンドは数人で操縦する巨大ロボットだといつも言っている。
とすれば、ピアノは、一人乗りの戦艦か。
あるいは、宇宙船の中に戦略コンピューターが搭載された戦闘システムか。
「孤独」といったものをより映し出すことが可能なのは、その「一人乗り」のゆえか。
そして「世界の崩壊」を感じさせるのは、その個人の内面に向かう「戦略システム」の残酷な性質ゆえか。
どちらにせよ、個人的な理由もあって、クラシック音楽の中でも僕は「ピアノ」という形態に、ちょっとしたsoft spotというか、弱いというか、琴線に触れる何かがある。
その「独り乗り戦艦」、すなわち、個人の内面を鳴らすものとしてはもっとも高性能な形態(の、少なくともひとつ)であるところのピアノ、の、人類史上最高の、夢のようなプレイヤー。
手元にあるそのCDには、なんだか20世紀っぽいロシアだかどこかの作曲家の曲、つまり、わりと前衛入ってるやつ、とか演奏が収録されていて、
クラシック音楽の最高に進化した形のものを、人類最高のピアニストが演奏する。
つまり人類史上、最高の瞬間。
だが、その録音が古いものであるのは、
せめてそれが現代とは言わないまでも、もう少し時代が後であったなら、もっと鮮明な録音が残っていたであろうに・・・
(もっとも、ホロヴィッツという人が、その後、どのような録音を残したのかは知らない。繰り返すが、僕自身はクラシックなんて詳しくない)
・・・と言ってしまうことが誤りであることはもちろんわかっている。
その後の「現代」には、このようなプレイヤーは生まれようがなかった。
そして、インターネット時代を迎えた「今の時代」にはなおさらだ。
このような「巨大な情報量」を持った、集約された存在は、この時代にはもう生まれようがない。
そして、「録音」および「記録」ということの歴史に関しても、同様のことは言えるが、これはまた違う話題であるから省略する。
比較してみる例として、手元にやはり「リヒテル」というピアニストのCDもある。これはどうやら録音は80年代らしい。
この「リヒテル」というピアニストさんも、聴くかぎり、「パーフェクト」という言葉をそのまま音にしたような演奏家であって、とんでもないことには変わりないが、比べると、魔法というか情報量の圧倒的な違いというか、録音が古いせいなのかなんなのか、やはりこの「ホロヴィッツ」の演奏には、ちょっとありえない夢のような何かを感じる。
実のところ僕はこの「リヒテル」というピアニストは見たことがある。
子供の頃、いや、少年の頃。10代の頃とか。
よく母親に連れていかれたからだ。コンサートに。
今から考えるととても贅沢なことではある。
たびたびコンサートを見に、聴きに、訪れていたのは、だいたい、あれだ、名古屋の、この前、2、3ヶ月前に、友人のNobu氏が結婚式を挙げたあの教会の、向かいあたりにあるあの劇場。今でもあるのか?
前にも書いたが、僕はその場所に教会があったことすら、気付いていなかったし、意識していなかった。
だから、この前の結婚式に参列した時には、子供の頃からわりと度々来ていたはずの場所に、「教会」なんてものがあったことに、今まで自分が気が付いていなかった、という事実に衝撃を受けた。
「ホロヴィッツ」に関しては、確か、うちの母親は、昔コンサートを見たことがある、と言っていたように思う。
だが、その頃には既に老齢だか、なんだか、衰えていて、ちっとも良くなかった、と言っていたように思う。
でも、なんかしらんが、歳をとったせいか、その価値に、良さに、やっと気付いたみたいだ、この僕も。
クラシック音楽は「普遍」ではあるし、無くなりはしないものだと思うが、
かといって現代においてはクラシック音楽を聴く人というのは、マニアでありニッチであり、少数派であり、どっちにしても「ニッチ」であることに違いない。
もっとも、今の時代にあってはどんな音楽であれ、すべてがニッチに細分化されているけれども。
人類、っていうか、人類の営み、ってやつには。
そこにある、芸術であれ、なんであれ。
確かに巨大な偉人たちがいて、とてつもない存在がいて、とてもつもなく深く、広い世界があり、そして、かけがえのない情報があった。
膨大な量の情報が。
そして、人生はそのような「かけがえのない情報」で満ちていた。
その「かけがえのない人生という情報」「人が生きるという情報」は、
おそらくは時代が進むにつれて、メディアの発達にともなって、小さくカットされ、パックに詰められ、薄められ、情報はどんどん少なくなっていった。
そして「人が生きる」ということの意味や、価値や、情報も、たぶん希薄になっていった。
今、コンピューターの時代、デジタル時代、インターネットの時代になり、
「情報」という点では、過去に無いほどに「情報があふれ」、膨大な情報を処理し、伝送し、記録する、そんな時代のはずなのに、
「人間」にまつわる情報、つまり「人が生きる」という情報は、今までにないほどに小さくなっている。
人が生きるためにコンピューターを役立てるのではなく、人間の方がコンピューターデバイスや、ネットワークに依存する形で姿を変え、「人間」の持つ価値は、オンライン上の画像や数字に置き換えられていく。
「情報」の時代のはずなのに、「人が生きる」ための情報、つまり「人間」という情報、「人間の価値」という情報、そして「かけがえのない人生という情報」は、ほんのひとつまみの大きさにまで、矮小化されてしまった。
情報が足りない。
人間本来の情報がない。
その情報を処理することさえ出来ない。
それはつまり、人工知能が人間を置き換えることですらなく、人間の方が、いつの間にか人工知能やロボットに似てきてしまっている、ということ。
あるいはもっとeven worseで、それら人工知能やロボットの下に隷属するデバイスに成り下がってしまったのかもしれない。
僕は昔から馬鹿みたいなやつで、普通の生活ドラマとか、日常を描いた映画よりも、むしろ「ターミネーター」みたいな物語に、逆に現実味を感じてしまうようなおかしな人間だった。
つまり、いつでも自分は、何かのために戦わなくてはいけない、という使命みたいな強迫観念を持っているタイプの。だから音楽やってるんだけど。
ターミネーターみたいな世界は、来るんかいな、と思っていたし、たぶん来るんだろうけれど、
けれど、よく考えてみたら、もう来ていた。
僕が、最近、ロックバンドは革命軍。理想のロックバンドはレジスタンス。
とか言っていたとしたら、そこにある戦いは、そこにある革命は。
ターミネーターみたいなSFじみた戦いが、あるのだとしたら。
それはきっと、人間本来の「情報」を守るための戦いだ。
現代に、このインターネット社会に、それをやれるのか。
140文字以上、誰も読まない時代に、それをやれるのか。
3秒のインプレッションの「いいね」がすべての時代に、それをやれるのか。
セックスの情報すらバーチャルに置き換わる時代に、それをやれるのか。
やれるやつ、あんましいないから、こそ、やる価値がある。
たとえば「ホロヴィッツ」に。
偉大なクラシック音楽の作家たちに。
あるいは遠藤周作に。
人類史上の偉大な作家たちに。
恥じない仕事ができるのか。
それは知らん。
でも、たぶん僕はずっと前から、そういう戦いに身を投じてきた。
そこにあって、「信仰」「宗教」「キリスト」という要素は、たぶん最大の武器であったはずだ。
(誰も、いわゆるキリスト教徒ですら、そんなもんの話は聞きたくないであろう、ってことは、重々承知している)
これからもそいつを研ぎすましていく。