これも持論であるが、
人類はインターネットという新しい道具、新しい地平を手にしたが、
それを通じて、愛のメッセージを発信することよりも、
憎悪や恐怖、不信などの排他的でネガティヴなメッセージを発信して広めることの方に終始してしまったのではないかと思うことが、ここ数年、たくさんある。
ここのところ、まあ最初からわかっていたことの意識的な振り返りでもあるけれど、自分の音楽をやる動機の中に、政治的なものというか、政治への希求というか、神の統治への希求というか、民主主義への希求といってしまうと語弊があるかもしれないが、そういったものがあることを考え、日記帳にメモしてきた。
それは、そもそもが現実の世の中の状況や、現実の政治に最初っから絶望しきっているからこそ音楽なんてものを選んできた、という、スタート地点からの前提でもある。
けれども、自分が目指しているものであるとか、目指している先というものをあらためて知ると、今までやってきたいろいろのことに説明がつくのも確かなのだ。
別に音楽や芸術の先にそういった希求がついてくるのはまったく不自然なことではない。
もし君が少しでも音楽を聴く人間であれば、あるいはミュージシャンのはしくれであれば、たとえばベートーベンや、ショパンや、ドビュッシーの音楽の中から、そういった、必ずしも政治的という言葉はふさわしくないにせよ、人類への未来への希求といったものを感じ取れないのであれば、それは嘘っぱちだと思うからだ。
俺たちが本当にいちばん欲しがっているのは、未来なのか、希望なのか。
そこのところに絶望したからこそ、俺はこういう人生を選び、いろいろの人生の選択をしてきたのか。
そしてそこのところに一抹の希望を見出したからこそ、俺はこうして音楽を鳴らすことを選んだのか。
断っておくけれど、僕は、そしてうちのバンドは、今までもずっと、「個人の範囲で」バンドを運営し、音楽を鳴らし、音楽を作り、活動を続けてきた。これから先も基本的には同様だろうと思う。
クリスチャンロックを名乗り始めてからも、特定の教会であるとか、特定のキリスト教の団体であるとか、そういうところと提携じゃないけれど、つながりらしいつながりを持ったことはない。(残念ながら、苦笑)
唯一、この何年か、The Extreme Tourというものに関わっていることはあるけれど、それだって、アメリカ本国のThe Extreme Tourと深くつながっているわけではなくて、このエキサイティングな音楽ツアーを、日本でやることを「エキサイティング」だと思うから、「個人として」それに携わり、それを小規模なりに実現してきただけのことである。
だから、俺たちのバックには、残念ながら、誰もいないというか、そういった特定の教会とか派閥とか団体みたいなものはいない(苦笑)。
したがって、そこに特定の政治思想みたいなものもない。
ただ、個人として音楽をやっていく中で、神を信じているだけである。
神を信じている、という言葉も非常に難しいけれど、
じゃあ、その神を信じているということが、どういうことなのか、ということについては、最近また改めていろいろ考えてみた、という次第。
でもそれは、人間社会の一般的な価値観と、少し違うものに価値を見出している、ということは言えるかもしれない。
(もちろん、宗教的なもの、精神的なものに対する希求は人類に普遍のものであるが。)
たとえば、僕がどうしてこういう形態で音楽活動をしているか、ということも理由を話すことはできるけれども、
たとえば僕が今までに好きになり、夢中になってきた音楽。夢中になってきたバンドやアーティスト。それらをなぜ、彼らの音楽をなぜ好きになってきたのか、それを語ることもできる。
たとえば僕は、2000年代の後半から、今に至るまで、ニューヨークを拠点とするインディーバンドである+/-{plus/minus}というバンドのことが大好きだ。
なぜ彼らの音楽を好きになったのか。
今更ではあるが、どこから音を鳴らすか、そしてどのような立場から音を鳴らすのかということは、思いのほか大事なことであるらしい。
もちろんそれが、同じ音符、同じ波形、同じEメジャーのコードであったとしても、日本で鳴らすのと、中東で鳴らすのと、ヨーロッパで鳴らすのでは意味合いが違う。そして、たぶん南極で鳴らしたり、あるいは火星で鳴らしたりしたら当然もっと違うだろう。
もうひとつ大切なのは、誰がそれを鳴らすのかということだ。
いや、もちろん、リフなんてものは、誰が鳴らしたところで、それは同じリフだけれども(もちろん大嘘)、
けれども、つまりは、君はいったい何者なのか、ということである。
君はいったい何者で、どのような立場から、何の為に音を鳴らすのか、ということが、ことさら重要な意味を持つ。
どこで、とか、誰が、とか、いつ、とか、いろいろな5W1H的な要素があるが、ことにもっとも重要な集結点は、やはり「何のために」ということになるだろう。
そして、いつ、どこで、誰が、といった要素は、その「何のため」の重要な構成要素になる。
で、+/-{plus/minus}について言えば、もちろん、僕がもともとブッチャーズ(bloodthirsty butchers)が大好きだったこと、そのブッチャーズの縁の深いバンドであったこと、ならびに、初めて彼らのことを見た時の状況が非常にドラマティックであったこと、などなどの個人的な縁があった。
だけれども、僕らが彼らについて非常に気に入っていたのは、彼らがあくまでニューヨークを拠点として活動というか生活している「あくまで無名のインディーバンド」であったこと。
それは、1980年代のバンドがMTVを占拠し、スタジアムでコンサートするバンドであるのと同じように、2000年代のバンドとしては、はっきりいってメジャーなバンドであることよりも、小規模に音を鳴らすインディーバンドである方が、断然にかっこいいことだった。その時代に鳴らされるべき音として、それはスタジアムやアリーナをコンサートするバンドよりも、より時代の必然性があり、そしてはっきりいって、それらのバンドよりも全然すぐれた音が鳴っていたからである。
そして彼らは白人では無かった。メンバー(一応3人、ツアーではサポートベーシストが帯同したり、いろいろするようだった)3人のうち、白人はドラマーのクリスだが、あとの二人はアジア系である。(フィリピン系である)
そんな彼らの鳴らす未来の世界観というものは、たとえばそういった1980年代の華やかなヘアメタルバンドが鳴らす音とくらべて(まあ比較対象が間違っているが笑)、
たとえばそういった華やかで大きくてブロンドの長髪のスタジアムロックな1980年代アメリカの世界観と比べて、より雑多で、いろんな人種が混じっていて、小規模で、そんな、また違ったアメリカの実態というものを表していた。そして、そこには、明らかにより豊かな音が、鳴っていたのである。
そんな彼らの鳴らす未来の世界観、そんな彼らの鳴らす生活の音にこそ、僕は魅了されていたわけだ。
まあ世界中にいろいろなインディーバンドはいるわけで、今でもネット上をちょっとチェックすれば、そういったバンドやインディーアーティストをたくさん見つけることが出来るわけだけれども、その後2000年代も終わりにさしかかったり、2010年代の始め頃から、皮肉なことに+/-{plus/minus}がやっていたようなインディーロックが、ちょっと形を変えて流行っていたようであり、そういうバンドの中には大成功して有名になったバンドも少なくはない。けれども、なかなか「本当に優れた」バンドに出会うのは難しいことで、まあもっとがんばってリサーチするべきだとは思うけれども、ちょっと気に入ったバンドというのはいくつかあっても、僕の中でプラスマイナス以上に、「より先の音」を鳴らしているバンドというものには未だに出会っていない。
強いていえば、逆に1960年代のバンドや1970年代のバンドに、「この時代にこんなに先を行った音を鳴らしていたのか」という出会いがいくつもあったけれども。
プラスマイナスについては、現在ほぼ活動を縮小しているし、2014年に出たアルバムについても、いろいろと複雑な思いがあり、それについて書き出すと、現在の音楽シーンの状況も含め、長くなってしまうから省略するけれども。
民主主義ということについて言えば、
ロックンロールは、つまりはそれは大衆音楽であったから、それはいつだって民主主義を鳴らすところから始まった音楽であるに違いない。
それは、いってみれば、教会のゴスペル音楽を離れて、不良の黒人の若者がギターを鳴らしてブルーズを鳴らし始めた頃からそうであったに違いない。
それは、個人の心の叫びや呻きを鳴らすことから始まったのだろうし、
どちらにしても、それは底辺から始まったものに違いないからだ。
それは結局は、ロックンロールという名前を付けられ、結果的に20世紀の音楽世界を席巻するものになっていったわけだ。
だからロックンロールは大衆音楽であり、大衆ということに常に寄り添い、付き従うものだった。
僕が青春を過ごし、そして自分の音を鳴らし始めた頃、まあ僕はバンドマンとしては、自分のバンドを始めるのは非常に遅かったけれども(そのへんの悔いの話、10代の頃にもっとバンドをやっておくべきだった、という話はまた別の機会)、
ちょうどその頃から、技術と機材の発達により、録音、レコーディング制作というものが、個人のレベルでも、コンピューターを使うことで、本格的な高音質の録音が、個人のレベルでも実現できるようになってきた。
もちろん、録音というものは奥の深いものであり、非常に奥の深いテーマであるので、コンピューターとDAWソフトなどの道具があれば、それですなわち良い録音、良い作品が作れるわけではない。それは、まったく、ない。けれども、確かに技術の上では、個人レベルでも、良い録音が、音楽を制作することが、可能になった。
これはいくつかのことを意味していて、
それは大衆音楽であったロックンロールの「個人化」、
そして機材の発達と普及に伴うライヴ演奏も含めた音楽の陳腐化と平均化、
そしてもっとも大事なことに、ロックンロールの本当の意味での「大衆化」である。
ここで書きたいのはみっつめのことであって、
つまりは大衆音楽だったロックンロールは、その20世紀商業ロックの表現と商品の形であった録音物の制作という意味においても(ライヴ演奏においてもどんどんそうなっていったけれども)、ひとりひとり、個人のレベルで誰でも音を鳴らし、作り、発信できるようになっていったということだ。
ひとりひとりが声を持つ、ひとりひとりが自分の自分たちの音を鳴らすことができる。
民主主義といえば、これ以上に民主主義的なこともない。
それは、なにも音楽に限ったことではなく、FacebookやTwitter、ブログなど、インターネット全般を見てもわかる社会の状況である。誰もが自分の言葉や意見を発信し、交換できるという状況のことだ。
そして2000年代以降のインディーバンドたちも、そういった背景の上に存在し、活動してきているバンドたちだ。
そこに、いささか日本のロックシーンが乗り遅れた(10年くらい)ように感じているのも、やはり日本の社会風土として独立の気風が欠けていたり、長いものに巻かれたり右にならえだったりする傾向が強いからだろうか。
しかし、この2016年にも至ってしまえば、世界はより均質化してきているので、そういった状況もまたどんどん変わってきているはずだと思う。つまりはいろいろな分野で、今後、今まで以上に、日本からすげえもの、すげえ人たちが、いっぱい出てくるはずだ。しかも、大きな企業とかじゃなくて、たぶん個人のレベルとかで。それはつまり、そういった社会風土の中でも、負けずに突き進んできた人たちがきっといっぱいいるということである。(そしてそういう人は、たぶんいつの時代にも居た。)
話は戻るが、そうした背景の中で、真に民主化されたロックンロールは、同時に「個人化」もしたのであり、そしてその中で鳴らされるのは「誰もが共感できる男と女のラブストーリー」とかそういうラブソングではなく、もっと小規模で、個人の生活により密着した音の世界を鳴らすことが出来るようになった。
そしてそこにあるのは、より未来の音ではなかったか。
そのもっとも美しい例として、僕はくだんのプラスマイナスというバンドを挙げることが出来るのだと思う。
けれども、時代は前に進んだり、後ろに戻ったりしながら流れていくものだ。
大衆は流され、日本人でなくともやっぱり長いものに巻かれるし、現にヒットチャートは日米問わずにアイドルに占拠されているし、プラスマイナスのように本当に独立の精神を持ち、ユニークな背景を持ち、才能もあるアーティストに、なかなか出会えるものじゃない。
でも、僕は出会いたい、より未来の音に。
それでも僕は信じている、ということだ。
大衆が、人類が、より未来へ進んでいくことを。
ときどき絶望したりするけどね。幾度となく。
「もう人類に未来なんてあらへんわ」って。
でも、それはまた次の話題。
であるからしてこのように、
たとえば僕が1970年代の荒井由実を聴いて感動した理由。
あるいはまた1990年代の熊谷幸子さんの音楽を聴いて感動した理由。
あるいはまた他のバンドやアーティストでもいいけれど、
やはりそこには、同じような理由がやっぱりあるのだ。
誰が鳴らすか、どのような立場から鳴らすか、
それはやっぱり、大事なことなのだ。
成功して有名になっても、やはり底辺の立場から音を鳴らせる人もいる。
そんな人は、まさに真のロックスターだろう。
だいたい長生きしない。
(そして、もちろんブッチャーズ吉村氏も、そんな真のロックスターの一人だったに違いない)
そんな個人化し、民主化した現代であるけれども、
僕が子供の頃からとっくにそうだったけれども、
それでも民主主義なんて、まだまだぜんぜん機能していない。
インターネットだって、愛のメッセージを発信するよりも、
ヘイトとやっかみと不信を広める道具に使われることの方がきっと多い。
Facebook上でちゃんとした議論が成り立つことなんてほとんどないのと同じように。
民主主義は大衆のものだっていうけれども、その大衆は、未来に進むよりも、現状に甘んじ、あまつさえ過去に戻ろうとすることを選ぶかもしれない。これはまた、別のテーマだ。
機能していないけれど、
でも俺は信じている。
何を、っていうと、
今ここで、音を鳴らすことを。
今ここで、個人の立場から、声をあげ、音を鳴らすことを、信じている。
以下、別の日の文章のつぎはぎ。
現行の民主政治なんてものが、機能していないのはいろいろのことが起きるずっと前から明らかだし、もしそれが機能していたのであれば、そもそも僕は音楽なんてやってない。
じゃあ僕が信じている民主政治っていうのが、どういうものなのか。
それは、言葉にして説明できるようなものじゃないけれど、強いて言葉にすればそれは、今ここで、音を鳴らすこと。今ここで、言葉を発することじゃないかな。
音楽を鳴らすのに、制度とか、システムとか、権力の後ろ盾なんて必要ない。
それがいちばん大事だと思っているし、俺にはそれで十分だと思っている。
ロックンロールという転がったサッカーボールを、ゴールに蹴り入れるのは誰か。
俺が興味があるのは、ぶっちゃけそれだけだし。
もはや誰も見向きもしないゴールを。
ここまでフィールドを上がって進撃してくるのに、それだけの注目を浴び、大きなビジネスにもなって、人が群がったこのロックンロールというボールに対して、それがゴールのすぐ前まで来て、肝心のゴールにボールを蹴り込むことについて、誰も興味を持っていないのは不思議なことだ。今では皆はボールがもはや存在しない場所で好き勝手に玉乗りを繰り返している。サッカーボールですらなく、似ても似つかないボールとかで。
しかし、よりアレなことを書くことになるのはわかっているが、
世界の歴史とかを後になってもし振り返るのであれば、
結局現在人類の失敗は、
宗教という問題にしっかり対処し消化することが出来なかったこと。
中でもキリスト教の解釈と運用を間違えたこと。
あえてクリスチャンっぽい言葉で言えば、
イエス・キリストを受け入れることが出来なかったこと、
ここに尽きるんじゃないか。
それは陳腐だけれど愛を理解し受け入れることが出来なかったこと、という言葉に置き換えてもいい。
そのせめてもの反抗というか、釈明というか、贖罪というか、
そのために俺たちは日本人でありながらクリスチャンロックなんてものを
作り鳴らしているわけだけれど。
(有り体に言えば「神に音楽をささげるっていうのはそういうことじゃないぞこのXXどもめがぁーー」という感じで笑)
果たして届くだろうか。