正月の三が日を迎えて、
昨年の9月から取り組んでいた、「秘密のオシャレ系インディロックプロジェクト」のEPが完成しました。
完成した、というのはどういうことかというと、
9月にだいたい録音して、ざっと仮ミックスして、
そこから「Marieのヴォーカル」をちょっと録って、
それ以降、忙しくて放置だったんだけど、
年末にやっと「Marieのヴォーカル」も含めてミックスして、
それで元旦にマスタリング処理もやって完成品になった、ということ。
せっかくなので書き記しておきたい。
なんでこのプロジェクトをやることにしたのか。
どういう経緯でやることになったのか。
どういう選択をしてこういう形にすることにしたのか。
それで、なぜ、今それをやることになったのか。
冒頭いきなりなんだけど、なんか、自分の中でそれがタイミングだから、マスタリング処理についてまた書いておきたくて。
昨年2020年にやっと、長年の目標であった”Nabeshima”アルバムを完成させたんだけど、
そのマスタリング処理。
これについても、いつも言っているように、個人でやってるインディバンドだから、いつもそこには限界があって、決して完璧ではないかもしれない。
いわゆる「ラウドネス戦争」が終わって久しいと言われる現在だけれど、僕はこの”Nabeshima”のマスタリング処理も、結構突っ込んで仕上げちゃったから。
でも、やっぱり色々な検証や比較をしてみて、また過去を振り返っても、
この自分がやってきたバンドである伊万里音色(Imari Tones)については、ほとんどの場合には、やはり基本的に「突っ込んでナンボ」の音楽であることがわかってきています。
なんか、「気合い」みたいなものだと思うね、きっと(笑)
僕は「不良」ですらなかったタイプの人間だけれど、一応メタルとかハードロックだから、髪を逆立てるとか、ハリネズミみたいな格好とか、そういうのと同じことだと思う。
それを不格好だとか、おかしいとか言われるかもしれないが、そうした批判に対しては、たぶん「上等だ」ということになるんじゃないかな。
この”Nabeshima”に関しても、他の作品についても、僕が個人レベルで行ってきた「めちゃくちゃ下品な」マスタリング処理については、文句がある人もいるかもしれないけれど、
ほとんどの作品については、マスタリング前の音源のファイルも保管してあるから、(様々な事情で無いのもあるけど)、文句があったら、後々、しかるべき時にしかるべき人がマスタリングしてくれたらいい、ってそう思ってる。
ていうか、本当は時が来たら、16bitに落とす前の24bitのファイルで世の中に公開したい。それもだいたいとってあるから。(諸事情で無いのもあるけど)
(残念ながら最新のマシンなど持っていない僕みたいな環境だと、ハイレートでの録音は現実的ではなかったので、サンプリングレートは残念ながら44.1kHzですよ。しょうがないね。いまどきのプラグインは、ちゃんとオーバーサンプリングしてくれてるのかもしれないが。)
けれど、最近ようやく、ストリーミング時代に合わせてLUFSを、とか、少しはダイナミズムやヘッドルームを確保して、みたいなことも理解してきたので。(やっと、笑)
なので、ベスト盤(今年たぶん発表)のリマスターの作業では、もうちょっと「突っ込まずに」適度な感じで仕上げてみたし。(大人しくなっちゃったよ?)
先日発表した「アコースティックEP」も、それほど突っ込まずに仕上げたし。まぁ、これはいつもの「メタル」ではなくて、アコースティック作品だったから、自然とそうなったんだけれど。
それに、そうはいってもやっぱり-9とか-10dBFSとかのあたりだから、人から見たらそれでも「ぜんぜん突っ込み過ぎ」と言われるかもしれない。
だって、メタルコアとかなんとかメタルとかスラッシュメタルとかそういうジャンルの作品は、いまだに-6dBFSとかでしょ? 知らんけど。
まあ、配信用はまた違うのかもしれないけれど。
でも、そのへんのジャンルは、ミックスの時点でやってる処理がたぶん違うよね。
ミックスの時点ですでに各パートとか各ステムをぱつんぱつんにしてるんじゃないかな。アタック等のニュアンスもばっちり調整した上で。
(そういう意味では、あたりまえのことなんだけど、メタルコアとかは、デジタル時代だからこそ可能になったジャンルだよね。now don’t get me started about Djent.)
そのへんは、僕らはしょせん古臭いクラシックメタル、昔ながらのハードロックだから、もっと牧歌的なサウンドですよ。
だけれど、この、先日仕上げた「秘密のインディロックプロジェクト」については、やっぱり、それほど突っ込まないマスタリング処理をしたよ。
それは、狙っている音が、Imari Tonesとは全然違ったから、やっぱり当然というか、自然なことだと思う。
あるいは、でも、本当のところはノスタルジーだよね。
80年代のニューウェイブっぽい音を狙うとか、そういうノスタルジーがあれば、当然、あまり突っ込まない仕上がりにするじゃない。当時のアナログなレコーディング環境で、音圧競争なんてまだ無かった時代の音は、それが普通だったわけだから。
もっとも、当時のそのへんのジャンルの音源も、SSLだかなんだか、意外とトータルコンプで潰れているものも多いように思うけれど。笑。でも当時は当時で、レコード(ヴァイナル)にするための制約とか、アナログならではの制約がいろいろあったはず。
なんだ、結局みんな潰れてるんじゃん、って思わなくもない。The Beatlesもそうだし、60年代のレトロなバンドとか、みんなそうじゃん。もっとも、デジタルリミッターの歪みでないぶん、アナログのやさしい音なのかもしれないけれど。
そういうレトロ感のあるポップスだったら、いい感じに潰せばいいんじゃないか、って思わなくもないね。
サウンドの処理とかそういう話題はどうでもいいね。
いや、どうしても自分の中で気になってしまってね。
いつも自己否定モード、自己検証モードに入ってしまうことが、最近は多いので。
なぜ、この「オシャレ系インディロックプロジェクト」をやることになったのか。
まず、バンド名、プロジェクト名、ユニット名、は、正式決定はしていないんだけれど、自分の中で、なんとなく決まっちゃってる名前があるので、それを省略して「プロジェクトDK」とここでは呼んでおきたい。
この、DKプロジェクトをやることになったのは、
それは、とあるアーティストの存在。
愛知県出身のとあるインディアーティスト。
女性です。笑。
僕はずっとその方に片思いをしていたので(笑)
その人に歌ってもらいたい、と思って、その人をイメージして曲を書くことが度々あった。
(片思いの話は、長くなるから、ここではしない、笑。でもね、僕はたぶん、一般的な意味での恋愛はしない人種なんだと思うね。それはジェンダーの話に関連して、後でちょこっと触れる。)
で、気が付いたら、そういう曲がいくつもあった。
けれども、いろいろな理由で、そのアーティストさん本人に声をかける勇気は僕にはなかった。
それに、たぶん縁とか必然性があまりないし、実のところ、音楽的にも必然性は薄かったと思う。
僕が書いていた楽曲は、確かにそのアーティストさんをイメージしていたかもしれないけれど、書いているうちに、どんどん違ったもの、表現の幅もかなり広いものになってしまっていたから。
親しい友人の数人は知っているかもしれないけれど、
僕はわりと、あの漫画のデトロイトメタルシティってやつを実写化したみたいな感じの人間で、
というか、そういう音楽の趣味の人って、実は意外といるんじゃないかと思っているんだけど、
自分のバンドでやってる音楽はメタル、ハードロックだし、
僕は自分がギターを弾くと、しょせんはメタルになってしまう、ということも重々わかっているんだけど、
でも、自分が普段、好んで聞く音楽は、どちらかといえばオシャレ系のものが多かったりする。
もっとも、まったく詳しくないので、「オシャレ系」の定義も知らないし、また「オシャレ系」と一言で言っても、人によってその定義や、イメージするものは違うと思う。
2000年代、2010年代を過ごす中で、僕は、わりと、「あまり知られていない」「小規模な」「最先端の」インディロックを好んで聞いていた傾向がある。
たとえば非常にお気に入りのバンドであるところの、日本でもかなり人気を博したニューヨークの+/-{plus/minus}なんかは、その最たるものだった。
他にもいろんなバンドを気に入って聴いていたけれど、恥ずかしいし、詳しくはないから、いちいち名前を挙げることはしない。
けれど、2010年代も半ばくらいになってから、そういう世界のインディバンドもつまらなくなったと感じるようになった。
それは、そうしたインディのシーン自体が、時代とともに陳腐化してしまったこともあるだろうし、また、ソーシャルメディア時代になっていくとともに、世界そのものが変質してしまったことも関係していると思う。
要するに、上から下まで、誰もが狙った音しか出さなくなった。
その結果、天然物の音楽は、世の中に出て来なくなった。
たぶん若い世代は、ギターを持った最初の日から、ソーシャルメディアを意識するのだろうから。(そもそもギターを持ったらの話だが)
けれども、90年代や2000年代の日本のオルタナ系のバンドなんかにもかなり好きなものが多い。
これは世代的なものもあるね。
ヒップホップも詳しくはないが、ダブ、トリップホップ、アブストラクトなんちゃらとか言われていたものも、多少は聴いているものもある。
かといってこれも詳しくはない。
だから恥ずかしいから名前を挙げることはしない。
ただ、まだ古いR&Bを漁るところまでは行っていない(笑)
もう少し歳をとったらやりたいけど。
あとは世代的に、少年時代からブリットポップは大好きだった、これは当然のことだろう。これは実は10代の頃の音楽的な影響としてはメタル以上に大きなものかもしれない。
またこれも例に挙げるのが適当かどうかはわからないが、2017年頃に”Overture”アルバムに取り組んでいた頃とか、フィッシュマンズとかかなり聴いていた。
今でも聴いているけどね、散歩の時とか。
そういえばブルックリンもフリーモントもジョージタウンもポートランド(行ったことない)も、今では行けなくなってしまったが、神は僕らに世田谷を与え賜うたのだ。
単なる散歩の話。
たぶん海外よりは安全に歩ける。
だから、もともと、自分でハードロック、古典的なヘヴィメタルをやっているけれど、
自分でも多少はそうした音楽を演ってみたいと思うのは、それほど不自然なことではなかった。
で、「その女性アーティスト」を意識して書いた曲がいくつもたまっていくにつれて、
また、その内容が、単なるオシャレっぽいものだけではなくて、「あたたかみや人間味の感じられるアコースティックなもの」がいくつも増えていくに連れて、
僕はそのプロジェクトを、「ああ、これはいつかやらなくてはいけない」と考えるようになった。
「その女性アーティスト」のことを考えて書いた曲ではあったが、前述したいろいろの理由で、その本人さんに歌ってもらうことは、その時点で選択肢にはあまり無かったと言える。
(もっとも、今、ないしは将来的に、先方からなんかのきっかけで声をかけてもらえたら、それは喜んで可能性を探りたいとは思っているが。)
けれども、もともと女性シンガーを想定した曲たちだから、それは女性シンガーに歌ってもらわなければならない。
ここで、いかにうちの嫁さん(Marie)が音楽の才能がなくて、いかにすさまじい音痴(ピッチ修正可能な領域をはるかに超える)か、というその話は、前にも書いたと思うし今回は省略しよう。
だから、「音楽の才能のある女性とは結婚しない」と誓った僕としては、たとえそういう女性ヴォーカルのプロジェクトを思い付いたとしても、嫁さんに歌わせるという選択肢は不可能なものだった。
で、これは形にしたいなあ、と思って、
2013年の年末くらいに、僕はそれらの楽曲の中から、3曲をデモの形にした。
で、実際にその翌年、女性ヴォーカルさんとかちょっと探してみて、とある女性ヴォーカルの方に、試しに歌ってもらったりしたんだよね。
でも、やっぱり自分のバンドの方で忙しかったり、なかなかやる気が出なかったり、また必ずしもやるべき必然性を見つけられなかったこともあって、それは中途で放置されていた。
今、思い返して、その女性ヴォーカルさんに歌ってもらったデモを聞き返してみると。
すごく上手いヴォーカルの方だったから、非常にセンスのいいメロディと、高い技術の歌唱で歌ってもらっているが、やっぱりメッセージ的に、たぶんこれではなかったのだろうと感じる。普通に探して、これ以上のシンガーにはなかなか出会えないだろうな、くらいの歌い手さんだったが。
(その方は、なんか才能も経歴もちゃんとした方で、たまにフェイスブックとかの投稿とか拝見しても、リスペクトを感じるのだけれど。)
で、なんとなく女性シンガーはずっと探していたから、知り合いの中にも、なんとなく声をおかけした方も何人かはいるかもしれない。(別にナンパをしていたわけではない。このへんが、女性シンガーっていうものとのコミュニケーションのやりづらいところだ。)
でも、とにかく自分のバンドが忙しかったから、この計画は進まず、ずっと放置されていた。
けれど、昨年2020年。夏のある時。
僕はふと思い立って、今こそ、何年もあたためているこのプロジェクトを形にしたい、と決意した。
それは、また曲が出来てしまったから。
もちろん、”Nabeshima”の制作が完了して、バンド活動が一段落し、やっと他のプロジェクトのための時間が取れた、ということもある。
“Magic Now”と名付けたその曲が出来た時に、うん、これは、やろう、と僕は決意した。
今、ここで、やろう、と。
ヴォーカル。
どんな女性シンガーに歌ってもらうべきか。
ずっとイメージしてた。
誰に歌ってもらったらいいだろうか。
ずっと考えてた。
ひどいよね。
結果。
自分で歌ってしまったんだ。
ただ、もちろん、多少のパートにMarieの声は付け加えた。
この手のジャンルでは、男女のヴォーカルが、オクターブで重なってるのって、べたべたに定番じゃない。
けれども、僕らの場合は、オクターブじゃなくて、もろに同じ音で、ユニゾンで重なることになる。
僕の音域が高いから。
また、僕の声の表現も、ちょっと「なよなよ」した女っぽいものだから。
パートによっては、むしろ「女っぽい」表現をしているのは、僕の声の方かもしれない。
男女の要素の成分が、不思議なバランスになっている。
だから、「いかにもそれっぽい」ものにするよりも、
そういったよくあるものとは違うものにするために、
自分でシンガーとして、ジェンダーを越えた表現に向き合ってみる方が、意義があるんじゃないかと思ったんだよ。
友人知人の女性シンガーに歌ってもらう選択肢も、あるいはあったかもしれない。
けれど、この手のジャンル、この手のサウンドは、キャラクターの相性がとても難しくてね。
実はクリスチャン界隈で、ネット上で見聞きした中で、一人、クリスチャンアーティストの世界では(特に日本では)珍しく、インディロック的な雰囲気を持った女性アーティストの方をお見かけした。
けれども、あまりの年齢差に声をかける勇気が湧いてこなかった。
それから年齢同様に場所や距離の制約も感じられた。
(しかし皮肉というべきかその方は最近上京されたらしい)
たぶん、世代のみならず、アーティスティックな面で、現実には難しかっただろうし。
難しいタイプの人間なんです、私、たぶん。(憐れな笑い)
しかし、しかしだ。
こうして、手探りで4曲入りのEPを完成させ、出来上がったサウンドを聴いてみると。
やっぱり、自分で歌って、そして、一応部分的に嫁さんを起用して、それで形にして、
それでよかったと感じている。
嫁さんは素晴らしく音痴だから、どうしても音声の加工や修正が必要になってくる。
でも、そうやって音声を加工していく中で、また新たなサウンドとか、このDKプロジェクトならではのスタイルを見つけられたような気がしている。
そして、少なくとも2013年の年末にデモの形にしてから、もう何年も、僕はこのプロジェクトを寝かせてきた。
今になるまで、このプロジェクトは進まなかったわけだ。
けれども、その理由もわかった。
ひとつは、僕が自分でそれを歌えるようになるまでの時間が必要だった。
何年か前の僕では、まだこれを歌えなかった。
けれども今なら、技術的に、よりナチュラルに「ジェンダーを越えた」(かどうかはわからんが)声や、その表現方法を、僕は獲得している。
ヴォーカルというか声というか、そっちの話題は、今回は書かないでおこう。技術的な話にもなるし、哲学的な概念とかの話にもなるから。
でも、以前は出来なかった歌唱表現が、今は出来る、ということだ。
こう見えてもちょっとずつ進歩してるんだ(笑)
そして、それは、いろいろなものに向き合うためにも、また新たな表現を追及するためにも、意義のあることだったと感じている。
(そのぶん、「なんか自分ってヘンじゃないかな」みたいな自己否定のパラノイアには苛まれることにはなったが)
それがどんな歌唱だったかは、
DKプロジェクトの歌唱とはちょっと違うし、
また楽曲も、DKプロジェクトと比べたら牧歌的で平凡なものではあるが、
先日リリースしたImari Tonesの臨時アコースティックEP「Bloody Acoustics」の「一匹の羊」(One Sheep)を聴いてもらえたら、わりと近いので、想像してもらえると思う。
これね。
はずかしいんだよね、こういう歌唱をするのは。ジェンダー的に。
だから、この曲も本当は、Imari Tonesの名義で出すの、ちょっとためらうところがあったんだ。
でも、クリスチャン的なメッセージがある大切な曲だったから、やったんだよ。
僕は性的には普通にストレートだけれど。(そのはず)
実は人の内側にあるジェンダーなんてものは、結構曖昧というか、多様なものだな、ということを、このDKプロジェクトの歌唱表現を通じても、僕は実感している。
しかし、面倒だから、その点についてはこれ以上話さないでおきたい。
たったこれだけのことでも、保守的なクリスチャンの人や、ステレオタイプ的な感性の人からは、非難されそうな気もするし。
でも、歌唱表現とジェンダーということについては、前にも書いたことがあると思う。
もうひとつは、これらのサウンドを作り出すために、必要なツールが手元に揃うまで、やはり時間が必要だった。
僕がこの数年、”Nabeshima”を作るために必死になって集めたいくつかの機材(ハードウェアおよびプラグイン)は、そのまま、今後の制作、そして、このDKプロジェクトのためにも活用されることとなったわけだ。
しかも、”Nabeshima”の制作に取り組んだ今となっては、それらの機材の性格や特性も、より理解している。
なぜって、やっぱり個人でやっているからね。
手元の機材や環境の有無によって、制作の質が左右されてしまうから。
だから待つ必要があった。
そして、あれだ、さっき書いた、マスタリング処理なんていうことひとつとっても。
何年も前であれば、僕はやはり古いプラグインを使った「突っ込んだ処理」しか出来なかったかもしれない。
でも今なら、もうちょっと新しいプラグインを使って、「それほど突っ込まない処理」が出来る。
だから、たぶん雲の上のお方(あれだ、神だ)は、時が来るまでこのプロジェクトを進めないように、取りはからってくれたのだと思う。
(もっとも、よそからリリースするんなら、ちゃんとやってもらうけどね、マスタリングにしても)
なんか、家内制手工業というか、ぜんぶ家庭内で完結するというか。
以前から、なんでも自分でやってしまうのは、僕のいけない癖、というか習性なのだけれども。
けれども、まさかやれるとは思っていなかった、このDKプロジェクトも、「自分のところ」にある材料でやれることになった。
その結果について、いいと思う人もいれば、よくないと思う人もいると思うけれども、
それは音を聴いてリスナーに判断してもらうしかない。それぞれに。
このDKプロジェクトは、もちろんすぐには発表しない。
しかるべき時に、しかるべき場所で、しかるべき形を待つと思う。
でもたぶん、このImari Tonesという、ややこしくて、難しくて、売りにくいバンド(ひょっとすると世界でいちばん売りにくいバンド)よりは、はるかに売れる要素があると思っているのよね。笑。
だから、これも少しは頑張って売り込もうかと思っているよ。
売り込むと言っても、あくまでサイドプロジェクトだから、気楽なものだね。
そのプレッシャーの無さが、とても新鮮で、良い。
そうはいっても、なんだかんだ、自前でリリースする可能性も高いけれど。
けれども、これから色々な表現に向き合っていけると思う。
自分の中にあるジェンダーの表現もそうだし、
メタルやハードロックではない音楽性もそうだし、
もうちょっとあたたかな人間味のあるアコースティック作品であるとか、
もうちょっと振り切った尖ったセンスのものとか、
自分の中にある表現を、もっと自由に広げていけると思う。
2018年をもって、10年間やってきたImari Tonesの[Tone, Hassy, Jake]の体制を終了させたけれど、
それは、もちろん難しい決断だったけれど、
でも、それをきっかけに、色々な意味でバンドという形から自由になったことで、こうした他の形での表現へと、自分自身を広げることが出来た。
そういうことも、言えるように思う。
バンドという制約がなくなったから、より自由に表現活動が出来るようになった、みたいなところは。
だから、たぶんこの「伊万里音色」という枠にも、今後は僕はとらわれずにやっていくだろう。
ちなみに、クリスチャン色は、基本的に、それほどない。
無いといっても、自然に、歌詞のちょっとしたところにクリスチャン色が混じってしまうこともあるかもしれないが、基本的にはこれは、別にクリスチャンミュージックという枠では考えていない。
歌詞は、英詞が基本かな。
でも、気が向いたら日本語もやるよ。
やりたいようにやるさ。
さて、またアー写を撮らなくちゃ。
たぶんそのうち、新しいウェブサイトとか、ソーシャルメディアのアカウントを立ち上げることになるだろうと思います。
でも、とりあえず、いろいろ秘密にしておきたいよ。
記録のために書いておきたく思ったのです。