2010年9月の日記

■…2010年 9月 3日 (Sat)…….ここしばらくのにっき、きろく
ここしばらく、短期のおしごとにかまけていまして、
なんだかネット活動があまり出来ずでした。

しかしこの失業中の身としては、
日銭稼ぎにありがたい短期のお仕事でもありました。

ええとまず先週の、日記、記録、

日数がたっているため支離滅裂になりますが。

日曜日は、なにがあったかな、
ちゃーちでわーしっぷ、

Y牧師不在の折、
この日は、ミュージックプレイヤーが参加できないという話だったため、
僕もアコギを持ってはいったけれど、
Aさんがなれないギターを弾いてワーシップをリード、
それは、お世辞にも上手という感じではなかったけれど、
そのワーシップする気持ちがすごく表れていて、
ひさしぶりになんかこう、技術とは関係なしにすごく感銘を受けてしまったり。

聞いておくれでないよ、僕が高校生のとき。
あるとき、ある場所で、偶然に、
聞いたんだよ、おそらくは、知的しょうがい者というのか、
なんとか学校とか、そういう人達と思われる、パンクバンドの演奏を、たまたま。
ハンデなのか、逆にアドバンテージなのか、わからんけれど、
どうしてもやはりその熱さに、感銘を受けたんだよ。
いまだに忘れないんだ。
そういう意味では、僕は決して、上手くならずに、よかったといえる。

土曜日、
横浜は、伊勢崎町Cross Streetに、
萩原ゆたかさん&ユミコベックさんの演奏を見にいった。

このCross Street、今年オープンして、
初めて実際に見に行ったけれど、
なかなか面白い会場だ。

木というか木材を感じられる作りだし、
自然な感じだし、
音も良い。アコースティック的な音響には。
どちらかというとアコースティックな会場にはなってしまうのだろうけれど。

こういう会場は、
なんというか、90年代以降というか、
良い意味での90年代の価値観の印象を受けるし、
こういう建造物や施設というのは、
僕の印象では首都圏よりもおそらく地方に多いんじゃないかという気がする。
地方の価値観、地方の未来。

たとえば90年代も半ばにさしかかる頃、
バブル崩壊の中から生まれた、
新しい価値観、
日本の未来はもう少し明るいものだと僕は思っていたのだが、
どうだったかなあ。

今見ているものを見て、いつでも僕は複雑な気持ちになっている。
焼け野原の中から、それらの価値観と精神が立ち上がるときが来るだろうか。

なんて、まったく話がそれているけれど。

そうした良い音響、環境としても合っている中で聞く、
萩原ゆたかさんと、ユミコベックさんの演奏は、
とても印象的で、
僕としては、なんだかあらためて、とても感銘を受け、
とても感動をしてしまった。

もとはといえば、僕はそもそも、この方たちの演奏を見て、
あーなんかクリスチャンになってみっかなーと思ったわけなので、

さもありなんという感じなのですが。

その感動を文字にすることはできないので、
こうして機械的に記録するしかないのですが。

でも、この人達は、やっぱり、今このときに、
すごい人達なんじゃないかと、僕は思った。

このCross Street、例の「ゆず」さんが名付けたということですが、
Crossという言葉もクリスチャン的だし(たぶんそういう意図じゃないけど)、
ゆずといえば、三面記事的な話題でいえば、メンバーのお母様が宗教関係の方という話があったと思うのだけれど、
それがなんだかこんな、ゴスペル音楽を演奏するのにちょうどよいような会場、そして環境になっているというのは、なんだか面白いものです。

というわけで、この会場で、あのイベント、できないかな、と思っているところです。

今回のtemporaryのお仕事をしていても思った。

政権与党が変わったときとか、今も、
移民とか外国人とかそういう論点もあるわけだけれど、

そんな法律とか待たなくても、大騒ぎするまでもなく、イエスとかノーとか言うまでもなく、普通に、日本はもうかなり占領されちゃってるんじゃないかという気がしないでもない。

どの職場に行っても、特にIT関係はそうなんだろうけれど、
外国の方、ヨーロッパ、インド、アメリカ、中国、東南アジア、
いっぱいいるし。

外資系の会社、いっぱいあるし。

良い給料をもらっているのは、彼らで、
いちばん儲けているのは、それらの組織の上にいる欧米の人達みたいな気がするし、

都内の飲食店の店員さんが、ほぼかなり高い確率で中国系の方になってから、もうかなり久しいし。

六本木とか行くまでもなく、どこにでも外国の人があふれているし。
喫茶店でも電車の中でも、日本語以外の言葉を聞くのは、毎日のことになっているし。

もちろん全然オーケーだけれど、全然良いことだと思うけど、外国人の男性と結婚している日本人の女性も、辺りを見回すまでもなくたーくさん居る。

(これは男女間の競争原理というよりは、純粋にアウトソーシングな気がする。押し付け、もしくは放棄。現代の日本人の男性は、人とコミュニケーションを取るところまでに達していない人があまりに多いのだから。そして今や、より多くの男性たちが、現実の女性を恋愛対象としなくなっていたり、するみたいだし。とすれば、結婚すべき男性が不在になった日本人の女性としては、実に現実的に当然な対応だ。日本はもはや「夫」という役割すらアウトソーシングしているのではないか。どどど、どんだけ。)

むしろそれでいいのかも、しれないけど、
自分たちで何も決められない、何も変えられない、誰も責任を取らない、
リーダー不在の国民としては、
トップは、優秀なリーダーや経営者の多い外国人にやってもらって、
日本人はその下で働くほうが、むしろ、そのほうが幸せなのかも、しれないし、
あるいはもう、そんな国に、なっているのか。

まあ芸術家気取りのダメ人間の見本である僕が言える立場ではないが、
そんで、欧米で普及しているキリスト教の信者やってる僕がいえる立場でもないが、

たとえばクリスチャンにしたって、
日本の人口の約1%と言われているが、
実際、これだけ外国人が多いと、
日本にあって、外国人による外国人のための教会が、かなり多いんじゃないかという気がしてくる。
うちのVICもだいぶそんな感じだけどね。

つまりは、なんだかんだ、法律する前に、戦争する前に、
経済的、文化的、社会的に、なんだかいつのまにか、とっくに確実に、
この国は負けちゃっているんではないかと、加速度的現在進行形で。
そう言いたかっただけ。

この前、終戦記念日あたりに偶然見た夢は、そういうことだったのかも。

でも、負けたところから次の本物のニホンが始まるのであれば、
どんどん徹底的に負けちゃえばいいと思う。

木っ端微塵に社会の仕組みから文化から、負けちゃえばいいと思う。

いつも外国に移住したいと言っているけれど、
なんのことはない、
あと10年もすれば、日本も外国になっているかもしれないと思う。

僕としちゃあわりと歓迎だ。

あとは、所蔵している漫画を読み返したりしてました。
少年時代からの、自分の漫画のチョイスだけれど、
そりゃ、あまりいろいろ読む方ではないけれど、

ちゃんと必然性があるんだな、と、不思議に思って読み返してました。
ちゃんと、すべて自分の人生のストーリーに関連するものを読んでいたんだなと。

自分のやってること、やってきたこと、そのままだもん。

もひとつ、思考の記録まで。

いろんな教会さんを訪れたときに、
言語の問題だとは思うんだけれど、

たとえばHillsongにしろVineyardにしろ、
ワーシップソングを、
英語で歌ってるぶんには、
そんなに違和感を感じないんだけれど、

日本語訳の歌詞になったとたんに、
とたんに違和感を覚えるのは、なんなんだろう。

「日本語とロックの相性」なんて旧いissueではなく、

つまりそれは、敬語という言葉のニュアンス、
上とか下とかメタ情報を含みすぎる日本語の副作用、

Jesus resurrected
っていうと、別に、へえー、そうなの、って感じだけれど、

イエス様がよみがえられた、
っていうと、なんか、その。

敬語にして、へんなメタ情報が付加されたとたんに、
とたんに意味が違ってしまう。

イエス様が、よみがえられた

と敬語にした瞬間に、なんか、いきなり嘘っぽい他人事になってしまう。

自分とは関係ないことになってしまう。

いきなり思考停止して信仰がなくなって宗教になってしまう。

日本語の持つ複雑なメタ情報伝達機能により、勝手に、

(イエス様というものすごく偉い方が偉大なことをしたけれど、あなたには関係ないのよ、だからあなたはおとなしく言うこと聞いてなさい)

という翻訳に、脳内で変換されてしまう。

日本語が高機能すぎるからいけないと思うんだけれど、
対策として、ジーザスのこと聖書のことを語るときに、
敬語とか動詞でも尊敬語の形でしゃべるの、やめたほうがいいと思うなあ。

イエスというおっさんが、
いい人だったのに、
わざわざ十字架で死んだ。
なんでやねん。

と、
これくらいシンプルにしたいと、

といっても、
おっさん、
なんでやねん、
このへんがすでに、メタ情報含んでるね。

自爆でした。

つまり、日本語は、高機能すぎて、
「本当に親しい人に、本当に心をこめて、機会をとらえて、素直に話すのでなければ、ちゃんと伝わらない」

高機能すぎて、マスに伝えるには、制約が多すぎる言語かも。

だから政治も機能しないのか。

No(687)

■…2010年 9月 3日 (Sat)…….すみだジャズ映像
というわけで、先月8月21日にやった、
すみだストリートジャズフェスティバルの演奏の映像です。

こちら

こちら

これね、演奏し終わった後には、
手持ち無沙汰な単体ヴォーカルという役割に、
欲求不満だったり、

手持ち無沙汰なひどいパフォーマンスしちゃったなーと、
思って、
結構ひどい気分になっていたんだけれど、

ビデオの記録を見てみると、
結構いいじゃないかと(笑)

ジャズフェスティバルという場に似つかわしいかはともかくも、
それなりにちゃんとフロントマンらしくしてるじゃないかと。

部分部分で、ちゃんとハイトーンも決めてるし。
いや、下手だけど。

単体でヴォーカルやると、
Brett AndersonとDavid Lee Rothの中間くらいという、
ヘンな影響の立ち位置になってしまうので、

どうしてもグラム的にくねくねしてしまうし、
ヘンな立ち位置の自分が恥ずかしいんだけれど、

まあでも、Joe Motterのトランペット、
それから、皆の優秀な演奏を、聴いてくれたらいいじゃないかと。

No(688)

■…2010年 9月 6日 (Tue)…….日曜日は教会アコースティック
今週の日曜は、
YCC (Yokohama Christian Church)さんにて、
われらImari Tonesはアコースティック演奏をします。

こちら

YCCは、ふだん僕が通っている横浜VICの、いわば兄弟教会というのか、
おなじところから分かれたというか、
そういうところだと思います。
何人か、知っている人もいますし、
先日バーベキューに遊びにいったりも、しました。

そういったご縁で、声をかけていただいたのは、
とてもありがたいことです。

先日の茅ヶ崎での子供たちの前での一人アコースティックも、
ここの牧師さんに声をかけてもらったものだったしね。

どうしても、クリスチャンなバンドをやっていると、
アコースティック演奏をやる機会というのはあります。
特に、教会でロックを演奏する環境が少ない日本ではそうです。

そのことは、最初からわかっていたことだったので、
昨年とか、今までも、バンドでアコースティック練習をしたことは、
少しはありました。ちょっとだけ。

しかし、今回、このお話をいただき、そういうわけで、
今、バンドで、はじめて本格的に、アコースティックセットの練習に取り組んでいるわけです。

ヴォーカルの歌い方や発声から、変わってくるし、
リズムやグルーヴのあわせ方も、また変わってくるし、

良いことを言えば、
エレクトリックでやっていて、いかにヴォーカルの発声がなおざりになっているかとか、
リズムも曖昧なままでごまかしていたか、などがわかってきて、
良いトレーニングの機会にはなっています。

そして、選曲としても、
アコースティックセットでやれる曲というのは、
また限られてくるので、
難しいところです。

またわがImari Tonesは、クリスチャンロックバンドのはしくれではありますが、
ふだん教会でワーシップを担当しているバンドではないので、
いわゆるスタンダードなワーシップソングのレパートリーは決して多くなく、
(この秋、もうちょい増やすつもりではありますが。どスタンダードなやつを。)

また、こういう機会に求められるのは、
単純に一般的なワーシップソングを演奏することというわけでもないので、

手持ちの、オリジナル楽曲の中から、
どうやって、神様に捧げる演奏をするか、というのは、
なかなか挑戦ではあります。

いつものように、
Testimonyから入って、
Faith Riderで終わる、
というわけにはいかないわけです。
(どちらも元気のいいヘヴィメタルソングですから)

さて、そういうわけなので、
アコースティック演奏も、次第に準備して対応できるように
なってきた昨今。

そういった環境での演奏も、依頼があれば対応できますよ、と。

とてもチャレンジングです。

でも全力を尽くします。

さて、いろいろと、初夏、夏の間に、
いろいろと不透明だった先のスケジュールが、
見えてきたので、
秋以降のギグの予定、活動の予定を、計画しなくてはいけないんですが。

今のところ、まだまだ計画中です。

ライヴを、何本かやるかもしれないし、
あるいは、やらないかもしれない。

いや、まったくやらないということは、無いと思いますが。

新曲”Living Water”にも取り組まないといけないし。

しかし、恥ずかしながら、私たちは、国内の一般的な、インディーズシーンのライヴハウス演奏みたいな場からは、あまり芳しい手ごたえを得られていないバンドだということもあります。

もちろん、だからこそ新しい挑戦を、していく余地があるとは思いますが。

また、そういう普通のバンドがやるようなブッキング以外にも、
あの場所やら、あの企画やら、そういった、自主的な動きを、仕掛けていくつもりではありますが、
どうやってこの秋、そして次の遠征までの準備を、乗り切ったものか。

思案のしどころです。

No(689)

■…2010年 9月13日 (Tue)…….「今更ながら再度」
少し毒というわけではないんですが、
そんな良い感じのY牧師の話とは別に。

10日くらい前に書いた文章を、アップしないでおいたやつ。

あまりにも今更にあたりまえの普通のことなので、
書くのやめようと思ったんですが、
しらないうちに誰かの役にたつのかもしれないし。
逆に、しらないうちに誰かを傷つけるのかもしれないけど、
それはそれで。

それとは関係ないひとりごとを。
過去に何度もくさるほど言って、書いていることで今更感満載ですが。

さてマイミクさんにも若いバンドマンさんたちがそれなりにいるのを承知の上ですが。

こんな音楽不況の世の中、
音楽業界というよりはロックそのものが凋落していく時代、タイミングにあって、

俺は音楽で食っていってやる、とか、
ビッグになってやる、とか、
絶対にプロになるんだ、
とか、

よもやそんな人は、もうそんなに居ないとは思いますが。

10年以上前には、まだ、よく居ましたよね。
「私、歌が好きなんです!」
「夢をあきらめたくないんです」
みたいな子。

CDの売上落ち込みなんてことの前に、
メディア自体の凋落、
そしてコンサートにしても、年取ったベテランのアーティストばかりが
儲けている事実、

年々小さくなる公演規模、
今や若い世代のバンドが、ひととおりの成功を収めたとしても、
どれだけの収入や、見返りが期待できるか。

ましてや、時流や流行にのっとった音楽カテゴリ、活動内容ができるならまだしも、
本格志向のロックをやるんだ、とか、自分たちのやりたいことをやるんだ、なんて人が、
食っていく、とか、そういう前に、

もしそれがうまくいって、それがウケたとしても、
それは、小さなコミュニティの中の、ごくローカルなものに過ぎないわけで、

音楽で食っていく、なんていうのであれば、
あるいは、もっとお仕事的な、裏方的な、仕事を選ばずにやっていく方向性であれば、
まだ可能性はあるのかもしれませんが、
でも僕はそういうの知らないのでなんともいえないけれど。

メディアが捏造し先導する度合いの強い日本の音楽マーケットの中で、
そのメッキがずいぶんはがれてきても、皆が白々しくなんともないフリを続けるような社会の中で、
それでもまだメディアの中で持ち上げられたいと思うのか。

裏にあるからくりが見えても、見えないふりで、
それでもまだ夢なんてうそ臭いことを言うのか。

基本的には、音楽とか、バンドとか、やっている人には、
特に、その人が、本当に好きで、真面目にやろうとしてる場合は、余計に、
やめておけ、って、まずそう思うよね。
報われるわけがないのに、って。

僕は、いつも言っているように、
10代の頃から、音楽ビジネスとかプロとかを信じていなくて、否定していて、
それでも仕方なくやると決めてしまった人間で。

僭越ながら、音楽業界をめぐる状況が、こうなっていくだろうことは、
始めた頃、すでにわかっていたので、
だから、最初にまず絶望があった。
どうにもならんだろうな、どうしようかな、というあきらめが前提にあった。

そっから先の答えは、
自分で見つけなきゃいけない。

それが見つけられないんだったら、
自分の大事なものをかけてまで、やる必要はないよ。

でも、音楽活動とか、バンド活動は、
やっぱり、それはそれで、楽しいことだし、素晴らしいことだというのは、それも一方で、変わらない事実だ。

音楽をやっている人、
ロックが好きでバンド活動などやっている人達に、
共通して願うのは、

自分の音楽が行き着く、本来その音楽が内在するゴールに、
きちんとたどりつくことができるように、

それだけをいつも願い、祈っています。

そして、ひとの音楽や演奏を聴くときには、
その音楽が内在する運命と、たどりつくべき場所を、
ききとるように思うようにしている。

それをまっとうできれば、
それぞれに答えは、見つかるのだから。
きっと。

ほら、今って、
どのカテゴリでも、制作に必要なハードルって、
すごくなくなっているから、

1億総アーティスト状態じゃない?
少なくとも、人口の30パーセントくらいは、
アーティスト状態じゃない?

そんな時代に、
どういうことを、どれだけやる意味があるのか、
ってことだと思うんだけれど。

つまりね、この厚い壁の前で、嘘にも欺瞞にも逃げず、
壁をやぶろうとするには、

たとえばさ、人生の最後まで、
誰も、それを良いと言ってくれなくても、
たとえ成功もせず、誰も見向きもしなくても、

「ざまあみろ、俺は天才だ」
って、胸を張って言い切れるんじゃなければ、
やったって意味がないってことさ。

技術でもなければ、
戦略でもないし、
単なる運でもなく、
成功ですらないんだろうけど、
何ができて何を与えることができるかということ、

つまりは、僕はそう言うつもりなんだよね。
のぞんではじめたことではないにせよ。

傲慢もひとりよがりも気にしない。
謙虚なんて言葉は嘘だと思うよ。多くの場合。

本当に感謝をするためには、
それと同じだけ、傲慢にならなきゃいけないんだと思ってる。

神に対しても、人に対しても。

つまりは、
都合のいい夢みたいなこといってないで、
人任せの、人の評価とか、他人をあてにしたプランなんて立ててないで。

生き延びるすべを探せよと。
芸術家になりたいのなら。

偏屈は承知です。

すべてをはじめる前に、
ある人に、
「自己満足で終わるなよ」
といわれたことを覚えている。

でも、アートのおおもとは自己満足だ。
だから、
その答えを出すためには、
ほんとうに、死ぬまでわからないと思っている。
自己満足で終わってしまうかもしれないけどね。
やるだけやってそれなら、しょうがない。

でもね、ひとつつけくわえたいのは、
たとえ自己満足の域を出ることができなかったとしても。

(じゃあさ、10万枚レコードを売ったら、自己満足じゃなくなるのか。
武道館でコンサートしたら、自己満足じゃなくなるのか。
そうかもしれないけど、それは、それが出来る人だから言えることであって、
できない僕には、それは言えません)

自分の望むような活動が、できない人もたくさん居る、見てきた中で、
これだけ、いろいろな活動を、追及して歩いてくることができた自分は、
現時点で、十分に幸せ者だと思う。

幸運だった、
ツイていたんだと思う。

そのことは、認識していたい。

No(690)

■…2010年 9月13日 (Tue)…….地、地平
ここが、僕に与えられた最後のモラトリアムの場所か。

わるくない気分です。

この歳になっても、
まるで、上京したての若者のような、
夢のある人生ができること。

同時に、いろいろと向き合う、
face the truthしなくてはいけないことが
あるだろうから、
いつどんな覚悟だけれど。

恋をしている人はしあわせです。

自分の求めているもの、
恋焦がれているものがわかっていれば、

いくらでも、希望と力が湧いてくるのだから。

ときどきわからなくなったりもするけれど、

やはり人は、自分が恋焦がれているものから
目を離してはいけない。

それをまっすぐに見つめていなければいけない。

この歳になってもいまだに嫁さんにちゃんと
恋することができるのは幸せなことだ。

いつも僕はこう言うけれど、
恋というのは異性にひかれることを言うんじゃない。

運命に引かれることを言う。
心の方位磁石が、人にはちゃんとついている。

だから、自分が恋焦がれているものを見つめて、
追いかけていることができれば、

自分の人生を愛することができる。
そして、そばにいる大事な人を愛し続けることができる。

僕は、ロックの女神の導きを信じている。

No(691)

■…2010年 9月13日 (Tue)…….あいぽんほめる
2年前の夏に買ったiPhone 3Gをまだ使っている。

嫁さんは既に3GSになっている。

iPhone 4には変えるかもしれないし変えないかもしれない。

いまではとっくに、

iPhoneは普及して、みんな使っているし、

日本は世界でもいちばんiPhoneをたくさん使っている国になったと思うけど。

そりゃまあAppleの、自分たちの利益になるような、
エコシステムというのか、
帝国を作ろうという戦略には、

そろそろ嫌気がさしてきてはいるけれど。

ローカルミュージシャンの一人として、
iTunes storeさまさまではあるけれど、
アップルを介さない楽曲配信にシフトしていく流れが
今後さらにあるだろうと思うけれど。

でもね前にも言ったように、
僕は携帯電話は、いやいや、しょうがなく持つものだった。

けれど、iPhoneが出てからは、
好んで持ち歩けるものになった。

そして、電池が、なんて最初いわれていたけれど、

それまで、携帯電話は、1年もすると、
電池のもちが悪くなっていたものだけれど、

僕のiPhoneは、まるまる2年が、すでにたつけれど、
まだまだ、かなりそれなりに、十分に電池は持つ。

むしろネットをいろいろ使わなければ、
それまでの普通の携帯よりも、電池の性能はよっぽど良いんじゃないかと
思ったくらいだ。
(そんで、充電するスピードも速いし)

これは、きっと、普通の携帯よりも、
「電池を最後まで使い切る」機会が多かったせいだとは思うけれど。

いろいろな都合と、経済状態にもよるけれど、
諸事情が許せば、
僕はもいっぺん、アップルを選び、
iPhone4を使うことになるだろうと思う。

でも、それでまた、2,3年使ったら、
その先はわからないな。

たぶん、違うものが、違う会社から出ているといいなと思います。

No(692)

■…2010年 9月13日 (Tue)…….レゲエ曲、映像作家さん求ム
Y牧師がガーナから帰ってきました。

家族のいろいろのために、帰省していたということなのですが、
レコーディングを終えたレゲエソングを持っていき、
本国ガーナで本当にラジオ出演などしてしまったり、かなり熱い展開になってきたようです。

半年後には本当に本国でスターになっているかもしれません(笑)

そういうわけで、本国でのテレビでかけてもらう用に、
Y牧師は、2曲ほど、ビデオクリップというのか、
いわゆるPVを必要としています。
できればプロフェッショナルなクオリティの。

結構、映像作家さんとか、知り合いに居ないので。
(居れば、自分らのビデオも頼んでますよー)

こころあたりがある方、おられましたら、
ぜひ、教えてほしいところです。

Y牧師は、ガーナでは、強力な友人親類のコネクションがあるし、
結構いい家柄のような話も聞いている。
(ちなみにY牧師のお兄さんは、日本の某国立大学で教鞭を取り、また在日ガーナ人のアソシエーションみたいのの会長さんみたいな人らしい。この前、日経にも載ってたし。)

また、たとえば日本やイギリスやアメリカで、ブレイクし注目を浴びるよりも、
聞く限りではガーナで注目を浴びる方が、まだ環境や土壌として、簡単なことであるらしい。
そして、一度ガーナで注目されてしまえば、イギリスやヨーロッパにも広がっていく可能性が高いと。

そういったことから、
僕らも、Y牧師から、「一緒にガーナに行って演奏しようか」
などと、半分冗談、半分本気で、よく言われていたりするけれど。

確かに、アフリカのマーケットというのは、
これからの新しいフロンティアとしては、
注目すべき選択肢かもしれない。

でも、現状、アフリカ遠征、アフリカのマーケットに挑戦する、
勇気、余裕、動機は、僕らとしては持ち合わせていないというのが現実だ。
(とくに、リソース、余裕の面で)

ほんとは、それくらい、したいんだけどね。
なんでも挑戦じゃん?

No(693)

■…2010年 9月13日 (Tue)…….YCCアコースティック演奏感謝
昨日は、YCC (Yokohama Christian Church)にて、
わが伊万里音色(イマリトーンズ)、
アコースティック演奏をしてきました。

前にも書いたように、
このYCCさんは、
私(とうちのメンバーもときどき)が通っているVIC (Victory International Church)とは、
たぶん兄弟のような関係の教会で。
(もともと、昔、YCCという大きな教会があり、そこから分かれたと思われる)

なので、知っている人達も、何人か居たりする、
他人とは思えない教会さんです。

そしてなにより、バンドの3人でアコースティック演奏を行うのは、
実は初めての機会でした。

会場が、会議室ということで、
マイク等のPA設備もなく、
本当に生声、生歌、生ギターでしたが、
(ベースのみ、小型スピーカーを使用しました)

いつも言っていることですが、

演奏というのは、その聞き手、受け手の人々の持っているものによって、
演奏する方も、表現できるもの、与えられるものが、違ってきます。

昨日は、初めてのアコースティック演奏とはいえ、
真心を込めた、良い演奏ができたと思います。
YCCの皆さんに喜んでもらえたことが、なによりも嬉しいです。

なので、やはり良い演奏をすることができたことは、
YCCの皆さんと、G牧師さん夫妻、
皆さんが、とても良い人々、素敵な教会だからこそ、
できたことでしょう。

また、僕らを、アーティストとして、誠実に扱ってくれた牧師夫妻の気持ちに、本当に感謝し、演奏をもって報いたいという気持ちでいっぱいになりました。

それから、ちょこっと、新曲”Living Water”も、こっそりさわりだけ歌ってみたりしました。

最近いつもそうしているように、
動画をYouTubeに記録しました。

とくに最近、演奏の様子を、インターネット上に残しているのは、
バンドの演奏活動など、いつできて、いつ出来ないようになるかわからないものだと
いうことがあるからです。

ある場所で、ある時に、活動ができている間に、
その記録を残しておこうという気持ちがあります。
今という瞬間は、永遠ではなく、あたりまえのものではない、
というこの認識は、
別にバンドに限らず、誰にでも何にでも共通のものと思います。

ゆえに、一度一度の演奏の機会を大事にしようという思いがあります。

(しかしとりあえず、イマリトーンズ、この秋、年内に、3,4本の自主企画ライヴを、少なくとも予定しておりますよ)

というわけで動画記録です。

MCの内容も記録してあります。
クリスチャンの音楽家の一人として、
音楽と同じくらい、自分の中にある言葉を、大事にしていかなくてはいけないという思いがあります。
神は言葉であり、イエス・キリストがもっとも大事にしたのも、言葉だったのですから。

英語であれ日本語であれ、
英語の場合は、母国語じゃないもーん、という言い訳が可能ですが、
それにしたって、しゃべること、そして声の表現には、
多くの様々な情報量が含まれます。
そのために、内面の人間性や、経験や、自分の生き方が、
大事であろうと思います。

私は口下手で、皆がするようなMCや、
普段のおしゃべりは、とてもできませんが、
自分なりに自分の言葉で神様のことを語ることはできます。

そのためのギターであり声であろうと思っています。

こちら

こちら

こちら

このI Want A Revivalは、
ちょっとギターも間違えてるし、
朝っぱらの演奏で高い声も出てませんが(笑)

あまり演奏する機会のないレア曲(?)なのと、しゃべった内容を記録しておきます。

この前日に、メタルヴォーカリストの「熱きRYO」さんとスタジオでセッションして、
彼の素晴らしいヴォーカルにひきかえ、自分はやっぱりシンガーとしてはダメだなあと思っていたところですが(汗)

しかし、シンガーとして恵まれていなくても、伝えるものは声を通じて伝えられると思いました。

技術的、素質的に恵まれていないシンガーだからこそ、
勇気を持って張り上げるハイトーンによって伝えられるものがあるのだと思いたい。

今の自分にとっては、歌うという行為は、勇気の産物であり、自らを投げ出して捧げることです。

そんな感じ。

午後には、VICに行って、
皆さんに、いろいろと悩みを聞いてもらったり。

なぜか、ゴールデンカップス関係の方(詳細は知らないです)が来ていて、
即席セッションするはめになったり。

良い一日であったと思います。

No(694)

■…2010年 9月14日 (Wed)…….まだ走れるうちは、弱音を吐くな
今日は前途あるクリスチャンの若者(若い!)とデートでございました。
御茶ノ水にて。

夢と志のある若者の役に立てるというのは嬉しいことですし、
若者にアドバイスを求められるというのも気分の良いものです。

ふだんいつも「聞き役」を自認する私ですが、
今日はいつになく饒舌にしゃべってしまいました。

少しは彼の役に立つ話ができていたらよいんだけれど。

んで、その後、御茶ノ水ということで、
楽器屋をふらふらしていて、
彼に、「ギター弾いてくださいよ」と言われて、

ちょっと試奏してみたんだけれど、
ワタシ、いつも、試奏とか、恥ずかしいのでばりばり弾かないし、
こんなふうに、いきなり弾いてみてといわれても、
なに弾いていいかわかんなくなっちゃう。
しかも、そんなふうにそばで見られてると・・・・

まったく指も動かず、たどたどしいプレイしかできませんでした(泣)

ああ、これでも、ライヴの後は、いつもギターヒーローなんだけどなあ・・・。(遠征中は)

実は、EVHのWolfgangの新しいやつをためしたんだけれど、
もちろん、いいギターだったけどね、
アンプの音も悪かったのか、
あるいは、MusicMan Axisもかつて愛用してたけど、
速弾きには適していないスタイルのギターに思えるし、
もはや僕はあのギターは合わなくなってしまったのか。

少なくとも僕にとっては、
EVH-wolfgang-Axis系は、速弾きするギターでは無いなあ、と。
(豪快にフリースタイルでハードロックするギターだけれど、速弾きでは、ない)

それはともかく、Albitの新しいペダルなんかも試すことができて楽しかったです。
彼が帰ってからまた試奏したら、ちゃんと弾けたし・・・とほほ。
若者の前でかっこわるいとこ見せちゃいました。

(でもね、”Departure”というオリジナルのタッピングの小品を弾いたけどね)

そして、Kさんに、長いメールを出していたんですが、
iPhoneからみると、早速お返事が。

迅速に的確な内容を返していただいたKさんに敬服しつつ、

その内容に、なんだかびびびっ、と来ている自分がいました。

うーん、どうなんだ、こういうことなのか、
こういうことなのか?!

前途ある若者にも、ちょうど話したところでした。

これからレースを走るとき、

自分が、ゴールにたどり着けるのだと

あらかじめわかっていたのなら、

どんなに楽でしょう。

もし、行き先がわかっているならば、

最後にゴールにたどり着くことを、知っていたならば、

最後にそれを手に入れることができると、知っていたならば、

そこへ向かう努力も、どんなにか楽に感じることでしょう。

どんなにか、苦しいレースも楽になるでしょう。

だから、信じることのできる道を走ろう。

自分のゴールを、理屈でも結果でもなく、信じられる道を。

つまりは、それがFaith(信仰)。

そう、目的があれば、人は走れる。

確かな目的があれば、人は、山の頂上にたどりつける。

わかんない。

まだ、わかんないです。

考え、検証し、リサーチし、

神様に答えを求めます。

でも、今、結論を出さなくてもいいんだと思う。

なぜか。

まだ走れるからだ。

走れるうちは、

次のレースのことなど、考えるな。

走り終わって、

ぶっ倒れて、

もう走れなくなって、

次のレースのことを考えるのは、それからでいい。

でも、少し気が楽になりました。

感謝 in Jesus

No(695)

■…2010年 9月18日 (Sun)…….よわね
クリスチャンになってからこっち、

いいこともたくさんあったけど、

毎日のように、

昼間には胸の痛みを感じながらとぼとぼ歩き、

神様に対し、

至らなさと申し訳なさに顔を伏せ祈り、

とくに最近は、

自分よりも成功している人達を見ては卑屈な気分になったり。

言い訳をしらない間にしていたり。

ひねくれた物言いをしてしまったり。

明日のお金やごはんにどうしようかと思い悩み、

お金のなさに思い悩み、

自分の年齢にあせりと余裕を同時に感じながら、

たいした仕事もできない自分の身に愕然とし、

将来の行き詰まりに不安とあきらめを感じながら。

自分の怠慢さに日々おののき、

それでも我を曲げようとしない自分の頑固さに半ばあきれ、

神に身をささげると言いながら、

たいしたものにもなれず、たいしたこともできず、

日々を生きることで精一杯で。

どうしたもんかと途方に暮れている。

うん、クリスチャンとして理想的な状態じゃないか(笑)

ちょっとは自分でひどいめに会えば、

神様により頼むってことを覚えるってもんだ。

だめだ、あんましネガティヴになれない(笑)

盲目でいいよ。

視野なんて狭くていい。

人のことも世界のことも関係ない。

神様と自分の間のことだけ。

神様がくれた祝福のことだけ考えてればいい。

ありがとう神サマ。

No(696)

■…2010年 9月18日 (Sun)…….げんかい?
今まで自分は、

自らつかみとった、

ロックンロールの哲学と、

独特の宗教観と、

持ち前の行動力と、

精神のマジックで、

ここまで自分の人生を切り開いてきたけど、

それらを総動員しても、

変えられない現実というものがある。

越えられない壁というものがある。

「不可能なことは何一つない。」

「すべては幻想にすぎない。」

「視点を変えればすべてが変わる」

「神様にだけ届けばいい」

どれだけ試行錯誤してみても、

現実は変わらない。

お手上げかな、なんて思ったりする。

でも、もし、すべての手立てが、なくなったとしても、

ひとつだけ、自分の中に、残された知恵がある。

それは、感謝することだ。

今の状況に、

これまでのことに、

感謝することだ。

あせることなんてない。

人生は楽しい。

もし、走れるところまで走って、

これ以上走れなくなったら、

ちょっと休もうじゃないか。

限界ってのは、

自分で決めるものじゃない。

時間なんてものは、

人がコントロールできるものじゃない。

感謝することだ。

神に従う者のはしくれとして、

それが日々のつとめだ。

思い返せば、

これまでの人生の中で、

これよりも厳しい状態というものが、

これよりももっと途方に暮れてしまうような現実に直面したときが、

あった。

僕らはその壁をのりこえたんだ。

それを思えば、

その後の人生は余興のようなものだ。

「恐れるな。私はすでにこの世に勝利した。」

って、ね、ジーザスは言ってくれる。

誰も何をする必要もない。

I got nothing to prove, at all.

のんびり楽しんでいればいいのさ。

No(697)

■…2010年 9月18日 (Sun)…….羨ましい男
2月の遠征で出会った
クリスチャンラッパーのBrinsonが、
2ndアルバムを出した。

こちら

熱い男だった。
そして、気が合った。

もちろん、向こうの方が、ぜんぜん「偉い」人だったけど。

僕はBrinsonが羨ましい。

彼は、この時代らしく、
すごくインディペンデントにやっている。

そりゃ僕らだってインディペンデントにやっている。

でも、環境が違う。

僕と彼とでいちばん違うっていうのは、

彼は自分のレーベルを持っている。

Godchaserzっていう、かっこいい名前の。

しかも、クリスチャンヒップホップ専門のレーベルだ。

おそらくは地元フロリダはJacksonvilleを拠点とした。

僕も、レーベルの名義だけは持っている。

でも、ちゃんと始動、運営は、できていない。

そして、なにより日本で、クリスチャンロック専門のレーベルなんて、

ちょっとできそうにない。

(できるかな?)

また、いろいろ僕らも立ち位置が独特なこともあって、

僕らイマリトーンズと、ならびに僕と、

戦線を共にしてくれるような「レーベルメイト」のバンドなんて、

なかなか、見つからない。

(配信中心になるし、しかも、ほとんど海外向けだけれど、
うちのレーベルの名義に参加してもいいってバンドマン(クリスチャンだとモアベター)がいたら、
ほんと声かけてほしい。

最近、アメリカのアマゾンに、初期費用あまりかけずに、
物理CDを置く方法も、見つかったし。
本気で組めれば、力になれると思う。)

だから、Brinsonが羨ましい。

アメリカには、インディペンデントに、音楽活動をしていく、環境が、とても整っていることを、知っている。

また、Brinsonは、本場ナッシュビルの音楽ビジネスの学校を出ているし、
それに、Ordained Minister、牧師の資格も持っている、牧師さんだ。

牧師になるなんて、僕にはたぶん遠い遠い夢だ。

彼は僕にないものをいくつも持っている。

インディペンデントに活動する、そのスピリットが共感するがゆえに、
僕は彼がうらやましい。

そんなBrinsonの、
2ndアルバムは、これがまた、とてもいい。
OMGってタイトルだ。

僕は、古典的な、政治的なメッセージ、
または、ポジティヴな社会的なメッセージを持った、
昔のヒップホップは、大好きだけれど、

クリスチャンヒップホップは、
まさに、
ヒップホップはアメリカの底辺社会に、
福音を広めるためにこそ、
生まれたんじゃないかと思うくらい、
素晴らしい表現手段だと思う。

彼のインディペンデントな姿勢もとても伝わってきて、
とても元気の出る音楽だ。

こちら

ちなみに1st(Escaping Me)もすごくいい。
たとえば「教会で言っちゃいけないこと」って曲があってすごく笑える。

iTunesでも買えるけど、
アメリカだと9.99ドルだけど、日本のiTunesだと1500円になっちゃうので、
(為替を考えるとほぼ倍くらいの気分)

ここでダウンロードしたほうがいいじゃないかと、思う。
こちら

こういう、インディペンデントな配信サイトが、
充実してるのも、アメリカの羨ましいところだ。

クリスチャンラップ専門で、
配信サイトなのに、「Devotion」のコーナーまである。

オーマイガッド!

No(698)

■…2010年 9月23日 (Fri)…….ジッカ・トゥ・ザ・フーチャー
数日実家に滞在していた。

最初は、もっと長い期間滞在しようかと考えていたのだけれど、
だんだん、まあいっか、という気持ちになってしまい、最小限の日数だけになった。

数年ぶりで祖母にも会えたし、母親とも話せたし、妹とも話せたし、父親の顔も見ることができたし、
最小限といいつつ、十分に必要最小限、必要なことはできたと思う。

言葉で伝えられたこと以外のことに。

だからそれらは言葉にしないでおこうと思う。

レーザーディスクなんていう死滅したメディアで、
小さい頃に見た映画をもう一度見てみたりした。

昔何度も見ていた映画たちだったが、
ずいぶんと英語がわかるようになっていることに自分で驚き、軽く感動する。
たぶんここ最近、いろいろともがいていたせいだと思う。

逆に言うと、10年以上かけて、やっとこれだけ進歩したのかと思うと、
人間の変わるスピードや進歩のゆっくりさに、
ああ、と思うが、それでも進歩できるのだから面白いと思う。

定番のクラシック映画ではあるが、
Back To The Futureトリロジーを見たりした。

いくつか気がついて示唆を感じたことがあった。

皆、言っていることだとは思うが、
BTTF2において、主人公たちは2015年の未来にタイムスリップする。

そこでは乗用車は空を飛んでおり、
天気予報は秒単位で予測され、
ジャケットには自動乾燥装置がついており、
スケボーは半重力装置で浮遊している。

2015年といえば、
あと5年先だが、
見てのとおり、これらの物事は実現していないし、
実現しそうにない。
車でいえば、せいぜいやっとプリウスが普及しましたよ、とか、そのくらいだ。

現実が、フィクションの予測を下回ってしまったわけだ。

あるいは、技術的には、
世界の先端の科学者さんや技術者さんは、
これらを実現する技術を、すでに持っているのかもしれないが、
少なくとも実際には製品化も普及もしていない。

これは、ひとつには、
これをもって思うのは、
実はすでにうすうす、15年前からわかっていたことではあるけれど、

その本当の理由は、
現実に、世界の人々が、あるいはこの国の人々が、
そういった、SFのような、ドラスティックなハイテク技術を、
それによってもたらされる生活の変化を、
実は望んでいないからではないかと、
僕は思う。

車が空を飛ぶことを、本当に人々は望んでいるか。
今のままで、十分に便利で、それに慣れきって、
それ以上の変化を、本当は望んでいないのではないか。
あるいは、車が空を飛んでしまったら、
困る人達が、世の中にはたくさん居るんではないか。

便利な世界に安穏と住んでいる僕たちは、
現実には案外、変われないのだ。

なにもしなくても、今のまま生きていられるなら、
なにもしない方を、選びたいのだ。

それが、夢のような技術や、
夢のような未来を、
実現から阻んでいる、本当の理由かもしれないと思う。

これがひとつ。

もうひとつ。

それは、このBTTFで予測されなかった現実の未来、
BTTFに描かれなかった事象だ。
(あるいはターミネーターとか、他のSFでは、描かれているかもしれないけど)

この映画BTTFに出てくる人達、あるいはこの映画を見た1985年なり1990年なりの人達に、
僕らが、「未来はこんなふうに進化しましたよ」と、
いえるものがあるとすれば、
(陳腐な回答ながら)
それは間違いなくインターネット、そしてそれにまつわるモバイルなどの情報機器だ。
これだけは、フィクションの予測を現実が上回った点だ。

おもしろいことに、
インターネットは、それを使用しない人にとっては、
存在しないに等しい。

たとえば、うちの父や母は、インターネットを使用しない。
パソコンも使わない。

そうすると、うちの父や母にとっては、
インターネットは、存在しないも同然の、
あってもなくても変わらないものなのだ。

だから、うちの父や母にとっては、
21世紀の現代の時代というのは、
20年前の20世紀と、たいしてあまり変わらない。

せいぜい、そろそろテレビが地デジになって、
とか、そのくらいだ。

しかし、言うまでもなく、ヘヴィに使用する人にとっては、
インターネットは、それがなくては物事が進まないツールであり、
その中に人生の大半、ないしはかなりの部分がある。

僕だってそうだ。
こうして日々のジャーナルを書いていることから始まって、
ストリーミングのラジオサービスで曲を聞いてもらうことから、
マイスペースやフェイスブックのようなソーシャルサイト、

バンドマンとしては、インターネットを、海外に向けてのパブリシティに、たくさん使っているし、ある意味バンドの実体はインターネットの中にあるんではないかと思うことすらある。

そして、そのインターネット上の事象と、現実の事象が、交互に相互に作用しながら、物事が、人生が、実際に進んでいく。
それは、インターネットがなかった時代には、少なくとも不可能であり考えられなかった事象であり可能性だ。

ある、と思えば、そこにあり、
ない、と思う人には、存在しない。

陳腐に聞こえようともやはりインターネットの情報空間は、21世紀の人類にとっては新たなフロンティアなのであり、それが本当に何を意味するのかは、まだまだ少ししかわかっていないのだろう。

そして、このインターネットの情報空間というのが、21世紀という時代に、人類の生きる世界に新たに加えられたもうひとつの次元なのだろうと思う。

その加えられた次元を開拓していく、
人間の精神作用が、21世紀という時代を生きる意味なのであろうと、そんなふうに思う。

だから、現実に見える変化だけにとらわれていてはいけないと思う。
そこにあらわれてくる人間の精神の作用とその変化をこそ重視すべきなのだと思う。

今更にあたりまえな話題ではあるがそんなことを思った。

みっつめは、
BTTF1において、
1985年に公開された映画であるが、

クライマックスシーンで、
主人公が、古典的R&Bのバンドに飛び入りして、
Johnny B Goodeを演奏する有名なシーンがある。

その、印象的な主人公のギタープレイの中に、
今更ながら面白い演出意図を発見した。

始めは1950年代的なロックンロールのリフから始まった曲、
その中で、次第に主人公のプレイは、
エレクトリックギターならではの効果音を使用し、
ディストーションサウンドになり、
大音量のソロプレイから、
背面弾きといったパフォーマンスに発展し、
タッピングを炸裂させ、
メタリックな速弾きに帰結して終わる。

そして、1955年の観客は、観客だけでなくバンドの連中も、あっけにとられて演奏が終わる。

これはよく考えられた演出で、
つまりは、主人公が弾いた数分のギタープレイの中に、
ロックギターの1955年から1985年までの30年分の進化が
凝縮されて表現されているのだ。

つまり、1955年から、1985年まで、
ロックの偉人たちが、少しずつ発展させてきたプレイが、
A→B→C→D→E
というふうに、
いきなり数分の間に起きてしまうのである。

だから1955年の観客は、
Aの状態ならまだしも、いきなりEの状態を聞かされることになり、
なにがなんだか、わけがわからない、というリアクションになったのである。

逆に考えるなら、
もし、1985年とか、それ以降に、
Eの状態にある観客に対し、
この同じプレイを披露したなら、
きちんと評価してくれるか、
あるいは、「普通だよね」と言われるだろうと思う。

Eの状態にある観客に逆にCやDの基準の演奏をしたら、
「退屈だね」といわれてしまうかもしれない。
あるいは場合によってはよく知っている定番のオールディーズとして評価してくれるかもしれないが。

新しいことをするというのは大変なことだ。
とてもとても大変なことだ。

僕だって、新しいことができているとは思わない。

また、時代の先端の新しいカテゴリーというのは、競争も激しく生き残りは厳しいものだ。

しかし、あまりに新しいことをやりすぎると、
Aの状態でEの演奏をいきなり聴かされてしまったこの映画の聴衆のように、
まったく理解すら出来ない、という状態になってしまう。

であれば、もし新しいことができなくとも、
たとえ、「よくある、つまらないもの」と言われようとも、
お客さんが、少なくとも理解できる、という状態は、
決してあたりまえではなく、ありがたいことなのだ、と
そんなことを思った。

もし、現在がEの状態にあるならば、
その次であるFの演奏ができれば、
おそらくはいちばん大きな評価を受け、
世の中に衝撃を与えて、天下を取ることができるのだ。

しかし、そのFが、どこにあるのかは、誰にもわからない。

それこそ、タイムマシーンを使って未来を見てこない限り。

しかし(おそらくは)すべてのミュージシャンは、
そのFの演奏を求めて、
新しい進歩を作り出すことを求めて、皆、全力でがんばっているのだ。

そして、ロックが生まれてこのかた、
上の図で言うAからEに進化するまでにも、
いろんな有名無名の多数のミュージシャンが、
ちょっとずつがんばってちょっとずつ新しいものを作り出して、
ここに至っているのだ。

それは、音楽的なものから、技術的なもの、
ハード面での進化、パフォーマンスの面、社会的な面など、
様々な要素で、少しずつ進歩しながら、今日まで来ている。

21世紀になって10年ほど。
ロックに、これ以上、どれだけ新しく進歩する余地があるのかはわからない。
あるいは、それは音楽的なものではなく、
精神的なものや、社会的な意味での進歩かもしれない。

しかし、それが、大きな成功につながろうが、つながらまいが、
ちょっとでも、自分の立ち位置で、
ひとつでもふたつでも、
新しいことを、始められたら、
それは、すごくラッキーなことに違いないと思う。

それが、人類の発展に寄与するということであろうと思う。

演奏するという行為、表現するという行為、
そして、それを楽しむ、楽しんでもらうという行為、
それは、決してあたりまえではなく、
それは、先人たちの積み上げてきた努力と歴史の上に、
そして、終わることのない新たなチャレンジの中にあるのだと、
そんなことを思った。

あまりに大きい。
自分や、自分たちは、しずくの一滴にも満たない。
でも、その大きさを感じることができれば、幸せだ。

No(699)

■…2010年 9月27日 (Tue)…….日々ジャーナル
どこから書けばいいのかわかりませんが、

土曜日はひさしぶりにバンドにリハでした。

リハ自体は別にひさしぶりじゃないんですが、

最近、アコースティック練習をずっとやっていたので、
アンプにつないだ、エレクトリックなリハは、実に久しぶりだったのです。

Jackson J-80のついた、Vを持っていったんですが、
なんか、やたらいい音がして驚きました。

スタジオのアンプの調子がよかったのか、J-80の威力なのか、
たまたま張ったDean Markley Vintage(安い)とギターの相性がよかったのか、
まるでVan Halenの1stみたいなぶ厚い、倍音の多いファットなサウンドが出て、
まあとにかく良い感じでした。

そんでわりとひさしぶりにもかかわらず、ヴォーカルも調子がよく。
これは逆に、アコースティック練習で発声を見直すことができたからなのか。

練習が終わった後はめっちゃ頭痛になりました。
大音量のせいなのか、発声のせいなのか、あるいは単にカフェインが切れただけなのか。

しかしはっしーも練習後頭痛になっていたので、彼は大音量のせいだろうと言っておりました。

新曲”Living Water”をはじめてあわせてみて、かなーり良い感じです。
はっしーはこの曲ではあえてルート音しか弾かない、と言っていましたが、
よく曲を理解した発言です。
シンプルイズベスト。

そしてあらたにワーシップの曲にちょっととりかかったりしたのでした。

ああそうだ、この秋の演奏の予定をウェブサイト等にアップしなければ。

それから、この秋の新曲ってわけではないですが、
もうレコーディングするいろんなリソースもないし気力もないし、
曲をつくるつもりもない。

でもLiving Waterは夢の中で勝手にできちゃったから仕方ないんだけど、

そう思っていたら、夢の中でもう1曲できてしまいました。

今度のは、夢の中で勝手にできていたというよりは、
朝起きて、というか起きる前の半覚醒の状態で、勝手にリフが鳴ってて、
なんか半覚醒の状態で勝手にリフを考えていた。
そんで、起きてみたら出来てた、みたいな。

寝てる間にできちゃう、なんて、労力使わないし、
寝てる間に仕事ができるなんて、夢のような話なんですが、
まあ実際に夢なんだけれど、
音楽の場合は夢の中から取り出すことができるので便利です。

こんなふうに、お金とか、いろいろ取り出せたらいいのに、って思うけど(苦笑)

それは、また普段あまり書かないようなタイプの、
オーセンティックというか昔ながらのハードロックで、

タイトルは、仮でとりあえず、べたべただけどJesus Trainとしました。

なんか、Ozzy Osbourneの有名すぎる名曲、Crazy Trainの、一種パロディ的な感じで。

OzzyとLoudnessとDokkenを混ぜて、自分のフィルターを通したような具合の。

でもあんましオーソドックスなのもいやなので、夢から取り出したパーツに加え、ちゃんと変拍子は混ぜておきました。4+5のやつを。そこは意識してやったところです。

と、さくっとデモの形にし、この秋のメンバーの宿題が増えてしまいました。

まあ2曲くらいなら、手間やリソースをかけずに録音制作できるかな、と。

最近、妙に夢の中で音が鳴りますね、
実家に数日滞在した際にも、やはり夢の中でメロディが鳴って、携帯にメモしておきました。
あんまりベタベタなものだったから放置してあるけど。

それももし使っちゃえば、夢の中で作った曲だけで1枚EPの形で作品が作れるかもしれません。

昨日、日曜日はちゃーちは夕方からの日でしたが、
礼拝でエレクトリックギターを弾きました。
前日のリハからの流れでJ-80のコリーナVを使用し、
良い演奏ができたと思います。

Y牧師のレゲエのCDの話とか、
きょうかいファミリーのお祝いごとが重なったりとか、
いろいろなこともあり、
教会ライフもなかなか良い感じです。

さんきゅージーザス

No(700)

■…2010年 9月27日 (Tue)…….スケジュール
この秋、のバンドの出没予定です。
一応、すべて、自主企画ないしは教会企画、
まだあんまり企画内容も固まってませんが。

10月3日(日)
V.I.Cにてワーシップ演奏
(場所:横浜、日の出町のライブハウス、シャノワール。時間は13:00–16:00。)
こちら

自分らの所属教会であるVIC(Victory International Church)にて、自分のバンドImari Tonesにてワーシップ演奏を担当します。今回はアコースティックのセットにて、先日YCCさんで演奏したのと同じような感じになると思います。

10月30日(土)
横浜、伊勢崎町クロスストリート
こちら
時間 18:00–22:00くらいの予定

例の「ユルクリblock party」の名義で会場を押さえてあります。
ようやく、「ユルクリ」に伊万里音色で参加します。
伊勢崎町クロスストリートは、半分ストリート、半分室内みたいな感じです。
あまり、本気で大音量の演奏ができる環境ではないと思いますが、
新曲”Living Water”などを武器に、表現したいと思います。
そんで、この日、出演者さん募集中です。連絡ください。

11月3日(水、祝日)
大久保水族館
こちら
共演:B.D.badge
時間 19:30–22:00くらいを予定。

新大久保のライヴバー、大久保水族館にて演奏します。
ひとつの憧れであったtoshi_rock閣下のB.D.badgeとの共演です。
小さなライヴバーですが、ロックの原点みたいな環境で、アットホームな演奏ができると思います。
ここもまた、もう1,2バンドくらい枠があるので、出演者さん募集です。
連絡くださいませ。

別に、他の日が本気出さないわけじゃないんですが、
この日は、B.D.badgeさんとの対決?ってことで、けっこう本気で演奏しますよ!

12月4日(土)
横浜、伊勢崎町クロスストリート
こちら
時間 18:00–22:00くらいの予定

ここも「ユルクリblock party」の名義で会場を押さえてあります。
伊勢崎町クロスストリートは、半分ストリート、半分室内みたいなとこですが、
12月の夜の商店街ということで、ちょっとクリスマス気分を先取りの、
素敵な夜の演奏になるかもしれません。
さて、どんな企画に、したもんか。
例によってこの日も、出演者さん募集中です。連絡ください。

12月24日(金)
大久保水族館
こちら
時間 19:30–22:00くらいを予定。

なにを間違ってか、
クリスマス・イブの日にブッキングしてしまいました。
皆さん、年末や、クリスマスで忙しいと思いますが、
どういうパーティーにしたものか。
なんにも企画できてません。
出演者募集というよりも、企画を募集します(笑)

以上、楽しいパーティーにしましょう!

No(701)

■…2010年 9月28日 (Wed)…….将来の夢
子供の頃とか、小学生のとき、
「大人になったら何になりたい?」って
いつも聞かれるわけです。

そのときは、何になりたいと思ったとしても、
大人になるまで待たなくちゃならなかった。

でも、僕らはもう大人なので、
待つことなく、なりたいものになれるんです。

物事に迷うとき、
いろいろな条件や制約があるからいろいろ迷うんですが、
もしその制約や条件がなかったとしたらどうだろう、
と考えるようにしています。
その方が心を自由にできるから。

たとえば、「野球選手になりたい」とか、
「パイロットになりたい」と言っている子供は、
実際になれるかどうか、とか、年収が、将来性は、とか、
たぶんあんまり考えてないと思うわけです。

「社長さんになりたい」という子供だって、
新規参入が見込めるこの業種でウン年後の黒字化、そして何年後の上場を目指し起業しよう、
とかたぶん考えてないわけで。
そのぶん子供の発想は自由なはずなんです、たぶん。

実際に僕は子供の頃は、
「ぼくはほうりつかをめざそうとおもううんですよそうですねべんごしではなくどちらかというとけんじになりたいとおもっていますきょあくとたたかうことでまたはんざいしゃというしゃかいてきじゃくしゃとむきあうことでしゃかいせいぎをじつげんしたいとおもっているんです」
とかそういう子供だったので、
僕は実際には思春期が終わってから、自分のインナーチャイルドを発見し育てていく必要があったのだけれど、そしてまた実際には(省略)

ちなみにミュージシャンになりたいとはちっとも思いませんでした、14歳のときに一瞬そう思ったくらいで。

ともあれ

僕が自分の中にいる子供(いんなーちゃいるどみたいなやつ)
に聞くと、
これになってみたい、というものを、ふたつほど挙げてくれました。

はたらくひとたち。

現実性や将来性、経済面でのメリットがあるかどうかはともかくとして。

人としていちばんしちゃいけないのは、
その自分の中の子供をないがしろにすることだと心得ているので、

よく彼の言うことに耳をかたむけて相談してみようと思います。

どうせならふたついっぺんに取り組んでしまえばいいと思う。

No(702)

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