2017年1月の日記

■…2017年 1月 2日 (Mon)…….迷った時、未来は知らんが過去の自分と相談することは可能
[[正月早々から多少びんぼうぽいトピックですみませぬ]]

人が人として生きるということは、そのためのモノに囲まれるて生きるということを意味する。
どんなにsimple lifeを指向しても、まったく何も持たずに生きるわけにはいかない。
無人島に持っていくなら、何を選ぶか、うーん、あれと、あれと、これと、あとはこれも。

その中には、家電製品のような、便利だけれども普段無意識で使っているだけのものや、あるいは逆に、生活のための機能性は一切ないけれども、感情的な理由で側に置いているだけのものもある。けれども、人にはそのどちらも必要だ。

かといって、人は、たくさんの本来不要なものに囲まれて生活している、というのも事実だ。それは、狭いアパートに嫁さんと一緒に暮らしている貧乏インディーバンドの僕とて例外ではない。

秋から年末にかけて、何本もギターを手放して、たとえば長年パートナーのように愛用してきた2本のMusicman Axis-EXを手放したりしたが、気分はすっきりしている。後悔とか、やめておけばよかった、とかは全然思ってない。違和感もない。まったくもって普通に生活できている。非常にすがすがしい。

だから、突き詰めていけば、人にとって「不要なもの」はいくらでもあるし、折に触れてそれらを切り離していくことは、人生を先に進める上で重要なことかもしれない。

さて、このギターも手放してしまうのか、という話である。思案している。結構悩んでいる。

これは2009年の夏頃に手に入れたギターで、Hamer XTという、インポートもののヘイマー、つまりはUSA製ではなくて、アジア製の廉価版のHamerである。Hamer XTも時期やモデルによって韓国製のものとか色々あったみたいだけれど、このギターはインドネシア製だ。近年ではFender関連のブランドとかアジア製の廉価版のギターにもインドネシア製のものは増えているので、このギターもそのへんのハシリというか、先駆けっぽいモデルのひとつだったんだろうと思う。インドネシア製はなかなか優秀だ。実際、値段を考えてもそのビルドクオリティはとても高い。

材はちょっと謎である。カタログ上は、アルダーボディということになっているし、トップのベニアも、普通に考えたらメイプルだけれども、一部カタログとかにはマホガニーと書かれていて意味がわからない。ネックはカタログ上はメイプルだけれども、塗装の奥にうっすら見える木目を見るとマホガニーじゃないのかという気もする。しかし、このギターもどんなに手荒に扱って、ぶったおしたりぶっつけたりしてもネックは無事だったので、やっぱりメイプルかもしれない。作り自体は安物だ。ボディの木も、目に見えるだけで5ピースくらいの木材がつながっているように見える。塗装だって結構厚い。指板なんか、製作過程で欠けちゃったのを修正したような痕が残っている。けれども、実際、音は結構悪くないのである。

Hamer XTの品質についてもいろんな意見があると思うが、基本的には値段以上の品質を備えていると思う。だけれど以前、何年か前にダブルカッタウェイのいわゆるSunburstのタイプのXTを楽器屋さんで試したことがあるけれども、「これはひどいな」という印象だった。だから、個体差とか、モデルによって出来の良し悪しはあるのかもしれない。

僕はたぶんこのフライングVの形と、あとはフレイムメイプルにチェリーサンバーストの(いかにもHamerのアイデンティティと言える)見た目に惹かれてこのギターを手に取ったのだと思うのだけれど、弾いてみて惹かれたのはそのきゅいんきゅいん言うアタック音と、ぐわーん、というボディの鳴り方だった。つまり、このギターは「当たりのGibson系セットネックギター」の音がちゃんとするギターだということになる。そして、僕にとってはたぶんそういう音がするギターに出会うのは、初めてだったのだと思う。つまりは、古いヘヴィメタルのレコードで聴いたようなあの音がするではないか、と。つまり、PriestのScreaming For Vengeanceとか。僕は少年の頃からプリーストのファンだったから、Hamerというのは憧れのブランドのひとつではあったが、「ほっとんどまったく見かけることのないブランド」であったし、そこへきてちょうど廉価版に出会ったので、「いんじゃない」と思ったのだと思う。

その後、僕にとってこのギターは、「遠征用メイン」の一本になった。
自分のバンドでアメリカ遠征をした時に、3度アメリカに持っていった。そして、そのどれも、かけがえのない良いステージ、良い演奏を経験することが出来た。

だからこのギターは僕にとっては、機能的な価値もだが、それ以上に、emotional valueというのか、一緒にそれらのツアーを戦った、という感情的な価値がある。手放したくない理由があるとすれば、そのへんは大きい。

けれども、そうやってこのバンドの海外遠征を支えてくれたギターではあるけれども、2013年の秋以降に、とある日本製ギターとの出会いをきっかけに自分の中でギターに対する価値観がまったく変わってしまって以来、必然ではあるのだけれどもこのギターの出番はまったく減ってしまった。

同じ頃、僕は、廉価版ではない本物のHamer USAのフライングVも手に入れている。いわゆる58年型スタイルの裏通し、コリーナボディのそのフライングVは、長らくそのスタイルの(廉価版Epiphoneの)Vを弾き倒してきた僕にとっても必然的な選択だったし、たぶん自分の人生にとっての「フライングV」というものについての最終結論であるギターだと思う。

それ以降、自分の中で「メイン」になっているのはそれらBacchus (Deviser)およびHamer USAであるが、それらのギターと比較してしまうと、いかに値段のわりに出来がいいとは言え、この廉価版のHamer XTは、やはり「中途半端なもの」「物足りないもの」になってしまっている。

このギターは、なかなか面白い、ある意味ちょうどいい、と言える、絶妙な立ち位置にいるギターでもある。
それら、「どメイン」のギターと比較すると、やっぱりそこまでは鳴らない。
けれど、普通に考えれば十分に鳴るギターだし、ヴィンテージほど鳴らないけれどモダンギターの中ではとても鳴る、みたいな。
だからヴィンテージとモダンの中間くらいの使い方が出来るのである。
思い返してみれば、ツアーとかする中でこのギターがとても役に立ってくれたのはそういったところがポイントだったのだと思う。

そして、ぶっちゃけ安物のギターであるので、遠征とかに持っていっても「惜しくない」、つまり、壊れたり、盗まれたりしてもあんまり痛くない。そんで、ネックがメイプルだからなのか、ぶん投げても倒しても平気だったし、実際あちこち破損させながら回ってきたし、何度も飛行機に載せても大丈夫だった実績がある。

だから、今後もそういった「遠征用」ギターとして使えばいいではないか、という意見もあるのだが、どうだろうか。もうちょっと若かった頃だったら、このギターでバンドの遠征をすることに疑問はなかったかもしれないが、今となっては、このギターでそういった遠征とか演奏活動をすることに、自分は納得が出来るだろうか。これは、前に進むというのか後ろに下がるというのか、歳をとってしまうことの悲しさかもしれない。

やっぱり「高い方のHamer」とかBacchus/Deviserを持って行きたくなるのでは、ないだろうか。(そんでもって、今後自分のバンドがそういった「遠征」みたいな機会がどれだけあるかもわからんが、「高い方のHamer」だって、決して「ぶっ壊して惜しい楽器」ではないのである。他でもなく、使い倒してぶっこわすために持っているのである。)

今となっては「レスポールが至高」という感じになってしまった僕としては、そんでもライヴ用ということを考えるとフライングVの良さもよくよく知っている僕としては、「形はフライングVで音はレスポール」というギターは、一種理想であり、不可能な夢でもある。

でも、このギターは、案外とその理想に近い。
つまり、本物のレスポールスタンダード、ってわけにはいかないけれど、材なのかなんなのか、Vの中ではレスポール寄りの音がするのである。
そんでもって、それはどちらかというと70年代以降のレスポールカスタムの音に近いのである。つまりは、ヘヴィメタル系のレスポール、という感じだ。メタル系のギタリストはどうしても誰しもレスポールカスタムに憧れてしまう傾向があるけれど、僕にとってはこのギターは「当たりのレスポールカスタム」の音がするギターでもあった。

このギターは、ライヴで使うことは今ではなくなってしまったけれども、普段の練習用とかバンドのリハではいまだにしょっちゅう使っている。だから、近年では、「今一歩物足りない」このギターをなんとか「どメイン」の楽器と同じレベルに持って来ようと、あれを替えたり、これを替えたり、試してきた。この前も、コンデンサーを替えてみて、それでかなり音に深みとか立体感が増して、より「レスポールっぽい音」に近づいたのである。

しかし、それでもやっぱり、「よし、このギターを大事なライヴで使おう」というところまではいかなかった。やはりどこか本質的に、物足りない点があるのである。

そんな、ユニークながらも、中途半端な立ち位置にあるこのギターである。
今後も、この楽器を、自分の生活の中に、置いておくべきか、あるいは、手放すべきか。
理由は様々だ。

もうひとつ手放したくない理由が、もしあるとすれば、それはGibson系のセットネックギターとしては、「弾きこんでこそ価値が出る」みたいなところが少なからずあるからである。
たとえばあと5年、10年弾きこんだら、もっと鳴りが良くなるんじゃないか、なんてことは、なかったにしても、より「こなれた」より「良い感じの」楽器になっていくのではないか、という可能性。
あとはそういったGibson系ギターに特有の「愛着」の面だよね。でもそれも、ただの空疎なロマンチシズムかもしれない。

あとは、たとえ「メイン」には返り咲けなかったとしても、普段の練習用とかで、気軽に弾き倒せるギターとして、そういった一本が今後も必要なのではないか、という理由。

3度も海外遠征なんていう貴重な経験を共にしたギターを、あっさり手放してしまっていいのか、という感情的な理由。いや、むしろだからこそ手放した方がいいのかもしれないが。

このギターは、手に入れた時期とか、いろいろあって、録音制作、レコーディングには、ちょっとだけしか使わなかった。
2011年に録音した”Japan Metal Jesus”の中の”The Concept”および”You Key”の2曲。これはテキサスのダラスで録音の機会をもらったので、その際に手元にあったから必然的な選択である。その結果に、まったく不満はない。
あとはその翌年、2012年に録音制作した”Heroes EP”の中の3曲である。”Heroes EP”は、思うところあって実験的に、パソコンにギター突っ込んでAmplitubeで作っちゃった作品である。で、その際に、手持ちのギターを全部パソコンに突っ込んで試してみて、その時点で一番音が抜けるというかクリアというか、性能が高かったのがこのHamer XTだったのだ。これはピックアップの所為もあると思う。このギターに載せて使っている企業秘密のピックアップは、CaparisonのPHというやつである。まあJacksonの流れから来るメタル系の選択である。
だから、2012年のその時点で、間違いなくこのギターは、性能的に自分が持っている中で「最強」のギターだったのだ。

それが、2013年以降、まったく新しい世界が開けてしまい、今では補欠の立場でもっぱら練習用になってしまっている。
なんか申し訳ない気持ちだ。

手放すのか、手放さないのか、まだまだ揺れつつ思案することになると思う。

その、このギターで録音した曲。

“You Key”という曲。この曲はビデオは適当で微妙だけれど、ソングライティングは結構がんばったと思っている。「ハードロック系プログレ変拍子ポリリズム4つ打ちポップ」という感じの曲である。メタル色はまったく無い曲だけれど、このギターの音の良いところがかなり出ていると思う。
こちら

もういっこ”Follow The Light”という曲。この曲は感情的な曲で、ビデオも非常に個人的な絵にしてしまったけれど、この曲もやっぱりこのギターの良さがすごく出ている。ギターソロとか、このギターの、太過ぎず細過ぎず、モダンでありながら絶妙にヴィンテージ系の鳴り方をするところが発揮されている。自画自賛ながら、結構泣けるソロだと思う(笑)
こちら

こんなふうに、録音にせよ、ライヴにせよ、結果は確かに出ているんだから、素晴らしい楽器には違いなかった。
さて、どうしようか。

問うているのは、墓場まで持っていくか、どうか、そこである。

2012年当時の、ツアーをしている自分に、タイムマシンに乗って、数年後の君はこのギターを墓場まで持っていくギターとして選ばない、と告げたら、どういう反応をするか。

「別に。」
って言うだろうな。
「そりゃそうだろう」
って。
「俺のことだから、もっとすごい楽器に出会うに決まってる」って。

過去の自分に今の自分の感傷とかロマンチシズムを否定されたっス。。。。

手続きは神のみぞ知る。神さんの計画。
すべて手続きの一環ってことで。

もし友人の中で欲しいって人がいたら言ってクダサイ。安価で検討します。

No(4790)

■…2017年 1月 3日 (Tue)…….you got to give more than you take
英語で書くとあからさまだけれど今の時代の名声というのか、インターネット社会の名声というのか、internet fameというものについて考えることがある。
それは、日々ソーシャルメディアを開けば、いろんなそういったものが流れてくるし、そういった情報、音楽も含めて、目にする、耳にする機会は多いから。

いまどき、たとえばまあギターを弾く、楽器を弾く、なんていう行為も今の時代にあってはあまり流行りとは言えないけれど、楽器を弾いたとして、それで成功したり、名声を得たり、まあ要するに有名になろうとかそういうambition野望を持ったとして、「よし、バンドをやろう」なんていう選択肢は、今の時代の子たちにはまったく無いわけだ。

今では皆さん、面白い格好でキャラクターを演じたり、YouTube上に(純粋に演奏ではない)コンテンツをのっけてみたり、ちょっと変わった趣向でカバーソングを演奏してみるとか、そういうことに精を出している。

それはそれで、そういった表現こそがあなたの人生の目的であり使命であり喜びであるのならば、否定はしないし、素晴らしい。そういった人も多数いると思う。

インターネット社会の中で、アクセスとか注目を集める方法がいくらでもあるその中で、バンドを結成してオリジナルの楽曲を作り、自分のメッセージを伝える、なんていうことは「最も手間のかかる、そしてもっとも報われない」「最も効率の悪いこと」であるわけだ。
でも、そんなことは2017年にもなれば皆さん普通に認識されていることだろう。

「音楽」っていうものがあるとして、その音楽への向き合い方は様々だけれど、その「音楽」っていうものを使って、それを通じて何をするのか。それは人それぞれ。そんなことは、昔から何も変わっていないけれど、こんな時代では皆、安易な方法でしか向き合わざるを得ない、というか、そういう状況を余儀なくされているのだと思う。

おんなじことは、食というのか、食べ物とか料理についても言うことができると思う。
僕の少年時代の夢は法律家(希望としては検事、それでなければ弁護士)になることだったが、うちの嫁さんと出会って色々あり、「まっとうな大人になること」をあきらめた後、しょうがなく音楽とかやっているが、法律家の夢をあきらめた後で、何か人生の中でやりたいことがあったとすれば、それは料理を作る人になりたい、という思いがあった。

けれども、現代社会における、料理とか食べ物、食をめぐる状況はどうだろう。
こんなに経済効率がシビアに優先される世の中にあって、「きちんと料理を作る」なんていう事は、とっくに商売として成り立たない。そんな世の中になって久しい。僕は、なんというのか「きちんと料理が作れる」ようになりたい、と思っていたけれど、少なからず、色々な状況を見て、「きちんと料理を作る」ような技術は、ほとんどにおいて必要とされないし、またどこへいってもそのような技術は教えてもらうことができない。もしそういった技術が欲しいのであれば、それはおそらく社会の中では「ぜいたく品」だ。ほとんど「趣味の領域」だ。要するにすべてが使い捨てのファストフード営業になっているのだと思う。

かといって、そんな状況の中で、ビジネス面とかより大きなプロットの中で、現代社会の中における食ってものに取り組む人々を否定しないし、そうするしかないけれども、どちらにしても、「料理を作る人になる」なんていうアイディア自体が、既に現代の社会では、「音楽でお金を稼ぐ」というのと同じくらいに、過ぎ去ったファンタジーにおそらくなっている。

そんな世界の中で、どうやって、「食」というものに向き合えばいいのか。

食とか料理についてはそれくらいにしておくとしても、話は変わるけれど、僕がうちの嫁さんにベース弾いてもらって何年かやっていた「サイドプロジェクト」である「熱きリョウとジーザスモード」というバンドがあるが、一年ほど前に「熱きリョウ抜きで」ライブを行って以来、活動を休止している。それはシンガーでありフロントマンである熱きリョウ君が、「軌道に乗り始めている」ところのソロ活動に集中したい、という旨の理由があったからであるが、その後に彼のソロライヴなど久しぶりに見て、色々と思ったことがある。

熱きリョウ君は、まあ色々とツッコミどころの多い、アクの強いキャラクターのパフォーマーであるが、けれども俺は彼のことが好きだし、仮にも何年間か一緒に活動をしてきた仲間であり、友人であると思っている。
だから、そういう相手に対してはわりと遠慮なく書いてしまうのだけれど(ごめんねー)、
彼はそんな現代社会におけるひとつの良い例であって、彼が今やっていることには、非常に突っ込みどころがある。
そして彼のソロライヴを見た後、後日ちょっとしたミーティングの機会を持ち、ダメ出しや突っ込みや話し合いを行った上で、実質的にそれがジーザスモードの最終ミーティングみたいな形になった。
つまり、彼が今やっていることに対して、否定はしないし、やりたいことをやれるところまでやればいい、と思っているけれど、でも俺は彼のやっていることについて、ずいぶんつっこみどころを感じているわけだ。

けれども、それ以来、僕は誰を見ても、どんなアーティストを見ても、あるいは音楽のジャンルに限らず芸人とかタレント一般とか、そして有名無名、成功しているか否かを問わず、それ以来僕は誰のことを見ても、それが「熱きリョウ」に見えるようになってしまった。

つまり、俺が見出した真実とは、「人は誰しも熱きリョウである」という事実なのだ。
みんな、突き詰めてみれば、熱きリョウ君と大差ないのだ。俺だってそうかもしれない。
ただ、ちょっと「うまくやってる人」と、「そうでもない人」がいるだけで、if you take a closer look、良く見てみれば、人はみんな誰しも「熱きリョウ」と大差ないのである。

それは、たとえ世界的なスターであっても、あまり大差はない。

人は、誰しも「アーティスト」でありたい。
理由は知らん。自分が特別だと思いたいからだろうか。
そして自分が特別だということを、皆に認めてもらいたいからだろうか。
人間が持つそのへんの欲求がどれほどどうなのか、誰に聞けばいいのか杳として知らん。
俺はクリスチャンやってるから牧師さんに相談してみたい気もするが、そういう牧師さん自身もそんな感じの人たちだったりすることが多いから、それすらも叶わない。

しかし、人は誰しも「特別な誰か」であり「アーティスト」でありたがる。

そのための手段として「音楽」があるのだとしたら、それはそれでその選択自体は間違ってはいない。
だけれども、人は、自分自身が「アーティスト」であるために、「最低限」しか音楽というものに向き合わないものだ。

なぜか。それは、音楽というものは、途方もなく、得体が知れず、そして報われないものだからだ。
だから、ほとんどの人は、その表面しか撫でようとしない。

多くの人は、「アーティスト」であることに99%の労力を割く。
そして、「音楽」に向き合うことにはだいたいみんな、1%以下の労力しか割かない。

そして、internet fameというのか、誰しも5分で有名になれてしまうような現代のインターネット社会においては、なおさら、誰しも「音楽」に向き合うなんてことはしない。
1%の労力の、ほんの表面の、たとえば料理で言えば、パンに肉をはさんで、「はい、ハンバーガーの出来上がり!」とそれを映像に撮って、それが料理だ、ということになっている。(「すごい!」「素晴らしい!」というコメントがいっぱいつくのである。わかるでしょ。)

その方が効率が良いからだ。
つまり、「名声」というもの自体もファストフード化しているのだろう。

別にいにしえの時代から、名声とか成功というものは、「いつだって悪魔との取引」だったんだろうし、そういった名声を否定はしない。

けれども、これは愚痴と思ってもらって一向に構わないけれども、僕はそういった名声から非常に程遠いところからスタートした人間だし、また、音楽的な自信と確信はあれど、それと同じくらい、だいたいはそれ以上に、自分はまったく特別ではなく、無名の存在であり、名声からは程遠い、ということをずっと思い知らされてきた人間だ。スタート地点から、そのへんが前提になってその上で音楽をやっているところがある。これは、90年代に青春を過ごして、2000年代に大人になった自分たち世代に特有の見方かもしれない。(90年代にはそれまでのロックという概念が音を立てて崩壊するのを見て、そして2000年代には何もない更地のインターネット砂漠に放り込まれた世代だから。)

できれば「音楽」に向き合いたいと思っている。
1%とかじゃなくて、もうちょっと多めに。

それだけで、あとは普通の人で構わない。
いや、普通にはなりたくてもなれないのだから、
ただの「変な人」で一向に構わない。

どちらかというと、ただの「変な人」で終わることを、勝利だと思って生きてきた方だ。

No(4791)

■…2017年 1月 7日 (Sat)…….チリの日本語バンド、夢にワンステップ
またうちの嫁さんが報告ポストすると思うけれど、10月に共にツアーしたビクトリアノのCDレビューがBurrn!誌に載った。「レーベル・品番なし」と書かれたそのような体裁で載せてもらったのはやはりある程度「特別なこと」なのだろうから、仮にも日本最大のヘヴィメタル専門誌として(紙媒体やシーンの現状はさておき)世界的に有名なB誌に載ったことは、ビクトリアノにとってもひとつ、間違いなく大きなことだろうと思い、めでたいと同時に、協力していただいた関係者の皆さんに、(ここで俺が書いても伝わらんと思うけど)、お礼を言いたいと思います。ヨカッタネー!!!

No(4792)

■…2017年 1月 9日 (Mon)…….すれ違いサザンカリフォルニア
この記事。
こちら

Switchfootの新譜は、「まあまあかな、相変わらず、いいね、新しさは感じない」という感じだったけれど(笑)

先週、僕は某女性シンガーに協力していただき、某ラップの曲をレコーディングしたのだけれど、その曲で言いたかったことは、まさにこのことだ。Jon Foremanのこの文章。

協力していただいたその女性シンガーは、「なんでこの曲、こんなに怒ってるんですか」といった感じだったけれど(笑) 言いたかったことはこういうことなのである。ただ、それを日本語でラップしたから、伝わりにくかったかもしれないが。(つまり日本語でラップすると、日本のクリスチャン批判みたいに聞こえてしまうのである。)

だって俺は自分のバンドではある時期以降は確かに英語で歌ってきたけれど、それにはそれで理由や経緯、いきさつがちゃんとあるのであって、それを今更、101回目の説明はしたくないが、
たとえ英語で歌ったとしても、さすがに英語でラップは、俺無理だから(汗)

あとは、今年作る作品は全曲、日本語でやるって決めてるから。
だから、皮肉なことに世界に対して伝えたいメッセージを、なぜか日本語でラップすることになった。

いつもこうなんだよ。行き違い。
日本語でやらなきゃいけないタイミングで、バンドは英語やってる。
英語でやらなきゃいけないタイミングで、バンドは日本語やってる。
皆は不思議に思うかもしれないが、俺、あるいは俺たちにとっては、そんなに簡単なことじゃないんだよ。じゃあ、これは日本語で、じゃあ、これは英語で、って、すぐに切り替えられるものじゃないんだよ。(もちろん、ワーシップ的な曲とかは、日本語で、とか、色分けはしてきたつもりだけどね。)

だから、日本語でやると、「英語でやればいいのに」って言われるし、
英語でやってると、「なんで日本語でやらないんですか」って言われる。
どっちもやってるんだよ、俺たちは。

このJon Foremanの文章。
つまり、愛ということだ。
愛に対して、Yesと言うのか、Noと言うのか。
それくらい、シンプルなこと。

あるいは、正月に「仮歌」を全部作り上げたところの「鍋島デモ」24曲の中に、「磔少年」(はりつけしょうねん)っていう曲があるけれど、これは僕がずっと昔からパート1、パート2、パート3、と作ってきた「虚数少年」シリーズの最終形だと思うけれど、その曲もそうだが、子供のような者こそが天国に入れる、というイエスキリストの言葉のとおり、一番弱いもの、そして子供の立場、視点で考えられるのか、ということでもある。

世界、特にアメリカのキリスト教は、よくもわるくもかなり政治的になってしまっているから、
そうじゃなくて、泥の掛け合いじゃなくて、愛。泥の拾い合い。

これは、まあもちろん、世界中にいいやつらはいっぱいいるし、アメリカにも友達はいっぱいいるし(hopefully)、会えばみんないいやつらだけど、

たとえ日本語で、わかりづらくても、俺は今この時点でこう考えている、っていうメッセージを、音楽としてきちんと作品にしておきたかった。まあこれも音楽家つーかバンドマンの矜持。あとはせっかく数年、棚に置きっぱなしでなかなか日の目を見なかったこのラップの曲を、お蔵入りにしたくなかった。

幸か不幸か、日本ではキリスト教は数が極端に少ないので、そのせいもあって、あんまり政治的にはならず(内部はともかく、外部的には)、現実の政治というものからは比較的切り離されたところにあるので、その意味では純粋に信仰というものに向き合う環境はあるかもしれない。(しかし、以下ごにょごにょ・・・笑)

それになんだかんだ、やはり日本人として、俺は日本の人たちを信じている。

だから、たとえ俺が日本語でラップする言葉が、少々きついものだったとしても、日本の仲間たちはきっとわかってくれるだろうと、思っている。

って、このシェアしてるJon Foremanの記事がそもそも英語。
みんな、読めるだろ、これくらい?

これもやはりすれちがいなのか?
見ているもの、考えている環境、目指しているものの、すれちがい。

そういったすれ違いに、いつまで苦しまねばならんのだ?
いや、あるいは、ロックとはそのすれ違いの中に鳴る音のことなのだろうか。

No(4793)

■…2017年 1月11日 (Wed)…….求む総本山
下記の通り、Calling Recordsの仲間と一緒に2月18日(土)にライブやって、我がイマリトーンズも出るんだけど、ウェブサイトのライブページに書いたのね。「日本のクリスチャンロック総本山、Calling Records主催」って(笑) あれ、Calling Recordsっていつから日本のクリスチャンロックの総本山になったんだ、って(笑) でも、思うにたとえ総本山なんてものがあったとしても、そもそもクリスチャンロックがほぼ存在しない日本においてはその山は低いに違いないし(泣)、むしろ「いや、俺たちが総本山だ!」なんて苦情を言ってくる人たちがいたら、俺は泣いて喜ぶと思う。いや、マジで。誰か、いない、そんな総本山な人たち?
こちら
こちら

No(4794)

■…2017年 1月14日 (Sat)…….夢見るヨコハマいい機会
そういうわけで2月18日(土)に関内GIGにて、我らが総本山w、Calling Records主催ライブが行われます。そんでこれはブルースシンガー石川ヨナさんの神戸移住送別パーティーでもあるのですが、横浜育ちのヨナ氏に向けて、同じ横浜のバンドである我々Imari Tonesは(つっても俺は愛知だけど。メンバー二人は横浜人。)、様々な意味合いをこめてはなむけにこの曲を演奏する予定です。ひさびさ。いい機会だから!
こちら
で、イベントページはこっちら。
こちら

No(4795)

■…2017年 1月15日 (Sun)…….罪と罰のステージ
自分はあんまし、「よし、俺にはこれしかない」みたいに乗り気で音楽を始めた方ではないし、常に「どうやって辞めるか」を考えていると公言しているように、「よし、俺は音楽やるんだ!」みたいにしてバンドをやっているわけじゃない。なんでこんなアレなこと続けなアカンのじゃ、と思ってきたし、その思いは年々強まるばかりだ(笑)

さてそんな僕でも一応はそういったインディーのバンドマンを仮にも何年もやってきてはいるので、ステージに立って演奏する、という行為について考えたことは一回や二回ではない。つまり、三回くらいは考えたことがある。三回考えてみて思うことは、これは競争だということだ。

そして、こんなことは、普通の人とか、普通に活動しているミュージシャンやバンドマンの中ならたぶん、最初からとっくにわかっていることなのであろう。特に、大なり小なり成功してらっしゃる方々は、そうなのだと思う。そのことが前提になって、音楽とか人生をされているのだと思う。

つまり、音楽を鳴らすことではなくて、ステージに立つということそのものが、既に競争であるという事実だ。だから、ステージに立つということが既に勝利とか成功とか達成を意味するし、そして本当のところを言えば、華やかなロックンロールの世界に魅了される人々の多くは、音楽そのものよりも、その事実にこそ魅了されているのだと思う。

その結果、音楽を鳴らす、バンドやら音楽活動をするということの意味合いは、社会的に上に行き成功する、身を立てる、ということを意味するようになり、そして世の中ではそれが普通になる。いつのまにか、音楽というものはそういうものだ、ということになっているのである。

その結果、世の中には色々な音が生まれ、その中にはもちろん、面白いものや興味深いものは存在するけれども、そして確かに、一定の方向に進化はするけれども、本当に面白いものというのは段々生まれなくなっていき、そして世の中は、「どんどんつまらなくなっていく」。

それは人間社会の自然の成り行きであり、どんな分野でも繰り返し起こっていることである。そのバランスというか、未開の分野が開拓され、成功を収めることと、才能が発揮されることが一致する時、その分野は「黄金時代」と呼ばれる。

だからこそロックンロールの歴史を振り返れば、そんな現代社会の様々なあれこれにまみれたロックンロールの中に、本当に素晴らしい才能を持ったアーティストたちというのは、確かに存在したのだ。

つまり、そのステージに立つ、という事実とか競争をまったく越えたところで、既に勝利していた連中のことである。

さて、僕はGuns’n Rosesという有名なロックバンドを、初めてその音楽を聴いたのは14歳の頃だったけれども、もちろん当時も好きであったが、大人になり、ようやく最近というか、ここ数年、このGuns’n Rosesの良さが、今更に理解できるというか、心に染みてくるようになった。

Slashのファンの方には悪いが、僕はどちらかといえばAxlのファンであり、アクセルこそがガンズである、と思っている方だ。

たとえば昨晩も、自分は”Use Your Illusion”のアルバムを聴いて、涙が止まらなくなってしまったのだが、では、と思い、2008年にリリースされたところの”Chinese Democracy”をあらためて聴いてみた。

そうやって続けて聴いてみると、僕は”Chinese Democracy”は素晴らしいアルバムだと思うけれども、確かに全盛期のGuns & Rosesの作品と比べると、非常に退屈だ。
けれども、アクセルはその、十数年だかぶんの「退屈」を、しっかりとアルバムに刻み込み、表現しているのである。つまり、「退屈」だったのは時代そのものであり、アクセルはその「時代」をきちんと捉えて表現しただけだったのである。(と思う)

俺たちは退屈な時代に生きている。
その退屈な時代にどうやって向き合うか、それこそが最初っから僕たちの人生のテーマだったし、そのことを「面白い」と思えた者だけが、表現に向き合える。
そして、その「退屈」を当たり前のものとして受け入れてしまった人々は、そう、幸せ者だ。幸せな人たちは、「退屈」の向こう側を決して知ることはないし、覗き込むこともない。

ステージという板の上に立つことが競争であったという事実は、別にいつからそうだったというわけじゃない。昔からそうだったし、最初からそうだった。
つまり言ってみれば、生きるということはそれ自体がすべて競争だ。自然界だってそうなっている。食ったり食われたり、殺し殺され、他者を押しのけて否定する中で、生命の営みは行われるようになっている。呪うなら神を呪うか、あるいはアダムをそそのかした蛇を呪うべきか。エデンだかその園というのか神の庭では、きっと競争も殺し合いも、存在しなかったのだろうから。

しかしたぶん思うに、林檎を食べて賢くなってしまったところのアダムは、林檎を食べる前の幸せな自分に出会ったとしたら、その人のことをきっと「なんて馬鹿な人間だ」と思うに違いないのだろう。

なにはともあれ競争だ。僕らはそんな過酷で残酷な世界に生きている。
僕は自分のこの手でナイフや銃を持って人を殺したことこそ無いが、かといって自分だって、様々な人たちを犠牲にして、様々な人や生き物やいろんなものを殺して生きてきたことには違いないのだ。

ではステージに立つ、というこの競争に対して、どう向き合えばいいのか。
そのこと自体が、ある意味、音楽をやっている人間なら、まずはじめに考えなければならず、そして無意識のうちに誰でも考えているはずのことだ。

俺はこう考える。
どんなステージとは言っても、それは人が作り出したものだ。
どんなに大きな、伝統や権威のあるステージであっても、あるいは大規模な最新のスタジアムであっても。
音響装置も、照明装置も、舞台演出も、それは人が作り出したものだ。

だけれども、そんなステージに立つ前に、僕たちはすでに、神が作り出したステージに立っているではないか。
それは生きている、という人生という、この宇宙というステージだ。
僕らが立っているこの地球にしても、そこに降り注がれる照明装置も、音響装置も、舞台演出も、すべては神が作り出したものだ。

だから僕らは、その神が作ったステージの上で、どのように踊るべきかを考えるべきだ。

既にこう考えただけでも、いや、「生きる」というそのステージに立つこと自体が競争である、とか皆知っている。そして、そのステージに立つ競争も既に、決して平等ではなく、不条理で、アンフェアなものであることも皆が知っている。たとえば、過酷な環境や、過酷な場所に生まれたり、無事に大人になることすら難しいことだってあるのだから。しかし、ひとまず今生きている僕たちは、その神が作ったステージの上で、自分の表現すべきことを考えよう。

まあ、どちらかといえば、今この瞬間、こうして生きていて文字をタイプしている自分も、この「生きている」という事実に対して、自分は競争を勝ち抜いた、というよりは、これは何かの罰に違いない、と解釈している方だが(笑)。

追記。
神の作り賜うたステージ、ということで言えば、
たとえば11月に能楽堂を借りてビデオ撮影を行った時も、「舞台は神聖なものなので」と言われ、舞台上でやってはいけないことなどをあれこれ説明された。
「舞台には神様が居て」とか「神聖な」ということについては、僕自身も一応クリスチャンやってるので、色々と見識は無いではなかったが、しかしその心は当然に日本人として理解できる。それはアメリカのどっかでネイティヴアメリカンの聖地にパイプラインを通すことにあれこれ議論しているのと同じことだろう。
このようにして考えると、舞台は神聖なものである、と考えるその日本の古典芸能の世界観も相当に奥が深い。つまり、舞台というものは確かに人が作ったものに違いないが、それを神の作った神聖なものと見立てること、それはつまり、舞台というものを宇宙そのものである、と捉えることになるからだ。そう思うと盆栽とか日本庭園とか茶道とか。以下の説明はきっと必要ないでしょう。

No(4796)

■…2017年 1月15日 (Sun)…….芸人
年末にCalling Recordsのネット配信の番組のために、BGMに使えるようなものをということで、ギターインストの短い曲をいくつか作った。
この前の初回の放送にも使われていたし、たぶん気が向けばこれからも使われるのだと思うけれど、その曲を自分でもYouTubeにアップした方が良いだろうと思い、至極適当なビデオをアパートの部屋で撮影した。

で、それと絡めて、というわけではないが、それに関連して思ったことである。

まずは、このYouTube上でちょっとだけ話題になっているMrs.Smithというギタリストを見ていただきたい。
こちら

インターネットの時代になって久しく、またiTunesの時代も過ぎて、Spotifyなどのストリーミング配信が普及し、YouTubeがミュージシャンにとっても事実上最大の発信のチャンネルとなってからも結構たつ。

有名無名を問わず、YouTube上にはいろいろなミュージシャンが自分の作品を投稿しているし、そして当然のことながら、YouTubeには音楽だけでなく、様々な分野の様々なクリエイターやパフォーマーが、自分の作品や映像を投稿している。

昨年、日本からもピコ太郎さんが世界的な大ブレイクを果たしてしまったことからもわかるように、というか、そのピコ太郎さんとかを見ていると、たとえばミュージシャンと芸人との境目はどのあたりにあるのだろう、と思うのである。

ピコ太郎さんはどちらかといえばお笑い芸人さんであろう。けれども、その楽曲は事実、アメリカのビルボードにチャートインしてしまったし、じゃあ、自称ミュージシャンのお前はピコ太郎よりも「良い曲」を書いているのか、と言われれば、それは不明である(汗)。

いや、大抵のバンドマンは、「俺はピコ太郎よりはマシな曲を作っている」と言うに違いないけれども、実際、考え込んでしまうのである。確かに単純でキャッチーでくだらないだけのパイナップルなんちゃらだけれども、僕らの書いている曲はそれよりも本当にマシだろうか、と。全米チャートのトップ10の曲とか、とかそういう曲を取り上げてみても、実はstrip downしてみれば、パイナップルアップルなんちゃらと大差ないのではないだろうか、とか。

話はそれたが、こういう時代だから、ミュージシャンとか、ギタープレイヤーも、YouTubeやインターネット上で色んなことをやっている人が多い。ギアのレビューとか、奏法の解説、とか、そういうのはまだ素直な方で、映像の中でいろいろなキャラクターを演じて、自分のチャンネルに視聴者を引きつける、いわゆるYouTuber的な発信の仕方をしているギタリストは、ずいぶん増えたのではないだろうか。

こういう時代だからこそ、みんないろんなことをやるし、これまでどおり普通にバンドやってるだけじゃなく、いろんな発信をしないと生き残れない。それはわかる。

たとえば、僕が数年前にいい歳して始めたスケートボードであるが、僕もいい年して最近始めたからこそ、当時YouTube上で人気の出始めていたRevive SkateboardsのAndy Schrockとかも先入観無しに素直にファンになった。

Andy Schrockは、スケートボードが上手いからYouTube上で人気になり、スケートボードのビジネスで成功したわけではない。
もちろんスケートボードも最低限のテクニックは持っているだろうけれども、それ以上に、おしゃべりが上手く、ユーモアのセンスがあり、YouTube上で面白く視聴者(主に低年齢層だろうけれども)に訴えかける能力があったから、人気者になり成功したのである。
それは、スケートボードの技術やそのかっこよさを重視する正統派のスケーターからしてみれば、邪道もきわまりないものなのだと思う。

だから、スケートボードの世界でさえ、スケーターたちは、今までどおり技術を磨くのではなくて、YouTube上で魅力的なキャラクターを演じることに、注力しなければいけない、とかそういう感じの時代なのである。

そんな時代にあって、俺らみたいな無名のインディーバンドの人は、どうすればいいのか。
つまり俺が気にしているのは、どこまでがバンドマンで、どこまでがYouTuberとか、芸人なのか、その境界線のことである。

その境界線のことを、気にしない人もいるだろうし、気にしない人はある意味正しい。
たとえば、世の中にテレビというものが普及したとき、ミュージシャンはどう反応したか。
そして、MTVとかミュージックビデオが普及したとき、ミュージシャンはどう反応したか。
どちらにせよ、ミュージシャンがどう文句を言っても、世の中の流れには抗えなかったのである。
時代に流れに乗り、テレビの番組で画面映えした人が、そしてMTV上で魅力的なビデオを作った人が、成功していったのである。
だから、インターネットやYouTubeに対しても抗うことは出来ない。

つっても、俺はYouTuberではない。お笑い芸人でもない。
ロッカーは、エンターテイナーであるべきか、たぶんイエスだろう。
けれども、エンターテイナーとお笑い芸人は、決してイコールではない。
もちろん、お笑い芸人さんの中にも、いろいろな流派があり、スタイルがあり、そして道があるに違いないけれども。

そんで、上記のMrs.Smithというギタリストである。
それなりに、インターネット上で話題にはなっているようだし、それなりに、YouTubeやFacebook上でのビデオの露出もあるようだ。

そして、この人がどういう人なのかはよく知らないが、見たところ、男性が女装しているように思えるし、ぱっと見れば、また変なのが出て来た、というか、よくある注目を集めようと変な格好をしたYouTubeギタリスト、のように思える。
けれども、よくよく見てみると、なんだか僕はこのギタリストに、次第に好感を持った。

意外と、やっていることがオールドスクールなのである。
確かに、発信のスタイルは、いまどきのYouTuber的な形なのかもしれないが、取り組んでいる演奏とか、ステージ表現は、実は案外とオールドスクールである。それは、舞台芸術とか知らんけど、女装する芸も含めて、なんだかオールドスクールな、ロックンロールの芸能を感じるのである。(もちろん、これで女装してなかったら、ただのギタリストじゃん、というのは、事実であるが。)

うまく言葉で説明できないが、俺は、芸人と、ロッカーの境目、YouTuberとバンドマンの境目は、このあたりにあるのではないかと、なんとなく感じる。
このMrs.Smithは、間違いなく芸人であり、YouTuberであるが、その内容は、かなり本物のロッカー、ミュージシャンに近い。

そんで、こんな格好をして、体を張ってパフォーマンスしているにもかかわらず、案外とYouTubeの試聴回数が伸びていないのも、そのあたりに理由があるのかもしれない。こういうような、実際に目の前で体験しないとわからないような、皮肉とジョークに満ちた古典芸能は、YouTubeとか現代のインターネット時代には、ウケないのである。たぶん。

というわけで、せっかく作ったギターインストを、いくつかYouTubeにのっけてみよう、と思い立って、ごくごく簡単に映像を撮ってみたのだが、いや、別にただのどうってことのない手間のかかっていない動画だが、いくつか、それでも考えたことがあった。

それは、YouTuberっぽい演技は一切しない。YouTubeギタリストらしい映像も撮らない。皮肉とジョークを下敷きにする。そして、自分の貧乏バンドマンの粗末な生活環境を素直に表現し、記録することである。

粗末な映像である。特段に試聴回数が多くなることもあるまい。
けれど、音楽と演奏は、それほど悪くないはずである。
編集が済んだら、そのうちアップします。

追記。
ビデオということで言えば、そういえば話題は変わるが僕が大ファンであるところのプラスマイナス、+/-{plus/minus}が久しぶりに来日する。
ビデオということでいえば、インディーバンドがどういうビデオを作るべきか、ということに関しては、このプラスマイナスの影響というか、多少なりともヒントになったところも大きい。

2000年代に作られた彼らのビデオは、特に初期のものは、ものすごく自前で、ものすごく低予算で、ものすごく適当に作られている。(それはもちろん、映像作家さんによる作品でも、同様だった。)
けれども、そこにはなんだか「面白いアイディア」があり、そして名声とかスターダムといったものに背を向けた90年代から00年代のオルタナ世代に特有の感性というのか、作法があった。そしてそのセンスを、僕は結構気に入っていた。

これが、2010年代になり、映像メディアもYouTubeももっと発達し、普及した現代であれば、彼らの作るビデオももっときっと違ったものになっていただろう。
けれども、そんなDIY精神と、チープさを逆手にとったような作り方が、インディーバンドの映像表現として、ひとつの理想に、僕の中でなっていることは否定できない。

もっと言えば、2012年のVan Halenのビデオだって、同様に「適当」だった。超メジャーバンドなのに(笑) でも、それが良かった。

No(4797)

■…2017年 1月15日 (Sun)…….「つかみとる」ギターインスト
という訳で、これがそのギターインストのビデオです。構想3分、撮影2分、編集15分の壮大なプロジェクト、スリリングなギターの速弾きにふさわしいスピード感のある映像が出来たと思います!(注: すべて嘘です)
こちら

No(4798)

■…2017年 1月16日 (Mon)…….現実認識2017
いくらでも広がりそうなテーマ。

この世界には色々な食文化があり、世界中では色々な素材を使った色々な料理が作られて、それを様々な味覚を持った人々が、好き勝手に食べている。誰もそれをまとめたり、コントロールしたり、これが正しい料理なのだ、とか言うことはできない。

この世界には様々な男女が居て、いろいろな男がいれば、いろいろな女もいる。それらの男女がいろいろな理由で惹かれ合い、愛し合ったり、愛し合わなかったり、世界中で好き勝手にロマンスという名の騒動をくりひろげている。誰もそれをまとめたり、これが正しい男女の愛の形なのだとか、言うことはできない。

この世界中には様々な宗教があり、原始宗教から土着の風習のようなものまで数限りない信仰があり、仏教やキリスト教のような大きな宗教の中にさえ、色々な宗派や、分派や、考え方がある。それらが世界中で、好き勝手に自分たちの正しさを主張し、礼拝とかやっている。誰もそれをまとめたり、これが正しい信仰なのだと、言うことはできないし、本当に言ってしまったら戦争になるし、これまでも実際にそうなった。

この世界中には様々な音楽があり、現代社会のポップミュージックの中だけ見ても、いろいろなバンドやミュージシャンが居て、それぞれが様々な場所で、様々なスタイルで、様々な形で、様々な演奏をくりひろげている。そして人々は、様々な理由でそれらの音楽を聞いたり、感動したり、ファンになったりする。それをまとめることは誰にもできないし、たとえAppleやSpotifyにもできないし、これが正しい音楽の形なのだと決めることは、どんな評論家にも言うことはできない。

それがこの地球という場所で起きていること。
そんな好き勝手にやり放題になっているこの世の中で、生きていく勇気が君にはあるか。

俺には、正直、そんな勇気はとてもない。

けれども、すでに生きてしまった。
若気の至り、知らぬが仏。

だけれども、せめて信じたいこととしては。

世界中にどのような料理や、どのような食文化があったとしても、人がそれを食べて美味しいと思う心に変わりはない。

世界中にどのような男女の関係があるとしても、男と女が惹かれ合う気持ちに変わりはない。

世界中にどのような宗教や信仰があったとしても、神に祈る人の気持ちに変わりはない。

世界中のどこで音楽が奏でられていたとしても、それに感動し、歌い踊る人々の気持ちに変わりはない。

何かをつかむんであれば、その先に。

それでいんじゃないか。

つかめと言っているのか、神は。
言ってるんだろうな。

だからせめて、今日、食べるその料理に、
共に居てくれる大事な人に、
共に歌ってくれる仲間に、
信じられる何かに、
感謝をしよう。

と書くとうまくまとまる(笑)

No(4799)

■…2017年 1月16日 (Mon)
だからこれは純粋に本当に自分のためのメモであるけれど、

俺がクリスチャンになったというのは、
特に普通の日本人である自分がクリスチャンになったというのは、

俺は宗教というものを卒業しました、という宣言だったんだろうな。
風習、慣習、文化、そういったもの込みで。

俺はキリスト教という宗教団体に入りました、という意味ではなく。

そうでなければ、イエス・キリストの十字架に意味なんてないと思う。

キリスト教の人たち、特にモダンな人たちは、だからこそキリスト教、クリスチャニティというのは宗教じゃないんだ、と言うし、俺もまったくもって同意するけれど、

そう言ってる人たちがやっているのもやはり教会とか宗教団体だからして、その線引きはいつだって、非常に微妙で、微妙なfine lineだ。

その意味では、バンドや音楽もそれ(宗教)とまったく同じだ(爆笑)

だから、コンテンポラリーな音楽活動と、宗教を結びつけて、クリスチャンミュージックとかCCMとかやり始めた人たちは、やはり非常に商才に長けている(笑)

バンドというのは宗教と同じだと、早々に気が付いたのだから。

そして実際に、世の中はそういった「宗教」バンドばっかりになった。

No(4800)

■…2017年 1月16日 (Mon)…….知ってた
つまり、俺たちが売れない理由は、宗教を否定しているからだろうな。

バンドが売れるための宗教という力学を。

それも、徹底的に。

クリスチャンバンドなのに。(注:嗤うところです)

理由は説明する必要あるまいっ。

No(4801)

■…2017年 1月22日 (Sun)…….
いいMCのセリフ思いついたんだけど、うち今ライブ少ないし、ライブの時までにたぶん忘れるし、ステージに立ったら絶対忘れるから今書き留めておく笑。
そんで明日も生きてるっていう保証もないので余計に今、書き記しておく笑。

「いいか、俺はクリスチャンアーティスト気取って、クリスチャンロックなんてことを言ってギターを鳴らしている。
でも、大事なことを言うぜ、実は俺は、偽物だ!
俺は、偽物のクリスチャンアーティストなんだ!(笑)

なぜなら俺は、不純な動機でこれをやっているからだ。
そして、イエス・キリストのことを、あるひとつのことの言い訳として利用してるからだ!
俺は、イエス・キリストのことを、俺がその何かをやるための言い訳にしてるんだよ。

それは何か。
それは、
皆に、愛してるって言うことだ!!!

俺はただ、皆に愛してるっていうことが言いたくて、イエス・キリストのことを、そのための言い訳として利用してるんだ!!(笑)

だがな、俺は偽物かもしれないが、たとえ偽物であっても、一向に構わないんだぜ!

それは、たとえ俺が偽物であっても、
イエス・キリストは本物だからだ!!!

そして、俺がなぜ皆に、愛してるって言いたいのか知ってるか!!?

それは、イエス・キリストが皆のことを愛しているからだ!!

イエスさんが、皆のことを愛してるんだから、
俺が皆のことを愛さないわけにはいかないんだぜ!!!

だから皆さん、
イエス・キリストの御名において、
愛してます!!!!!」

つーわけで、
俺は、別に、無名でも貧乏でも、嫌われ者でも何でも構いやしない。
ただ、正直に、勇気を持って、面と向かって、
皆に愛してると言える人間に、なりたい。

No(4802)

■…2017年 1月22日 (Sun)…….現実
言葉で愛してるって言うことはできる。
表面的な態度で愛を伝えようとすることもできる。

でも、音でそれを伝えることは簡単なことじゃない。
そして、身をもってそれを伝えることはもっと難しい。

表面的な言葉で、愛を語り、伝えようとする時、
人々は賞賛し、それを褒めそやす。

けれども、人が身をもってそれを示し、伝えた時、どうなるか。

3割の人は、それを憎悪し、
3割の人は、笑いあざけり、
3割の人は、それを他人事として遠まきに眺める。
そして、残りの1割(ないしはそれ以下)が、涙し、生き方を変える。

それが人間というものの現実だ。

ましてや神が身を以てそれを行った時、
人々はその神を殺すことしか出来なかったのだ。

それくらい、人は、愛というものに向きあうことが、できない生き物だ。

No(4803)

■…2017年 1月22日 (Sun)…….代償
先日の続きから書けば、
つまり、

宗教の力学や、
商売の力学や、
政治の力学や、
暴力の力学や、
その他もろもろの力学に、
人が頼ってしまうのは、

愛してる、
というそのことを、
伝えることができないから、
あるいは
できなかったから、
なんだろうな。

だから、
それはきっとものすごく、
重要で大事なことなんだよ。

No(4804)

■…2017年 1月22日 (Sun)…….つなぎあうコーヒーインスト
Calling Recordsの番組配信のBGM用に作ったギターインストのビデオを適当に作ったやつをもう一個アップしました。
思わせぶりなタイトルでアクセス増を狙っています(笑) 映像的には単にコーヒー豆をミルでがりがり挽いているだけというひどい内容です(笑) しかしギタープレイはわりといい音してるんじゃないかと。
こちら

No(4805)

■…2017年 1月22日 (Sun)…….アップしただけのアーカイヴ
私2006年にはとんでもない量の録音制作をしたんですが、そのうちのひとつである”fireworks”という作品をSpotifyとかiTunesとかに先日アップしました。今年はその他の過去の作品を整理しつつ順番にアップしようかと考えています。ちなみにBandCampには既に全部置いてあります。
こちら

No(4806)

■…2017年 1月26日 (Thu)…….2016振り返り的なパート
さて既に1月も終わろうかという頃になってしまいましたが、
2017年の抱負など。New year’s resolutionなど。
あとはこれも今更ですが2016年の振り返りなど。
あとは世界情勢かな。(ほんとすみません)
あとは、これからどう生きていくべきかを、今見えているほんの狭い範囲で考えてみたい。

まずはさっくりと2016年の振り返りから。

2016年は、どちらかといえば「予想していたよりもたくさん祝福された年」だった。
音楽活動としては、Calling Recordsの仲間が増え、その活動が順調に、少しずつ発展しつつ、続いていること。

イベント的には、4回目というか4年目となったXTJ (The Extreme Tour Japan)。何度も書いているように、このThe Extreme Tour Japanというイベントを個人レベルでやるには限界があり、僕(と友人たち)が中心になってやるのは既に無理があるので、昨年の段階でもう終わりにしようと思っていて、地球の裏側チリから面白いやつらが来るからっていうんでもう一回だけ、ということで4度目をやった、ということ。けれども、おまけのエクストラのつもりでやってみたけれど、仲間たち、友人たち、そして色々な人たちの協力のおかげで、予想以上に祝福されたものになった、そういうことだった。

そして、なのでこれも何度も言っていることだけれど、僕が中心になってやる現存の形としてのXTJはこれで最後であり、来年以降は少なくとも僕は中心になっては関わらない、ということは前から言っていた通り。
そんでもって、現在のところ、今までに色々な人々に声をかけてみたけれど、この企画を引き継いでくれる人は僕の知る限りいなくて、そしてその後のCalling RecordsのミーティングでもこのXTJをやっていくことに関しては消極的な意見だったことから、来年はこのエクストリームツアージャパンが行われる企画は低いです。おそらくやらないでしょう。そして、もし誰も引き継がないのであれば、これで終わりになるでしょう。それはちょっと残念だけれど、「俺は既に、自分がやらなければいけない仁義は果たした」と何度でも自信を持って宣言しておきます。無理をしてでも、日本でこのエクストリームツアーを行う、チャレンジしてやってみる、っていうことは、俺自身の宿題だった。そして、それを4度もやった。だから、俺は自分の責任とか、自分の宿題は間違いなくやり遂げた。

自分のバンドということで言えば、現在のバンドをめぐる状況から、ライヴの回数は決して多くはなかったけれども、それでもいくつもの素晴らしいライヴに参加させてもらうことが出来た。本数は多くはなかったけれど、充実していたか、いなかったかで言えば、とても充実していたと言える。

そんでもって創作面。これが、2016年はとてつもなく充実して実りが多かった。
まずはなんといってもコンセプトアルバムJesus Windの録音制作。これに2016年の前半を、かかりきりになって費やした。
これは、とても大変というか、予算も思った以上に費やしてしまったし、機材面も含めて今までよりちょっとは、というか過去に使っていた機材をまた再度取得したりとか、ちょっとだけ録音へのこだわりを持ってみた、という。この一年だけで新しいプラグインもどれだけ増えてしまったんだろう、ということもある。
しかし、作り上げたものは、その甲斐は十分にあるものだった。
ここまで濃密なヘヴィメタルの作品を作り上げたことは誇りに思うし、歴史もののコンセプトアルバムを作るなんていう、アイディアはあったけれども実際には無理だろいうとずっと思っていたものが、出来てしまった、ということは祝福というより他にない。
そんでもって、これは自分の音楽的な「預言書」でもあるからして、自分の人生の中でもたぶんもっとも重要な意味を持つ作品であるので、これを作り上げることが出来たからには、たぶんもう死んでもいいというか、人生の中での音楽的な宿題を、最低限やり遂げることが出来たように感じている。
そしてこの作品をきちんとリリースして発表するという仕事が、今年2017年にやらなくてはいけないことである。

そして、その”Jesus Wind”を作り上げただけでも十分過ぎる成果であり、重い重い仕事であったのに、それだけでなく、夏が終わるまでに「鍋島」のデモを作り上げてしまった。「鍋島デモ」および「しましまデモ」と名付けられた、合計して35曲くらいあるそのデモを形にすることが出来た。

でもって、結局、年が終わるまでにいろいろと考えて、「鍋島」に関しては、Vol.1が12曲、Vol.2が12曲の合計24曲(うち2曲はインスト)という、2枚組のプロジェクトになってしまったのである。
この青写真が出来上がっただけでも、僕の人生にとっては非常に大きな意義のある成果だった。

そして、「しましまデモ」に入っていた何曲かと、秋にXTJが終わってから追加でデモの形にした何曲か、あとは棚にしまってあった何曲か、とかいろいろ合わせて、バンドは「鍋島」に取り掛かる前に”Overture”というプロジェクトに取り掛かることになった。

言うまでもなく「鍋島」というのは、この伊万里音色と名付けられた自分のバンドにとって、究極の到達点と言うべき音であって、その音についにたどり着いたからこそ僕はこれに「鍋島」という名前を付けることにしたのである。その人生の到達点とも言える音を、ついに視界の中に捉えた。

「鍋島デモ」の楽曲自体は、ここ何年かで書きためていたものだ。
2013年に書いたものもあれば、2014年に書いたものもあるけれども、整理してみると2015年の上半期に書いたものが多かったが、これはBacchus Duke Standard(我が家での通称ショコラ)がインスピレーションをやはり与えてくれたのだろう。鍋島のメインギターになるのは間違いなくこの楽器である。

そして「鍋島」の楽曲を書き終えてから、基本的にもう僕はImari Tonesのための楽曲は書けない状態にある。つまりは、もう完了だ、ということだ。Overtureに入っている楽曲は2016年に書いたものもあるけれども、それは「余録」という感じだ。
基本的に、これから僕が書く楽曲は、アコースティックとか、ソロプロジェクトとか、おしゃれ系とか、ブルーズとか、そういうImari Tonesとは別のものになっていくだろうと思う。つまり、人生の次のフェイズに移る、いわば老後モードになっていく、ということである(笑)

だがしかし、その「鍋島」の2枚組24曲という宿題が、非常に重い。これをやるだけで、残りの人生すべてかかってしまうのではないだろうか。

「鍋島」は歌詞についても9月の時点ですでにすべて書き上げてしまい、また実は仮歌も先日、正月休みのうちに(アパートの部屋で小さな声で)歌ってしまったこともあって、歌メロ、歌詞も含めて青写真はほぼすべて出来上がっている。だからあとは、やるだけ、という状態である。

どちらにせよ、”Jesus Wind”の録音制作、”鍋島デモ”の制作、およびしましまデモ、そこからの発展系である”Overture”のデモの制作、と、ここまで創作面が充実したのは、2010年代に入ってからの人生の中でもいちばんの充実ぶりだったと言える。

その他、音楽的な私生活で言えば、うちの嫁さんにとっても非常に重要なことだったStryperの来日公演の実現。これは僕たちにとっても間違いなく人生の中での一大イベントだった。Stryper Street Team Japanを運営していたうちの嫁さんを介して、バンド側とも関わることが出来て、公演の裏側とかバックステージとか見ることが出来たこと、某クリスチャンメディアのインタビューまで担当してしまったりとか、色々あった。そして、その後、色々あってSSTJを閉鎖することになったのも、また大きなイベントだった(笑)

またこれも似たようなことだが、秋にXTJの期間中にさるお方の手配によりExtremeの楽屋裏に招待してもらい、Gary Cheroneと個人的に知り合っておけというミッションを頂き、実行した。なんか僕らもどうってことのない一般市民なのだが、思えばこうして海外の有名なバンドの楽屋裏にもぐりこむ機会は、考えてみるとこれまでも何度ももらっているな。ありがたいことだと思う。このExtremeについては、個人的には「エクストリームツアージャパンの期間中にジャパンツアー中のエクストリームに会う」というくだらないダジャレを実現したことの達成感、これに尽きる(笑)

とにもかくにも、XTJにしても、Stryper来日にしても、うちのバンドにしても、様々なドラマがあった一年だった。そのドラマの内容に関しては、いちいちここでは振り返らないが、ドラマが多かったよね。それは、世界情勢ひとつとってもきっとそうだった。

うちのバンドの内部事情のドラマと言えば、この”Jesus Wind”を完成させ、「鍋島」の青写真を描き出して、その時点で、バンドの未来を見据えてミーティングなどしてみて、そこから現在の形における限界というものが、明らかに見えてきてしまったこと、このドラマがあった。だからXTJの期間中もバンドはとても不安定だったし、その後、ひとまずの答として”Overture”プロジェクトに取り掛かろう、ということになって、そこでひとまずバンドは安定しているので、現在の心配は無用であるが、この”Overture”を作り上げて、いよいよ「鍋島」に向き合うことになった時、どのような決断をすることになるか。そういうことである。
けれども、それまでにはまだ考える時間がある。
答は少しずつ、自然に、出てくるだろうと思う。

あとは、そうだね、6月に嫁さんと一緒に行った短い長野旅行、それはつまり、ディバイザーさんの工場見学をぜひしたい、という趣旨だったんだけれど、それも、忘れられないし、大事なことだった。大事なことが、色々と出来た。

創作の面でも活動の面でもなにげに節目となるイベントが多かったけれども、その節目を経て、長年使ってきた楽器を色々手放したり、エフェクターもたくさん手放したり。そして手元に残った楽器が、ほとんどBacchusとかDeviserさんとこの楽器だったり。過去の音にさよならして、未来の音だけ鳴らしたい。これも新しい人生への船出と言える。

そんなところかな。

No(4807)

■…2017年 1月26日 (Thu)…….そんでもって2017年のびじょんぴじょん鳥だし
そんでもって2017年の抱負というか。

まずはさきほど書いたように、コンセプトアルバム”Jesus Wind”のリリースというか発表、を、きちんと、しかるべき形でやらなくてはいけない。
リリースとか言っても、何をどうやることが「リリース」なのか、非常に難しい時代であるのだから、そして、うちのバンドの立っている位置もそうだけれど、この作品はまた重要な意味を持った作品なのだから、どのような形でリリースするのがもっともふさわしいのか、それを見極めなくていけない。たぶんきっとクラウドファンディングをやらなくてはいけないんだろうな。で、やるとなれば、きっとそれは、ものすごい重労働だろうと思う。気が重いが、それが宿題であればやらなくてはいけない。

バンドとしては”Overture”プロジェクトに向き合ってリハーサルを進めることになる。出来れば2017年のうちに録音に取り掛かりたいと思っている。2017年中に録音を終えることが出来たら、非常にラッキーと言える。今年はXTJを行わないのだから、そこまでやれる可能性は無くはない。だがバンドのリハーサルのペースも今は決して速くないしね。どれだけのペースでライヴを入れるかにもよる。リハーサルを進めることを考えるとライヴをあまり多くは入れなくはないし、かといってライヴ活動はやはりバンドの基本だし、難しいところだ。
けれどもどちらにせよライヴの本数は、昨年以上に少なくなるだろう。これは仕方がない。国内の状況、自分たちの立ち位置、そして自分たちのバンドとしての立ち位置ということもある。自分たちは決して、外向きというか社交的なバンドでは無いからね。とても内省的な人の集まりだから。

しかしそうはいっても、インターネット上での発信(主にやはり海外のオーディエンスをターゲットにすることになるが)は、多分に充実した形で行えるはずだ。晩秋に能楽堂で行った素材も含めて作成予定のビデオもいくつもあるし、ビデオの撮影自体も今年2017年はもっと行いたいと思っている。

過去作品の整理、一部の「再録」も予定している。個人的には、それらをやることで、SpotifyやiTunesに過去の作品をすべて掲載することも含めて、これで過去作品のアーカイヴ作業というか、編纂、まとめの作業を、完了させて、完成形に持っていきたい。つまり、これも死ぬための準備の一環であるからして。

あとは、「鍋島デモ」に関してだが、これをどうするか。
実は「鍋島」に関しては、相手がでかすぎて、これを自分の人生の中で、生きている間に「完成形」までもっていけない可能性がある。
だから、この作り上げたデモを元に「デモ」としてひととおりの形にして、それで発表してしまうべきではないか、という考えがある。
つまり、10年かかるようであれば、あるいは永遠に完成させることができないよりは、不完全なデモの形であっても、早めに形にして発表する方がいいのではないか、という考えだ。
ともあれ「鍋島」に関しては形にこだわってはいない。何度でも取り組めばいいし、何度でも取り組む価値のあるものだ。
だから、まずは「デモ」の形で発表してしまうことも視野に入れているので、もしそうするのであれば、その「デモ」用のヴォーカル録音をしなければいけない。つまり、仮歌はすでに録ってあるけれども、仮歌はあくまで仮歌なので、もっとちゃんと歌ったやつを、録る必要がある。
なので、ひょっとするとその作業もこの2017年にやってしまうかもしれない。やるかもしれないし、やらないかもしれないし、やれないかもしれない。やる余裕があれば。

そして、今後の人生、および「鍋島」にどのような形で取り組むか。そしてイマリトーンズをどうしていくのか。今のままの活動を続けていくのか。いったん解体して、別の形で始めるのか。
いろいろなことの決断を、時間をかけて、今年一年かけて、判断していくことになるだろうと思う。
もっとも、たった一年で答が出るとは限らないので、そこはわからないけれども。

難しい一年になると思うけれども、踏み出していこうと思う。

そんで今年の目標というか抱負ですが、
別に特に考えていなかったんですが、先日いろいろ考えながら日記を書いてたら、見つけてしまいましたね。

それはつまり、この前ちょっと書いた通り。
皆に、世界に、人々に、神に、大事な人に。
「愛してる」と全身全霊で言える人間になること。
勇気をもって、まっすぐに。
そんで、そのことがどれだけのことなのか、それを知ること。

そんな感じですね。

No(4808)

■…2017年 1月26日 (Thu)…….世間話と鳩食うジャズ
ついでというわけじゃないが、自分ももう結構な年齢である。
音楽を辞めたいと、常々言い続けているが、自分がここ数年、「まっとうな大人として」「まっとうに」働いてこなかったのは、色々な理由があるが、ひとつには2011年以来、つまりは震災以降、それまでと同じような社会の形の中で、それまでと同じように働き、それまでと同じような生活をすることに対して、罪悪感に近い程度の疑問があったからだ。つまりは、あんなことがあった後でも、同じような生活を続けていけるのか、という思いだ。
それは間違っていなかったと今でも思うし、その気持ちに今でも大きな変化はないけれども、音楽人生の中で、しんどいポイントをひとつ渡り終えたこのタイミングで、もう一度、自分に何ができるのか、何をして、どのように生きていくことが出来るのか、問いかけてみたいと思っている。
それに伴い、バンドや音楽、そして「鍋島」にどのように立ち向かっていけばいいのか、答も出るだろうと思っている。

世界情勢ということに関しては、俺は別に専門家でも学者でも識者でもないし、一市民、しかも情報も教養も無いただのバンドマンであるので、言うことは出来ないが、昨年11月にいろいろ見て考えたところの「政治というもの自体の陳腐化」という読み筋は、僕の中では基本的に変わっていない。

だから、あと50年もすれば、人類には「政府」というものも次第に、必要なくなってくるんじゃないか。もちろん統治というもの自体は、別の形で存在し続けるだろうけれども、その「形」を捉える事すらも、次第に難しくなっていくに違いない。

トランプさんが大統領になって、ひとつふたつ良いことがあるのだとしたら、その意味で確かに人類にとっての「政治」のフェイズをひとつ前に進めたということである。つまり、日本においては官僚政治が高度に機能していたことから政治なんてものは昔からとっくに陳腐化が進んでいたが、たぶんアメリカとか世界的にもそうなっていくだろうという予想だ。

そういう意味でも、トランプさんは「ひどい」けれども、ヒラリーさんは「もっと怖い」だったのだから、右と左がうまい具合にピンポンして不平を垂れながら人類の意識のフェイズを前に進めていく様を見るにつけ、これでよかったんじゃねえか、というか、ヒラリーさんでもっと怖いことになるよりは、案外これで長い目には良かったんじゃねえか、と思わないでもない。

もちろん楽観はしないし、どちらにしても「ひどい」ことには変わりはなかったので、数年後には後悔している可能性も高いけれども。

だから、俺が思うに、優秀な政治家なんてものは、もう必要ないのである。そして、優秀な政治家が必要なくなる、というのは、民主主義というものの本質を考えれば、自然であり必然の成り行きなのだと、俺は思う。民主主義ってのは、いちばん優秀な人が選ばれるのではなくて、やっぱりどうしても、その中でいちばんひどい人が選ばれる仕組みなのである。そんで、皆がそれに対して文句を言う、そこまでがセットだ。

ああ、でも、やっぱり色々ニュースを見ていると、やっぱりやばいことが多いなあ。なるべく、血を流さずに変わっていけるといいんだけどね。そうはいかないのかなあ。どちらにしてもハードランディングしか無いのかなあ。裏で手を引いてる人の思惑通りなのかね。やっぱり世界は終わるのかねえ。
。。。

どちらにしても長きにわたり世界の憧れであった自由の国アメリカは、「かっこいいアメリカ」の座から自ら降りてしまったことに間違いはない。もうアメリカは自由の国であることを止めてしまったのだから。さてじゃあこれから俺たちはどうしていったらいいんだろう。自由は世界のどこにあるの?

トランプ政権の姿は、まるで幼稚園児のようだ。
けれども、社会全体の「統治」、すなわち「民主主義」をめぐる人々の意識が、それによって進展していくのであれば、結果的に機能するのではないか。
怒りを覚えることも既に多々起きているけれども、少なくとも、日本あたりにおいても左側の人たちがあれほど非難の対象にしてきたところのTPPは、こうして事実上の頓挫に追い込まれたではないか。

でも見てると、ミスターとらんぷ氏、やっぱり物事を、ビジネス的な「お金」の見地から捉えているフシがあるように思うので、その「外側」の価値観の中で人生を生きている人たちには、案外と実質的には無害だったりするかもしれんね。

いちばん情けないと思うのは、そうした「思想、信条、宗教」にはまったく触れることもなく、この状況下で、どのようにしたらビジネスで上手く立ち回っていけるか、という議論に終始している日本の大人たちである。
だから前からわかってはいたが、アメリカ人の主流な宗教が福音派とかのキリスト教だとするならば、日本人の主流な宗教はビジネスなのである。それはつまり、本来の意味でのビジネスではなくて、「ビジネス教」という教義を、日本人は信じている。

ビジネス教というのはつまりは幻想であり「ビジネスごっこ」が大半を占めているわけなので、本来のビジネスに取り組まない限り、やっぱり世界の中で勝ち目はない。
大企業の社長さんは頭がいいからそのくらいはわかっているはずであるが、社長さんだって組織に縛られている身であるからして、やっぱりその「ビジネス教」の範疇から抜け出せないかもしれないのである。
だからして。以下略。

どっちにせよ、分断とか言うけれど、人類は今、身分でも財産でもなく、また人種でもなく、まぁ人種とかまだあるけど、それでも人種でもなく、また実のところ宗教ではなく、有り体に言えば右と左できれいに分断されてごちゃごちゃやっている、という、新しい状況にある。人種や身分で分断されるよりは、進歩した状況だと言えるかもしれないけれど、逆に今まででいちばん、本質的であり、深刻な状況だとも言える。

ここで、どっちに加担するのかは、その人次第だけれども、うまくバランスとって、ピンポンゲームを続けていければ、なんとかなるかもしれないと思う。

いつも言ってるけれども俺は自分では進取派の人間だと思っています。
日本人キリスト教徒リベラル系バンドマンです。

たとえば海外のキリスト教徒の間ではたびたび話題になる人工妊娠中絶とかに関しての自分の考えを一度そのうち書いてみたいと思うけれど、重いからやめておく。

バンドマンと言えば、別に世界情勢を語る必要なんて無くて、ただ意見を表明することは個人にとって必要で。
この前、フェイスブックのタイムライン上に某著名人のバンドさんの広告が出てきて、へえ、と思って見てみたんだけれども、世界情勢について刺激的な言葉を書いていたけれども、ちょっと見てみれば、ほぼほぼ、内容の無いことであって。でもそれは、それが選民意識とか優越感に浸っていたいアングラ系音楽ファンのツボを突く、はったり八百であったとしても、出している音は至極まっとうで価値のあるジャズであったのであれば、いまどきそんなまっとうなジャズや、そういった音楽に人を集めることは難しいのだから、そこに人が集まるのであれば、それは正当化されるというか、貴重な存在なのだから、まあいいんじゃないかと俺は思えた。けれども、長い目で見ればそれはやっぱり嘘八百には違いない。世の中はそういった嘘八百に溢れている。俺は決して、それをかっこいいとは思わない。かといってオジーは鳩を食ったではないかと言われるとその通りであるが、嘘で世の中を渡る人ではなく、天然で鳩を食える人に、出来れば脚光が当たって欲しいものだ。いつだってそれはfine line、きわどい一線である。

No(4809)

■…2017年 1月26日 (Thu)…….鍋島仮歌デモ
と、まあ、先程書いたように、年末年始の時間を利用して、僕は「鍋島デモ」の仮歌を歌ってしまったのわけである。それはそれで、結構忙しい年末年始の過ごし方だった。

仮歌というか、アパートの狭い部屋で、近所迷惑を鑑みて、そしてある程度の近所迷惑を省みず、なるべく小さな声で、ささやくようにして、ダイナミックマイクにかぶりつきながら、仮のメロディを録音するわけである。
これは、先日、”Overture”の楽曲にも行った作業で、僕は過去には、こういう作業はあんまりしなかった。

つまり、バンドでやる楽曲とかも、楽器の部分だけ作って、あとの歌メロとか歌詞とか、要するに歌は、バンドでやりながら、自然にのっけていくのが常だったから。
だけれども、今回の「鍋島」については相手がでかすぎる。また色々な事情があって、「バンドでリハーサルしながらゆっくり作る」という感じではない。なので、既に歌詞も昨年の9月頃に全部書いてしまったからして、仮歌をなるべく早い時点でのっけておきたかった。そうすれば、この鍋島の「創作」の部分は全部クリアしたことになる。歌メロも歌詞も出来たからして、「あとは演奏するだけ」ということになる。「鍋島」は僕の人生の中で、少なくともこのImari Tonesに関しては最後の到達点、最後の作品、であるからして、これで自分の人生の中の「創作」の宿題は全部やりとげてしまったことになるわけだ、一応。これで、先の人生がずいぶん楽になる。つまり、脳みそを創作から切り離して生活していけるからである。(これは非常に大きいことなのだ)

この「仮歌」を作り上げて、至極簡単にミックスしてファイルを書き出し、それを聞きながら、いろいろ考えるわけである。来し方行く末を。

「鍋島」は、先だって書いているように、2枚組24曲、うちインスト2曲、という青写真のプロジェクトになっている。だから22曲、いや、うち1曲は仮歌は昨年夏に既に歌っていたので、21曲の仮歌を年末年始のちょっとした時間を使って歌ってしまったわけだ。その中には、「このバッキング、この進行の上に、どうやってメロディーのっけたらいいんだ」っていうものもたくさんあって、かなり苦労した。実際、ラップやしゃべりというか語りに逃げてしまった箇所も多々ある。しかし、その出来は、やはり自分でも十分に、驚くに値する価値あるものになった。(注: 歌唱は非常にテキトーです。狭い部屋で小さい声でテキトーに歌うのだから。あくまでメロディの記録としての仮歌です。)

楽曲自体はここ数年でアイディアを書き上げたもので、デモの形にしたのが昨年2016年の夏だけれども、その時点で、いったいどういったものになるのか、まだまだ未知数だった。デモを形にして、歌詞と歌メロまでのっけた時点で、それがどういったものになるのか、かなりはっきりとしてきた。

自分としては、到達点でありつつ、最初のスタート地点に戻ってきたという性質のものでもあり、また個人的ないろいろの人生の「答え」が詰まっている楽曲群ということもあり、仮歌を歌っているだけで、かなり感情的になってしまう箇所があった。

当初に考えていたとおり、わりときれいにきっちりと、半分日本語、半分英語、という内容になり、またその中でも、十分にクリスチャン的な内容がありつつも、特にそうでもない楽曲もありつつも、されどその中に、自分の個人的な思索であるとか人生の記録を込めることが出来た。「異能」の要素、「信仰」の要素、「日本のロック」の要素、「メタル」の要素、「VH」の要素、「和風」の要素、「ブルーズ」の要素、「インディー」の要素、全部入ってる。泣いても笑っても、これが自分の音楽人生の最終結論。そして、そう言い切って後悔の無い内容である。

この「仮歌デモ」は、他人に聞かせる性質のものではないし、他人に聞かせることはおそらく無いと思うけれど、そこまで、作りましたよ、という報告を、ここに書き記しておく次第です。

さて、これを今後の人生の中で、どういった形で、どのようにして鳴らしていくべきか。

難題である。

No(4810)

■…2017年 1月26日 (Thu)…….見もしないうちからすでに沈黙
話題になっているし、日本のクリスチャン界隈でも当然話題になっているし、何人かの友人知り合いの方々からも「見ろ」と言われているので、遠藤周作の小説にもとづいた、Martin Scorsese監督の映画「沈黙」(Silence)は、見ようと思っている。なんか見ないといけない展開だし、これ明らかに(笑)

さていつ見に行こうか。みにみに。
で、まだ見てもいないし、いろいろと賛否両論なレビューもいくつか拝見しているが、見る前から、その内容がどんなものにせよ、自分で投げかけている課題がある。それがどんな映画であるにせよ、僕はこのひとつのことを考えながら、映画を見たり、その後でお茶を飲んだりしようかなと思っている。その問いとは、この僕らが住む日本という場所である。日本は、信仰が根付くために、適した場所なのか、あるいは適していない場所なのか。日本は、キリスト教の信仰が根付くために、良い場所なのか、悪い場所なのか。もし良いのであれば、どんなところが良いのか。もし悪いのであれば、どんなところが悪いのか。

日本つーのと、キリスト教、つーのと、そのところのピンポイントな素材を、名監督と豪華俳優陣で制作したハリウッド映画、しかも日本側の俳優のまた豪華な大物人気者っぷり。こんなことは、滅多にあることではない。日本のキリスト教業界からしてみれば、大事件とは言わないまでも、それなりに事件と言っても過言ではない、たぶん。

遠藤周作ってことに関して言えば、俺はそんなに知らん。
実のところ、先日、近所にあるスノッブな感じの古本屋で、ついうっかり一冊買ってきてしまったが、まだ読んでない(笑)
もちろん、「沈黙」の名場面に関しては、確か義務教育のどっかで国語の授業で教材の中に含まれていたんじゃないかという気はする。だが、はっきりとは覚えていない(笑)

もうひとつは、実は大学の頃、ぱんきょーの中で宗教学の授業も取っていたので、そのレポートを書くために、何冊か読んだ覚えがある。あれだ、遠藤周作の書くところのイエス・キリストは、ただ優しいだけで、奇跡とか神のパワーとかを持たない、普通の人、凡人イエス。
その「凡人イエス」像について、ガチなクリスチャンの中には文句がある人は当然いるだろうし、どちらかというと文句がある人がほとんどだと思う。

だけれども、俺は別にアリなんじゃないかと、わりと思っている。
ほら、誰だって、思い描くイエスキリスト像は違うじゃんよ。マッチョなイエスを思い浮かべる人もいれば、痩せたイエスを思い浮かべる人もいるはずだ。
イエス・キリストはユダヤ人だったから、身体的にはそういう人種の特徴を持っていたはずだけれども、神の本質はそんなところにはないし、実際に聖書の中でもイエスさんは何度か「変身」しているシーンがある。
だから、白人さんが白人なイエス像を思い浮かべたって、別にいいし、黒人さんが黒人なイエス像を思い浮かべたって、問題は無いと思うし、東洋人なイエスだってもちろんアリなはずだ。
イエスはスーパー神の子で限界など無いんだから、俺たちの期待にすべて答えてくれる存在だと思うんだよ。
だから、強いイエスを望むのであれば、もちろん君が思うよりもさらにイエスさんは強いに決まってるし、逆に、君が遠藤周作のような、弱いけれども愛にあふれたイエス像を求めるのであれば、それだって別に問題ないはずだと、俺は思う。それによって君が救われるのであれば、きっとイエスさんは喜んで、弱者として君の前に現れてくれるだろう。

遠藤周作さんの信仰がどうだったのかは俺は知らん。いろんな人がいろんなことを言っているのだろうが、そんなのは本人と神の間にしかわからんことだ。信じるって、そんなに単純なことじゃない。
確かなのは、遠藤周作さんは間違いなく信仰をテーマにした小説を書いていた、ということ、そして、信仰者としてはどうか知らんが、小説家としては間違いなく優れていた、ということ。それだけでいんじゃねえか。

ともあれ、これを考えながら見ようと思っている、「日本は果たして信仰が根付くために、良い場所なのか、悪い場所なのか」という問いかけ。

これまでの現実の結果から鑑みれば、「日本はキリスト教が根付くためには適していない」となる。
だって世界の中でも、特に先進国の中でも、例外的なほどに極端なほどにキリスト教の人口が少ない特異な国だ。

まず日本は豊かな国だ。豊かすぎる。その豊かな中で、人々は生きるために信仰というテーマにそもそも向き合う必要なんてこれっぽっちもない。
そんでもってそんな豊かな国には魅力的なカルチャーもたくさんあるので、外国から来たミッショナリーの子たちだって、宣教どうのこうのそっちのけで「I love Japan!!!」となって楽しんでしまう。以下省略である。

そんでもって先述したように日本社会でいちばん幅をきかせている主要な信仰というのはビジネスだ。普通に言うところの本来の意味でのビジネスってことじゃなくて、日本人として勤勉に働き稼ぎ生きる、というライフスタイルそのものが信仰になっている。(だから実際のビジネスの効率は必ずしも良くない。) その日本社会の「生き方」の信仰を打ち破ることは簡単なことではない。

さらに言うなれば日本の社会、日本の人々というのは普通に言ってモラルが高い。信仰心という意味のモラルではなくて、生活の中での道徳的なモラルが非常に高い。これはつまり、未開の地に宣教に行くのとは逆なわけで。外国から宣教に来る人たちよりも、日本の一般人の方がモラルが上だったりするわけだから、そこで既に宣教する人たちが優位に立てない。そんでもって、その中でモラルとか生活様式とは別のところで信仰の本質を伝えなければいけないわけだが、それが出来る人間は少ないし、日本人にそれを高いレベルで伝えるのはとにかく壁が高い。

日本は何でもある国だ。だけれども、昔からずっと思っているように、何でもあるけれど、本当に必要なものだけは無い。
だから、知識も、教養も、プライドも、モラルも、経済も、物資も、なんでもあるけれども、それらが全部、「罪」とか「神」とかを理解するのに壁になっている。

と、まあ、そんな感じだとは思うんだけれど大雑把に。

だから、普通に考えたら日本はキリスト教が根付くのには適していない。

だけれども、何年か音楽やりながらクリスチャンアーティスト気取って活動してきた中で、俺は、逆のことも思っている。
つまり、実は日本の方が、本当の信仰をつかむのには適しているんじゃねえか、とか。
日本人の方が、キリスト教の本質を理解してるんじゃねえか、とか。
そう思わされる場面は、いくつもあった。

だから、僕の中では、その半々が、ハーフアンドハーフで、共存している。

もちろん、今、俺の中で思っていることはある。
だけれども、それは上手く書けん。

大昔の古代とか、一部の歴史学者とかが言ってるように、古代には色々あったかもしれん。中国経由とか、原始キリスト教だとか。だがそれは置いておいて。
少なくとも、戦国時代あたりに、カトリックの宣教の波が来て、それは結果的に失敗した。そこには、いろいろな理由があって。
明治維新の後、明治時代だかそのへんの時に、プロテスタントの波が来て、それも少しは成功したけれども、現状、やっぱり失敗した。そこにも、いろいろ理由があった。
そんで、第二次大戦後の日本において、やっぱり現状、誰も「成功」はしていないわけだ。
それにもきっと、理由はあるはずだ。

俺の読みでは、最近、前にも触れたように、俺は最近よく「政治の陳腐化」という言葉を使っている。それと同じように、宗教も陳腐化していくだろうし、きっとそうなっていくに違いないと思う。むしろ色々見るにつけ、そうなっちまえばいいのに、とどこかで思っているくらいだ。というより、現実にはすでに半分以上、そうなっているか。

陳腐化して形がなくなった時に、その後でも信仰を示すことが、いや、だからこそ本当の信仰をつかむために、そのために今俺たちは、音楽をやっているんじゃないか。ロックンロールをやっているんじゃないか。

どんなものでもそうだけれども、日本人は最高のものしか受け入れない。
贅沢な国民なんだよ。
西洋経由の血なまぐさいキリスト教は、不純物が多すぎて、ぜいたくな日本人の心には、まだまだ品質が足りないんだよ。
だから地球人類が、やっと「本物の信仰」なんてものを手に入れた時、たぶんその時にはきっと、日本人も神というものを理解する。

そんでもって、逆の立場から言えば、スポーツでも何でも、科学であれ音楽であれ文化であれ何でもそうだけれども、たとえ環境とか資源とかいろいろハンディはあっても、必ず日本人は最高のものを作り出す。だからたとえ数は少なかったとしても、一人の日本人のおんがくか(笑)として、世界でも最高レベルの「宗教音楽」を生み出したい。そういう思いかな。

話それたけど気にしない。

No(4811)

■…2017年 1月26日 (Thu)…….プラスマイナス8年越し来日するってさ
僕が2007年あたりから大ファンをやっているところのニューヨークのインディバンド、+/-{plus/minus}が、実に7年、いや8年ぶりに来日する。ちょっと待て、もうそんなに経ったのか。最後に来日したのが、確かに2009年の秋、だから、実質7年半、ぶりである。

これはきっと、日本のレーベルががんばって情熱で口説き落としたのに違いないと思っている。大したものである。

+/-{plus/minus} (プラスマイナス) (以下プラマイ)は、ニューヨークを拠点として活動している、活動してきた、インディーバンドであるが、結成されたのは2000年前後とか、2001だか2002くらいだと思うんだけれど、よくあるパターンで、日本での人気が先行していたバンドであったのだと思う。

僕は、大好きなbloodthirsty butchersとの絡みで、その名前を目にしていた。
だが、僕はこのプラスマイナスとの出会いは、個人的にとてもドラマティックだったこともあり、非常に衝撃的な出会いだった。つまりは僕は2007年3月、人生で初めてアメリカに行った。それは、オースティン、テキサスであって、South By Southwestに行ったのだ。そこで、滞在していた日程の最後の方で、「お、このバンド、ブッチャーズと一緒にやってたよな。最後に、見てみるか。」と見てみたら、とんでもない衝撃を受けたのであった。だから、当時、しょっちゅう来日してツアーしていたバンドであったのだが、皮肉なことに初めて見たのはアメリカだったのである。

僕は人生の中で音楽を通じて、二度、アメリカという国に恋をしている。
一度目は、Van Halenという70年代、80年代を通じて活躍した希代のスーパーハードロックバンドを通じて、である。VHは非常にアメリカらしいバンドであり、そしてカリフォルニアの雰囲気を強く漂わせたバンドであり、実際にアメリカンハードロックを代表するバンドとして歴史に名を残しているが、しかし、実際によくよく冷静に分析してみると、本当は「アメリカですら無かった」くらいの特異なバンドであった。アメリカ的でないのが、かえってアメリカだったと言うべきか。しかしその話は横に置いておこう。

だがそんな80年代ヘヴィメタル的な華やかなアメリカも、次第に飽和し腐っていくのであるが、僕が二度目にアメリカという国を好きになったのが、このプラスマイナスを通じて、だった。つまりは、当時のインディーシーンである。80年代的なでっかいアリーナコンサートのアメリカではなく、雑多な人種が、小さな規模の会場で、多様性のある音楽を自由に鳴らしている、そんな世界観に魅了されたのである。

それに、僕は非常に影響を受けた。
僕がプラマイを知って、好きになったのが2007年のことであるから、その後、クリスチャンロックとか言い出してから後のImari Tonesの楽曲には、はっきりいってかなりモロに影響を受けて、その影響が出ていると言っていい。
ただ、僕らは曲がりなりにもハードロック、ヘヴィメタルのカテゴリに属するバンドであって、ヴィジュアルイメージとか観客の層もまったく違い、そしてギターの音もハードに歪んでいるから、誰もその影響に気付かないか、気付いても指摘しない、それだけである。

だから、プログレっぽいね、とか、Rushみたいだね、とかいろいろ言われるが、ごめんなさい、それ別に、プログレでも何でもないんだよね。俺の変拍子は、「歌モノの中に字余り的な自然さでぶっこんでくるBurt Bacharach式」か、そうでなければ、このプラマイの影響なんだよね。「どうだ、変拍子だぞ、転調だぞ」ってのはあんまり好きじゃなくて、「え、これ5拍子だったの?」とか、あまりにも自然で、言われなければ気付かないくらいの変拍子とか。自然なメロディで単純な曲だと思ってたのに、コピーしてみたら実は複雑な転調だった、とか、そういうのが理想で。まあ、そこまでの域にはとても達していないけれども・・・。

しかし、その2000年代の、新しい世界が開けるような、わくわくするようなインディーミュージックの発展も、それが飽和し、陳腐化し、そんで、いろんなところにやっぱり商売とか資本とか、入ってきちゃうと、上記のSXSWにしても。なにより音楽業界自体がばっちりと縮小しちゃったし、世界的に。

2010年代に入ると、そんな僕が二度目に惚れたアメリカも、やがて消えていって、そんであれだ、今回のアレで完全に掻き消えた気がするよな(苦笑)

プラマイは、メンバーは3人で、ライヴの時はベーシストとかサポートだったり、色々するけれども。ドラマーのクリスは白人だが、フロントの二人はアジア系だ。フィリピン系だ。だから、肌も色が濃い。
んでもって、ニューヨークとかそういう都市部のクラブシーンとかは別に問題ないだろうけれども、バンドとしての成功の目ということを思うと、フロントの二人がそういう見た目をしている時点で、すでに大成功するってことは、まあ、ほぼ、ない。わかるよね、これ。同じような音楽性をやっていても、メンバーが白人だったりすると、もっとメジャーで成功とかしたり、する、たとえばあの、霊柩車がカワイ子ちゃんどうのいう名前のバンドとか。

あとはね、インターネットが発達するタイミングとか、音楽のスタイルが普及するタイミングとか。プラマイも、時代に対して、ちょっと早すぎて、これが5年ないしは10年遅かったら、もっと爆発的に売れていたのに、とか。

でも、俺はそんな彼らが鳴らしている音楽が、これが地球でも最先端のものだと間違いなく断言できた。
いちばん遠くまで行けるロックンロールを鳴らしているやつらだ、と。

それは、決して音楽性の高度さとか、演奏技術とか、キャッチーな楽曲とか、そういうことじゃなくて、その良さを説明するのは難しいんだよ。でも、わかるやつにはわかるし、俺は今でも、それなりに時々はネットのいろんなところを見て、新しいバンドをチェックしたり、あとはいろんな人に聞いて、またバンド活動する中で見聞きして、新しいバンドや音楽の動向もそれなりにはチェックするようにしているけれども、そしてそんな個人のアンテナに限界はあることは承知の上で、それでも俺が知る限り、いまだに、このプラマイよりも「さらに先」を鳴らしているバンドには、出会っていない。

出会いたいと思っているよ。痛烈に。もっと凄いバンドに。
でも、今のところ、無い。

で、プラマイとは非常に縁の深かったところの、われらがブッチャーズ。
当然のごとく、プラマイとブッチャーズは、ある程度セットで聴いていた。

俺はもちろんブッチャーズの熱烈なファンであるけれど、
ひたすら不器用で一本気な音楽を鳴らすブッチャーズに対して、
才能にあふれ、軽やかに多彩な音楽を鳴らすプラマイは、
正直なところ、少なくとも才能の面から言えば、プラマイの方が一枚ないし二枚は上にいるかな、という印象を俺は持っていた。

だけれども、音楽というものは不思議なもので、
勝負にしてもそんなに単純なものではなく。
ブッチャーズの最後の2枚。
つまりは、2010年にリリースされた「無題」で、
ブッチャーズは今更こんなすげえもん作るのかよ、というようなものを作ってきて、
一気にプラマイに追いついた、ないしは追い越した。

そんでもって、吉村秀樹氏は、最後にそこからさらに「YOUTH」という遺作を残して、さっさとあの世に行ってしまった。
このブッチャーズの最後のアルバムであるところの「YOUTH 青春」がまたとんでもない作品で、はっきりいってこの作品のとんでもない凄さを理解している人はきっと多くないだろうと思う。
しかし、この空前絶後の作品でもって、ブッチャーズ吉村氏は、「最強」の称号をもぎとって、そんでもってさっさとあの世に勝ち逃げをかましてしまった。ずるい。はっきり言ってずるい。

ブッチャーズなんて言ったって、もちろん日本のコアなロックファンの間では名前は知られているかもしれないが、そうは言ってもバカ売れしたことなんて無いし、世界的に言えばさらに知名度なんて全然無いだろうし、そういう意味ではブッチャーズだって全然無名である。

でもそんな知名度とか、ビッグかどうか、とか、さらには表面的な演奏や歌唱の技術がどうこうとか、そんなことでもなく、ロックに魂を捧げ、命の塊のような音を鳴らし、命そのもののような、魂そのもののような音を鳴らし続け、ロックを愛し、ロックに愛され、そしてロックに殉ずる。
そんな魂の熱さにおいて、間違いなくブッチャーズ吉村秀樹氏は、最後に「地球最強」の称号をもぎとって、あの世に逝ってしまった。

で、吉村氏は去り、俺たちは残された。
そして、プラマイも残された。

2010年代に入ってから、プラマイの活動はスローダウンした。というか、ほとんど停止した。
ライヴも非常に少ない本数しかやっていない。
つまりは、彼らも家庭を持ったということである。

2014年の年明けになって、ようやく、アルバムが届けられたが、その内容は、もちろん、とても素晴らしいものであったにせよ、俺はそこに、かつてのような「最先端を行く鋭さ」を感じなかった。どちらかというと、「俺たちも家庭を持ったのだから、頂点を目指して突っ走るのはもうやめて、ゆっくりやらせてもらうぜ」というような感じの内容だった。
そのことを、悪いとは言わないが、少なくとも、俺は、そのアルバムの音楽には、満たされなかった。もちろん、それでも、泣いたけどね、美しい曲、たくさんあったから。

そんな「吉村秀樹のいない世界」で、俺たちはこれからどんな音楽を鳴らしていけばいいのか。
ブッチャーズが居たから。そして、プラマイが居たから、俺みたいな、さらに無名のバンドマンであっても、彼らに刺激を受けて、その背中を追いかけて、走ってこれたのである。

今や、その彼らも去り、そしてプラマイも、そんな状態だ。
世界の中で音楽をめぐる状況は、絶望的とは言わないまでも、世の中にはつまらないことが、あれから、非常に、多い。

だが、そんな彼らが、こうしてまた来日ツアーをするというではないか。

彼らは、何を見せてくれるのか。
俺は、今の彼らが鳴らす音の中に、何を見出すことが出来るのか。
あるいは、何も見出すことが出来ないのか。

彼らが2008年の来日で行ったコンサート、会場は渋谷Nestだったと記憶しているが、あれは、僕が人生の中で見た中でも、最高のもののひとつ・・・。いや、はっきり言おう、あれこそが、今まで俺が人生の中で見たコンサートの中で、一番だった。その前にも、その後にも、メジャーインディー有名無名含めて、素晴らしいコンサートをいくつも見ているけれど、俺の中で、一番は、いまだにあの2008年のプラマイだ。

俺はその時、あまりにも魅了されたので、いくつかの公演の追っかけもしたくなったくらいだったのだ。(実際には、ふたつ見ただけだったが。)

今回も、何本か見たいのだが、残念ながら初日の東京公演が、自分たちのCalling Recordsのライヴとかぶっている。さすがに、自分のライヴをすっぽかして見にいくわけにはいかない。
痴呆まで、じゃない、地方まで、追いかけろと言うのだろうか。

正直に言って驚くのが、その2008年の時から、もう9年つーか10年近く、すなわちalmost a decadeが経っている、というその時の流れ。
最後の来日となった2009年から数えても、もう8年。
そりゃ歳も取るはずである。
時間の流れは早い。
俺の中では、あれから、何にも変わっちゃいない。
て言うと嘘だが。

だが、俺だって、その8年だか9年だかを、無駄に過ごしてきたわけじゃない。
だから、本気で彼らの演奏に、向き合おうと思うのだ。

僭越ながら、半端な演奏しやがったら、承知しないぞ!!
なにしろ、ぬるい演奏なんかした日にゃ、天国の吉村秀樹に笑われるからな。

No(4812)

■…2017年 1月30日 (Mon)…….つみあげるインスト
さてまたちょっとアパートの部屋よりプライベートを晒して自爆気味なんですが、Calling Recordsの番組配信のために作った6曲の短いインストより、3つめのビデオをYouTubeに上げてみました。YouTubeに上げる予定のビデオとしてはこの3つめで最後です。「Tsumiageru」(積み上げる)というタイトルの曲ですが、これは実際のところ、2014年初頭あたりに出来ていた曲で、バンド用って感じでもなかったので、老後のソロプロジェクト用かな、とか思っていた曲です。もともとのタイトルは”White Cat”でした。「つみあげる」ってことで、手頃なところで将棋の駒を積み上げてみたんですが、嫁さんにやってもらいましたが、なぜだかどことなく卑猥な感じになってしまったのは気のせいでしょうか(笑) たぶん気のせいでしょう。曲としては、僕が昔からよく作るところの「ちょっと病気っぽい」感じの曲です。病気ですね。はい、知ってます。私は自称世界一元気な病人です。
こちら

No(4813)

■…2017年 1月30日 (Mon)…….世界最強のロックンロール
さて”Not In My Lifetime”と銘打たれた、奇跡の「再結成」ツアーをやっているGunsn’ Roses。
チケット高いし、僕は、「別に、無理して見なくても」と思っていたけれど、何の巡り合わせだか、幸運にも結果的に見ることが出来てしまった。本当にありがとうございます。

以下、短く感想を。短く。つとめて短く。

Gunsn’ Rosesってバンドについて言えば、僕はロックを聞き始めて間もない14歳の頃に初めて聞いて、その時に最初に聞いたのは”Use Your Illusion”、そこから1st、それとGuns Liesも聞いて。もちろん、凄いと思ったし、好きだった。けれども「自分にとって一番」というバンドでは無かったのは確かで。だけれども、思春期の多感な時期に聴いたのだ。だから、自分の世代の音楽ということも含めて、もちろん大きな影響を人生のサウンドトラックとして受けている、よね、そりゃ。

そんなGuns & Rosesの良さが本当にわかってきたのは、やっと大人になった後のことで。しかも、そのメッセージ的な意味合いまでわかるようになったのは、僕にとってはごくごく、ここ数年のことであって。つまりこのどうしようもない世の中の、どうしようもないっぷりを、すでにとっくにどうしようもなくなっていた1980年代後半の狂乱の中で、まっすぐに鳴らしていたやつらだったことを、やっと理解したのである。

つまりそれは、少年の頃は良い子ちゃんだった私も、不甲斐ないバンドマンを何年もやってきて、やっといっちょまえに「出来損ない」になり、そしてGunsn’ Rosesがどういったバンドだったのか、少しはわかるようになったということでもある。

というわけで、凄いバンドだと思い、思い入れも少なからず無いわけではないが、一緒に人生を歩んできたというわけではないし、かといって最近あらためてぐっと来る、そんなガンズのライヴを、あまり見る気もなかったのに、幸運にも見させていただくことが出来たわけですが。

こんなことを考えながら見てました。
スラッシュのギターの音。
アクセルのヴォーカルの発声。
アリーナ、スタジアムで巨大なコンサートを行うことの是非
オープニングアクトと、大きなステージに立つことの意義

そんでもって、それとは別に印象に残ったのは下記の点でした。
Richard Fortusのギターサウンド。
ステージ後方で踊っていたMelissa Reeseというか初音ミク。
2017年という時代と観客の皆様。

そんなところでしょうかね。
時代ということについて言えば、こうして半分オリジナルで再結成したGuns N Roses。
アクセル・ローズはご存知のとおり、別人のような太ったルックスになっておりますし。長い沈黙の後の”Chinese Democracy”、そしてそこからまた10年近く経ってのこの再結成ツアー。

しかし、いろいろなバンドがそうであるように、レコードとか創作とかはともかく、そんでルックスや時代の猥雑さや混乱はともかく、純粋にショウとしては、純粋に演奏としては、たとえば1992年のGunsよりも、今この2017年のGunsの方がきっと上でしょう。
はからずもコンサートを見た日に、その91年だか92年だかのコンサートを見た、という方とお話する機会がありましたが、「全然エナジーが無かった」と。それはたぶんその当時のバンド内部の状況が最悪だったんだと思いますが、そういった意味でも、またメンバーそれぞれが経験を積んで成長しているという意味でも、また時代がひとめぐりして、演る方も聴く方もより色々なことがわかっているという意味でも、また音響技術の発達という意味でも、たぶん今このGuns N Rosesは、そのキャリアの中でも最高の演奏をしていることでしょう。
そうしたタイミングでSlashが戻ったこのガンズを見れたことは、ある意味「旬」だったので、幸運だったと思います。

そんでもって、前にも書きましたが、俺にとってGunsは他でもないアクセルなので、アクセル、たとえ太って、ちょっと丸っこいかわいらしい体形になっちゃったとしても、全盛期と変わらないのは、その声、それから、巨大スクリーンにアップで映し出される時の、青い瞳。そこだけは変わらないというか、それで十分というか。

そんでもってスラッシュのギターの音ですね。
今となっては「レスポール」というものに自分なりのこだわりが出来てしまった私としては。そして「世の中に出回っているレスポールの99%は偽物である」(Gibsonも含めて)と常々言っている私としては(汗)
そんな私の立場からすると、Slashのレスポールの音というのは、やっぱり基本的には「邪道」なわけです。
かといって、音楽というのはそんなに単純なものではなく。たとえある価値観から見て「邪道」な音であっても、Slashが素晴らしいギタリストであることに変わりない。

だから、ここ最近、あらためてGunsのアルバムを聴いていて、「ああ、やっぱりSlashってすげえギタリストだよな」「たとえ80年代のジャンキーなレスポールの音でも、そんなの関係ないよな」「やっぱこれはこれで、素晴らしいレスポールの音には違いない」と、まあギタリストの腕前とか表現に、楽器の良し悪しなんて二の次だしね、やっぱSlashのサウンド、いいんじゃねえか、とか思っていたところ。

そしてそんなSlash大先生のギターサウンドを、生で聴いた結果。(まあ、巨大なアリーナコンサートの音ではあるが)。やっぱり、ダメでした(涙)。

やっぱり俺は、このギターサウンドは、ちょっと許せない。
少なくとも、Slashが使っているあのレスポールを、俺の「猫ポール」と交換するかって言われたら、「嫌です!」って必死になって断るレベル。俺は無理、っていう。

やっぱしSlash先生が弾いているレスポールの音というのは、俺が「ダメポール」って呼んでいる、その典型的な見本であって。

特に例の、Slashの代名詞みたいになっているあの3ピーストップのやつとかね。あれがいちばん「ダメポール」だった。しかし、Slash先生は、そのギターを弾いている時がやはりいちばんかっこいいので、やはり正しい人が正しい道具を持つと、最強のコンビネーションになるのだ、としか言えない。

少なくとも、Slash先生のサウンドと、その「邪道な」レスポールの音は、Gunsn’ Rosesというバンドの音楽の中では、ばっちりなのだ。

Slashがこの日、使っていたギターで、一番いい音してるな、と個人的な尺度で思ったのは、Guildのダブルネック。あれは良い音だったと思う。それと、何かの曲でグリーンのレスポールを使っていたけれど、あれも良かったように思う。特定の曲で使っているB.C.Richに関しては、いかにもスルーネックといった、レンジが広く倍音豊富でガッツのある音。それは、またそれで別というか、悪くない。

しかし、そんな「ダメポール」を弾きまくるスラッシュ先生は、やはりめちゃくちゃかっこよかったので、私ごときが何の文句も言うアレではありません。

それに比して、もう一人のギタリストであるRichard Fortus氏。
見てて思い出したんだけど、ああ、そういえばこの人、Reverb.comの記事で音作りに関してデモの動画載せてたな、って。

そんなところからもわかるように、このRichard氏は、ものすごく正統的かつマニアックに、ヴィンテージサウンドを追求している人らしく。ステージにもSuproアンプとか置いてあったし。
Richard氏のギターサウンドは、最初から最後まで徹頭徹尾素晴らしかった。テレキャス持っても、レスポール持っても、全部素晴らしい。これが、あくまで「邪道な」「ルーズで毒々しい」サウンドで通すスラッシュ先生と、「タイトですがすがしい」正統的なサウンドのRichard先生が、良い対比になっていて、プレイスタイルの面でも。

で、そんなRichard氏の使っていたレスポールが、明らかにGibsonのものではなかったことが、また皮肉というか、やはり今のGibsonにはこういうのは作れんのか、という感じの。

テクニック的にもRichard Fortusは素晴らしくて、要所で決めるシュレッドは、間違いなくSlashよりも高度なテクニックを持っていることを示唆していたけれども、少なくともこのバンドにおいてはスターはあくまでSlashであって。でも、どっちにしても色々勉強になった。

そんであれだ、ショウを通じてSlash先生も弾きまくり、見せ場作りまくりだったけれど、Slashって、ブルージーで渋いプレイヤーみたいなパブリックイメージがあるけれど、こうして見ると、実際にはかなりのshredder、弾きまくりであって、テクニック的にも素晴らしいということがよくわかる。そんでもって、ほぼほぼアンプ直って感じの音で、けっこう低いゲインのままでそういうリードプレイを決めまくっているので、それは、すごいことだと思う。うーん勉強になるな。

アクセルのヴォーカルの発声。
ご存知のとおりAxl Roseはちょっと特殊な声というか、特殊な発声で歌っている。
裏声つーのかファルセットを、実声とミックスするのではなく、そのまま丸めて歪ませる、と言うのか、一般的なミックスヴォイスとは違う例のアレだ。
僕の知っている範囲だと、このスタイルで歌うシンガーは他には、AC/DCのBrian Johnsonを筆頭に(だからアクセルは代役をやったわけだ)、シンデレラのTom Keiferとか、ウド・ダークシュナイダーとか、あと誰がいたっけ。
もちろんアクセルにしたってBrian Johnsonにしたって、このスタイルでロックシンガーとして世界のトップに君臨し続けているわけだから、この発声法の有効性に疑いを差し挟む余地なんて無いんだけれども。

でもこうしてこのアリーナコンサートの(決して良いとは言えない環境の)音響で体験してみると、もちろん、その音の抜けやエキセントリックさも認めた上で、「やっぱり違うな」と感じた。それは、声の芯の部分とか、透明感の部分などにおいてかな。このタイプの発声って、音程の高さのわりには実はノドにかかる負担はわりと少ないのだけれど、だから比較的「出てあたりまえ」なところがあるので、そのぶんの安定感はあるのだけれども、それを差し引いても、この日のアクセルは、俺の目には決して「万全」という感じには見えなかった。要所要所で、ノドをかばいながら、ファルセットを歪ませずに、部分的に素のままのファルセットで歌っていたシーンが目立ったと思う。

アリーナ、スタジアムの規模の巨大なコンサートについての是非。
こんな議論は、そもそも20世紀が生み出したロックンロールという音楽の形式や様式を考える上で、ビジネス上の前提だったのだから、ほとんどの場合、議論の余地も無いことのはずだけれども、90年代が青春だった自分たち世代には、わりとこのことについて疑問を持つだけの理由があった。

これは、2013年に東京ドームでVan Halenを見た時にも、やはり頭の中では考えていたテーマでもある。

観客の皆さん。もちろん僕もこうした大きな規模のロックコンサートを見ることは決して初めてではないし、もちろんそれが20年、30年前の華やかな時代であれば、もっとやる方も見る方も若く、また同時代のギラギラした雰囲気に包まれていたはずだと思うけれども。今の時代にあって、成熟した、それでも社会に浸透したロックンロールという文化の、そして様々な理由でそのコンサートに足を運ぶたくさんの人たち。本当にいろいろな、さまざまな人たち。特に最近の国際化した世の中では、東京で行われるコンサートであっても、いろんな国から見にきているのがわかる。

こうした、様々ないろいろな人たちが集まり、見にくる、そんな巨大なコンサート。
大きなステージで、たくさんのスタッフや、ミュージシャンだけでなく様々な人たちが関わって行われるイベント。そんな巨大なコンサートがやれるのは、そんじょそこらのアーティストではとても無理であって、それは世界でも希有な伝説的なアーティストだからこそ、それがやれるのだ。そしてGunsn’ Rosesは、その中でもまさにトップ中のトップ、伝説の中の伝説だ。文字通り、世界最強のロックバンド、その数少ないひとつであることに間違いない。

Guns and Rosesはとても美しいバンドだ。
ロックンロールの負の要素。カオティックで、堕落した、危険な部分。そしてその中にある、純粋で、美しく、繊細な部分。
その両方を完璧に持っている。なんというか、典型的な、魅力的な不良というか(笑)
だからこそ世界中のキッズたちを魅了して、世界中の不良少年、不良少女たちの憧れでありスターであったわけだ。

巨大なロックンロールの悪徳を備え、そしてその中に、さらに誰よりも大きな愛を持っている。それがどうしようもないくらいに美しく、危うさや弱さを兼ね備えて、優しく美しい。

そんな世界最強に美しい完璧なロックンロールバンド。
そのGunsの、これは年月を経て再結成されたおそらくはベストなショウ。

そんな世界最強のロックンロールであるGunsをもってして、この巨大なアリーナに集まった人々に、どのように愛を伝えるのか。

もちろん、それは伝わっていた。
Gunsn’ Rosesは弱虫のバンドだ。そして泣き虫のバンドだ。不良たちのバンドだ。
だから、そんなバンドだから、そのショウは、とてもウェットで、演歌かよ、と思うくらいに感情的で、ぐしょ濡れと言っていいくらいのものだった。

だが、それは決して、俺がこれまでの人生で体験した最高のショウってわけじゃあ、ない。
これよりももっと「愛」の密度が、「ロックンロール」の密度が、もっともっと充満して、光り輝き、高密度で迫ってくる、そんなショウを、そんな体験を、俺は確かに、何度も見ている。

だから、俺にはこれが決して「最高のもの」でないことがわかるのだ。
だからこそ、俺が、たとえばこれからの人生で「愛」を伝えようとした時に、「愛」を伝えなければならないと思ったときに、
巨大なアリーナでこういうショウをやりたいかと言われたら、
やはり考え込まざるを得ない。

世界最強のGuns N Rosesでこれならば、
それ以上にやれるやつなんて、いない。
ましてや、自分にそれが出来るなんて1ミリも思わない(嗤うところです)。

「愛」を伝えようとする時。
何万人とか何十万とか集めて、いっぺんに伝える、とか、
そんな効率の良いことは、残念ながら、たぶんあり得ないのだと思う。
もちろん、ある程度は出来るし、それに意味が無いとは思わないけれども。

オープニングアクトを務めていたのは、Man with a missionというバンドさんだった。恥ずかしながら、ちゃんと見る、ちゃんと聴くのも初めてだった。
だが、ちょっと可哀相だったのは、やはり前座ゆえなのか、音響がちゃんとしていなかったことだ。
広いアリーナに鳴り響くその音は、やはりメインアクトのGunsとくらべて、音響的にあまり、きちんと処理がされていなかった。だから不利なステージだったと思う。

だからといって、肩を持つつもりはない。
彼らも今の日本のシーンを代表する、当代一流のバンドさんである。

だが、俺は、こうした前座であっても、こういったステージに立つことの意味合いを考えさせられた。
世の中のビジネス、そして音楽ビジネスも同様に、競争社会である限り、そこに立つものは、結局のところ、その大部分の者たちは、「競争のために競争をする」ことになる。
つまり、そのステージに立つため、より大きなステージに立つため、そのために音を鳴らすことになる。
この彼らにしても、その競争に勝ち残ったからこそ、この日のGunsn’ Rosesのオープニングアクトという舞台に立っているのである。

だが、そんなものを乗り越えて、「メッセージ」なんてものを放ち、そして人々に「愛」なんてものを届ける、そんな領域まで行くことが出来るのは、その「成功した勝者」の中でも、さらにトップの一握りだけだ。すなわち、そのステージに立つことは勝利ではなくスタートに過ぎず、その中でトップ中のトップだけが、「メッセージ」なんてものを人々に届けることが出来るのだ。

もちろんGunsn’ Rosesはその数少ない伝説的な「トップ中のトップ」のバンドである。世界最強である。

だから、たとえ大きなステージに立とうとも、勝ち残るための競争に勝とうとも、「トップ中のトップ」にならなければ、意味はないのだ。

であるならば、今立っているその場所で、君はどんなメッセージを伝えるか。
勝ち残り上に登るためではなく、今ここで、自分の身を投げ打つそのために。
トップ中のトップを目指すとは、そういうことではないか、皆の衆。

個人的には、そんなGuns & Roses。
14歳で”Use Your Illusion”を聴いていた自分としては、
自分たちの世代の音楽、という意味で、ぐっと来た、ぐぐっと来た。
ぐっと来る瞬間が、いっぱいあった。
個人的には序盤戦で”Double Talkin’ Jive”をやって、Slash先生が長々とソロを弾きまくっていた時点ですでにぐっと来てお腹いっぱいだった。
2時間半以上、にわたって演奏していた長いコンサートだったらしいが、「え、もう終わりかよ」と思っていた。

そんな、まちがいなく自分の思春期のサウンドトラックのひとつであり、人生のサウンドトラックのひとつである、そしてまちがいなく世界最強のロックバンドである、そんなGunsのショウを、この奇跡的なタイミングで、体験することが出来て、本当に幸せである。
ありがとうございます。

No(4814)

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