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昨日は渋谷Club Asia Pにて、恒例G-1 Grand Prixのオープニングライヴを務めた。
G-1とは、勝ち抜き形式のギターの速弾きコンテストである。
僕は縁あって主催のやん氏とは仲良くさせていただいて、
今回は、当初出演予定だったワンダースの、不慮の事故による出演キャンセルのため、
急遽ピンチヒッターとしての出演だった。
そして、どうせ出るなら、
ただ出ても面白くないということで、
また、G-1という、僕も友達付き合いさせていただいている彼らに対して、
もっと面白いことができないかと思い、
いろいろスポンティニアスな流れがあって、
クロジュン氏をゲストヴォーカルに迎えて演奏することになった。
伊万里音色において、
僕の他にリードヴォーカリストがいるというのは、初めてのことだ。
伊万里音色が、スリーピースでやっているというのは、
ちょっとした皮肉なことであり、不自由なことであり、
つまり、僕らのような、「元気の良いハードロック」というのは、
歴史上、ほとんど、ギター、ヴォーカル、ベース、ドラムスの、
4人でやるものと相場が決まっているからだ。
元気にアクションを決めながら、動き回って躍動的に演奏をするのが、
こうしたバンドのライヴでは必須だからだ。
また、難易度の高いギターを弾きながら、
同じように難易度の高いヴォーカルを同時にこなすには、
そもそもかなりの無理がある。
それを、スリーピースでやってしまっているところに、
そもそものうちのバンドの難しさがある。
なので、ヴォーカリストを入れての
4人での演奏というのは、
ちょっとした夢だった。
夢がかなって、嬉しかったし、
これは間違いなく必要な経験だったと思う。
ステージは、多くの友人たちに好評だった。
過去の素晴らしいG-1出場バンドたちに、
ひけを取らないステージだったということで、
絶賛をもらったといっていい。
自分としては、
ミスが多かったり、
思ったように動けない場面があったりと、
70点くらいの出来だったけれど。
それでも、
クロジュン氏のしっかりしたヴォーカルの上に、
コーラスをさらにかぶせることができるというのは、
すごく楽しかったし、
コーラスの厚みによる、
ときにジェイクも入っての三声コーラスは、
演奏にゴージャス感を与え、
やはり好評だったようだ。
幾人かの友人たちが、
「いやあ、このままくろちゃん正式加入で4人編成にしちゃいなよ」
と言っていたけれど。
でも、たぶん、くろちゃんも、うちに加入するよりは、自分のバンドがやりたいと思うしね。
自ら演奏して楽曲に取り組んでいる僕らとしては、
正式加入はやはり根本的に無理があるということがわかっている。
残念ながら、これは、一回限りの企画だからこそできることだ。
(まあ、もちろん、なにかの機会には、またやっても良いけれど・笑)
たとえばこれがレコーディングであったり、
今回は選曲をしぼったが、
他のレパートリーなどを含めて演奏すると、
キャラクターや、表現の方向性の不一致といった問題が生じてくるだろう。
過去、何人ものヴォーカリストをオーディションしてきた。
まだこれからだってしてもいいのかもしれないけれど、
歌の技術の良し悪し以前に、キャラクターの問題はいかんともしがたかった。
ましてや、僕が野放図に作る楽曲の、すべての方向に対応できる人でなければいけない。
しかし、実際のところ、
声のキャラクターはともかく、
人間としてのキャラクターを考えると、クロジュン氏は、今まで知っているヴォーカリストの中で、それでもうちのバンドとしてはベストといえるほど必然性のある人物だ。
信仰という面でもそうだし。
だから、確かに、人間性としては、このまま正式加入したっておかしくないほどの人物だ。
だから、彼と一緒にやれないんであれば、たぶん他にやれる人は地球上に一人もいないんだと僕は思う。
そう思って今回、このコラボレーションに挑戦した。
演奏後に、幸屋さんに指摘していただいたように、
リードヴォーカルには、
「インターフェイス」としての役割がある。
僕が、リードヴォーカルならびにフロントマンとして、
少なくともこの日本の環境において、
インターフェイスとして多くの場合機能しないことはとっくにわかっている。
その原因を書き連ねることはここではやめておきたい。
そして、歌の技術としては、僕よりもクロジュン氏の方が、
比較にならないほど上だということは明白である。
(負け惜しみをいえば、トップノートはどうやら僕の方が高いらしい。Illusionsのサビのトップノートは今回僕が担当した。)
だが、いつか誰かが書いてくれたように、
外の環境に出ていったとき、
日本と海外とか、日本とアメリカ、とか、
の、文化ギャップの架け橋としては、
僕は機能するのだ。
ないしは、ハードロックとそれ以外、とか、
そういったボーダーの架け橋。
それは実際に今年身をもって証明した。
そう僕はブリッジだ(笑)
そして、
声のキャラクター、マスター・オブ・パーティー(MP)としての
僕の機能からいうと、
僕の、へたくそであけっぴろげな馬鹿声は、
おそらくは、かの国で演奏した際に、
オーディエンスを、あけっぴろげなお馬鹿キャラクターの世界観に、
連れていく機能があっただろうと思われる。
また、ライヴの成功不成功、
演奏の良し悪し以前のところで、
結局のところ、伊万里音色は、
僕個人の旅路のパーソナルなストーリーテリングであるという本質がある。
そのstorytellingの機能を薄めてしまうと、バンドの本来機能すべき部分が機能しなくなる。
それらの機能をかんがみると、
やはり伊万里音色はスリーピースが基本なのだろうと思う。
クロジュン氏と、一緒にやってみて、思うのは、
やはり彼は最高のヘヴィメタルヴォーカリストだということだ。
彼の男らしいパワフルな声のキャラクターは、
ある種、典型的なジャパメタ的ヴォーカリストということができる。
そして、そのレベルは間違いなく一流で、
今すぐLoudnessに加入したっておかしくない技量を持っていると思う。
だから、そんな最高のヘヴィメタルヴォーカリストと一緒に、
ヘヴィメタルがやれたら良かっただろうと思う。
だけれど、伊万里音色は、残念ながらヘヴィメタルではない。
(ときどきヘヴィメタルだと言ってもらえることもあるけれど)
もちろん、クロジュン氏は、ヘヴィメタルにとどまらない、
それ以上のシンガーだと思うけどね。
昨日のクロジュン氏とのライヴについて、
いろいろと評価をいただけたのは、
とても嬉しいし、
このまま4人でやっちゃえば、というのも、
嬉しい言葉だけれど、
実際は、僕らは、もっと長い旅路を行かなければいけない。
長い旅路を実際に歩く当事者としては、慎重な判断をしなければいけない。
ということだけご理解いただきたい(笑)
インターフェイスの問題についてもうひとつ思ったのは、
クロジュン氏のような、すごく上手いヴォーカル/フロントマンを得たとしても、
伊万里音色としての本質的な不器用さがなくなるわけでは無いということ。
演奏をしていての、客席からの反応は、
友人達の声援こそあたたかかったものの、
それ以外に全体としては、「いつもの日本のライヴ」といった感じで、
こちらが4人体制ではっちゃけているにもかかわらず、
手ごたえを感じないものだった。
その感触は、3人体制で演奏しているときに
たびたび感じる「あの感じ」、いちいち説明はしないけれど、
その感じと何も変わらなかった。
だから、おそらくは、クロジュン氏のような、
凄いヴォーカリストが加入したとしても、
バンドをめぐる状況は、おそらく変わらない。
そして、逆に言うのであれば、
伊万里音色は、「普通の上手いハードロックバンド」
になってはいけないのだと思う。
完璧な演奏ができるようになると、
もっと大事なサクリファイスを、
お客の心に届けることができなくなるからだ。
ライヴ演奏というものと、
バンドの成功ということについて考えてみると。
ライヴで、凄い演奏をすることが、
必ずしも、バンドとしての成功につながるとは限らない。
同じようにG-1に出演していたバンドでいえば、
Sledgeさんという、
素晴らしくものすごい演奏技術を持ち、
凄いライヴをやるバンドが居た。
彼らは解散してしまったけれど、
そんな彼らであっても、バンド運営は決して楽ではなかっただろう。
そこにいる誰もを納得させる凄いライヴをやれば、
バンドとして、そのライヴは成功なのか、
たぶんその答えはNoだと僕は思う。
バンドの成功というのは何かと考えてみた。
今日、ふと思ったことだけれど、
バンドの成功というのは、
行くべき場所、本来向かうべき場所、
本来そうであるべきどこかへ、
たどり着くことなんじゃないかと思う。
それは、物理的とか、社会的なことよりもむしろ、
精神的な意味においてだ。
いつも、ミュージシャン/アーティストに出会うと、
僕は昔から、実際に、あるいは、心の中で、
“How far can your music go”と問いかけることにしているけれど。
それぞれの音楽には、向かうべき場所があって、
精神として、人間として、ミュージシャンとして、
精進し、成長することによって、
その場所に、たどりつくことができれば、
おそらくはその他のものは、自然についてくるんではないかと思う。
社会的な状況とか、成功とか、そういうのは。
その、向かうべき先、
向かうべき場所というのは、
それぞれのミュージシャン/アーティストが、
それぞれの音楽の中に内在しているものなんじゃないかと思う。
また、それを、どれだけ感じ取れるかどうかが、
アーティストとして、いちばん大事な能力なのではないかと僕は思う。
だから、もちろんケースバイケースではあるけれど、
果たして、一本一本のライヴで、
完璧な演奏をして、
その場にいる人すべてを納得させることが、
バンドとして成功なのかというと、
必ずしもそうではなく、
音楽が積むべき経験と修行として、
必要なことをきちんと行い、
「その場所」へ、少しでも近づくステップとなり、
また、
全員ではなくても、
たった一人であっても、
あるいはわかりやすい形で認められなかったとしても、
お客さんの心に、本当に大事な何かを届けることができたら、
それが本当の成功に近づくことなんじゃないかと思う。
そう思うと、
完璧な演奏ではなくて、
もっと大事なものを求める演奏をすべきだと気づくし、
また、ライヴに対する取り組み方や考え方が、
今更ながら、違う角度からわかってくる気がする。
自らが犠牲となって、
ひたすら愛を投げ続けることだ。
それは、もう身をもってわかっていることだ。