2013年2月の日記

■…2013年 2月16日 (Sat)…….ジョナサンになる日 When I finally started skating
ひさしぶりの長文なひとりごと。

幼い頃に東京の国分寺に住んでいた頃の幼なじみがいて、
愛知県に引っ越してからも、ときどき会ったりして交流は続いていた。

高校生になってから彼に会ったのは、17歳のときだったか。
確か春休み、東京に大学見学に出かけた僕に、
彼は親切に新宿や下北沢を案内してくれた。

スケートボードというものを初めて見たのはたぶんそのときで、
高校生だった僕に、彼はヒップホップとスケートボードというふたつのものを教えてくれたのだ。

自分が多少なりとも90年代ヒップホップに馴染みがあり、
そして自分のハードロック音楽の中に、ファンキーなリズムやヒップホップ的な要素を取り入れるようになっていったのも
彼と過ごした時間がきっかけだった。

ヒップホップに関しては、
ファンクなどのリズム的な要素をハードロックに取り入れることは、
古くからLed Zeppelinもやっていたことであり、
自分なりのスタイルで少しずつ消化することはできたが、
スケートボードに関してはそうはいかなかった。

聞いた話では、というか、後から知ったには、
その僕らが青春時代を過ごしていた90年代の半ばには、
ちょうどスケートボードのブームがあって、
世間ではかなり流行っていたらしく、
その友人もそうした流れの中にいたに違いないのだが、

愛知県の地方都市で、
しかも若者のカルチャーからはわりと離れた位置にある進学校で高校生をやっていた自分としては、
そんな流行の波は一切かぶらなかったし、
そんなものはまったく見もしなかったし気配も感じなかった。

しかしヒップホップと同じように、
親友の好きなものは自分も取り入れたいと思い、
当時僕は、近所のスーパーで売っていた3千円くらいの安価ないわゆるトイボードを買って、二日くらい試してみて、
そしてそれきりまったく乗らなかった。

理由は簡単で、
当時の自分の周りには、
環境もなければ、情報もなければ、必然性もなかったからだ。

当たり前だろう。
都会とか、あるいは地方でも環境のある場所にいれば別だが、
日本に住んでいる大多数の人にとっては、
スケートボードやBMXをやるような環境というのは、
まったく無いし、見たことも聞いたこともない、
というのが普通に違いない。

これが今であれば、インターネットを通じて、
様々な情報が手に入るから、
この「最初の一歩」も、
きっと随分と違っていたに違いない。

それから随分と15年以上も時間が経ってしまったわけだけれど、
僕は自分のスケーターとしてのスタートが、
1995年ではなくて、2012年だったことにとても感謝している。
(少なくとも僕はプロのスケーターになるわけではないのだから)

なぜなら、1995年当時よりも、現在の方が、日本においても環境はずいぶんと良くなっているからだ。
やっと、少しは整ってきた、という方が正解かもしれないが。

ここ5年、10年の間で、日本にも公共のスケートパークというものが、
少しずつ増えてきたらしい。

アメリカの連中には、
普通の日本の人たちにとって、スケートボードをする場所や環境が無いというのは、
理解できないに違いない。

それこそアメリカは広いし、とにかく広いので、
スケートをする場所なんて、そのへんに無限にあるからで、
「スケートする場所が無い」なんていうのは、
きっと意味すらわからないに違いない。

また公共のスケートパークにしたって、
日本では多くのところは有料だ。
アメリカの連中は、きっとスケートパークが有料だということに対して、
「なんでスケートパークを使うのにお金を払わないといけないんだ」
といって、
きっと意味がわからないに違いない。

そうした環境の違いはしょうがない。

ロックをめぐる環境と同じだ。

日本では、アマチュアバンドがライヴをやろうとすると、お金を取られる。
けっこうな額のお金が必要になる。
結果、普通のアマチュアバンドは、月に一度とか、あまりたくさんの回数のライヴをやることができない。

アメリカでは、アマチュアバンドがやろうとすると、小額ではあっても、お金をくれる。
くれないかもしれないが、少なくとも、バンド側がお金を払う必要はない。
結果、アメリカのバンドというのは、毎週末にライヴをやるとか、週に4回ライヴをやるとか、
そういうのがあたりまえになってくる。
そういった中から、すぐれたバンドがたくさん誕生する。

日本が狭いから、人口が密集しているから、
土地の値段が高いから、
いろんな要素があって仕方がない部分はあるが、
なによりも文化や、文化に対する理解や、
精神性やスピリットの部分が、もっとも大切だ。
それが土壌っていうもので、
目に見えるものよりも、やはりそうした目に見えない精神性の部分で、
負けている以上は、どうしようもない。

とにもかくにも、
スケートをはじめて4ヶ月が経過し、
少しはスケートのビデオも視聴して、
最近の一番の話題作であるGirl / ChocolateのPretty Sweetなんかも見て、やはり強い印象を受け、
少しは好きなスケーター、ライダーというものを見つけてきて、

たとえば日本人の伝説的なプロスケーターでいえば、
岡田晋さんであるとか、
彼は僕と同じ世代の人だから、
つまり、僕らが90年代に、ギターを弾いたり、受験勉強していたり、恋愛していたりしていたその時期に、
彼はずっとスケートをしていたのだろう。
彼はそうして、同じ90年代を過ごしてきたのだ。
僕がギターを弾いていた間、彼はスケートをしていた、という、それだけのことだが、
やはり同じ世代の人として、同じ時代をくぐって来た人として、感慨深いものがある。

そして彼らがパイオニアとして切り開いてきた道の、そのささやかなはしっこに、
今僕も乗っかったということだ。

僕に関していえば、
高校生のときに、幼なじみの友人にスケートボードというものの存在を教えてもらって以来、
スケーターや、サーファーといった人たちに対する、
リスペクトというのか尊敬の念は常に持っていた。

ああいったものは、自己満足というのか、
自分への挑戦の世界で、
たとえば、大きな波に乗ったところで、
スケートボードで難しい技を決めたところで、
誰がほめてくれるわけでもない。
いや、もちろん、ほめてくれるんだろうし、
プロになればお金ももらえるのかもしれないが、
基本は、そこではない。
誰に言われるでもなく、
ただ自分に挑戦するという、その原点の世界が、
ロックという音楽に向き合って人生を旅している自分にとっては、
感じ入る、共感できる部分であって、

自分にとってはそのエクストリームな挑戦の世界が、
大事なものとして自分の中にも持ち続けている精神ではあった。

しかし、高校生の頃に、トイボードに二日間乗って以来、
自分は、スケートなんてものに向き合う時間も、動機もなかったし、
必然性もなかったし、
自分は自分の音楽と、自分の人生の物語をつむぐのに一生懸命だった。

昨年2012年のThe Extreme Tourに参加して、
得るものは限りなくたくさんあったけれど、
その得た中で、結局もっとも意義が深かったのは、
ツアーから戻って、
まるで10代に戻ったかのような
若々しく新鮮で勢いのある楽曲が
たくさん書くことができたということ、
そして、それと同じ動機で、
自分もようやくスケートボードを始めようと思ったことだった。

ツアーの中で、スケートパークといった場所を訪れ、
そういった場所で演奏し(なんという贅沢)
アメリカのスケートカルチャーといったものを目撃し、
若いスケーターたちを見る中で、
もちろんスケートパークなんていうものを見るのは
生まれて初めてだったわけだけれど
こんな場所があったらそりゃ俺だって子供の頃からスケートボードやってるよ、
と言いたくなったが。

ついにようやく、15年以上の月日がたって、
自分自身でスケートボードを始めてみたいというタイミングが、
自分にも訪れた。

その最大の意義は、
自分の音楽への影響であって、
つまり、この歳になって、
ここ1、2年ほどは、
もう楽曲なんて書けない、ってわけじゃないけれど、
あまり曲を書く動機もなく、
夢の啓示にたよって何曲か書いてはいたけど、
シンプルでベーシックな楽曲しか書いていなかったし、

それが、ここへきて、
スケーターとしての動機と人格が
自分の中に目覚め、
それによって、
まったく新しい目線で、
音楽に向き合えるようになり、
まったく新しい目線で、
音楽を聞けるようになり、
それによってもたらされる、
自分の音楽への影響こそが、
自分がスケートボードを始める、始めたことの、
もっとも大きな意義であり、目的ではある。

だから別に、自分は上手いスケーターになる必用はないし、
趣味でも楽しくやれていればそれで問題はない。

しかし、思い出すと、
その幼なじみの友人が、
高校生のとき、そして大学に入ってすぐの頃にまた会った際、
見せてくれたスケートボードの、その「オーリー」は、
記憶が確かであれば、それほど上手いものではなかった。

そして、僕ら、普通の、スケートボードをしない人たちにとっては、
その「オーリー」というものは、
なんか一種、あこがれの、非常に壁の高い、勲章のようなものとして、
そこにあったはずだ。
トイボードに二日乗っただけの僕も、
「オーリー」という言葉だけは、
その友人に教えられて、
スケートボードでジャンプすることを「オーリー」と呼ぶのだという
その名前だけは知っていたからだ。

人生は面白いもので、
この4ヶ月で、
自分は、そのあこがれの勲章だったオーリーも、
比較的すぐに出来るようになったし、
オーリー以外にも、
まだまだはなはだ不完全であるけれども
他の基本的な技、
F/S180、B/S180、
ショービット、
ポップショービット、
F/Sポップショービット、
マニュアル、ノーズマニュアル、
ボンレス、ノーコンプライ、
etc、
も、できるようになった。
今、ヒールフリップとキックフリップという、
またちょっとあこがれの技に、
挑戦を開始しているところだが、

たぶん、当時スケートボードを初めて見せてくれたその幼なじみの友人の、あの時点の彼よりかは、
たぶん上手くなっているんじゃないかとは思う。

スタートとしては、たぶんわりとスムーズなスタートを切れたと思うし、
もちろん、上手い人は、最初の数ヶ月で、もっと上手くなってしまう人もたくさんいるのだろうけれど、
(たとえば思い出すのに、14歳の自分が、ギターを始めて、Ozzy OsbourneのCrazy Trainをコピーするのに、ほんの2、3週間しかかからなかったように思う)

年齢を考えれば、
そして今まで、本格的なスポーツの経験がほとんどないことを考慮しても、
かなりうまくやれている方ではないかと思っている。

自分は別にプロのライダーになるわけではないし、
自分が若い頃は、
自分の人生の物語を紡ぐのにせいいっぱいだった。

別に自分は世界一上手いスケートボーダーになる必要はない。

しかし考えてみればそれはギターや音楽でも同じことで、

ことヘヴィメタルのギターについて考えれば、
僕はギターを始めたきっかけこそヘヴィメタルだったけれども、
中学を出る頃にはもう既に型通りのヘヴィメタルへの興味は失っていたし、
テクニカルなプレイへの興味もまったく失っていた。

それよりも、自分の人生や、生きた経験に基づいた、
世界でここにしかないメッセージを持った音楽と、
その芸術性と、精神性に興味を持っていた。
だからこそ、ギターの技術を磨くことよりも、
また若いバンドでのしあがることよりも、
その音楽の基礎となる、自分の人生の物語を紡ぎ出すことに、
一生懸命になっていた。
つまりは、自分の人生の愛の物語を紡ぐことに。

だからこそ自分はその自分の人生から生まれる音楽に、
自分の愛する人の名前を付けたのだけれども。

自分がヘヴィメタルのスタイルに戻ってきたのは、
ごく最近、米持師匠との出会いや、
その後のG-1関係者の人たちとの出会い、
そしてまた自分のバンドのスタイルも、
オーソドックスなハードロック、ヘヴィメタルに戻ってくることによって、
やっと自分が、ヘヴィメタルギタリストとしての技術を習得し、
スタイルを見つけてきたのは、
ごく最近のことであって、

その意味でいえば、
技術を磨くことも、
社会的にのしあがることも、
さぼってきた自分が、
世界でいちばん上手いギタリストや、
世界でいちばん有名なミュージシャンになることも
無いのであって、

そう思えば、ただ自分に向き合うだけの自分のこれからのスケートも、
今まで、世間に関係なく自分に向き合ってきた自分の音楽も、
そう大差は無いのだと思う。

ただ、自分は1995年ではなく、
2012年にスケートボードを始めて本当によかった。
なぜなら、昔よりも環境はとてもよくなっているし、
技術も、道具も、世の中も、進歩しているし、
より広い目線でスケートをすることができる。

また、いってみればハングリーな生活をしてきた自分の中には、
精神的にも肉体的にもまだ若さが保たれていたし、
身体も年齢のわりには動いてくれる。

かといって、板の上から世界を眺め、
目先の技術や競争にとらわれず、
滑りの中に人生をかみしめて表現できるほどには、
年齢を重ねて経験も積んでいる。

自分にとってはベストなタイミングだったかもしれない。

そして、自分もついに、この不思議な「かもめのジョナサン」たちの仲間入りをすることができた。

僕もつい先日、Girl / ChocolateのPretty Sweetの映像をiTunesで見たけれど、
オープニングで描かれる世界は、
僕にはまるで天国のように見えた。

僕は、昔から、つまりは高校生の頃から、
クリスチャンである今にいたっても、
リチャード・バックのわりと熱心な読者であるけれど、
(僕がロック音楽家として「漂泊の救世主」なんて言葉を持ち出し、
ミュージシャンとして「やる気のない救世主」スタイルを取っているのも、
リチャード・バックの小説、イリュージョンの影響だ。恥ずかしいくらいに。
僕の意見では、批判もある村上龍の翻訳のバージョンが好きだ。
あの原作完全無視の奔放で猥雑な翻訳は、聖書やキリスト教を現代社会に適用するにあたっての、素敵な示唆でもあるようにも思う。)

つまりはあの古い小説、かもめのジョナサンに描かれた世界を思い出し、
このスケートボードの世界は、
まるでこのかもめのジョナサンの実写版じゃないかと思った。

スケーターが、それぞれの色で、
それぞれのスタイルで、
それぞれの命の輝きをもって、
自分にできる最高の滑りを、
そしてそれを越えた領域を、
目指して、トライを繰り返し、
そしてばかみたいに楽しく生きている、

その姿は、
「かもめのジョナサン」が描くような
天国があるとしたら、
きっとこんな様子じゃないか、
僕はそう思った。

であるとすれば、
きっとここは天国なんだ。

天国のかけらは、
きっとこの地上にもあるんだよ。

批判もあるだろうし、
よくない部分も多いにあるけれど、

自分にとっては、
中心に来るのは、
自己に向き合ったとき、
芸術表現に向き合ったとき、
そこに何をつかむかであって、

たとえば、
有名になってたくさんレコードを売り、
大きなコンサートをやったミュージシャンの物語よりも、

無名のインディーズで居続けて、
その中で音楽をつむいでいったミュージシャンの物語の方が、
表現として面白いのであれば、
僕はそっちを選ぶのも悪くないかなと思っている。

紙一重だけどね。
才能も必要ならば、
バランス感覚も必要だ。
自己満足という言葉と、僕はいつも戦っているし、
たぶん永遠に勝てないかもしれない。
でも、本来不可能であるはずの、そんなことが出来る時代に生まれたことに、感謝をすべきだ。

それは、スケーターが有名である必要がまったく無いのと同じだ。

そこには、ただ自分にできる最大に美しいフライトを思い描いている一羽のかもめがいるのと同じことだ。

芸術家としての人生のフライトを、
どのように描くか。

様々な人生の困難や世の中の困難の中で、
芸術家として、どう生きていくのか、
どういった選択をして、
何に悩み、
どういった決断をしていくのか。

それが、昔から、僕がいちばんに興味のあることなんだ。

信じていなければできないことだよ。
そこに神様が、きっと見ていてくれる、と思わなければ、
とてもできることでは無いと思うんだ。

僕にとって幸福だったのは、
ロックというものが、
そしてヘヴィメタルというものが、
流行りでも、薄っぺらいものでもなく、
長い時間をかけて、人生を賭けるにふさわしいくらい、
重く、確かなものだったことだ。

そして、ロックを、
ヘヴィメタルを信じていく中で、
自分は自然にキリスト教の信仰にたどり着いた。
理由は知らない。

ただ、クリスチャンヘヴィメタルのパイオニアであるStryperのマイケル・スウィートに言わせるならば、
世間では悪魔の音楽と思われているヘヴィメタルだが、
彼に言わせれば軽薄なアイドルやポップこそが悪魔であり、
ヘヴィメタルこそが真実であり誠実な神の音楽であるという、
それだけを引用しておくけれども。

ヘヴィメタルと同じように、
自分にとってのスケートも、
そのライディングを通じて、
自分の神への賛美と信仰を表現するものに他ならないだろう。

ただ、スケートボードの世界を覗いてみて思うのは、
ロックギター、ヘヴィメタルギターの世界、

80年代を通じて、ロックギターの技術は著しく進歩し、
その後は、ゆるやかな進歩かもしれないが、
時に技術至上主義などと批判される、ヘヴィメタルのギタースタイル。

スケートボードの世界と比較してみて、
思うのは、
技術至上主義どころか、
まだまだロックギターの世界は、
技術をきわめていないということだ。

スケートボードの世界は、
もっともっと、技術至上主義だ。
当然、スタイルやアート、表現も重視されるが、
その高度なトリックを追求する世界は、
ヘヴィメタルギターの技術など、
まだまだ突き詰め方が甘いと思わされる。

これが、自分のギタースタイルや、音楽に、
これからどう影響を及ぼすか、
また、自分に何ができるか、
たいしたことはできないかもしれないが、

自分はおそらく、
ギターをプレイするように、
スケートをライディングし、

そして、スケートでラインを描きトリックを決めるように、
ギターをプレイすると思う。

僕にとっては、
このふたつはとても似通った共通したものに思えるが、
どうか。

No(890)

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