2016年3月の日記

■…2016年 3月 5日 (Sat)…….ロックンロールと信仰と民主主義、結論に向けて
これも持論であるが、
人類はインターネットという新しい道具、新しい地平を手にしたが、
それを通じて、愛のメッセージを発信することよりも、
憎悪や恐怖、不信などの排他的でネガティヴなメッセージを発信して広めることの方に終始してしまったのではないかと思うことが、ここ数年、たくさんある。

ここのところ、まあ最初からわかっていたことの意識的な振り返りでもあるけれど、自分の音楽をやる動機の中に、政治的なものというか、政治への希求というか、神の統治への希求というか、民主主義への希求といってしまうと語弊があるかもしれないが、そういったものがあることを考え、日記帳にメモしてきた。

それは、そもそもが現実の世の中の状況や、現実の政治に最初っから絶望しきっているからこそ音楽なんてものを選んできた、という、スタート地点からの前提でもある。

けれども、自分が目指しているものであるとか、目指している先というものをあらためて知ると、今までやってきたいろいろのことに説明がつくのも確かなのだ。

別に音楽や芸術の先にそういった希求がついてくるのはまったく不自然なことではない。
もし君が少しでも音楽を聴く人間であれば、あるいはミュージシャンのはしくれであれば、たとえばベートーベンや、ショパンや、ドビュッシーの音楽の中から、そういった、必ずしも政治的という言葉はふさわしくないにせよ、人類への未来への希求といったものを感じ取れないのであれば、それは嘘っぱちだと思うからだ。

俺たちが本当にいちばん欲しがっているのは、未来なのか、希望なのか。

そこのところに絶望したからこそ、俺はこういう人生を選び、いろいろの人生の選択をしてきたのか。

そしてそこのところに一抹の希望を見出したからこそ、俺はこうして音楽を鳴らすことを選んだのか。

断っておくけれど、僕は、そしてうちのバンドは、今までもずっと、「個人の範囲で」バンドを運営し、音楽を鳴らし、音楽を作り、活動を続けてきた。これから先も基本的には同様だろうと思う。

クリスチャンロックを名乗り始めてからも、特定の教会であるとか、特定のキリスト教の団体であるとか、そういうところと提携じゃないけれど、つながりらしいつながりを持ったことはない。(残念ながら、苦笑)

唯一、この何年か、The Extreme Tourというものに関わっていることはあるけれど、それだって、アメリカ本国のThe Extreme Tourと深くつながっているわけではなくて、このエキサイティングな音楽ツアーを、日本でやることを「エキサイティング」だと思うから、「個人として」それに携わり、それを小規模なりに実現してきただけのことである。

だから、俺たちのバックには、残念ながら、誰もいないというか、そういった特定の教会とか派閥とか団体みたいなものはいない(苦笑)。
したがって、そこに特定の政治思想みたいなものもない。

ただ、個人として音楽をやっていく中で、神を信じているだけである。

神を信じている、という言葉も非常に難しいけれど、
じゃあ、その神を信じているということが、どういうことなのか、ということについては、最近また改めていろいろ考えてみた、という次第。

でもそれは、人間社会の一般的な価値観と、少し違うものに価値を見出している、ということは言えるかもしれない。
(もちろん、宗教的なもの、精神的なものに対する希求は人類に普遍のものであるが。)

たとえば、僕がどうしてこういう形態で音楽活動をしているか、ということも理由を話すことはできるけれども、

たとえば僕が今までに好きになり、夢中になってきた音楽。夢中になってきたバンドやアーティスト。それらをなぜ、彼らの音楽をなぜ好きになってきたのか、それを語ることもできる。

たとえば僕は、2000年代の後半から、今に至るまで、ニューヨークを拠点とするインディーバンドである+/-{plus/minus}というバンドのことが大好きだ。

なぜ彼らの音楽を好きになったのか。

今更ではあるが、どこから音を鳴らすか、そしてどのような立場から音を鳴らすのかということは、思いのほか大事なことであるらしい。
もちろんそれが、同じ音符、同じ波形、同じEメジャーのコードであったとしても、日本で鳴らすのと、中東で鳴らすのと、ヨーロッパで鳴らすのでは意味合いが違う。そして、たぶん南極で鳴らしたり、あるいは火星で鳴らしたりしたら当然もっと違うだろう。

もうひとつ大切なのは、誰がそれを鳴らすのかということだ。
いや、もちろん、リフなんてものは、誰が鳴らしたところで、それは同じリフだけれども(もちろん大嘘)、
けれども、つまりは、君はいったい何者なのか、ということである。

君はいったい何者で、どのような立場から、何の為に音を鳴らすのか、ということが、ことさら重要な意味を持つ。
どこで、とか、誰が、とか、いつ、とか、いろいろな5W1H的な要素があるが、ことにもっとも重要な集結点は、やはり「何のために」ということになるだろう。
そして、いつ、どこで、誰が、といった要素は、その「何のため」の重要な構成要素になる。

で、+/-{plus/minus}について言えば、もちろん、僕がもともとブッチャーズ(bloodthirsty butchers)が大好きだったこと、そのブッチャーズの縁の深いバンドであったこと、ならびに、初めて彼らのことを見た時の状況が非常にドラマティックであったこと、などなどの個人的な縁があった。

だけれども、僕らが彼らについて非常に気に入っていたのは、彼らがあくまでニューヨークを拠点として活動というか生活している「あくまで無名のインディーバンド」であったこと。

それは、1980年代のバンドがMTVを占拠し、スタジアムでコンサートするバンドであるのと同じように、2000年代のバンドとしては、はっきりいってメジャーなバンドであることよりも、小規模に音を鳴らすインディーバンドである方が、断然にかっこいいことだった。その時代に鳴らされるべき音として、それはスタジアムやアリーナをコンサートするバンドよりも、より時代の必然性があり、そしてはっきりいって、それらのバンドよりも全然すぐれた音が鳴っていたからである。

そして彼らは白人では無かった。メンバー(一応3人、ツアーではサポートベーシストが帯同したり、いろいろするようだった)3人のうち、白人はドラマーのクリスだが、あとの二人はアジア系である。(フィリピン系である)

そんな彼らの鳴らす未来の世界観というものは、たとえばそういった1980年代の華やかなヘアメタルバンドが鳴らす音とくらべて(まあ比較対象が間違っているが笑)、

たとえばそういった華やかで大きくてブロンドの長髪のスタジアムロックな1980年代アメリカの世界観と比べて、より雑多で、いろんな人種が混じっていて、小規模で、そんな、また違ったアメリカの実態というものを表していた。そして、そこには、明らかにより豊かな音が、鳴っていたのである。

そんな彼らの鳴らす未来の世界観、そんな彼らの鳴らす生活の音にこそ、僕は魅了されていたわけだ。

まあ世界中にいろいろなインディーバンドはいるわけで、今でもネット上をちょっとチェックすれば、そういったバンドやインディーアーティストをたくさん見つけることが出来るわけだけれども、その後2000年代も終わりにさしかかったり、2010年代の始め頃から、皮肉なことに+/-{plus/minus}がやっていたようなインディーロックが、ちょっと形を変えて流行っていたようであり、そういうバンドの中には大成功して有名になったバンドも少なくはない。けれども、なかなか「本当に優れた」バンドに出会うのは難しいことで、まあもっとがんばってリサーチするべきだとは思うけれども、ちょっと気に入ったバンドというのはいくつかあっても、僕の中でプラスマイナス以上に、「より先の音」を鳴らしているバンドというものには未だに出会っていない。
強いていえば、逆に1960年代のバンドや1970年代のバンドに、「この時代にこんなに先を行った音を鳴らしていたのか」という出会いがいくつもあったけれども。

プラスマイナスについては、現在ほぼ活動を縮小しているし、2014年に出たアルバムについても、いろいろと複雑な思いがあり、それについて書き出すと、現在の音楽シーンの状況も含め、長くなってしまうから省略するけれども。

民主主義ということについて言えば、
ロックンロールは、つまりはそれは大衆音楽であったから、それはいつだって民主主義を鳴らすところから始まった音楽であるに違いない。

それは、いってみれば、教会のゴスペル音楽を離れて、不良の黒人の若者がギターを鳴らしてブルーズを鳴らし始めた頃からそうであったに違いない。

それは、個人の心の叫びや呻きを鳴らすことから始まったのだろうし、
どちらにしても、それは底辺から始まったものに違いないからだ。

それは結局は、ロックンロールという名前を付けられ、結果的に20世紀の音楽世界を席巻するものになっていったわけだ。

だからロックンロールは大衆音楽であり、大衆ということに常に寄り添い、付き従うものだった。

僕が青春を過ごし、そして自分の音を鳴らし始めた頃、まあ僕はバンドマンとしては、自分のバンドを始めるのは非常に遅かったけれども(そのへんの悔いの話、10代の頃にもっとバンドをやっておくべきだった、という話はまた別の機会)、

ちょうどその頃から、技術と機材の発達により、録音、レコーディング制作というものが、個人のレベルでも、コンピューターを使うことで、本格的な高音質の録音が、個人のレベルでも実現できるようになってきた。

もちろん、録音というものは奥の深いものであり、非常に奥の深いテーマであるので、コンピューターとDAWソフトなどの道具があれば、それですなわち良い録音、良い作品が作れるわけではない。それは、まったく、ない。けれども、確かに技術の上では、個人レベルでも、良い録音が、音楽を制作することが、可能になった。

これはいくつかのことを意味していて、
それは大衆音楽であったロックンロールの「個人化」、
そして機材の発達と普及に伴うライヴ演奏も含めた音楽の陳腐化と平均化、
そしてもっとも大事なことに、ロックンロールの本当の意味での「大衆化」である。

ここで書きたいのはみっつめのことであって、
つまりは大衆音楽だったロックンロールは、その20世紀商業ロックの表現と商品の形であった録音物の制作という意味においても(ライヴ演奏においてもどんどんそうなっていったけれども)、ひとりひとり、個人のレベルで誰でも音を鳴らし、作り、発信できるようになっていったということだ。

ひとりひとりが声を持つ、ひとりひとりが自分の自分たちの音を鳴らすことができる。
民主主義といえば、これ以上に民主主義的なこともない。

それは、なにも音楽に限ったことではなく、FacebookやTwitter、ブログなど、インターネット全般を見てもわかる社会の状況である。誰もが自分の言葉や意見を発信し、交換できるという状況のことだ。

そして2000年代以降のインディーバンドたちも、そういった背景の上に存在し、活動してきているバンドたちだ。

そこに、いささか日本のロックシーンが乗り遅れた(10年くらい)ように感じているのも、やはり日本の社会風土として独立の気風が欠けていたり、長いものに巻かれたり右にならえだったりする傾向が強いからだろうか。

しかし、この2016年にも至ってしまえば、世界はより均質化してきているので、そういった状況もまたどんどん変わってきているはずだと思う。つまりはいろいろな分野で、今後、今まで以上に、日本からすげえもの、すげえ人たちが、いっぱい出てくるはずだ。しかも、大きな企業とかじゃなくて、たぶん個人のレベルとかで。それはつまり、そういった社会風土の中でも、負けずに突き進んできた人たちがきっといっぱいいるということである。(そしてそういう人は、たぶんいつの時代にも居た。)

話は戻るが、そうした背景の中で、真に民主化されたロックンロールは、同時に「個人化」もしたのであり、そしてその中で鳴らされるのは「誰もが共感できる男と女のラブストーリー」とかそういうラブソングではなく、もっと小規模で、個人の生活により密着した音の世界を鳴らすことが出来るようになった。

そしてそこにあるのは、より未来の音ではなかったか。

そのもっとも美しい例として、僕はくだんのプラスマイナスというバンドを挙げることが出来るのだと思う。

けれども、時代は前に進んだり、後ろに戻ったりしながら流れていくものだ。

大衆は流され、日本人でなくともやっぱり長いものに巻かれるし、現にヒットチャートは日米問わずにアイドルに占拠されているし、プラスマイナスのように本当に独立の精神を持ち、ユニークな背景を持ち、才能もあるアーティストに、なかなか出会えるものじゃない。

でも、僕は出会いたい、より未来の音に。

それでも僕は信じている、ということだ。
大衆が、人類が、より未来へ進んでいくことを。

ときどき絶望したりするけどね。幾度となく。
「もう人類に未来なんてあらへんわ」って。

でも、それはまた次の話題。

であるからしてこのように、
たとえば僕が1970年代の荒井由実を聴いて感動した理由。
あるいはまた1990年代の熊谷幸子さんの音楽を聴いて感動した理由。
あるいはまた他のバンドやアーティストでもいいけれど、

やはりそこには、同じような理由がやっぱりあるのだ。

誰が鳴らすか、どのような立場から鳴らすか、
それはやっぱり、大事なことなのだ。
成功して有名になっても、やはり底辺の立場から音を鳴らせる人もいる。
そんな人は、まさに真のロックスターだろう。
だいたい長生きしない。

(そして、もちろんブッチャーズ吉村氏も、そんな真のロックスターの一人だったに違いない)

そんな個人化し、民主化した現代であるけれども、
僕が子供の頃からとっくにそうだったけれども、
それでも民主主義なんて、まだまだぜんぜん機能していない。
インターネットだって、愛のメッセージを発信するよりも、
ヘイトとやっかみと不信を広める道具に使われることの方がきっと多い。
Facebook上でちゃんとした議論が成り立つことなんてほとんどないのと同じように。
民主主義は大衆のものだっていうけれども、その大衆は、未来に進むよりも、現状に甘んじ、あまつさえ過去に戻ろうとすることを選ぶかもしれない。これはまた、別のテーマだ。

機能していないけれど、
でも俺は信じている。
何を、っていうと、
今ここで、音を鳴らすことを。
今ここで、個人の立場から、声をあげ、音を鳴らすことを、信じている。

以下、別の日の文章のつぎはぎ。

現行の民主政治なんてものが、機能していないのはいろいろのことが起きるずっと前から明らかだし、もしそれが機能していたのであれば、そもそも僕は音楽なんてやってない。

じゃあ僕が信じている民主政治っていうのが、どういうものなのか。
それは、言葉にして説明できるようなものじゃないけれど、強いて言葉にすればそれは、今ここで、音を鳴らすこと。今ここで、言葉を発することじゃないかな。

音楽を鳴らすのに、制度とか、システムとか、権力の後ろ盾なんて必要ない。

それがいちばん大事だと思っているし、俺にはそれで十分だと思っている。

ロックンロールという転がったサッカーボールを、ゴールに蹴り入れるのは誰か。
俺が興味があるのは、ぶっちゃけそれだけだし。
もはや誰も見向きもしないゴールを。

ここまでフィールドを上がって進撃してくるのに、それだけの注目を浴び、大きなビジネスにもなって、人が群がったこのロックンロールというボールに対して、それがゴールのすぐ前まで来て、肝心のゴールにボールを蹴り込むことについて、誰も興味を持っていないのは不思議なことだ。今では皆はボールがもはや存在しない場所で好き勝手に玉乗りを繰り返している。サッカーボールですらなく、似ても似つかないボールとかで。

しかし、よりアレなことを書くことになるのはわかっているが、
世界の歴史とかを後になってもし振り返るのであれば、
結局現在人類の失敗は、
宗教という問題にしっかり対処し消化することが出来なかったこと。
中でもキリスト教の解釈と運用を間違えたこと。
あえてクリスチャンっぽい言葉で言えば、
イエス・キリストを受け入れることが出来なかったこと、
ここに尽きるんじゃないか。

それは陳腐だけれど愛を理解し受け入れることが出来なかったこと、という言葉に置き換えてもいい。

そのせめてもの反抗というか、釈明というか、贖罪というか、
そのために俺たちは日本人でありながらクリスチャンロックなんてものを
作り鳴らしているわけだけれど。

(有り体に言えば「神に音楽をささげるっていうのはそういうことじゃないぞこのXXどもめがぁーー」という感じで笑)

果たして届くだろうか。

No(4632)

■…2016年 3月 5日 (Sat)…….ロックンロールと信仰と民主主義のざっくりした結論
じゃあ、っていうと、俺はここ一ヶ月ほど、なんだかきっかけがあり、いろいろと深刻に考えてしまった。

考えた結果、それでも、なんだか結論に達した。
考えた上で実際に何かの結論に達する、なんて、滅多にないことだから、お祝いしたいくらいだ。
ああでもないこうでもないと考えていた甲斐があったというものだ。

だから思考の過程もいくつか書き留めたし、この結論も書きとめておきたい。

すなわち、政治というもの、音楽というもの、そして宗教というもの、
このみっつのものが、自分の中で、ひとつのところで、ひとつのものとして、ぴたりと重なったのである。

つまりは、僕の場合は、僕の言葉で言うところの、民主主義と、キリスト教と、ロックンロールが、である。

このみっつのものが、ひとつのところで、ぴたりと重なった。

ちなみにロックンロールというものが大衆音楽であり、大衆に向けたものである以上、そこには支配のための音楽というか、大衆を支配する音楽というものもあり得る。そして実際にある。

僕が、たとえばレコードを聴いていいなと思ったバンドでも、ライヴを見てがっかり、というか、時にはがっかりを通り越して「きらいになってしまう」バンドもいくつかあった。

どちらかというと80年代のヘアメタルのバンドは、ライヴを見るとがっかりするケースが多かった気がするが(汗)

それは、ライヴ演奏を通じてその音に触れると、その音の向こう側にあるもの、その音の背後にあるもの、その音の裏に意図されているものまで、より感じ取ることが出来るからだ。

その後ろにそういった大衆への支配の意図、そしてロックンロールの出発点たる個人の叫びの発露とは別の何かを持ったものも、やっぱりあって、そしてやっぱりそれを商業主義と呼ぶか、悪魔主義と呼ぶか、何と呼ぶかはそれぞれのケースによるだろうが、やはりそういったものがロックンロールを堕落させ、停滞させ、衰退させてきたものであることにおそらくは違いない。

おかげですっかり衰退してしまったが。
(これは、俺ははっきり、現代人類の敗北だと思う。そんな時代に、生まれ、生きてきた。)

民主主義というものが、本質的に自然のものであり、自然の法則であり、神の計画であるとするならば、支配というものは、そこに寄生する宿り木に過ぎない。そして寄生虫に過ぎない。それは姦淫であり、また文字通りの偶像崇拝でもある。神の支配に対する姦淫であるそれは、歴史を停滞させ、人類の歩みを停滞させ、後戻りさせる。そりゃあ姦淫は気持ちいいだろうさ。人間の本質が罪である以上、そこに甘んじ甘受するのは楽なことでもあるだろう。でもそれが、神の法則や、自然の法則に逆らったものであるのであれば、自然の法則にさからったものは、それはやはり滅びるしかない。寄生虫は、宿主というか全体が滅んだら、自分自身も滅びる。けれども、悪魔というものが神に反して存在するのであれば、それこそが悪魔ちゃんの狙いだろうし、つまりは神の進化の計画を邪魔し阻害することこそが悪魔の計画だろう。そして滅びるってことに関しては、やっぱりそこは戦いというかこればっかりは勝負どころでしかないんだろう。

ただ、神の法則というものがこっちがわに付いているんであれば、地の利はこちらに有利というか、そもそもが兵法というもの自体が、自然の法則にのっとって戦うことを基本とするものだ。つまりは兵法というものもこの一部だということになる。逆に言えば、どんな支配者といえ、兵法にのっとり、神の法則にのっとって支配せざるを得ない以上は、やはり神には逆らえない。宇宙全体の法則を変えることは悪魔にはできっこない。けれど、地球ひとつ滅ぼすことぐらいは、できるかもしれないからなぁ。

「そんなことより俺としちゃ、明日のフットボールの試合の結果の方が気がかりだ」

ひとつ話がそれてしまったが本題に戻って書くけれども、
いや、いまいちど脱線させて前置きを書かせてもらうと、

ロックンロールが大衆の音楽であり、
また民主主義が大衆に依って立つものである以上、
大衆というものの本質はいつだって問題になる。

つまりは、大衆は常に賢く、知識と情報を持ち、最善の判断をし、進歩的である。
そんなことは絶対にありはしないからだ。

大衆は現状に安んじ、利益によって誘導され、最低限の情報しか持たず、およそ考えうる限り最低限の選択肢を選ぶ。

しかし実際のところ、これは宗教の抱えるテーマとほとんど一緒である。

いつの時代の宗教家も、そんな大衆を、どうやって導き、救済するかということに頭を悩ませてきた(んじゃないかなぁ)。

だからこそ、像を作って拝むとか、ナムアミダブツと唱えるとか、そういうわかりやすい手法を導入してきたわけである。

僕はいつも言っているように、仏教は嫌いじゃない。
というか、かといってぜんぜん知識も何もないが、日本人として基本的なことはなんとなくわかる。

僕の持論だが仏教はあくまで宇宙科学(サイエンス)であって、本質的には宗教ではないと思う。宗教たりえない。それを宗教にしてしまっているのは、歴史というか人間の側の問題であるけれども。

が、確かに仏教のプラットフォームにおいてキリスト教的な救済のエッセンスが流布したことも歴史上幾度となくあったのであって。

日本の歴史における宗教家とか名僧と言われる人たちの信仰心を疑う気はその意味においてまったくない。

そういったひとことでは言えない多文化ミクスチャー的な要素はむしろすごく日本っぽい。よく言われるように日本の仏教はその他の地域の仏教とはちょっと違う、という所以であるとも思う。まさにカツ丼とかアンパン状態である。ラーメンでもいいが。

とにもかくにも仏教もすごく難しいものであるが、それは歴史上の理由によっても余計にややこしいものであるが、結局のところその究極っていうのは、「みーんな全員もれなく仏になれるぜ」ってものだと思う。「終わりにはみんなそうなる。だから心配すんな」と。

それはそれで壮大なことであり、ありがたいことである。
でも、宇宙は巨大であって何億光年も続いている、みたいなことは、ちょっと前まで刀ふり回してサムライやってたような現代の科学でもわかっていることである。

それに、俺も常々、「現代において世界を救うのに救世主は何人必要なのか。それは、70億人くらい必要なのだ。」とそう思っているし、そうなったらいいなと思っているし、そのためのロックンロールだと思っているけれど、人の罪っていうやつは、どうやらそれよりもやっぱり重いものみたいだ。少なくとも現状の世界を見るに、「全員もれなく仏になる」まで、何万光年も待っていられない。かく言う俺だってもうずっと、裏切られてばかりだからだ。

民主主義ってことを言うなら、人類の歴史において「理想の政治家」「理想の君主」が、一人出てくることでさえ、かなり稀なことだったのだ。人類全員が、聖書も論語も兵法も哲学もツェッペリンも読みこなし、「民主主義社会の理想の君主」になることなんて、いったいあり得るだろうか。
人というものに民主主義の根拠を求めるのであれば、それっくらい、やっぱり信用ならないものだったりもするのも事実だ。

これも俺のいつもの持論だが、仏教は永遠を示唆(imply)するが、決してそれを与えてはくれない。永遠の輪廻の連環を示すが、そこから抜け出す方法を決して直接与えてはくれない。
つまり俺の言葉で言うところの”Buddhism implies eternity. But Christ GIVES you eternity.”ということである。

仏教という要素がキリスト教にも共通し、組み込まれているのは有名な話だ。
聖書を開いていわゆる伝道者の書(コヘレトの言葉)あたりを開いてみれば、日本人の目からすれば、それはどう見ても仏教の経典にしか見えないだろうから。

諸行無常という言葉はとても美しく、俺も大好きな言葉だが、すべては無であるということは、スタート地点ではあってもゴールではない。基本ではあっても応用ではない。
すべては無であったとして、では今ここで何をすべきかという答は、与えてはくれない。
すなわちそれが仏教は本質的にサイエンス、宇宙科学であって、宗教ではないと俺が考える次第であるが、

つまりはそこは自分で悟れということである。
座禅でも禅問答でも修行でもいいが、なんとかがんばって悟ってね、という。

悟った結果、キリスト(救い主)に出会うことが出来たのならラッキーだと思うが。
実際にはかなりの確率でそうなるんじゃないかと俺は思っている。

もちろん、科学者がそうであるように、宇宙科学、精神科学である仏教家が、その道を究めるのは良いことだと思うが、それはまた魂の救済とは別の話だ。

で、キリスト教というものには、罪という概念がある。
いわゆる、日本語の「罪」という言葉が、どうしても犯罪とか悪行とかそういう意味になるので、日本人にはいまひとつ理解しにくい、と言われている罪(Sin)ってやつである。

これがつまり、人間はしょせんどこまでいってもダメですよ。ってことであるが。
さっき言った、大衆はどこまでいってもしょせん愚かである、っていうことなんだろうと思う。

もちろん、いつまでもそうであっちゃあいけないと思うし、それだからこそ新しい時代のインディーロックが鳴っているわけだけれども。
かといってそれだけで人類の罪っていうものを乗り越えることはたぶん出来ないだろう。

じゃあキリスト教においては、その人間の本質的な悪、人間の原罪たるところの罪ってやつを乗り越えるために、キリストってものを用意しているわけだが。キリストと、その十字架を。

だがもちろん、その宇宙の究極の真実のクロスポイントである十字架の交わるその一点を、見抜けるやつは、そうそういやしない。そうでなければ十字架なんて金属製だろうが板っきれだろうが、やっぱり偶像の一種になっちまう。

けれども、そんなことはキリストさんはとっくに織り込み済みなわけだ。

キリスト教の名のもとに、殺戮や支配や悪行が行われることも、織り込み済みというよりは、人間はそもそもがそういう存在なわけだ。どっちにしろ人は殺し合いますよ、ということだ。ということは、せめてキリスト教の名のもとに、良心に従ったり、弱者に寄り添った人間も、それ以上に存在したと思いたいわけだ。

せめて、という言葉をどうしても使ってしまうが。
せめてものことに。

なぜって「せめてものことに」俺だって音楽を作り鳴らしているわけだから。

こんなクソみたいな俺の、こんなクソみたいな人生のせめてものことに。

じゃあ早々に結論である。

そんなキリストさんが十字架を背負った時、
彼はどうロックンロールとひとつになり、どうロックンロールを体現したのか。

そして、そんな彼が、なぜ同時に民主主義の本質をも指し示すことが出来たのか。

それは最も弱き者こそが、もっとも高く、もっとも強い、ということにある。

(つまり、十字架にかかって死んだイエス・キリストは、すべてを剥奪された「死刑囚」だった。良かったよ、イエス・キリストが政治権力者とかじゃなくて。) (史上最強に冤罪だったわけだが。笑。) (なぜ冤罪で死刑にかかったことを冗談として笑えるかというと、それは、死んだけれど無事に生き返ってきたからで、だからこそ「あの時は大変だったよな」と笑えるわけだ。まあ、一緒に俺たち人類の罪も十字架にかかったからこそ、他人事でないぶん笑っちゃいけないんだが。)

もっとも弱く、無力な存在となったイエス・キリスト自身が、神の子として、もっとも強く、もっとも高く、絶対無比のロックンロールを体現したのだ。

これは、論語とか、孫子とか、老子とか読んでみても、古代中国の「道」による政治支配が、自然の法則にのっとって政治や軍事を説いたのと、まったく同じことだ。

つまりは、水が高きから低きに流れるように、もっとも弱きものが、もっとも強いのだということは、誰が定めるでもなく、神がフツーに定めた自然の法則なのである。

それは、どんな政治形態、支配形態、社会形態においても、決して変わらない自然の法則だ。

ここに、俺の求め、追い求め、願い、希求してやまない、
神の統治たる民主主義、
そして俺の追い求めるロックンロールの究極にして最後のゴール。
そして、俺を導くところの「魂のロッカー」(コピーライト、アーサー・ホーランド、笑)ことジーザス・クライスト
これが、フツーにひとつのものだったことが明らかになった。

それは、別に、ロック黄金時代の1960年代とか1970年代とか、あるいははるかなる未来とかじゃなくて、今、ここに、この場にあるものだ。
今ここで、音を鳴らし、今、ここで、声をあげることが、こうして意味を持った。

ここに「最後にはみんな仏になれるぜ」という仏教の約束は、別に何万光年の先を待つことなく、過去にも未来にも及んで、今この場でこの瞬間に与えられたのである。

俺としちゃこれで十分だ。

もう悩まない。
なぜって、悩んだって良い歳して白髪が増えるだけだからだ。

いや、去年までは「四ツ葉のクローバー」と自負してきた年齢にしては少ない白髪が、最近、悩んだせいでそれなりに増えてきた気がするからね。でも、日本で教会を探すよりはまだ見つけるのが難しいぜ。これがアメリカ並みにコンビニ並に教会があちこちにある、ってなったらそろそろやばいだろうな。

なにもわざわざ俺に関係のない人類だか何だかの未来のために俺が白髪を増やす必要なんてない。

キリストさんが起こしてみせた奇跡は。

モハメド・アリが放ってみせたパンチは(知らんけど)
エディ・ヴァン・ヘイレンが100ドル足らずのギターで鳴らしてみせた音は。

そのもっとも弱き者が依ってたつことのできる神の愛と真実。
その栄光が輝き出たものに過ぎない。

だから、ロックンロールは輝いているのだ。

なんだ、俺は、自分がちょっとくらいは才能があると思っていたけれど、
少しは良いゲームを、ここまでしてきていると思っていたけれど、
やはり俺は、そこにある神の法則を、単にそこにあるものを、拾い上げてそのまま鳴らしていただけだったのだ。

それを、多少は素直に拾い上げていたというだけのことなのだ。

そして、その神の栄光を、鳴らし、表現し、示してみせることこそ、生きること、神のために生きること、神のために音楽を鳴らすこと、その本質じゃあないか。

ロックンロールの普及にともなう民主化と、
個人を鳴らすことが可能になったインディーロックの時代における
ロックンロールのゴールたる大衆の救済、
そして未来への希求、
その別の日に書いた追記を付け加えておくと。

言ってしまえば、俺としての結論は、
愛の問題である。
個人のレベルでロックンロールの最終地点、その高みにたどり着けるまでになった。
それは間違いなく、ロックンロールというこの民主主義ゲームにプラスに作用する。
だけれども、その個人レベルでの救済と、人類全体の救済はまた別の話だったりもする。
俺としての答は、そこに向き合いラヴコールを送ることを止めないことだ。
俺が愛している相手。
俺が惚れているその相手。
本当に惚れた相手には、何度でもラヴコールを送り続けることだ。
そういうものじゃないか。
結果までは責任が持てないが。

まあでも、別にそれは俺がやることじゃないから、
もっとふさわしい人が、もっとそういう立場にある人たちが、それぞれにがんばってくれ(笑)

俺が鳴らすのは俺の人生だけだ。

あくまでしがない、底辺に生きる俺の。

しかし、いつの日にか振り返って、そんな底辺に居ることができてよかった、と思う時が来るのかもしれない。

No(4633)

■…2016年 3月 5日 (Sat)…….一応クリスチャンなんで。
思考がハイになっているうちに書き留めておくけれども、
イエス・キリストやキリスト教について論じる際に、
「イエス・キリストは神の子であり、その神の子であるキリストが十字架にかかって人類の罪とひきかえに死に、そしてその上で死すらも無効にして甦った」という、これはまあキリスト教の要旨だけれども、
そのことを、普通に既成事実というか証明された事実として論じているのか。

それは、まあ僕も一応クリスチャンのはしくれであるから、信じているのは前提であるんだけれども。
「なぜそれが正しいと、事実であると言えるのか。どこにその根拠があるのか。」
という、そこを、普通の人だったら疑問に持つかもしれない。

じゃあ、敢えて問うが、君はロックンロールを信じているか?

俺の答はこうだ。

「根拠なんてない。本当かどうかもわからない。でも、それを信じると勇気が出るんだよ。それを信じると、生きてることすべてに意味があるんだよ。逆にそれを否定しちまったら、すべてのものに意味を見出せなくなるんだ。そうなったら、俺はとても生きていられない。」

それが無かったら、生きていられない。
信仰ってのは。
希望ってのは。
そういうものだ。

2000年以上たっても、
人に生きていくための勇気を与えるなんて、
すげえやつだと思わないか。

これは自分のバンドの曲の歌詞にも書いているけれど、こんな感じだ。

「ジョン・レノンっていうのはただの有名なバンドに居た有名な人だと思っていたんだよ。俺には関係ないって。でも、彼の曲を聴いたら、わかったんだ、ジョン・レノンは俺の友達だ、とても近いところにいる友人だ、ってことがね。これがロックンロールなんだ、ってわかったのさ。それと同じだよ。感じたんだ、イエス・キリストの言う愛が、俺の中にもあるんだ、ってことが。」

まあなんというか、ある種の人間は、希望みたいなものがないと生きていけないのさ。
で、俺もその、ある種の人間のうちの一人なんだよね。

No(4634)

■…2016年 3月 6日 (Sun)…….今年のXTJをめぐる独白
LINEやグループにも書いたのですが、エクストリームツアージャパンをめぐる状況をシェアしておきます。

5月にアメリカはナッシュビルに行って、エクストリームツアーの毎年行われる最大のイベントThe Objectiveに参加することを考えていました。
それは、まあうちのバンドも何年もアメリカを訪れていないということもありますが、2013、2014、2015と3年XTJ (The Extreme Tour Japan)をやってくる中で、いろいろと問題点が出てきたり、というよりは問題点を抱えながら走ってきた感じですが、アメリカ側と日本側の理解を深め合うというか意識のギャップを埋めなければいけないと考えていたからです。もちろんアメリカに行くのであれば、出来れば自分のバンドを引き連れてひと暴れしたいという気持ちもありました。

また、大きな狙いというか、希望として、最初から言っているように、僕が中心となって個人で行う現在の形は、おのずから運営に限界がありますので、手に余ると言いますか、他人の手、できれば教会や、牧師さんや、そういったイベントを安定して行うことのできる人々の手にこのXTJ (The Extreme Tour Japan)という企画をお渡ししたい、ということがありました。

それと同様に、今回の5月のナッシュビルのThe Objectiveに、日本から、イベントに関わってくれている人々、ないしはこれから引き受けてくれる人を、一人でも二人でも連れていって、The Extreme Tourについて知ってもらうと同時に、アメリカ側のスタッフとつながりを作ってほしい、という狙いがありました。

そういった狙いのために、自分の手のとどくごくごく狭い範囲において、周囲に協力を求めていたのですが、そうやっていくうちに、またアメリカ側と連絡を取って反応を見るうちに、あまり状況が芳しくないことがわかってきました。

ひとつは、日本側における、やはり協力してくれる方や、イベントに興味を持ってくれる方、それからナッシュビルまで行ける人というのが、現実にはなかなか居ないということ。

もうひとつは、具体的にどうというのは難しいのですが、アメリカ側とのすれ違い。これは、3年間やってくる中で、積み重なったものといった方が正しいかもしれません。その上で、今度ナッシュビルに行こうと思うけど、こうしたいんだ、という提案をして話してみる上で、ちょっと改めて、アメリカ側とのすれ違いを感じたことがありました。

みっつめの理由としては、自分のバンドであるImari Tonesの意思決定です。自分のバンドではありますが、意思決定は僕が勝手にできるわけではありません。バンドメンバーと話し合って反応を見ると、昨年の時点で前向きに考えてみよう、という意見だったメンバーの反応が、やはりこれは行かない方がいいのではないか、という方向に変わってきていました。些細なことであり、また直感的なことでありますが、一緒にバンド活動をしてきて、音楽シーン、またクリスチャンシーンの両方を冷静に見ている彼らの皮膚感覚を、僕は結構信用しています。それは、価値観としては「音楽」そのものを最優先に置いている僕らの戦略でもあります。ミュージシャンにとっての音楽とは、つまりそれこそが信仰であるとも思っています。そもそもが今回のナッシュビル行きに関しては、僕自身も「ちょっと面倒だけどそろそろ行く必要があるから行くか」という感じでした。バンドの身内の中で、唯一「ぜひ行きたい」とやる気を見せていたのはうちの嫁さんでしたが、これはまあ嫁さんなので余計に心情はわかっています。その嫁さんも4月のStryper来日のために心身ともに余裕のない状態になってきています。

当初、「これを日本でやれないか」とアメリカ側から言われた際に、とても無理だろう、と思われたこのXTJです。3年、一応なんとか開催し、一定の成功を収めてきましたが、自分の中で、これ以上進んでいくのに、若干の疲れと、ためらいがあります。というか、まあ正直に行けば、僕個人としては十分に限界に達した、ということでしょう。今回、ナッシュビル行きのために少し動いてみて、それがはっきりとしてきました。

そんな状況のXTJなのですが、なので今年はもう、「やらなくていいのではないか」と大いに考えています。なのですが、どういう巡り合わせと言うべきか、「やれること」「やってみたいこと」がひとつだけあります。それは、昨年インターネットを通じて知り合い、僕たちに熱心なラブコールを送ってくれた、地球の裏側の南米チリのバンド、Victorianoの存在です。また僕らには、大きな組織や教会の後ろ盾はありませんが、Calling RecordsをはじめとしたXTJの仲間達がいます。それはこの3年間で得ることのできた最大の財産でしょう。このVictorianoを日本に迎える形で、開催できるのであれば、僕らとその仲間達は、きっと奮い立って、今年の開催をすることができるんじゃないでしょうか。僕はそう思っています。

僕は、アメリカのThe Extreme Tourの人たちも大好きですが、どうにもこうして海外に出て演奏してみると、また、こうして3年アメリカの人たちと関わりながら日本でXTJをやってみると、自分の中に「妙なナショナリズム」があることに気付きます。そしてそれは面倒なことに、信仰にかかわる部分もちょっとだけあったりします。それは決して、アメリカ側のやり方を否定するわけじゃあ、ないんですが、もう少し、日本主導でやってもいいのではないか、という意見は、前からありました。とにもかくにも、日本はかなり特殊な場所なので、その状況に合わせた形を作り、それをアメリカ側にも理解してもらうことが、無理なくこのXTJというイベントを続けていく上では、必須だと思うからです。

今回のことが、XTJというイベントの成り行きに、どういう結果に転がっていくのか、自分としても見守ってみたいと思っています。

そして、やはり、僕らとしては個人での運営は限界でありますので、このThe Extreme Tour Japanという企画、草の根の音楽ミッショナリーツアーを、引き継いで、引き受けてくれる人、牧師さん、教会の方々、を、募集しています。

今からでも、5月のナッシュビルに行くことができる人がいれば、それであれば私も喜んで同行します。(たぶん)

No(4635)

■…2016年 3月10日 (Thu)…….ひとまず話し合いは成功
今日スカイプで会議したが、自分がコミュニケーションに問題があることがあらためてはっきりわかった。これは英語力とか日本語力とかそういう問題の外側だ。しかしなんというか、こうやってネット上に書いてる文章とか見るだけでも丸わかりだろうと思うが(笑) あらためて自覚した。歳をとるにつれて、自分がどれだけアレかということがわかってくる。まあ有り体に書けば世間と乖離してる(笑) 先週書いた長い文章も、ウェブ日記にはポストしてあるが、FB上にはのっけていない。長いしくどいから(笑) 隙を見てのっけるかもしれないがw こっそりとw

No(4636)

■…2016年 3月10日 (Thu)…….ブログこぴぺ
Hello from Imari Tones!
(日本語は下にあります^^)

We would like inform you that 2 of our albums “Heterogeneous Species” (異能レース) and “Reluctant Savior” (無責任なメシア) are now “Re-Built”, “Re-Mixed” and available on BandCamp and iTunes. They soon will be available on Spotify, Apple Music and other digital outlets.

こちら

こちら

Here is the story behind the works.
It’s already a long time ago, but in the year 2005 Tak recorded so much music, so many songs. When we see the history of this band, after finished making “Hero of the Light” (光のヒーロー) album in early 2005, our band basically “broke up”. Our then-drummer quit the band and we were not able to play shows. We had to wait until 2006 to start again as a band and (somehow) fly to Germany to record an album with a famous producer. (That is the album called “Japanese Pop”, still one of the most popular albums of ours.)

That was why Tak (me) focused on recording. That was because, I had so much idea back then. I thought it was a good opportunity and timing to record all those songs and try all the things in the studio.

To my surprise today, me back in 2005 was very productive and hard working. As a result, I recorded 4 albums, almost by myself (with some help from friends), playing all the instruments including drums.

One should note that many of those songs we (I mean, mostly me) recorded for these 4 albums were the songs I had written in my teenage days. They are, even though technically not perfect, fresh and straightforward with so much energy.

So these 4 albums are very important to me, as a musician, both music wise and message wise. The titles of the albums I recorded mostly by myself in 2005 are: “Heterogeneous Species” (異能レース), “Reluctant Savior” (無責任なメシア), “Color of Hers”, and “fireworks”.

Although I have been basically happy with the result of this rapid recording work, over the time I have begun to think there was a possibility to make them better, especially for 2 of them “Heterogeneous” and “Savior”.

We recorded our latest album “Revive The World” in 2014 and last year (2015) we had no homework to do, other than slow rehearsals for next album (which we are recording RIGHT NOW). So I decided it was a good timing/opportunity to try “ReMix” of these 2 albums. Well, it took 10 years, after all. Did I grow up a bit?

We, again in this case, mostly me, re-recorded some bass tracks and guitar tracks (40% of bass tracks and 20% percent of guitar tracks, I should say), and actually vocal tracks for 2 songs (“Tooi Natsu No Komoriuta” and “Nami” to be exact), and did the re-mix for whole 2 albums.

The result is here, “ReBuilt” version of these 2 albums, now on our BandCamp page and all those digital stores.
The result surpassed my expectation and I should say I’m very happy. Even though they are basically recorded 10 years ago, you can totally say they are “NEW” albums from Imari Tones.

You should notice they the albums we made BEFORE we became a Christian band and all the songs are sung in Japanese language. Also musical style is in more of J-Rock, J-Pop context.

Even though those albums mean so much to us, we are not sure if you are interested in our “J-Pop / J-Rock” works. But we very much hope you will like it. Because we believe they are still unique and awesome music that makes you smile!

So Here’s the link to our BandCamp page.
こちら

You notice we have made so many albums, right?
This time we have “ReBuilt” 2 of them. So please check them out!

Also, not taking advantage of this opportunity but, let me give you a small (a little) sad news today.
We were planning to visit Nashville TN (USA) in May this year, but we decided we are not doing it. It is a highly strategic decision for The Extreme Tour Japan, as well as for musical reasons such as to focus on recording. It was basically supposed to be a short visit. So we promise when we visit USA next time we will do a “bigger” tour, to see as many people as possible.

Also, here is some videos to share, which we have posted on YouTube recently.

That’s all for today.

God bless you all!
Love from Japan
Tak a.k.a. Tone / Imari Tones

伊万里音色よりこんにちわ。
今日は、僕らのアルバムのうち”異能レース”と”無責任なメシア”の2枚について、「リビルド」「リミックス」の作業が完了し、BandCampやiTunesにて入手可能になったことをお伝えします。SpotifyやApple Musicなどにおいても間もなく配信されるはずです。

これらの作品の背景にあるストーリーをお話します。

もう昔のことになりますが、2005年にToneはたくさんの音楽を録音しました。このバンドの歴史を見ると、2005年の初頭に「光のヒーロー」の録音制作を完了した後に、このバンドは基本的に解散状態にありました。当時のドラマーがバンドを離れ、僕たちはライブをすることが出来ませんでした。僕たちがバンドとして再始動し、そしてなぜだかドイツまで飛んで有名なプロデューサーとアルバムを作ることになるまで(それは”Japanese Pop”というアルバムです)、それは2006年まで待たなくてはいけませんでした。

それがTone(私です)が、この時、録音制作に集中した理由です。なぜなら私はその当時、とてもたくさんのアイディアを持っていたからです。この機会を、それらの曲を録音し、スタジオ作業でいろいろなアイディアを試してみる良い機会だと思ったのです。

今でも驚くことに、2005年当時の私はとても生産率が高く、よく働きました。結果として、4枚のアルバムを、ほとんど一人で(少しばかり友人たちの助けを得て)、ドラムを含むすべての楽器を演奏して、作り上げました。

これらの4枚のアルバムに含まれている曲の中には、僕が10代のティーンエイジャーだった頃に書いた曲がたくさん含まれています。それらは、未熟な部分もありますが、新鮮でストレートで、エネルギーに満ちています。

音楽の面でもメッセージの面でも、これらの4枚の作品は私にとってミュージシャンとして重要な意味を持つものであり、誇りに思っています。この4枚のタイトルは「異能レース」(Heterogeneous Species)、「無責任なメシア」(Reluctant Savior)、「Color of Hers」、「fireworks」です。

この急ぎ足で行った録音作業の結果に私はおおむね満足していましたが、時間がたつにつれ、私はそこに、これらをもっと良いものにする余地があるのではないかと思うようになりました。それは、特に「異能レース」と「無責任なメシア」の2枚についてそうでした。

僕たちは2014年に現時点での最新のアルバム「Revive The World」のレコーディング作業を行いました。ですので昨年2015年には、次のアルバムのためのリハーサルを行うのみで、スケジュール的には余力がありました。(今現在、まさにその「次のアルバム」のレコーディングを行っていますが)
ですので私はこれらの2枚のアルバムを「リミックス」する良いチャンスだと思い、実行しました。結局のところ、これを完成させるのに10年もかかったということでしょうか。少しは成長したでしょうか。

私たちは、この場合、おおよそ僕1人の作業ですが、いくつかのベーストラックとギタートラックを録音しなおし、そして2枚のアルバムをミックスしなおしました。(40%のベーストラックと20%のギタートラックといったところでしょうか。そして実のところ「遠い夏の子守歌」と「波」の2曲についてはヴォーカルも録りなおしを行っています。)

その結果、これら2枚のアルバムの”ReBuilt”バージョンが出来上がりました。それらは僕らのBandCampページ、そして多くのデジタルストアで聴くことができます。
作業の結果は、僕の期待を越えたものになり、結果にとても満足しています。それらは10年前に録音された作品ですが、Imari Tonesのニューアルバムと言っても差し支えないくらいのものになっています。

これらのアルバムは、僕たちがクリスチャンバンドになる前に作られたものであり、また日本語で歌っています。音楽的にもよりJ-RockやJ-Popの文脈の範疇にあるものです。

これらの作品は僕たちにとっては大切なものですが、皆さんが僕らのJ-Pop、J-Rock時代の作品に興味を持ってくれるかどうかはわかりません。けれども、気に入ってくれることを願っています。なぜなら、これらはやはり依然としてユニークでオーサムな音楽だと思うからです。きっと皆さんを笑顔にすることができると思います。

そしてまた、この機会を利用してというわけではないのですが、小さなお知らせ、ちょっとだけ残念なお知らせをお伝えしておきます。
僕らは5月に、アメリカのテネシー州ナッシュビルを訪問することを計画していました。けれども、僕たちはそこへ行かないことを決断しました。これは、The Extreme Tour Japanについての戦略的な判断であり、また僕らの音楽についての音楽的な判断でもあります。レコーディングや、次の作品への制作に集中したいからです。もともと、これはほんの短い滞在になる予定でした。なので、次にアメリカを訪れるときには、なるべくたくさんの人たちに会いにいけるよう、大きなツアーにすることをお約束します。

そして、ここに最近YouTubeにアップしたビデオを、ひとつふたつシェアしたいと思います。

今日はここまでです。

皆さんに神の祝福がありますように
日本から愛をこめて
TakまたはTone / 伊万里音色

No(4637)

■…2016年 3月11日 (Fri)…….インスタまくらねこ
エレクトリックギターの音に向き合って、追いかけるうちに、今日、なんとなく気が付いたこと。
僕は、音を殺そうとする。
いっしょうけんめいに、音をコントロールし、頭の中に、記憶の中に、想像の中にだけ存在するその音に近付けようとする。
なぜなら音を額縁に入れて保存してしまえば、すべて安心だ。
だが現実には、殺そうとすればするほどに、ギターの音は飛び、はじけ、跳ね回り、僕の想像も、コントロールも越えていく。
だからそれを「ライヴ」(生きている)と呼ぶ。
思ったとおりの音が出るギターは、本当はそれはもっとも死んだギターなのかもしれない。
人生は思ったようにはいかない。
この世界は、予想もつかないような、あらゆる災難や、偶然や、あるいは幸運や、そういった、僕らの手ではどうにもならないことで満ちている。
「ライヴ」(生きている)という世界で、僕らは思うようにいかない、危険きわまりない奔流の中に、身を任せ、飛び込んでいく。
そして、だからこそ生はこんなにもまぶしく、めまいがするほどに輝かしい。
ジミ・ヘンドリクスは音をコントロールしたわけじゃない。
彼はきっと、嵐の中に飛び込み、激流に身を任せたのだ。そして泳いでみせたのだ、鮮やかに。
思うようにいかない、決して絵に描いた音なんて出やしない、そんな生々しく、鮮烈なエナジーに満ちた音を、そんなエレクトリックギターの音に、自分が生きる最後の一日に、僕は向き合いたい。
その「生きる」という音の渦に、僕はきっと初めて、何も準備することなく飛び込んでみよう。
決して祈らなかったわけではない、今日という重い一日の最後に、見つけた小さな気付き。

No(4638)

■…2016年 3月16日 (Wed)…….在る日のギタートーク
さて今日は文章を書く日と決めている。
一応、バンドのメーリングリストを送信するという仕事はさきほど終えたつもりだ。

ものすごく遅ればせながらZZ Topにハマっている。
ここ一年あまり、Peter Greenにどハマりしたこともありブルーズを聴くことがとても多かったのは認めるが、その流れの中ではある。
とはいえZZ Topとか、まあ白人のテキサスブルーズというかサザンロックの範疇であるが、
今まで、中古屋で昔拾ってきたRecyclerっていうアルバム、バックトゥザフューチャーの曲が入ってるやつ、を聴いて、シンセベースとリズムマシンが鳴ってるまったりアルバムだとばかり思っていたが、先日あらためて聴いてみたときに、そのシンセとリズムマシンの上で弾いているBilly Gibbonsのギターがとんでもないことに今更ながらに気が付いたのである。
まあこうして聴くべきクラシックは世の中にまだいくらでも存在する。
長生きできれば聴くことができるだろうが、聴けるものはしょせん限られている。人生は有限だ。

ともあれ先日は渋谷に、友人オオハラ氏のバンドである「オオハライチ」を応援しに行ってきた。渋谷エッグマンなんて中に入るのは何年ぶりだろうか。それこそ、大学のときに、語学のクラスが一緒だったビートルズマニアの友人のバンドを見に行って以来かもしれない。もしそうだったとしたらいったい何十年ぶりなのかという話になる(苦笑)

オオハライチに関しては僕は昨年11月にThe Extreme Tour Japanを手伝ってもらいその中で横浜の小さなハコでの演奏を見て以来、二度目に見たことになるが、変則的な編成のオオハライチにとっては、ああいったコンテストの場として、またああいったライヴハウスの場として若干の不利はあったものの(音響的にどうしても4000–8000hZあたりの音が存在しないため寂しく感じる)、そのパフォーマンスは堂々たるものであって、僕も非常に感銘を受け勇気をもらった。

都合により時間がなく、僕は前後のバンドも少し見ただけだったが、それらのバンドも必ずしもレベルの高いと言えるバンドではなかったものの、ロックンロールと信仰と民主主義っていうことについて最近考えていたので、そう思うとこうやって若い子たちがバンドやって音を出していること、それ自体が嬉しいことであり、なんだか悪く無い気分で会場を後にしたことを覚えている。

しかし、予測していたことではあるが、やはりここ3、4年で日本も変わった。端的に言えば、ここ数年、たとえば渋谷の町に出かけて見ても、以前とは雰囲気がずいぶん違う。最近ではいろいろな外国から日本に観光客がたくさん来るようになったので、東京であれ、あるいはもはや地方であってもそういった国際化が著しいが、ここ数年でやはり日本も「よくもわるくも」国際化した、というよりは、アジアの諸外国に近いような雰囲気になってきた。(と俺は感じている。)

それは決して悪いことではない。英語が上手にしゃべれる人たちもどんどん増えるんだろうし。クリスチャン的な立場から言えばこれからきっと日本にもクリスチャンの人たちは増えるだろう。なぜって世界は急速に均質化しているからね。クリスチャン人口が「異常なまでに」少なかった日本に、国際化にともなってクリスチャン人口が諸外国並みに(とはいわないまでも)増えていくのは、文化的に考えて必然だろう。

日本独自のいろいろ、たとえば音楽シーンでいえば「尖った感じ」が失われるのはそれなりに惜しいことではあるが、次の世界、そして現に今の世代は、その均質化ならびに国際化していく新しい世界の中で、日本だけでなくアジアや世界ぜんぶに響いていく音を鳴らしていってもらえばいいわけで、実際にもうかなりそうなっているだろうけれども。

ただその中でやはり「日本本来の音」というものを形にして保存できる人は、それをやらなければいけない。体系的に、とか、スピリットの真髄を、とか、それは人それぞれの力量と分によるだろうけれど。

外国向けのクリスチャンロックなんてものを鳴らしてきた僕たちではあるが、だからこそ、というか、「伊万里音色」なんていう名前を持っているからには、僕らもこれから全力でその作業を行うつもりだ。そりゃ、新渡戸稲造先生にあやかるわけでは、ないが、いや、あるが。

さて、渋谷に出かけたついでに録音作業に必要な弦などを買いそろえてきたわけである。それにともなって、良い機会だったので、2、3本のギターを試奏してきた。ここのところ、しばらくこのようなお店でいやがらせのように試奏とかしてなかったが、やはり良いサウンドはチェックして、知っておきたいのである。

前にも書いたように、僕は自分のギターサウンドというか、自分なりのヘヴィメタルサウンドを追求する中で、自分が思う究極のエレクトリックギターのサウンドは、セットネックのギターである、という結論に達している。平たく言ってしまえばレスポールのことである。

だが、セットネック、レスポールというものは、非常に難しい楽器で、見た目や形こそどれも同じでも、その中身は千差万別であり、その中には、当然、世の中の事情として「詐欺まがいのような」ものがたくさん存在する。別に詐欺といっても、音はそれを聴く人の主観によるものなので、人によってはそれで「良い」のだし、実際に多くの人はそのようなギターの音を「良い」と考えるだろう。

だからこそ僕が考える「良い音」がするセットネックのギター(レスポール)に出会えることは本当に稀である。そしてだからこそ、気になる楽器はチェックしておきたい、と思ってしまうのだ。

僕としては、海外のブランドやメーカー、ビルダーでも、ここのメーカーのものは素晴らしい音がするなあ、と思っているものも、インターネットで音を聴いて判断する限り、いくつかあるけれど、そういったギターを実際に試す機会はあまり無い。

その反面、日本には、高い技術力を持ったギターメーカーがたくさんあり、それらの国内メーカーはそれぞれに、「なんかよい感じの」セットネックのギターを作っている。
それら国内のメーカーの「レスポールタイプ」のギターを、出来れば全部試してみたいものだと、僕はかねがね思っているが、そういったギターは価格も高いものであることがほとんどで、お店に入って「これ試奏したいんですけど」っていうのも気が引ける以上、なかなか実現はしない。

そういったわけでギタートークの一環をまた今日は書きたいのだが、Caparisonという国内の(今では資本は英国と聞くが)メーカーのAngelusというレスポールタイプというかセットネックのギターを試してみたのである。

Caparisonというメーカーについて僕が何を書くまでもないと思うが、ヘヴィメタル系のギタリストであれば、当然チェックしているはずのブランドだ。

僕自身、このメーカーにまったく縁がないわけではない。
大した縁ではないが、それでも、ちょっとは縁がある。

僕らが過去にお世話になったプロデューサーのY氏は、ここのメーカーの有力なエンドーサーの一人だったからだ。
Y氏のもとでレコーディングをしていた頃に、僕は氏の所有する、「やたら高いCaparisonのカスタムギター」を弾かせてもらったことが何度かあるはずだ。
そして結局、そのCaparisonのギターを、自分の作品で弾くことはなかったが、僕が少年時代に持っていた初めてのギターは日本製Jackson Soloistだった。そして、今でもやはりその時期に作られた90年製のランディVを所有している。

Caparisonというメーカーについて語るとき、その歴史は、日本製のJackson/Charvelから派生したものだということは、周知の事実というか、ふつうに歴史上の事実だ。
1980年代から、Charvelは日本製のものが作られていたが、Jacksonブランドのギターのプロダクションモデルが日本で作られるようになったのはたぶん1990年からで、90年代メタルキッズだった僕もその恩恵で、初めてのギターとして、Jacksonという憧れのブランドのギターを(親にねだって買ってもらうことが)できたのである。

そして、この日本製のJacksonに携わっていた人たちは、どうやらアメリカ本国のJacksonの設計開発した楽器を作るだけでなく、独自にギターの開発設計、改良などをすることが出来た人たちだったらしい。
それは、90年代の日本製Jackson/Charvelのラインナップを見れば、その積極的かつ意欲的なアイディアというか開発っぷりが伺い知れると思う。そしてその中心に居たのが有名な菅野氏という方であるらしい。

そしてCaparisonは、その日本製Jacksonの延長線上に生まれたブランドだ。ビジネス上の事情から生まれたものであったにせよ、かえってそのJackson/Charvelのブランドの制約が無くなって、より独自色の強いギターを作ることが出来るようになった、みたい。

で、日本製の非常にごついヘヴィメタルギターがこうして作られるようになったわけだ。

だからCaparisonのギターというのは、その背景としてどうしてもJacksonの延長線上にやっぱりある。

Jacksonというのは、やはりどうしてもヘヴィメタルのギターである。その考え方というのは、伝統的なレスポールみたいに生鳴りのウォームな音、というんじゃなくて、ハイゲインに歪ませることを前提に、歪ませた状態でヘヴィメタル的に最高の音になるように計算されて設計開発されたもの、だと思う、たぶん。

インターネット上で見た菅野氏のインタビューにも書いてあったが、音の傾向としては、Jackson/Charvelよりもあえて違ったところを狙っているようだが、それでも根っこの基本の考え方というかスタートラインはやはり同じように思う。

だから僕は、Caparisonの音を聴くと、やはり今までも、うーん、昔の日本製Jacksonっぽいな、と思うことが多かった。確かにCaparisonの音の方がもっとヘヴィで輪郭もはっきりしているが、全体的な匂いが同じというか。

最初のギターが日本製Jacksonだった僕としては、やっぱり当時の日本製Jacksonのギターはとっても大好きであり、近年になってBacchus/Deviser/Headwayにベタ惚れするという事態に陥るまでは、何かひとつのギターメーカーのファンになったほとんど唯一の例であったと思う。

だからCaparisonのギターも、決して嫌いではない。
けれど、やっぱり僕の音楽の必要とする方向性とは、ちょっと違うな、というのが正直なところだった。

だから僕は当時の日本製Jackson/Charvelをいまだに所有してはいるけれども、意外といえば意外だがCaparisonのギターは所有していない。高いから、っていうのはあるけれど。

けれど、実は自分がツアー用として何年も酷使している「安い方のHamer」であるHamer XTのフライングVには、実はCaparisonのPHというピックアップ(PH-RおよびPH-F)がのっけてある。

それは、やっぱりプロデューサーY氏のところでお世話になって、そこで多少なりとも良い音について学んだこともあるし、Jacksonの音っていうところからヘヴィメタルサウンドの理想について求めていった結果でもある。

つまりはJacksonはその昔、ピックアップも自社開発していて、たとえばJ-80とかJ-90みたいな名作があったわけだ。プロデューサーY氏がいちばん好きなピックアップとしてよく挙げていたのがこのJ-80だったわけだが、僕もこのJ-80は大好きな音だ。ザクザク具合とか粘り具合とかが非常にちょうどいいのである。これがJ-90になるともうちょっとだけモダンになるが、これも実際、とても良いものだ。

で、Caparisonのピックアップも基本的にこの延長線上のサウンドであるので、タイト、パンチ、ザクザクなヘヴィメタル具合はそのままに、なおかつ更にモダンになって抜けも良くクリアになり、クリーンまできれいに出る、自分の知る中でも非常に優れたピックアップだと僕は思う。ちなみにプロデューサーY氏はこのPH-Rの開発にも深く関わっていた、と話していた。奇しくもそのピックアップを今でも僕は愛用しているわけであるが。

ああそういえば、これは安物だけれど、僕がその昔「一人録音」において使っていたベースは、よくよく思い出すと”Chattingbird by Caparison”であったな。これも、小さなことであるが、やはり僕がこのブランドの音が好きだったということの表れだろう。安物だったけれど、すごく使える楽器だった。

で、そんなヘヴィメタルギターとして世界屈指の実力と独自性、高い技術を持つCaparisonが作るところの、セットネックのレスポール的なギター、を、前々から試してみたかったのである。

僕は2013年の秋のことであったがBacchusの「猫ポール」に出会って以来、ギター、ならびにギターサウンドに対する考え方がまったく変わってしまった。変わったというよりは、たどり着いた、という感じだが、あげくの果てには音楽そのものに対する接し方や考え方も変わったと思う。その先に、今レコーディング作業をしている”Jesus Wind”や、これから取り組む「鍋島」の作曲が可能になったわけだが。

セットネック、平たく言えばレスポール、のギターを弾いてみれば、そのメーカーの考え方や、立ち位置といったものが、如実に見えてくる、と僕は思う。なぜならボルトオンのギターについては、ぶっちゃけた話、誰でも作れるというか、いや俺は作れないけれど、それは設計開発の部分が大きいと思うけれど、レスポールとかセットネックに関しては、それらをめぐる世の中の状況が非常に複雑で難しいので、いかにしてそれを作るか、という部分に、そのメーカーのギター作りや商売に対する姿勢が表れると思っているからだ。

で、Angelusを初めて試してみました。

Angelusとか、その他のCaparisonのラインナップにしても、90年代に存在した日本製Jackson/Charvelの製品が、そのまま進化したものがいくつもあって、実はこれも、そのひとつだと認識しているが。つまり、Charvelだった頃は”Questar”とう名前で売られていたらしい。

で、某所で試したAngelusのフレイムトップの、すごく高そうなやつ。

弾いてみたんだけど。

セットネックなのに、スルーネックみたいな音がするwwww

いや、なんというか、音もだけど、弾いた時の感じが。
スルーネックっぽい。

そして、レスポールタイプなのに、どちらかというと、やっぱり、タイトかつヘヴィなメタル系の楽器の感覚。

つまりこれは。
Caparisonの音は、やっぱり、セットネックのレスポールタイプであっても、やっぱりCaparisonだった、ということだと思います。

これは、どういうギタリストが、どういう用途に使うのか。

やっぱり、メタル系のアーティストが、ヘヴィな音を出したいけれど、それでもトラディショナルなフィールが欲しい、という用途なんだろうな。それくらいしか想像できん。想像力の不足だろうけれど。

Caparisonのヘヴィメタルという音の価値観の中では、期待を裏切らない良い楽器だと思いますが、僕の求めるレスポール、セットネックのギターとは、まったく違ったものだった。

チェック完了です。

僕の求めるもの、って何よ、ってことですが、
僕の求めるレスポール、セットネック系のギター、しかも出来れば国内のメーカーに、期待しているのは、ヴィンテージを越えた、ヴィンテージを踏まえつつも、本質的にその先を行く、未来の楽器。

このAngelusが、そうでないとは言いませんが、僕の求める未来は、やっぱり違うところにあるということでしょう。

ついでに、Fujigenさんところのレスポールっぽいあれ、例のシャラさんが使ってるやつと同じ形のやつ。もちろんシャラさんのやつはもっと良い木を使った高いやつだと思うんだけれど、それでも日本製ギターとしては十分に高いやつ、も、成り行きで試すことができた。これは、以前に一度、試したことがある。その時の印象は決して良くなかった。

こうして「ゴリゴリメタル」なCaparisonと比べると、やはりフジゲンさんとこのやつの方が、伝統的なレスポールの鳴り方に近い。とても良く出来ている。でも、基本やっぱりセットネックの緩い感じに僕には思える。確かに出来の良いセットネックギターに特有のきゅんきゅん言う感じ(そりゃストラトだってきゅんきゅん言うが、ちょっと違う)は、存分に出ているのだけれど、なんかそこに、作られた感を感じてしまう。すなわち、音は出ているが、フィールが伴わない。(俺はそれをギターと呼ばずに、シンセサイザーと呼ぶ。) ただ、これはそういう音を出したい人には、とても良い実戦的な楽器になるだろうと思う。そして、現代ではそういったギタリストの方が、たぶん多数派だろう。

確かに、アースシェイカーの最新のアルバム(Bird)においても、ほとんどヴィンテージくらいのきゅんきゅん言う良い感じのギターソロはいっぱい入っている。なんかのインタビューで読んだには、アルバムの半分くらいはフジゲンで、残り半分はHamer Korina Vectorを使ったということだが、俺もKorina Vectorを愛用している一人として、「あ、この曲とこの曲はHamerだな」というのは、結構わかるつもりだ。(万一外してたら恥ずかしいので言わないが) (考えてみれば、天国の階段のギターソロが、テレキャスかレスポールか、聴き分けることの出来たエンジニアは何人居たのか。) だけれども、サービス満点なくらいにきゅんきゅん言っているその音に、いまいちフィールが伴わないのは、そういうことだろうと僕は考える。だがもちろん、その音によって今のアースシェイカーの素晴らしい楽曲が成り立っているのだから、ファンとしては1ミリも文句は無い。

以上、とあるなんでもない一日の記録。

No(4639)

■…2016年 3月16日 (Wed)…….良心的なメーカーとヘヴィメタルの反比例それはメタルの宿命
ギタートークということで言えば、
Bacchusさんから、「これ俺を狙い撃ちにしてるでしょ」みたいな(もちろんすべて気のせい)楽器は、去年くらいからいくつも発売されている。

Bacchusといえば、わりと、フツーの見た目のストラトとか、フツーの見た目のテレキャスとか、時々、ちょっとフツーじゃないテレキャスとか、そういう一般的な「汎用」「一般人向け」なギターのラインナップが多く、

どうしても「ヘヴィメタル」な感じのギターとか、ヴィジュアル的に尖ってる楽器は、あんまりない。
だから、一応ヘヴィメタルの範疇に分類される音楽をやっている僕としては、Bacchus/Deviserが大好きだとは言っても、自分の守備範囲に入ってくる楽器は、実はとても少ない。

だけれども、昨年くらいから、これはちょっとメタル系なギタリストを狙ってきてるよな、という楽器が、いくつか市場に出回っているのである。

Priestの来日に合わせたように発売されたフロイドローズのついたフライングVカスタムといい、
その流れでやはり発売されたフロイドローズのついたレスポールカスタムといい、
やっぱりフロイドローズのついたアカシア製のスーパーストラトImperial Proといい(聖書では、祭壇とか全部アカシアってことになってるので、クリスチャンロック的になんかそそる材ではある)、
まあフロイドローズのっければメタルってわけじゃないが、あげくの果てには今度はSTRブランドでフロイドローズのっけた「本気のレスポール」タイプが出るっていうじゃないか。
まさに俺に「使ってください」と言わんばかりである。

あとあれだ、最近発表された、27インチ、ダウンチューニング用のSurfとか。JMベースで見た目にも「今時のメタルコアバンド」が好きそうな感じだし。まさかのラウド系仕様。

ただ、うちにはもう新しい猫を飼う余裕は無いのよね(笑)
ごめんなさい。

あとは、フィリンピン製グローバルでフライングVカスタムのフレイムトップの色付きのやつとかも、まさに俺のいつも使っているVの仕様だし。しかもそれでバッカスの鳴りだったら正直ちょっと欲しいし。

何度か試して比べてみたけれど、先だって書いた僕のツアー用の安い方のHamer、Hamer XTのインドネシア製に比べて、音のキャラクターもあるから微妙なところなんだけど、Bacchusの方がやっぱり鳴るのよね。

だからなんか悔しくて、ここのところ、Hamer XTのペグを変えてみたり(角度が変わってテンションが増したせいか音が太くなった)、弦のゲージもひとつ上げてみたり、それで「安い方のHamer」もより理想の音に近づいたんだけれど(理想というのは、フライングVなのにレスポール的な音がする、という都合の良い理想)、やっぱり冷静に比較すると、Bacchusの方が作りの差なのか材の差なのか、生鳴りはやっぱり一枚上な気が。

だからといって何年も使って録音でもライヴでも結果の出ている「安い方のHamer」を捨てる気には一切ならないんだけれど、アメリカに何度も持っていって歴史も刻み込まれてるし。

先述したようにピックアップはCaparison PH-RおよびPH-Fっていうスーパー高性能なやつが載ってるし、フライングVなのに「ジョン・サイクスのレスポールカスタム」みたいな音がするので(あくまでメタル系のレスポールということだが)、理想にはかなり近くなってるし、ツアーや録音を通じても、このギターのキャラクターが「Imari Tonesの音」として一部で認識されている可能性もあり、そういうのって貴重だから、やっぱりこれからも使うんだけどね。鳴りゃあいいってもんでもないからね、やっぱ。心に響いてナンボだから。

だからこの「安い方のHamer」が、たとえ生鳴りや作りでBacchus Globalに劣っていても、そういう理由があって、更に仕様や立ち位置がかぶっている以上、この安い方のHamerを使い続け、Bacchus Globalは見送らざるを得ないんですが(苦笑)

あとは、そうね、その「日本製Jackson」の1990年製ランディVがまだ手元にあるしね。やっぱり売るに売れない。まあ、パーツやネックにいろいろ問題もあるから売ろうにも二束三文にしか、今更ならないし。
でもこのランディVで、このBacchus GlobalのVに対抗できるんじゃないかって、いや、別に、何も対抗する必要なんて、無いんだけれど。

その今度STRから出るフロイドローズ仕様の本気のレスポールも、決して魅力的じゃないわけじゃないんだけれど、俺には「猫ポール」が不動の人生ナンバーワンとして居るし、あとはSTRブランドよりもバッカスブランドの方が正直「安物」感が演出できて好きだったり(ひねくれてる)。つまり、安物に見せかけてすげえ音がするというサイトギャグ。あとはヘッドのデザインとか。うるさいねすみません。
せめてEVHみたいにボディを傾けてくれたらなあ、って、じゃあEVH買えよ、って話ですが、EVHも良かったけどやっぱりBacchus/Deviserの音の方がいいし。

メタル用ってことで言えば、むしろレスポールやフライングVのセットネックもですが、スーパーストラトとてね、やっぱり80年代大好きなメタルギタリストとしては、スーパーストラトっていうのは逃れられない命題で。

最近、市場に出回ってる桜トップのストラト、あれをスーパーストラトなテーマのフロイドローズでやってくれないかなあ。2ハムで、できれば22Fで。つまり、俺はテクニカルなメタルギタリストのはしくれではあるけれど、24フレットは好きじゃないのよ。22フレじゃないとしっくりこないんだ。つまりはBacchus/Deviserさんの考えるスーパーストラトの完成形ってやつを見てみたい。ほら、だって最近はJames Tylerとか作ってるんでしょ。

カスタム注文すれば、って話ですが、
はい、もうちょっとバンドが成功したらね。

いつでしょうかね、それ。

ちなみに参考までに、
今うちで飼っている猫じゃなくてギターの中で、
生鳴りの大きさで比較するとこんなふうになる

同率1位
Korina VectorならびにDuke Standard

2位
猫ポール

同率3位
安い方のHamerならびにGunslingerならびにAxis-EXS赤

4位
Axis-EXピンクならびにDinky白

5位
ランディV

もちろん、生鳴りが大きいから、小さいから、と言って、それで優れているというわけではございません。

え、ちょっと待って、ということは、今僕が所有しているエレクトリックギターはぜんぶで9本だった。

10本以上あるもんだと思ってた。
他人に譲ったり、実家に封印したりとか、したよね、そういえば。

No(4640)

■…2016年 3月17日 (Thu)…….終楽章を鳴らすためのOverture
書くこと、書けることはいくらでもあるのだけれど、
言葉で書くことよりも音楽を作ったり鳴らすことにすべてがあるのだから、
必ずしも書く必要はない。

けれども作業を進める手助けとして、頭の中を整理する目的としても書いておくならば、
ひとまず現状、今やっていることを書いておこうと思う。

今、うちのバンドは「コンセプトアルバム」であるところの”Jesus Wind”(仮)の録音制作の作業、平たく言えばレコーディング、の作業をしている。

2月いっぱいかけて、なんとかドラムを録り終え(ジェイクおつかれさま)、そして3月初頭にがんばってその録音したドラムトラックを編集し(これが結構疲れる作業なのだ)、そして、先週からベーストラックの録音を始めている。

ドラムの録音と違って、基本的にライン録音で行うベーストラックの録音は、自宅で出来るため、はっしー先生のスケジュールの都合に合わせてうちに来てもらうだけのことではあるが、それでもやっぱり、演奏とか作業自体は、重労働には違いない。

だがそれでも3月いっぱい、おそらくは4月の初頭には終わってくれるのではないかと考えている。そしたら、いよいよギタートラック、僕の出番ということになる。気が引き締まる、というか、プレッシャーでいっぱいだ。

時々言っていることであるが、常々言っていることであるが、
僕は基本的に、いつでもこんなつらいバンド活動とかはやめたいと思っていて、かといって中途半端で止めることもできないため、その時その時で、常に、どうやったら活動を完結させバンドを止めることができるか、その最短距離を常に考えてバンド活動をしてきた。

逆に言えば、それがここまでバンドを続けてくることができた秘訣でもあったわけだ。
それは、常にこれが最後だと思い、あと一年しかないとしたら僕は何をやりたいだろう、あと一年しか生きられないとしたら、僕は何をやってこの世を去りたいだろう、とか考えて行動するうちに、その最短距離の活動が、華々しいとは言えないまでも、一定の成果を上げてきたからだ。そしてそれは決して世間的な成功とは言えないものであっても、バンドを充実のうちに存続させるのには十分だったのだ。

で、ここまで来たわけだが、
今、この状況に至って、はっきり宣言してしまうと、僕が今、到達点として定義している次のプロジェクトである「鍋島」。これを、きちんと鳴らし切ったら、もう、きっちりと、バンドを解散というか、活動を終了したいと思う。といっても、そもそもが一人(あるいは二人)から始めたプロジェクトである以上、僕が生きている限り「伊万里音色」というプロジェクトは続くことは続くし、それに「鍋島を鳴らし切る」と言っても、いったいどこまでやったら「鳴らし切った」ことになるのか、それはやってみないとわからないことでもある。

けれども、「鳴らし切る」ということの意味合いはさておいて、そこまで到達したのならば、さすがに、もう、お願いだから「やめさせてください」と土下座してプリーズという気持ちなのが本当のところだ。

こんなにつらいこと、とてもじゃないが、やってられないからだ。

僕の大好きなニューヨークのインディバンド、プラスマイナスにしたって、彼らもメンバーが家庭を持った4枚目のアルバムの後の活動のスローダウンと数年のインターバルを経て、2014年には5枚目のアルバムを出したが、彼らだって「もうこれだけの音楽を提供したんだから、もう許してよ」と思っているに違いない。(想像) だから、そんな家庭も持って、年齢も40を越えたインディバンドの新作が、多少「ぬるかった」からと言って、それは責められるたぐいのものではない。ロック黄金時代のように27歳までしか生きられないということはなくても、現代のインディーロックであっても、40越えてもばりばりに尖った音楽を作っていた吉村氏のような人は、やっぱり早死にしてしまうものなのだ。

やっぱり、それくらい、つらいのだから。音楽作るなんていうことは。

というわけで、そもそもが「そんなものがもし出来たとしたら、そしたら解散する」と言っていた「日本の歴史についてのコンセプトアルバム」も、現在作業中で、間もなく完成する見込み、順調に行けば、ただし発表、発売、リリースは、またまったく別のビジネスの問題。

そしてその後についに見えた僕らの究極の到達点「鍋島」。
それに、この後、ついに取り組む、
ということなんだけれど、

ここへ来て、もうひとつ、ビジネスというかバンドの運営にあたっての「政治的な」「戦略的な」理由で、もうひとつ、余計なプロジェクトの案が浮上してきてしまったのである。

まずは戦略というかバンドの運営の話をしよう。
僕は、常々言っているように、ロックスターになりたい、とか、プロのミュージシャンになりたい、というような少年ではなかった。そんなこと、ちっとも思ってやしなかった。そういう世界を信じてもいなかった。
だからこそ、音楽を始めるにあたっても、成功しよう、とか、有名になろう、とか、そういうことは思わなかった、というか、「そんなものは無理だ」ということをはなっから知っていた。というよりも、政治や社会などを含めたすべてに絶望するところから、個人的には始まっていた。

そんな僕でも、努力というか、義務として、一応は成功を目指して活動をする、ということはもちろんある。
うちのバンドの人たちには、まったくそういう気配がないので、このバンドは、成功する気とか、有名になる気、つまりは「売れる気」が1ミリもないのだろう、と思われがちだし、俺だって常々そう思うくらいだが「こいつら成功する気ないだろ」って(苦笑) それはそれでビジネス上の問題は大アリなのだが。

そんな僕でも、一応は成功に向けての努力というものの、少しばかりは行っている。それは、インターネット上のささやかなことから、ライヴ、ツアー、作品のリリースなどの計画から。近年ではXTJなんてものに係わり運営していたのもその一環と言える。

つまりは最低限のバンドの歩き方であるが。

余談ではあるが、先日、嫁さんと話していて思ったのだが、俺の場合、言葉にして言うことや、語ること、書くことは、すべて自信に満ちていて尊大であったりアーティストエゴ丸出しだったりするのだが、実際に行うことは、案外と謙虚というか、人を押しのけるよりは、人を引き立たせることだったりする。信じてもらえないかもしれないが。

つまりは僕の場合、政治家や権力者になる選択肢もあっただろうし、もっと想像しやすい例としては新興宗教の教祖さんになることだって出来ただろう。だが、僕はそうはならない選択を、生まれる前からしていた。それとは違う道を、最初っから選んでいたのだ。だから、偶像化、あらゆる偶像化、カルト化を、ストイックなまでに避けて、「人気者になるためにやってるんじゃない」なんてバンドマンの存在意義の自己否定の言葉を吐きながら、無名のインディバンドであることに誇りを持ちながら歩いてきたのだ。

だからキリストさんに帰依したわけでもあるし、もっと言えば僕が2008年初頭に、クリスチャンロックをやる、って言い出したときに、ああこいつ、宗教なんかにはまりやがって、って思った人は周囲に何人も居たと思うけれど、たとえクリスチャンになっても、クリスチャンロックになっても、そういったクリスチャンの世界でも現実に決して少なくはない偶像化やカルト化について最初っからかたくなに拒否して、結構、教会世界とは距離を置いていたわけである。そしてたぶん今でも距離を置いている。つまり、俺は神を信じているし、キリストを信じているし、音楽も信じているけれど、そういったものを偶像化して利用する人間ってやつを信じているわけじゃないぜ、っていうことだ。こういうことを言うと、キリスト教界隈の人たちからは、怒られるのだけれども。

つまりは、「ロックンロール」ということであって、
いちロッカーの立場から、神を信じているに過ぎない、ということだ。
そして、自分は最高のロックンロールを鳴らすために、神に捧げるロックを追求したい、と思っただけのことである。

話が大幅にそれた。
そんな世間に背を向けた僕らであるが、それでも少しは成功に向けての努力ということを、バンドの運営の中で、少しは行ってきた。
その中で、やはり世間的にも成功することが出来ればベストではあるが、
本当のことを言おう、
僕たちのこれからの前途として、
いちばん良いのは、このまま、大して成功することもなく、きちんとJesus Windならびに鍋島を作り上げ、その上で、最後にツアーのひとつやふたつも行って、ささやかな活動に終止符を打つことである。
そして、その音楽を見つけてくれた少数の人たちに、「こんなに素晴らしい無名のバンドが居る、居たなんて」と喜んでもらうことだ。願わくば、インターネットでもなんでも、そういったメディアを通じて、長いこと、細く長く、聴いてもらうことだ。
それがベストなのである。たぶんそれが最も幸せなのだ。

たけれども、ここから、何かがまかりまちがって、もうひとつ、ふたつ、大きなステージに上ってしまうことがあるとすれば。
それは、たぶん、より難しい、より困難な、なんというか、よりつらいことになるだろう。
それは、ある意味もちろん、良いことでもあるが、僕は、自分の心の少なくとも半分くらいは、何事もなく、これ以上大して成功することなく、バンド活動を終えることを、結構願っている。

「しかし、その先には波乱の運命が待ち受けていたのであった」というナレーションの声が聞こえてくるようだが。

ソングライティングの話をしよう。

他人はどうか知らないが、僕は音楽というものは、神さんから与えてもらうものだと思っている。つまりはインスピレーションということだが、人生というものがひとつの大きな芸術であって、そこから作品というものが産み出されるとすれば、その人生というものを与えてくれた神の、というか、説明がまどろっこしいが、創作をする人であれば、みんなそういうことはわかっているに違いない、と思っている。つまりは、かのエディ・ヴァン・ヘイレンも、口癖のように「俺はただのヴィークル(乗り物)に過ぎない。音楽はどこかから降ってくるんだ。」と言っている。

僕が、「鍋島」と自分で呼んでいる一連の作品群(とはいっても現段階では出来ているのは音楽の骨子だけで、歌詞もまだついていないけれど)の、その最後の曲を作ったのは、昨年の夏のことだった。

それである意味、「これが俺の人生で最後に作る曲なんだな」と納得した。例の”Not of This World”というタイトル(予定)の曲である。

それ以降、つまりは「これで鍋島のアイディア、完成」となってから、その後、まったく曲を作らなかったわけじゃない。
だけれども、Imari Tonesの、「その先」の音楽、あるいは「Imari Tonesの範疇にある音楽」としては、やはりもう作れないのである。そう、ずばり打ち止めである。

つまりは、わざとらしい、定型の、型通りのものなら、もちろん流れ作業のようにしていくらでも作れるが、本物のインスピレーションに基づいた、Imari Tonesの自分の人生の楽曲としては、もう出てこないのである。
たとえば、そう、ジーザスモード用の楽曲だったら、まだいくらでも作れる(笑) あれは、わざとらしい80年代っぽいメタルを作れば良いのだから。

その代わり、その後、というか、ここ数年、自分の中から自然に出てきた音楽はどういうものかというと、内省的な「ソロ用の作品」であったり「ソロ用のインスト楽曲」であったり、あるいは「アコースティックの楽曲」であったりするのである。

これは、つまりは、バンドを辞めた後の、私生活や、家庭生活についての情景であり、つまりは自分の人生はこれからそういう方向に進んで行く、というか、進んで行って良い、進んで行って然るべきである、という、そういうことなのだ。

だから、自分はたぶんバンドを辞めることが出来るはずだ。

だから、苦しいけどあとちょっと、鍋島をがんばって鳴らそうね、というのが基本路線である。
苦しいけど、というのは、つまり、マラソンの38キロ地点とか、登山の8合目とか、そういう最後のいちばん苦しいポイントだけど、がんばって完走しようね、ということである。

と、そういう基本路線なのだが、
ここへきて、ここ数週間、あるいはここ数日、というべきか。

もうひとつのプロジェクトの可能性が、浮上してきた。
まだ、あくまでこれは可能性、アイディアに過ぎないものなのだが、
しかし、そのアイディアは、既に頭の中で、新たに楽曲として形になっている。

そう、確かにそれは「鍋島」でもないし、本来の意味でImari Tonesの本道と呼べる楽曲でもない。(だが、J-Popの未来ではあるかもしれない)

けれども、戦略上、政治上、実際の上での必要があるのであれば、それはすなわち、書けてしまうのだ。すなわちそれは、現実のニーズに基づいた「わざとらしい」楽曲を書けばいいだけだからだ。

そうした「最高にわざとらしい」楽曲が、ひとまず5曲。

これも、やらなければならないんだろうか。

気が重い。

展開を見守ろうとは思う。

だが、「戦略上の実際のメリットおよびニーズ」がそこにある限りは、やはりこの音も、鳴らしてしかるべきだという気がしている。

ここで、ひとまずそのプロジェクトを”Overture”と呼んでおこう。

といったわけで、俺は今、ただでさえ苦しい38キロ地点において、ただでさえ多い宿題を抱えて、余計に、本気で、心配になっている。

そう、「鍋島」を完成させ、鳴らし切ったら、ばっちりとバンドを止めたい。
がっつり止めたい。どかんと止めたい。

けれど、俺たちは、果たしてそこまで、たどりつけるだろうか。

Walking In A Straight Line (プラスマイナスの楽曲)を聴きながら。

そのまっすぐな線上をただ歩いていくように。
神よ、どうか導いて欲しい。

No(4641)

■…2016年 3月19日 (Sat)…….ミーティング
3/19、横浜公園で予定していたCalling Recordsの野外ライブは、雨天にて中止。ご予定されていた方、本当にすみません。
しかし、午前中のすさまじい雨にもかかわらず、午後には晴れてきたのが余計に悔しいですね。
とはいえ、その代わりにCalling Recordsの関係者で、町田にてミーティングを行い、それはそれは、productiveというか、今後の活動に向けて充実した会議が出来ました。これは、神さん、俺たちに、もっと話し合って計画を立てるべし、もっと気合いを入れて活動すべし、という御心だったんでしょうか。

今回のコンサート(雨天で中止になっちゃいましたが)及び会議には、石川ヨナさんという横浜のブルーズ系シンガーソングライターさんに新たに参加いただき、うちのバンドとも活動範囲が若干かぶっており、こんなに近くにこんなに気合いの入ったクリスチャンアーティストが居たなんて、と驚いております。どんどん、志を同じくした仲間が増えていくといいなあ。

閑話休題、またギタートークですが、会議のついでに某所にて楽器屋さんに寄り、静岡県の某工房さんの、たぶんこれから評判になるであろうオーバードライヴのペダルと、それからオーダーモデルで有名な国内工房C社のギターを(普段あまり見かけないこともあり)、さくっと、試す機会を得ました。

CGのギターについては、セットネックのモデルでしたが、なんというか、ESPとCaparisonの中間くらいの印象? しっかりしたメタルを弾くのには良いのではないかという感触でした。で、好きか嫌いかで言えば、あんまり好きではないかなー。こうやって率直なことを言ったり書いたりしてるから出世できないんだと周囲に言われる所以です。しかし良い経験でした。

静岡県の某リペア工房のオーバードライヴのペダルですが、
自分の場合は用途というか組み合わせが難しく、
つまり、クランチアンプをプッシュするためのブースターとして、メインで使っているAlbit/Cranetortoiseの真空管搭載(水色、紫、ピンクと全部持ってるぞー)のものには透明感や解像度で敵わず(これに敵うものはたぶんこの世に存在しないと思っている。少なくとも僕の用途では。)、そして、メインが合わない時、ないしはメインが重くて持っていきたくない時のサブの用途としては、ここ2年ばかしよく使っている例の中国製の安物オーバードライヴ、ってまあToneriderなんですが、あれと比較して、微妙。というのは、性能的には圧倒的にその静岡県の某工房のペダルの方が上なんですが、僕の中での用途の立ち位置が。

つまり、その静岡県の某工房の銀色のペダルは、素晴らしく音抜けも良く、反応も素直で、なおかつメタルっぽく良い感じで金属的にザクザク感も出る音で、正直、9割型好みだったんですが(まあ、その残り1割は実は大きいのですが)、

サブでお世話になってる中国製の安物Toneriderは、中域の食いつきと、良い感じのギターらしいローファイ感と、そして比較的がっしりしたローで、「メイン」のやつが合わない時に、何度も助けてもらってます。
特にその「メイン」が合わないケースにおいて、この銀色のハイエンドペダルが、Toneriderよりも力を発揮してくれるかという点において、僕は確信が持てなかった。つまり、銀色のハイエンドペダルは、音の傾向としては俺がメイン使用してるCranetortoiseの真空管に近い方向性であるので。
特に俺の場合、楽器の好みもそうですが、体質的にハイがじゃきじゃき鳴る人なので、その時にがっしりしたローで支えてくれるという意味合いにおいて。メインのじゃきじゃきペダルが合わない、その時に欲しいのはスーパー音抜けのハイファイではなく、ギターらしいローファイなデバイスです。

つまり、メインとしてはAlbit/Cranetortoiseを上回るわけではなく、かといってメインがダメな場合のサブとしてもToneriderのように働いてくれるかどうか確信が持てない。その上で、数万円以上の価格差を自分の中で正当化できなかったです。
すごく良いペダルではあったので、もっとリッチマンだったら迷わず買ってますけどね。

まあ何事も縁ですね。
性能とか音抜けは明らかに静岡の銀色ペダルの方が上でしたが、果たしてこれは自分の音かと聞かれた際に、うーん、どっちかというと安物Toneriderを選んじゃうかな、という感じですかね。
以前、T-Rex Mollerと対決させた時も、勝ちはしなかったけど負けもしなかったし、
やはり俺の運命のオーバードライヴはこれなのか??
しょせん安物が似合うのか??

何事も縁です。
与えられたものでロックしろ、という気もします。

あとは重いとか言わずにちゃんとCranetortoiseの真空管入りを持ってけよ、ということですね。

ちゃんちゃん。

No(4642)

■…2016年 3月23日 (Wed)…….ミッショナリー
日本の文化に興味があって、日本にミッショナリーとして来たい、日本で神のために働きたい、っていう内容のメールやコメントは、今でも毎月ってほどじゃなくても2ヶ月に一度くらいはもらう。ありがたいことだ。内容は逆だけど、僕だってミッショナリーとしていろいろな場所へ行きたいし、話はそれるがバンドをやめたらどこかの景色のいい外国で暮らしたいと思ったりもする。けれども、異国の地にミッショナリーとして赴く、なんて言う前に、僕らはひとりひとりみんな、天からこの地上に使わされた「神の国のミッショナリー」であることを忘れてはならない。この地上において、神の国の栄光をどうやって形作り、表現するのか。形はそれぞれだし、言ってしまえばそれは別にクリスチャンに限った話でもない。誰もが持つ、命の輝きをせいいっぱい生きるってことだろう。それは決して、難しいことじゃない。成功や数字を追いかけたり、何かをうまくやるためのレースになんか参加したくないけれど、どれだけ「神の国」の輝きに近づくか、そこんとこのレースには、参加したいものだね。

No(4643)

■…2016年 3月23日 (Wed)…….東京ドームライヴ盤のDLR
石の上にも三年、じゃなくて、板の上にも三年、というけれど、スケートを始めて期間の上ではもうすぐで三年と半になってしまうけれど、最近ようやく、スケートボードが「軽いもの」に感じられるようになってきた。このイメージは維持していきたい。しょせんは音楽や生活の片手間でしかなく、本格的に追求はできないけれど、少しずつ滑る範囲も広げていきたい。本当に、亀の歩みないしはかたつむりの前進のように感じるけれど、それでも前進はしているつもりだ。

No(4644)

■…2016年 3月23日 (Wed)…….まっすぐ
どまんなかを鳴らすことや、定番の王道を歌うことは、そんなに難しいことじゃないと昔から思っていた。
なんでみんな、あえてまんなかを鳴らさずに、周辺ばっかりつっついているんだろう、と不思議に思っていた。

つまり、ハードロック、メタルの世界で言えば、80年代には皆がエディ・ヴァン・ヘイレンの真似をしようとしていたけれど、本当に真似が出来ていた人はほとんどいなかった。
(それなりにうまく真似が出来ていた人は、僕の意見では、Nuno Bettencourt、Vernon Reid、Steve Brownだ。)

そうこれは、今となっては自慢話の範疇だ。

当然のようにして、いつ気付いたってわけじゃないけれど、
たとえば、歌をうたう、っていうひとつの行為をとってみても、
「普通に歌う」なんてことができる人は、そんなに実は多くない。
歌をうたう、あるいは、ステージ上で歌う、という行為に対して、何か力みがあったり、ポーズを作ってしまう人は案外多い。

だから、「まんなかを、普通に歌う」ことが出来る人は、簡単なようで、実はかなり貴重だ。

そんな世界だから、世の中の芸人には、世の芸として、「普通のまんなか」を高めていくのではなく、「ポーズを歌う」ことを磨いていく方向性の人もたくさん存在する、というか、そっちの方がたぶん普通だ。

「普通のまんなか」を歌う人は、ふだん、なにもしなくても生活そのものが芸術だということを理解できる。
けれど、逆に、そのポーズそのものが生活になってしまったら、それは結構な悪夢だろう。

僕の定義では前者をプロフェッショナルと呼ぶけれど、世間はきっと後者を評価しプロと呼ぶのだろう。

そっちに行ってもサタンの沼があるだけで、神はいない。
よくよく気をつけた方がいい。

クリスチャン的に言えば、
「神を見る」
才能。

間違ったことを選ぶことが、非常に簡単なこの世の中においては、
ミュージシャンにとって一番大事な才能は、そこだと考えている。

No(4645)

■…2016年 3月25日 (Fri)…….さらなる古典音楽化
Axl Rose Reportedly Joining AC/DC Tour to Fill in for Brian Johnson
こちら

ほんまかいな。しかし僕はかねがね「Brian Johnsonのモノマネができる」と自慢しているが、同じ発声でアクセル・ローズの物真似も可能(実話。どちらも宴会芸として実演経験ありww)なため、我が家でも晩酌の際に「アクセルにやらせりゃいーじゃん」と言っておった。まあ、皆思ってたと思うけど。他に似たような発声で可能な人としてはウド・ダークシュナイダーとかCinderellaのトム・キーファーとか居ると思う。(ちなみにRattのスティーヴンは、似てるようで違う。)あとはExodusのZetroにBon Scott時代の曲を歌わせるとかあるが、知名度等の点で釣り合いが取れるのはほとんどアクセルが唯一だろう。とはいえ、音の釣り合いが取れても、ルックス的に釣り合いが取れるかどうかは、まったく別の問題である。アンガスとの身長差とか。ともあれ、「シンガーの代理立ててまでツアーするんかい」と思ったのは僕だけではあるまい。これが何を意味するのかは、実際にショウを見てみないと、そしてツアーが終わってみないとわからないだろう。吉と出るか凶と出るか、案外とロックンロールの未来を占う事件のような気がしている。(結構、深刻に捉えている)

No(4646)

■…2016年 3月25日 (Fri)…….既に一生ぶん悩み切った
しかし、ここ数ヶ月、いろいろと悩んだり思索を重ねた結果、ある程度悩み尽くして結論ぽいところまでたどりついたので(FBのNoteに記録してある)、ここのところ、いろいろなことに悩まなくなった、というか、気に病まなくなった。心配しなくなったというか。経済的なこと、将来のこと、といった個人的なこと含め、コッカとかセイジとかセカイジンルイの行く末についても悩まなくなった。どうでもいいってわけじゃないが、神の統治ってやつを肌感覚で信じられるようになったからでもある。結果、以前より寝付きが良くなった。これは自分としては画期的なことである。しかしこれは、ひょっとして死亡フラグではないかと思わないこともない(笑) どちらにしてもこれは自分にとっての「歳を取る」ということに違いない。

No(4647)

■…2016年 3月31日 (Thu)…….泣いて喜べ
日々、しがない毎日を送り、世間との間には埋め難い距離があり、それにもかかわらず、いい歳して小規模なバンド活動なんぞを続けていると、自分の境遇に愚痴を言いたくなるときが、まったくないわけじゃない。
それは、Ningenじゃからの。

しかし、そんな愚痴を神さんに向かってこぼしてみたら、神さんはこう言った。
「泣いて喜べ」
と。

つまり、自分が現在、置かれた状況と境遇について、俺は泣いて喜ぶべきだと言う。

まあね、言いたいことは、わからないでもないよ。
そういえば俺だって、人生をやっていて、「ああ、素晴らしい。たった今死んだとしても、まったく後悔はない」なんていう気持ちになったことが、何度かあった。
そして、それは、一度や二度のことじゃなかった。
どちらかというと10回とか20回くらいあったんじゃないだろうか。
しかも、それはバンド活動の、しかもライヴ演奏にかかわる部分でのことだ。

音楽とかバンド以外の、プライベートな部分について言えば、きっと、そんな気分になることは、もっとたくさんあったと思う。

たとえ、人から見て、そんなふうには思えなかったとしても。

そして、
知っている、なんで神さんが、そんなことを言うか。
俺が、どんなに幸運な境遇に、立っていることか。

親兄弟だけでなく、友人知人だけでなく、あらゆる見知らぬ人々や、生きている人や死んでしまった人や、人間以外のものにも、感謝をしないといけない。

なぜって、俺は、これができる。

なにって、そりゃ、あんた、あれだよ、企業秘密さ。

神さんの言うとおり、俺は日々、泣いて喜ぼうと思う。

これがどれだけかけがえのないことなのか、きっと俺はわかっているつもりで、それでもきっと、わかっていないのだろう。

No(4648)

■…2016年 3月31日 (Thu)…….口で言って、心で信じる
話が長くなりましたが、先日はイースターサンデイでした。
それはつまり、キリスト教にとっては非常に非常に重要な日であるわけです。
2009年のイースターサンデイに夫婦そろって洗礼を受けた僕たちとしても、イースターはやっぱり特別な日です。

ご存知のとおり、クリスマスと違って、イースターは日本では馴染みのない行事であり風習ですが、なんかのニュースで、「日本でイースターを、ハロウィンと同様に、大きな商機として広めたい」とどこかの企業の方がおっしゃっているのを見て、「ふ、ざ、け、ん、な」と思った次第です(笑)

もちろん、クリスマスだって、イースターだって、まったく知らない、よりは、知られている方がマシではあるけれど、日本において、そうした商売ぽく広められる場合、本来のキリスト教における趣旨は完全スルーした上で、ウサギとかタマゴとかお菓子とか、プレゼントとか、そういうのばっか「間違えて」伝えるのに決まっているからね。クリスマスがそうであるように。

まあ、イースターという風習自体、これもクリスマスにも言えるけれど、本来のキリスト教の趣旨だけでなく、タマゴだのなんだの、どっかの国の違うものが混じっている、みたいな話もあるから、やっぱり本質は難しいけどね。

で、昨年、通っている小さな教会が「消滅」してしまって以来、僕は基本的に、いろいろな心情や事情もあって、定期的に通う教会を、まだ決めていません。たまに近所の昔ながらの古い教会に顔を出すことはあるし、嫁さんはより頻繁にそこに通っているけどね。

だけれど、イースターサンデイくらいは、やはりどこかの教会で、礼拝したいから、ちょっとした野暮用もあったことだし、ほんのすこしだけなじみのある某教会に行ってきた。

それはそれで、また別の話題であるし、教会で聴くワーシップや、その音楽には、やはりまたいろいろなことを思うけれど。

ひとつ、書き記しておきたことがある。

一般的に、キリスト教の趣旨は、シンプルで簡単だ、と言われることが多いし、僕もそう思う。
要するに、十字架に磔になって死んだイエス・キリストを理解し、信じればいい。
(て、ちょっと待て)

で、その日も、あらためて、聞いたわけだ、こういう話を。

いわく、救われて、天国に行き、永遠の命を得るには、どうしたらいいのか。

それは、こんなに簡単だ。

新約聖書、ローマ人への手紙、10章9節いわく。(もちろんその前後も読んだ方がいいが)

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(新改訳)

つまり、口でもってイエスは神だ、と言って、そんでもって心の中で、イエスは死からよみがえったのだ、と信じればいい、と。
たったそれだけ。
すごく簡単なことだ、と。

で、俺はそれを聞いて、即座にこう思った。
「なんてハードルが高いんだ!!!」
と。
「めちゃめちゃ難しいじゃねえか、これ」
って(笑)

正直なところ、たとえばここであれどこの教会であれ、キリスト教徒だと言われている人たちの中で、これが出来る人が、どれだけいるものかと、俺は思ってしまった。

むしろ、お寺を100カ所まわってお参りするとか、富士山に登るとか、ワールドカップで優勝する、とかの方が、まだ易しいと、俺は思う。

口に出して言うことが、どうしてそんなに難しいことなのか、ともし思われる方がいるのであれば、奥さんでも恋人でもいい、「愛してる」と言ってみてほしい。
それが出来たとしたら、次のステップとして、見ず知らずの相手に、「愛してる」と言ってみたらいいと思う。

そして、心の中で、奥さんなり恋人なり、愛してる、と思ってみたらいい。
たぶん思うに、それがもし出来たとしたら、それだけでもたぶん相当に幸運なことだ。

そして、信じる、というのは、どういうことなのか。
たとえばスケートボードであれば、「俺はキックフリップが出来る」と信じること。
信じてみてくれ、きっと出来るから。
信じることが、出来ればね。
イエス・キリストが、「からし種ほどの信仰があれば、山を動かすことも出来る」と言ったのは、嘘じゃない。
でもそのためには、たぶん少なくとも100回くらいは、失敗する必要があると思う。
(1回でできるやつも、もちろん、いる。つまり、信じるのも、才能のうち。)

俺だって自信があるわけじゃないよ。

この話はここまで。

死人がよみがえった、なんて話を、信じるのはばかばかしいことだ。
それを信じることは、簡単なことだなんて、俺は思わない。

けれども、俺は、イエス・キリストが死から甦ったことを信じている。
もっと正確に言えば、死に打ち勝ったことを、信じている。
地獄まで行って、ひと暴れして戻ってきて、霊的にも肉体的にも復活して、「やれやれ」と言って、次の仕事に取り掛かったであろうことをね。

それは、個人的な話。

なんで信じているのか、それについては、先日、政治と宗教とロックについて長々と書いた時に、ついでに書いたのだけれど、ウェブ日記にはポストしたけれど、たぶんうっかりFacebookにはポストするの忘れてたと思う。

なぜ信じるかというと、

そう考えるとすべての辻褄が合うから。

そして、もっと言ってしまえば、

そう考えた方が、人生楽しいからさ。

No(4649)

■…2016年 3月31日 (Thu)…….ベース、ベース、ベース
ベース録音は絶賛進行中です。
今、僕たちImari Tones (伊万里音色)が作っている、コンセプトアルバム作品”Jesus Wind”のことです。

ベース録音、あとちょっと、といったところかな。
ベーシストであるはっしー先生とのスケジュールを調整しながら。

いつも思うんですが、僕たちの録音のプロセスは、インディバンドの悲しさでもありますが、おかしなもので、さあ録音するぞ、と作業開始してから、一ヶ月かそこら、かけてドラムを録音し、また一ヶ月かそこら、かけてベースを録音し、そしてもちろん実際の録音だけではなく、その準備や編集、整理などの作業もありますから、そこからギターをさらに一ヶ月かけて録音し、ではヴォーカルを録りましょう、となったときに、俺は「そういえば歌うの4ヶ月ぶりだ」とかだったりするんですね。
(これは、住宅事情の良い外国のミュージシャンには理解できないことだと思いますが、涙)

これは、絶対によくないことです。でも、忙しい中、そのほとんどすべての作業を、僕が受けもってやっている以上、(たとえば、他のメンバーに、「じゃあミックスやっといて」とか、できない)、どうしてもそうなってしまうわけです。ワンマン体制のよくない面です。

たとえば、サッカーでもテニスでもいいんですが、それらのスポーツの選手が、大事な試合に出る際に、「明日、試合だけど、俺、実はテニスやるの4ヶ月ぶりなんだよね」とか、あり得ません。

しかし、現実にはほとんどそういう状況で、僕らはやっている、ということです。そして、これは実は、ほんの一例でしかなく、僕らの活動の中では、そういった矛盾した状況が、たくさんあります。本当に、よくやっているな、と思うことがあります。

ベース録音は、ちょっとだけ手こずっています。難航、というほどではありませんが、2年前におこなった”Revive The World”の録音とくらべると、今回はより、スローペースと言えます。これはドラムの録音についても同様で、前作のドラム録音が、たった2回のセッションで完了したのと比べると、やはり今回はより時間がかかりました。もちろん、ジェイクは相当に努力して、がんばってくれたと、録音されたドラムトラックを効いてそう思います。

その意味では、今回は演奏上、技術的にも、前作よりもより「激しい曲」が多く「速い曲」が多く、難しいので、これは無理もないことだと思います。

しかし、振り返って思うに、2年前に行った”Revive The World”の録音は、今にして思えば、すべてが上手くいったのだと思います。全部、というわけではなく、ここはちょっと、という部分もいくつもありますが、全体としては、結果的にいろんなものがうまく噛み合った作品でした。それは、もう笑っちゃうくらいであって、やっぱり、「好き勝手に作ったImari Tonesならではのロック」という意味では、ひとつ、頂点をきわめるものが出来たのだな、と今でも思っています。

今回、それを越えるものが、出来るかどうか、はっきり言っちゃえば、あまり自信はありません(笑)
今回の作品は、ストーリーを持ったコンセプト作品であり、どちらかというと、そのストーリーを語ることが優先です。そういった制約もある以上、楽しい曲ばかりではなく、暗い曲も多いですし、音楽性とか作曲の面でも、「好き放題に書いた」というよりは、「お約束に従って書いた」というものが多いです。

けれども、その中にいくつも、パンチのあるヘヴィメタルソングが含まれているので、それらの楽曲、具体的にあげれば、”Repent”、”Jee-You”、そして”Dying Prophet”などの必殺曲さえ、きちんと仕上がってくれれば、十分に目的は達成したことになると思います。あとはもちろん、まだライヴ演奏したことはないですが”The Wave”という強力なファストチューン(Metallica meets Extremeといった感じ?)もありますし、意外と”Bushido”も「ヒット作」になるかもしれない、という予感もしています。

そして、今回の作品は、いくつかの意味で「営業」を、してみようかと思っている次第です。それがどういう形になるかは、わかりませんが。

どちらにしても、いつだって、そしていよいよもって、先行きは未定な僕たち伊万里音色です。

でもね、「伊万里音色」って書いた時の漢字表記もそうなんだけれど、このバンドが、その名前やコンセプトにふさわしい内容や実体にたどりつくのって、きっと、というか、やっとこの先、これからのことなんだろうな、と思っています。
なんにせよ「鍋島」をきちんと作って鳴らすところまで、もし生きて、やれるのであれば。

No(4650)

■…2016年 3月31日 (Thu)…….古代文明の遺産のような
ごくごく当たり前のことを今更のように書きます。

エレクトリックギターといっても、いろんな使い方があり、いろんな音があり、またいろんな楽器があるので、たとえばポップバンドのギターの人がどういう気持ちでギターを弾いているのか、僕は正直わかりません。

もちろん、そんなこと言ったら、「ポップバンド」にだっていろいろなタイプのバンドがいるし、そういえばその中には僕が個人的に好きだと思えるバンドもいくつもあります。そういうバンドのギターの人が、どういう気持ちで弾いているか、それはちょっとだけ想像できるかな。でもやっぱり想像できないな。

そういえばこの前、ワーシップバンドのワークショップのビデオを見たけれど、そこで案の定、講師の人が「エディ・ヴァン・ヘイレンみたいに弾く人はワーシップバンドには必要ない」みたいなことを言っていて、俺はやっぱり「ふ、ざ、け、ん、な」と思ったわけですが(笑) まあ、そういう場ですら「速弾きギタリストの代名詞」として引き合いに出されるEVHがもちろん偉大なわけですが。

そういう意味ではギタープレイヤーというのも立場が微妙でありまして。まあそういうわけで「just another Eddie Van Halen clone」である自分はワーシップバンドには居場所が無いようなのですが(涙) まあでもそれは逆に言えばヘヴィメタルバンドにおいてキーボーディストの立場も案外難しいのと同じような状況でしょうか。その点、ベーシストというのはほとんどどんなジャンルにおいても重要なパートだと思います。

しかし、そんないろんなスタイル、いろんな音、同じ楽器とは思えないほどの使い方の幅と、音色の種類があるエレクトリックギターですが、そんなエレクトリックギターがどんなに進化しても、ひとつだけ信じていることが自分はあります。

それは、「魔力」かな(笑)
ミステリアスな、得体の知れない楽器だということですね。

エレクトリックギターは、ローテクな楽器です。
そして、それは、スチームパンク的な価値観と背景を持っています。

エレクトリックギターを構成するテクノロジー。
たとえば、磁力とコイルで音を拾うピックアップ。
導線とはんだで音を伝えるその配線。
そして真空管で音を増幅して鳴らすアンプリファイアー。
木でできたキャビネットと、12インチの重々しいスピーカー。

そのどれも、たぶん、100年くらい前の、おそるべきローテクの産物。

そんなものが、21世紀の今でも、堂々と生き残り、第一線で使われている。

テクノロジーの世界において、こんなことは、どうなんだろう、やっぱり珍しいことなんじゃないだろうか。

Jol Dantzigも言っていたと思いますが、エレクトリックギターは、その木材や、その加工の部分も含め、明らかにオールドワールドの遺産なのだと思います。

そんなものが、20世紀をかけて、爆発的に普及し、そして世界的にこれほどたくさん演奏されている。世界でおそらくはもっともポピュラーで、あらゆるスタイルや形に進化を遂げた、その楽器。

いったい、神はなぜ、何のために、こんなものを僕たち人類に与えたのか。

その答はさておくとして、
現代においても、デジタル化の進化が著しいエレクトリックギターの世界ではありますが、たとえばスマートフォンひとつで、あらゆる音を作れるようになった状況とか。
たとえそういった技術が、どれだけ進化しても。
ギターのボディが、すべて金属やカーボンファイバーやプラスティックで作られるようになったとしても。

そのギターの、「ローテクの産物」たる、得体の知れない魔力。
スチームパンク的な、レトロかつフューチャーな魅力。

そういったものは、決して失われないだろうと思います。
そして、失ってはいけないし、忘れてはいけない。

そこにある、エレクトリックギターの本質。
それはいったい、何なのか。

それがどんなことを意味するのかは、またこれから考えていきます。

No(4651)

■…2016年 3月31日 (Thu)…….君はまだ本当のうどんを知らない
たとえば、うどんについて言えば、僕は一昨年、オオハラ氏の地元である香川県を訪れ、そこで本場のうどんというやつを食べてみてなかなかに衝撃を受けたわけです。
そしてこれは、ハンバーガーについても言えることだと思います。
思うにこの衝撃というやつは、結構大事です。

たとえば年始に実家に帰省した際に、久しぶりに会った妹に、香川県に行ってうどんを食べて衝撃を受けた、という話をしたら、不思議そうな顔で「うどんの何がそんなに衝撃だったの?」と言われたわけです。これは普通の反応だと思います。

うどん店、あるいは「讃岐うどん」を謳うお店は首都圏にもたくさんあることと思いますが、そこで良いうどんに出会う確率よりも、どちらかというと「ああ…」と落胆することの方が多いと思いますが、その理由。

そしてたとえば、アメリカで人気を得ている大手のハンバーガーチェーンが、日本に出店した場合に、たとえばそれでも大都市の良い立地にある直営店の場合は良いものが出てくることが多いと思いますが、わりとそうでもない場所に出店してしまった店舗などで、「え、このお店、こんなハンバーガーだったっけ」と落胆するケースが多いこと。

ハンバーガーについて言えば、僕はハンバーガーは好きですが、もちろんそんなに詳しいわけではないですが、少しはいろいろなハンバーガーを試したことはあります。
そして、日本にもアメリカに劣らぬハンバーガーを出す店が存在すると確信していますし、その前提の上での話ですが。

そうはいっても、本来のハンバーガーというものに触れる機会の少ない日本の消費者の状況としては。
そういったハンバーガー店で働く人たち、バイトの子たちを含めて、は、本物のハンバーガーがどういうものかを知らないままに、日本のマクドナルドとか、モスバーガーとかを基準に、「ハンバーガーとはこんなものだ」という認識と、前提のもとに、仕事をし、お客さんに商品を提供するわけです。

結果、そこに出てくるものは、やっぱり10倍くらいに希釈された、本来の価値を薄められたハンバーガーなわけですね。

うどんについてもまったく同じで、おそらくはそういった首都圏とかのうどん店で働く人たち、バイトの人や、経営者も含めて、は、「うどんなんていうのはこんなものだ」と、自分の知っているうどんの枠の中で、商品を作り、提供してしまう。本場のうどんというものを知らないと、「しょせんこんなものだ」と思ってしまい、本来はうどんというのはとんでもない可能性を持ったすごい食べ物であるのにもかかわらず、その可能性に気付かず、出てくるものは、やっぱり10倍くらいに希釈された、本来の実力を薄められたうどんが出てくるわけです。

本物を知る、本場を体験する、衝撃を受ける、ということは、やっぱり何においてもそれくらい重要なことだと思うわけです。そして、その衝撃を忘れないこと。
それを知っているかどうかで、同じようなお店の、同じような商品であっても、出てくる結果は大きく違うのだから。

そして、現代の世の中においては、特にこの日本という国の環境においては、およそいろいろなものが、「薄められた」状態で普及している、本来の価値や姿を薄められた状態であふれかえっている、という事実に、気付かなくてはいけない。んでもって、そのことによくよく注意して向き合っていかなくてはいけない。

で、もちろん、これはロックバンドについても同じことです。

本来のロックバンドというものが、どれだけ、皆が一発でとりこになってしまうほど、熱く、魅力的で、衝撃的なものか。

忘れている人がほとんどだと思います。

そこに込められた情熱がどれほどのものか。
そこにどれほどに刺激的で、本当にしびれてしまうくらいの音が鳴っているのか。

皆、知りません。

みんな、「ロックバンドなんてこんなものだ」というふうに、思っていると思います。そして、その範囲の中でしか、音を鳴らさないし、そしてまた消費者も、その範囲の中からはみ出さない音をこそ、良いものだと考える。

エレクトリックギターや、楽器の音についても同じことです。現代に普及しているのは、その主流としてあふれかえっているのは、やはり時代に会わせて希釈され、薄められたサウンドです。

「エレキギターの音はこんなものだ」と皆がそう考え、それ以上のものがあること、あったことは、皆忘れています。

でも、そんな忘れられたものを、どうやって追いかけ、見つけ、そして復権させればいいのか。
あるいは、いまだ発見されていない未来の音を、どうやって見つけて、そして広めていけばいいのか。

それは俺も知りません(笑)

再度、公約しますが、もし、これから近い将来に俺たちが取り組むプロジェクト「鍋島」が、自分の考えているようなもので、そしてそれをきちんと鳴らすことが出来たら、

自分たちなりの答を、少しは見せられるかもしれない。

No(4652)

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