2017年2月の日記

■…2017年 2月 8日 (Wed)…….ここ一週間くらいのFBポストまとめ日記
昨日の流れ。時間があったので嫁さんと一緒に例の「沈黙」を見ようかと向かう -> 些細な夫婦ケンカで上映の時間に遅れる -> しょうがないので本屋で原作の小説を買って、カフェで二人で読む(ラブラブw) -> 帰ってさらに読む(ラブラブw) -> 半分読んだところで嫁寝る -> 私最後まで読む -> 遠藤周作スゲー!!

まぁ先に原作読む方が順当ではあるので正解だったかもしれん。しかしよくこんなもん書いたな遠藤周作という人は。内容はヘヴィメタル以外のなにものでもなかった。

Calling Recordsの番組配信。私は裏方をちょっと手伝ってきます。
こちら

これ、シェアしたっけ? 2月18日に皆でライヴやります〜。うちのバンドImari Tonesも、オシャレ系な新曲を演奏します!
うちのバンドのライブ予定としては、この2/18関内GIGの他に、3/19新橋ZZってのも決まってます。よろしゅうお願いいたしまする〜。
こちら

気分の良い日は「自分は地球で一番幸運なんじゃないか」と思っている。気分の悪い日は「自分はかなり幸運な部類の人間であるのは否めない」と思っている。だいたいそんな感じの人生w
#ordinaryman

牧師ROCKSが活躍しているのだから、カトリックの人たちは神父さんズ(The Simpsons)を結成すべきだろうな。いきおい、顔は黄色く塗らざるを得ないだろうが・・・。(ひょっとして既にいる?)

2014年に録音した”Revive The World”っていうアルバムの中から、ちょっと重いやつをYouTubeにアップしたよ。とてもじゃないが日本語では歌えない(泣)けれど日本人バンドマンとして演る必要があると思ったんだよ。
こちら

「沈黙」やっと見てきました。成り行きで原作の小説を先に読むことになっちゃいましたが、やはり結果的に正解だったかな。映像が原作を越えることは基本的にあり得ないですが、映像もけっこう頑張ってたと思います。心理描写とかはやはり小説の方が10倍内容が濃いですが、映画もあれだけやったのなら、よくやった方だと思いました。特にこんなハードルの高い作品を映像化するのだから、たとえ巨匠であっても完璧はあり得ない。演技とか表現に関しては、窪塚洋介くんの一人勝ちだと思いました(笑) こんなに難しいテーマで、文化も時代も宗教も言語もぶつかりまくっているテーマの中、監督も役者も苦労しているその中で、一人飛び抜けた存在感で、ある意味「神の真実」をいちばん表現出来ている窪塚氏、恐るべき才能としか言いようがないですね〜。踏み絵のキリストが語りかけるシーンとか、最後にロドリゴ改め岡田なんちゃらザエモンが十字架握ってるシーン(ネタバレ)とか、やはりぐっと来ましたが(笑)あれを描けただけでも、映像化した意義はあったと思います。
この映画で面白いのは、映画そのものもそうですが、日本海外含め、キリスト教関係者がそれぞれの立場でいろんなことを言っているのが、余計に面白いと、俺は思いました(汗)
信仰とかいろいろの突っ込んだ感想は、あんまし書く気はありません(笑) いい映画だったと、俺は思います。でも外国の人には、やっぱあんまし理解は出来んのだろうなあ・・・。海外のクリスチャンと、この映画についてのディスカッションはしたくない(笑) そしてもし逆に、まともにディスカッション出来るような海外のクリスチャンのやつがいれば、友達になりたいかな。

No(4815)

■…2017年 2月10日 (Fri)…….Shoals Preset 更新
相変わらず飽きずに愛用しているオーバードライブ、Heavy Lid Effects Shoals Overdriveのメモ更新版です。
しかし、ビルダーさんのウェブサイトも閉じたまんまだし、たぶんもう作ってないんだろうな。
理由は別に考えなくてもわかる。
こんなに飽和して次から次へと出てくるエフェクター市場で。
しかも、コピーとかパクリとかがいっぱいあるエフェクター市場で。
しかも、宣伝文句とPRとハイプがすべてのエフェクター市場で。
こんなものを作るのが、きっと、やってられなくなったんだろう。

このペダルは、「これをつなげばこういう音が出ます!」ってやつじゃない。
セッティング次第で大抵どんな音でも出ちゃいますよ、という、オーヴァードライヴの全部入り。
そのぶんセッティングは非常に難しい。
音自体も、わりとベーシック。魔法とかハイプってわけじゃない。
だから、そのぶんわかりにくく、売れなかったのかも、しれない。

今回も、手持ちの、それまで使ったことのあるペダルとの比較をして、そのペダルを同じ音を作るっていう作業をした結果のメモ更新。
こういう作業を繰り返すといいのかもしれない。
定番のペダルとか、伝説のペダルを借りてきて、Shoalsでそれと同じ音、もしくはそれを越える音のセッティングを見つけて、そして返却するとか(笑)

Heavy Lid Effects Shoals Overdrive の使い方 Tone’s Preset

まずはこのペダルの考え方を説明する…..
*すべてはDriveの設定でキャラクターが変わる。Driveに伴う多彩な変化こそがShoalsの最大の特徴である。
*Gainを下げればクリーンブースト的に使えるし、Gainを上げても破綻せず、むしろ音は太くなる。TS的なミッドの押しを求める時はGainを上げていった方が良い。Gain上げる:太い音、Gain下げる:すっきりした音。
*ブースター系ODの常として、Levelは基本的に最大と考えていいが、Gainとの兼ね合いで下げてみると良い結果が出ることも多いようだ。Gainを上げてLevelを下げるか、Levelを上げてGainを下げるか、相関関係で出力を決める。
*Driveは「メタル指数」と考えて差し支えない。Driveを上げればゲインも上がる。
*Toneに関しては、Shoalsの最大の武器はシルキーかつエッジィな刃のようなハイエンドなので、基本的にToneを上げていった方が持ち味は出る。しかし太い音が欲しい場合は控えめにした方が良いのも事実。まずDriveでキャラクターを決め、Gain&Levelは兼ね合いの関係、しかしToneは常に環境や気分に合わせて流動的に考えた方が良いようだ。
*このペダルの良いところは、「上げても破綻しない」「上げるほど持ち味を発揮する」「どのセッティングでも使える」「多用途に使える」というところにある。そのぶんセッティングは、とてもとても難しい。
*Drive(ロー)もTone(ハイ)も、上げ下げすると出力も上下する。ブースト出力の調整に関わってくる部分である。
*ゲイン、出力は十分にあり「100%クリーン」なアンプ以外、「20%でも歪むアンプ」さえあれば、ハードロックが弾ける音までは「必ず」プッシュできる。ただしEQ、Toneの設定に注意すべし。歪みの質感はEQに大いに依存する。
— さて以下のプリセットはあくまで参考である。スタート地点として考えていただきたい。–

8時のクリーンブースト (Drive 8時) (朝焼けブースト)
最も癖のないブースト。Level最大。Toneは高めが基本。用途によりGainを上げていく。Morning Gloryの名の通り、案外とBritish Classicか。

9時のCream Breaker (Drive 9時)
Marshall Blues Breakerペダル(初代)との比較を行っていた際に、結局Drive9時で最も近い音が出たことから。BBのキレ及びハイミッドの張り出し及び絶妙の曇り具合に迫るため、Gainは高め(4時くらい)に落ち着いた。Toneも極力高めと考えていい。当然ながら(残念ながら)BBよりも低域はガッシリしており、definitionもよりはっきりしている。

10時のチューブブースト (Drive 10時) (つるかめブースト)
Albit/Cranetortoiseの真空管ブーストに近いニュアンスがもっとも出やすい。Level最大。Toneは高めが基本。いいと思うところまでGainを上げていく。

11時のすっきりスクリーマ (Drive 11時)
10時と11時でかなりキャラクターが変わる。以下、Drive11時から2時くらいまではTSゾーンである。
TS的なミッドの押しを求めるセッティングのため、Toneは必ずしも上げる必要はない。11時から12時が目安。
Gainを上げていった方がTS的な押しの強さと音の厚みが出るようだ。その場合必要に応じてLevelを下げる。

12時の凪ドライヴ (Drive 12時) (上司ドライヴ)
なぜか知らないがDrive12時だと面白くないのである。ピンと来ないのである。まるで正午の凪である。ということは逆にどうしようもない時にここに合わせるといいのかもしれない。サラリーマン上司ドライヴと呼びたい。

1時の普通スクリーマ (Drive 1時) (British Screamer)
Drive、Gain、Tone、Level、すべて1時。ある程度歪むアンプ(Marshall想定)に使用する。まったくもって普通のスクリーマー系プッシュドライヴ。レスポールと合わせれば伝統ブリティッシュ。

2時の標準ドライヴ (Drive 2時) (じゃじゃスクリーマ)
適度な厚みを持ち、じゃじゃ馬的なパワフルさと、どんな音楽性にも対応できるversatileさを兼ね備えたShoals基本のセッティング。Drive、Gain、Tone、Level、すべて2時に設定するのが基本。そこからまずGainの最適値を求め、必要に応じてTone (ハイエンド)を上げ下げする。

2時のバーボンブースト (Drive 2時) (American Screamer)
要するに僕の「いつもの」セッティングのことである。Drive2時、Gain午前中、Tone午後、Level最大。あくまでShoalsの本来のキャラクターを生かすフルレンジで透明な琥珀色のセッティング。TS的なMidの張り出しはアンプのMidをちょい上げすることで出る。

2時のToneRider (Drive 2時) (Chinese Screamer)
しばらく有用していたTonerider AO-1の音に合わせたセッティング。押し出しの強いモダンTS系の用途。Drive2時、Gain2時、Tone1時、Level3時。Toneriderを上回る性能は実証済み。

3時のTS Breaker (Drive 3時) (Metal Screamer)
Drive3時、Gain2時、Level2時、Tone11時。現時点でこれがビンゴ。Metal Screamerとも言うべきTSを越える芳香なドライヴをここから作り出せるはず。

3時のBritish Steel (Drive 3時)
Drive、Toneともに3時が基本。Gainは必要に応じてなるべく上げていく。Shoalsの持ち味がもっとも美味しく出るスウィートスポット的なセッティング。スピード感とソリッドな切れ味の良さがあり、鋼のような刃のようなそんな正統派のヘヴィメタル。

4時のエクストリームメタル (Drive 4時)
Drive、Toneともに4時が基本。Gainは必要に応じてなるべく上げていく。ローエンドに殴りつけるような圧力と、厚みのあるハイエンドの刃が加わってくる。現在のEVHサウンドに近いニュアンスでもある。

未知の最大 (Drive全開)
さて問題は、どんなときにDriveを最大まで上げる必要があるか、という時だ。往々にしてローエンドが出過ぎる状態になるので、少し戻して4時にする事の方が多い。誰かをぶん殴りたい時か、まったく歪まないアンプを最大出力でプッシュする必要がある時などが考えられる。答が出るまで保留しておこう。

No(4816)

■…2017年 2月10日 (Fri)…….modulation modular multi effects
ギアトークということでもう少し書くならば、
ここへきて今更、モジュレーション、modulationということを考えている。
バンドで演奏する時、今まで、コーラスを使用することはそれほど多くなかった。
もちろん時々は使っていたが、積極的に使うということは無かった。
曲のイントロとかで効果音的にフランジャーを使うことの方が多かったと思う。

けれども、今年取り組む楽曲のいくつかで、ちょっと未来的な音のイメージを作り出したくて、そこでモジュレーションに向き合ってみようかなという気持ちになった。

5年くらい前から足下にある謎の中国製デジタルマルチエフェクトCoolmusicは、実のところ空間系の全部入りであって、ディレイもコーラスもフランジも全部カバーしている。ただ、これもあまり使いこなしているとは言い難かった。理想的には、もっと良いエフェクトとか、それこそEventideの全部入りとかがあれば良いんだろうけれど、そこまでやらない、だろうしね、僕の場合。

プラグインということで言えば、それこそEventideのH-3000のプラグインとかあれば理想なんだろうけれど、あれは、なんか「手を出してはいけないもの」のように思えている。本職のエンジニアならともかく、僕のような半端なバンド録音家が、下手に手を出すと、泥沼になってしまいそうで。

というわけで、その代わりというわけではないが、手元にあるのが結局、おなじみValhalla DSPのUberModである。これも実際、ディレイ、コーラスなどの、モジュレーションの全部入りだ。
モジュレーションってものがちょっとでも原理がわかると、ああそうか、ディレイもコーラスもフランジャーも、その他いろいろの空間系も、中身とか原理はみんな一緒なんだ、ってことがようやくわかってきた。

Valhalla DSPさんは、昨年ユーザー向けに、アンケートに答えるとSpaceModulatorってのをフリーでくれてたのね。探せば、まだ手に入ると思うんだけれど。このSpaceModulatorってのがフランジャーの決定版みたいな感じで、このUberModとSpaceModulatorがあれば、空間系はパーフェクトかな、とか思う。
とにかく、録音の際のプラグインにせよ、バンド演奏の際の足下のペダルにせよ、今年はちょっとだけ、モジュレーションに親しんでみたい。モジュレーションというやつと、仲良くなっておきたい。

コーラスの使い方とかわかんなかったのに、「コーラス」と書かずに「モジュレーション」と書くと、とたんに「そういうものか」とわかったような気分になるからおかしなものだ。

ただ、デジタルだと「モジュレーション」だけれど、アナログのコーラスのペダルだと、どうしても「コーラス!!」って感じで、扱い方も違ってくるような気がする。妙に音が太くなっちゃったり、あたたかくなったり。

モジュレーション、空間系と言えばEventide、もちろん80年代や90年代のEddie Van Halenのギターの音にも、Eventideのモジュレーションがばりばりと使われている。だから僕もそろそろ有効利用すべきか。しかしそれは、そういう時代だったからであり、さらに言うなれば、エディ自身が「モジュレーションいいね」と思ったわけではなくて、エンジニアのDonn Landee(変人型天才エンジニア)が、新しいものをどんどん導入する形で、使っていたのに違いないわけである。

しかしエフェクトとかそういったモジュレーションを使ったギターの音も、ひとつにはヘヴィメタルの美学には違いないわけだ。そういう時代だったし。

もうひとつ書けば、僕もついつい、HOFAのSystem1のプリセールには乗っかってしまったクチだ。
馬鹿みたいに安かったし、なんとなく、良い予感がしたので。
リヴァーブについて書く時に、僕はIR式のコンボリューションリヴァーブは好きじゃないといつも言っているけれど、HOFAのIQ-Reverbは良いかも、とかいつも言っていた。
そのHOFAからアルゴリズムリヴァーブが出るっていうんで、やはりリヴァーブフェチの僕としては、どうしても気になってしまっていた。

結果、やはりこのHOFAのAlgoVerbってやつであるが、やはり実に素晴らしい。
年末に偶然に試すことが出来た久々に使ったTC Reverbと、やはりというか偶然というかキャラクターとか方向性はかなり似ている。だが、わりとあっさり味のTCに比べて、HOFAのAlgoverbの方がもうちょっと濃いめの味付けにも対応出来るようだし、たぶんはっきり言って、HOFAの方が良さそうだ。そして、僕が思うところのTCはわりと大きめの壮大な空間が得意という印象だが、同様に、大きめで壮大で美麗な空間が、やはりこのAlgoVerbは素晴らしいように思う。だから、TCは使わないことにしたけれど、そのかわりにこのHOFA AlgoVerbが、そのパワーアップ版の美麗なアルゴリズムリヴァーブとして、使えるのであれば、リヴァーブフェチの僕としても、欲求がついに完璧に満たされた思いである。

そういえばTCのリヴァーブと言えば、昨年の段階で、「AUのネイティヴ環境で使えるTCのリヴァーブが売ってない」と書いていたけれど、気が付けば、いつのまにか、AUで使えるTCのプラグイン、リリースされているようだ(笑) もうちょっと早ければ(苦笑)
でも、HOFAが手に入ったからいいです。

今年ミックスし直そうと思っている昔の曲、ピアノのリヴァーブをどうしようか、色々試していたけれど、Eventideを使うかもしれないけれど、やはりこのHOFAのリヴァーブを使うことになるかもしれない。Eventideのリヴァーブは相変わらず使いやすいし、僕には合っているけれど、美麗なホールとか大きめの空間だと、どうやらHOFAの方に軍配が上がりそうである。

そんでこのHOFAのSystemってやつであるが、モジュラープラグインというのか、気が付けばこれも「全部入り」のエフェクトだった。
だからこれも空間系とかモジュレーションとかピッチ系とかも全部入っているのである。
贅沢だ。
僕は知識が無いので、モジュラーを組み合わせてエフェクトを作り出すとかあんまり出来ないから、今のところプリセットを色々試してみるくらいしか出来ないが、それでも十分、色々な使い道がありそうである。
最強クラスのリヴァーブ付きで、これがほんの44ドルとかそれくらいだったのだから、馬鹿みたいな話である。

そんなわけで、強力な「マルチエフェクト」というのか、全部入りのエフェクトユニットのプラグインが、手に入ってしまった。

果たして有効利用出来るだろうか。

No(4817)

■…2017年 2月10日 (Fri)…….いや、「沈黙」の余韻。
やべえ、今すぐ「長崎」に生きたい。そして「五島」あたりの色々訪ねたい。そういえば「あの人」も既にそれをやっていたよな。すべてはつながっているのか。”Salvation”につながっているのか。「鍋島」を携えて彼の地へ行きたい、って、「鍋島」も「伊万里」も佐賀県だけれど。だがたまたま名付けた「伊万里音色」が”Jars of Clay”だったことも偶然だと言うのか。「鍋島」も彼の地も、遠き歴史の中にキリシタンの血によるものであったことも偶然だというのか。最凶なる沼地から世界に光を照らすのか。為すべき何かが、そこにあるのというのか!おお神よ。
こちら

No(4818)

■…2017年 2月11日 (Sat)…….自分は謙虚な人間ではないし、謙虚になろうとも思わないが。
自分は謙虚な人間ではないし、また謙虚になろうとも思ってはいないけれど。
だけれどこんなことを書くことがすでに僭越であるけれども。

僕は既に、自分のバンドの一生ぶんの作曲はすでに終えてしまったわけね。
昨年、重要なコンセプトアルバム”Jesus Wind”の録音制作を終えて、今年発表するんだけれども、その次のプロジェクトとしてバンドは今年は”Overture”っていうタイトルで日本語の楽曲群に取り組むわけだ。で、その後には「鍋島」っていう2枚組のプロジェクトに取り組むことになって、それがこのImari Tones (伊万里音色)っていう名前のバンドとしては最終到達地点というか最後の作品になるわけだ。そこまで辿り着けるかどうか、もちろん定かでは無いけれど。
で、その「鍋島」のデモも作って、仮歌もすでに歌って歌詞もメロディも完成しているので、少なくとも自分のバンドのマテリアルとしては、既に一生ぶんの作曲とか創作を、やり終えてしまったわけね。もちろん、その他のプロジェクトとか、アコースティックっぽい曲とか、今後も作る機会はあるかもしれないけれど、自分のライフワークであるImari Tonesの楽曲は、全部もう作り終えちゃったわけだ。

で、ソングライターってわけじゃないんだけれど、作曲家、なんて書くと余計に大袈裟だけれど、こうやって一生分の楽曲を作り終えて、僕も少しはやり遂げた、というか、これでどこの誰と比較しても、恥ずかしくはないぜ、みたいに思っているんだけれど、つまり、その、勝ちはしないまでも、世の中のソングライターやミュージシャンに、負けてはいない、少なくとも自分なりの表現の分野で、質や量において、そういう思いがあるわけだ。

だから、すでに創作とか作曲の上では、一生ぶん作り終えた(と思っている)自分としては、いろいろな音楽を聴いても、「よし、自分は負けてない」という思いで、聴けるはずなのだけれども。
ただ実際に、「鍋島」の青写真、デモや仮歌、を作り終えた後に、起きたことは、それとは逆というか、少し違ったことでありました。

つまり、あれ以降、なんかひとつ、やり終えたことによって、ふっきれた、というと言葉が違うけれど、少し離れた視点から見ることが出来るようになったのか、逆に、どんなアーティストとかどんな楽曲、どんな音楽を聴いても、「素晴らしい」と思うようになってしまった。

つまり、それまでなにげなく聴いていた曲とかであっても、別にそのへんの普通の曲であっても「なんて素晴らしいメロディなんだ」とか、「なんて良いコード進行だろうか」とか「なんて効果的なサウンドを使うんだ」とか、「なんて印象的な楽曲だろう」とか、いちいち思うようになってしまった。
そして、それを歌っていたり演奏しているパフォーマーに対しても「なんて表現力の豊かな演奏をするんだろうか」とか「なんて素晴らしい声をしたシンガーなんだ」とか、「なんて工夫にあふれたサウンドだろう」とか、いちいち感動するようになってしまった。「とても自分にはこんなことは出来ない」みたいにしてね。

だから、そういう意味では、自分が作ってきたものとか自分がやっている音楽とかは、わりとどうでもいいというか、そういった、いろんな人々が、様々な才能と、様々な創意工夫でもって、作り鳴らしている色々な音楽の中で、自分はごくごく小さな一部分であるな、というふうに、思えてきた。

たぶんこれで間違ってない。

もちろん、作っている最中とか、演っている最中とか、取り組んでいる最中は、自分の作っているものが大事だと思って、自分のやっていることが一番だと思って、自分のやっていること、作り出していることに集中しなければいけない。

でも、いったんやり遂げてしまえば、そんなふうに少しはフラットな視点で見れるのかもしれないと、ちょっと思っている。

No(4819)

■…2017年 2月11日 (Sat)…….壁を越えるのがプロフェッショナル、壁を作るのがアマチュア
最近ジャズっぽいの、というよりはフュージョンっぽいの、とか、インストものを特に理由もなく、いくつかちょっと聴いているんだけれど、そういった音楽の素晴らしさももちろん認識した上で。
マーケットというのか聴く人を含めた音楽をめぐる状況についての話で。

何についても僕は大抵においてEddie Van Halenを基準に考えてしまうところはあるのだけれども、僕が彼というかEVHのことを真のプロフェッショナルと感じるのには色々と理由があって。

たとえば世の中が複雑化して多様化して、ロックミュージックというよりはギターミュージックが一般化して、世の中でたくさんの人がギターの演奏を学ぶようになって、エレクトリックギターというものが「趣味、ホビー」として一般化して浸透して。

そうなってくると、次第に世の中の流れとして、演者が一般のリスナーに届けるというよりは、ギタープレイヤー(弾く人)からギタープレイヤー(弾く人)に対して発信するという形式が成り立ってくる。

表現者の中のオタクな世界、つまりある特定の狭い分野の中での、微細な表現の違い、またその微細な違いにこだわること、そういった本来閉ざされた世界の箱庭的な分野の表現が、マーケットとして成立するようになる。

ある時期以降、今となっては世の中は、そういったものが入り乱れ、境界線もとっくにあいまいになり、かつてはマニアックだったそういった表現も一般に通用するようになり、とにかくそういった混沌とした状況。

世の中にはそういった(自称、週末、ホビイスト含め)ギタープレイヤーがたくさんいるので、特にメインストリームなんてものが崩壊して無くなった多様化の世の中において、そういった層へ向けたマーケットというか売り方がむしろ確実に成立してしまう。

これは、ギターとか機材とかエフェクトペダルとかの市場の状況もまったく同じだと思う。

そういった層は、そういった演奏上のどうこうとか、そういった「小さな差異」を認識して、反応してくれるから。(本当に認識しているかどうかはともかく、皆、認識したつもりになってくれる。)

けれども、それらは本来は、マニアックな、閉ざされたオタクな世界だけのものだった表現であるはずで。

僕は、本来のプロフェッショナルというものは、そういった「前提」によって閉ざすことなく、「一般」とか「普遍」に向けて、あらゆる「壁」を乗り越えて伝えようとするものこそが、プロフェッショナルだと思う。

その音を鳴らすのは、「壁」を作ってその中に閉じ込めて差別化するためではなく、あらゆる「壁」を壊して、乗り越えるために、その音を鳴らすのだと思う。

平たく言えば「一般リスナー」に向き合うことだと思うが、今ではそんな「一般」なんてものが多様化しまくって影も形もない。
そんな中で「普遍性」なんてものを探し当てるのは難儀であることは承知している。

でもだからこそ、そんな「普遍性」に向き合おうとする人に、俺は出会いたいし、やっぱり俺にとっては、そういった音を鳴らそうとする人こそが本当のプロフェッショナルだと思える。

No(4820)

■…2017年 2月11日 (Sat)…….普遍性を鳴らすべく沈黙
そういった「普遍性」なんてものを考えると、先日見た、そんで先日原作の小説も読んだところの「沈黙」(Silence)の映画の感想もひとつ言うことが出来る。

キリスト教の信仰についてのあれこれとか、信仰の上での感想ももちろん書くことが出来るけれど、この映画および原作小説でも描かれていたテーマのひとつである「普遍 対 特殊」というのか、グローバル vs ローカルというのか。

つまり、それをロックミュージックに置き換えても、まったくもって同じ状況を見出すことが出来る。

日本の音楽マーケットは特殊だ。
時代も21世紀になり、少しは一般化とか国際化するかとも思ったが、案外とそうでもなく、余計に内向きに特殊化し、いわゆる「ガラパゴス」化した分野も多い、というかガラパゴス化した面の方が多いように思われる。

いわゆる「邦楽」と「洋楽」というものがはっきりとジャンル分けされ、実際にその両者の間には大きな違いがある。いや、大きな違いかどうか、よくわからんが、少なくとも僕たち日本人の一般のリスナーの感覚から言えば、この「邦楽」と「洋楽」との間にはかなり違いがある。そしてそれはちょっとした音楽性や音楽面での傾向の違いであると同時に、そしてそれ以上に、なんかよくわからんが「気分」の違いだ。それを外国の人に説明することは、とても難しい。
この「気分」の部分を、どう説明したらいいのか。

つまり、この「沈黙」においても描かれた、キリスト教 vs 鎖国日本の構図、なぜ日本にキリスト教が根付かないのか、なぜ日本人はキリスト教を受け入れることが出来ないのか。この問いかけが、そのまんま当てはまる。なぜ日本にはロックミュージックが根付かないのか。なぜ日本人はロックミュージックを受け入れることが出来ないのか。

もちろん、日本にもロックミュージックが根付いている、そして、日本独自のロックだってある。そう言うことも出来る。
けれども、この「沈黙」において描かれているように、日本人の多くは、そのロックミュージックというものを、「自分の都合のいいように」解釈して、その形式だけ部分的に認識しているに過ぎない、とも言える。それは、洋楽ロックファンとか、ヘヴィメタルファンにおいてもやっぱり同様だ。(たとえば、歌詞をどう認識しているか、サビとか掛け合いの部分を歌えるか、やってみい。)

そしてやはりこの映画および小説に描かれているように、ロックミュージックはこの日本において、その本来の姿とか本質からはかけ離れた、「得体のしれないもの」へと姿を変えていくのである。これも既に、実際にもう、そうなったことだよね。

なぜこうなるのか。日本の文化とキリスト教との間にある距離。これは、なかなか説明できない。「気分」としか言いようがない。そしてこれは、日本の音楽マーケットにある邦楽と洋楽との境目とおんなじようなもので、やっぱりどうにもそういった「気分」以外の言葉でうまく説明が出来ない。

そういえば、この映画および小説にも描かれている「隠れキリシタン」、これは歴史上の出来事であるけれども、少なくとも俺は隠れたことないし、こういう立場に立ったことも無いな、と思っていたけれど、でもちょっと思い出してみよう。
僕が、自分の育った地方の町で、13歳とか14歳の中学生の頃に、ヘヴィメタルという音楽を聴き始めた時。僕は隠れキリシタンでは無かっただろうか。世の中はバンドブーム的なあれで、タモリさんの音楽番組に出ていたあれやこれやに詳しくないとクラスでは仲間はずれだった。
僕は自分が外国のヘヴィメタルを聴いている、ということを、隠していたのではなかったか。なぜか。それは皆と違うそんなものを聴いているなんていうことは、確実に仲間はずれや、いじめられるということを意味するからだ。そしてやっぱり実際に僕はいじめられることになった。それは僕がヘヴィメタルを聴いていたからだろうか。それとも僕はいじめられっこだったから、ヘヴィメタルを聴くようになったのか。それはニワトリとタマゴである。
そしてやがて噂を聞きつけて、離れた校舎の遠いクラスから(実際に離れた教室の位置だった)、学年でもう一人、ヘヴィメタルが好きなやつが、わざわざ会いに来たのであった。
もちろん、よくあることだが、歳を取るにつれて、15歳とか、あとは高校とか行くと、回りにもロックとかメタルを聴くやつは次第に増えていくのであるが。
少なくとも、あの時自分は、確かに隠れキリシタン状態だった。

日本に生きるということは、その閉ざされた甘ったるい何かの中で生きるということだ。真実から目をそらした、甘やかされた何かとか、嘘の何かの中で、その嘘を信じて、また(安心したいがために)その嘘を皆で確かめ合いながら生きるということだ。そしてそれは、日本という場所でだけ局地的に有効な「真実」だ。それは、昔から今まで、「邦楽」のヒット曲を聴けば普通にわかることだろうと思う。(客観視できれば)

キリスト教が「普遍」だとするならば(俺はそう思っている)、日本人が、そのかたくなな慣習やら精神風土やら政治状況の泡(bubble)から脱却して、普遍的な愛とか普遍的な真実に向き合うことが出来るのか、そこの問いかけだ。

そしてロックミュージックも、まったくもってそういうことだ。
ロックミュージックは、本来その「普遍性」を鳴らすものだ。
あらゆる壁を乗り越え、あらゆる壁を打ち壊し、宇宙全部に響き渡る真実を鳴らすことだ。

だけれども、現実には、さっきもちょっと書いたが、現実にはある時期以降のロックミュージックは、そんな普遍性に向き合うことをあきらめ、逆に壁を作って、その壁の中に囲まれた中で小さな差異を表現することに終始するようになってしまった。(マーケットの多様化とか、そういうことを理由に上げることができる。)

今ではそんな「普遍性」に向き合おうとするやつ、そんな「普遍」を鳴らそうとするやつは、ほとんど居ない。やっても報われないから。

そんでもって、宗教においても音楽においても、アメリカだってこんな状況であるからして、そしてこの国際化の時代において、この日本の「沼」は世界に向かってあふれ出し、その「沼」の混沌は形を変えて世界を浸食し始めているのではないか。

この映画および小説において、日本の精神風土は「沼」と表現されているが、確かに日本という国は世界最凶レベルの「沼」には違いなかろうが、だが思うに、人の心というものが、やはり本来「沼」なのではなかろうか。それは、どこの国、どこの文化であっても。

日本という国の文化においては、最初からすべてが「曖昧」であり、ボーダーが無かった。神学上もたぶんそうだろう。ここは八百万の神の国だから。
けれどもこの国際化した現代の世の中で、価値観が多様化し、色々な境界線が曖昧になり消え去る中で、おそらくは世界中がそういった「沼」へと姿を変えていったのではないか。

そんな「沼」と化した地球上で、どうやって信仰を保っていけるのか、という話である。

そして、そんな時代の中で、どうやってそんな「普遍」なんてものを見つけ、「普遍」を目指して、「普遍」たるロックンロールを鳴らすことが果たしてできるのか、そういう話である。

もともとそこで育ち、その中で「信仰」とか色々見つけてきた自分たちとしては、俺はその「沼地」を恐れはしない。それは言える。とっくに「嫌だな」とは常々思って、飽き飽きしてはいるが。価値観の多様化はちっとも怖くない。だからリベラルでクリスチャンやってられるのである。価値観が多様化し、すべての境界線が消え去っても、自分の信仰を保っていられる自信があるからである。むしろその中でこそ、本当の「普遍」を、本当の「信仰」を見つけられることを知っているからである。

「沼地で咲け」なんて気軽なことは俺は言えない。
それがどんなに難儀で、そして現在進行形で難儀であることかは知っているからだ。
そうならざるを得なかっただけである。

それぞれの場所で乗り越えるべき課題がある。
少なくとも、今のところは、「沈黙」の時代のように拷問にかけられたりはしない。
でも、それでも、やっぱり大差はないかもしれない。

キリストの十字架というのは、そして「普遍」というものへの対峙というのは、「泡」(bubble)から抜け出すことだ。

ここで言うBubble、バブルというのはカタカナで書くと誤解があるので、バブル経済、という意味のバブルではなく、近年の英語のニュースとかでよく言われている「自分の閉ざされた世界の中で引きこもって生活する」ところの「泡」という意味だ。

俺はたぶん、そういったロックンロールや、またキリスト教の信仰の中に、「普遍」とか「真実」みたいなものを見つけ、それによってこの「沼地」たる日本の状況を変えるべく、また世界に向き合うべく活動をやってきた。「泡の外」へと脱却せよ、と。

だけれども、そうこうしているうちに、世界とか、まあアメリカのことだけど、アメリカもまた、彼らは彼らで「泡」の中に居ることがわかってきた。昨今の政治状況でアメリカ社会が分断されている、とよく言われるように、リベラルはリベラルで、保守は保守で、それぞれの泡の中に居て、それぞれに特殊化していったわけである。

だから、「泡の中」から脱却して、普遍性を見出せよ、ってことを、余計に孤独に、孤立無援に、日本人だけでなく、誰に向かって俺は叫べばいいのか。誰もそんな「普遍」なんてものは見ちゃいないのか。昨年俺が書いたアコースティック弾き語りの曲じゃないが、「誰も神なんて見ちゃいない」のか。

「沈黙」について言えば、当時の日本は「沼地」たる大きな泡の中に居た。
だが東洋へと派遣されたイエズス会の宣教師であるロドリゴや彼らもまた、泡の中に居たのである。(歴史的背景を見ればわかると思いますが) つまり、their own bubbleに。

キリストの十字架の真髄は、その「泡」の中から脱却することだ。
だからこそ、「沈黙」の中でも、主人公のロドリゴは、踏み絵を踏むことによってひとつの「泡」から脱却した時、それまでよりもはっきりと神を見て、神の声を聴くことが出来たのである。

もちろん、踏み絵を踏まざるを得なかったのはその時の政治の状況によるものであり、それ自体は良いことではないし、また当時の隠れキリシタンたちが迫害され、拷問されていた事実は残虐で許されないことである。「沈黙」の登場人物たちも、その当時の「政治」の状況の中で、それぞれに役割を果たし、その中でロドリゴだけが、「愛の行為」をする立場にあり、それによって弾圧する側も含めた、すべての人を救うことが出来たのだ。(丸く収める、って言ってしまうとあまりに日本語的に「収まりが悪い」が。)

けれども、同様の状況は、今でも頻繁に起きているのではないか。同じような状況、同じような選択を迫られることは、今でも頻繁にあると思う。

その時、宗教的なドクトリンを取るのか、あるいは人道的な立場を選択するのか。

ドクトリンを取れば、教義とか宗教組織は守れるかもしれないが、実際のところ、その「教義」は形骸化する。それはそれで、深刻な背教行為だと思う。
人道を取れば、その場の人は救えるかもしれないが、それはそれで教義の相対化を招き、教義にしても宗教組織にしても分断の危機に直面するかもしれない。

いちばん良いのは、教義を破ったとしても、それで壊れない信仰を持つことであろう。だが、そんなことは「紙の上では」不可能だ。組織の上でも不可能だ。

だからどっちにしても紙に書いた教義なんてそんなもんである。
キリストの十字架っていうのは紙に書いたものじゃない。愛の行為であって、愛そのものだ。

大事なのは愛を行うこと、そのものであり、それだけである。
こうやって書くのは簡単だ。

なんかついつい音楽の話から派生して書いてしまったので、これをもって、僕の今回の「沈黙」の映画についての感想に代えたいと思います。
サンキュージーザス。

No(4821)

■…2017年 2月11日 (Sat)…….ここで一句
Do you really believe in God (神 Kami) or do you just believe in Paper (紙 Kami)?

あんたは本当に神を信じているのか? 紙を信じているんじゃないのか?

紙の上に書かれた神を信じているだけじゃないのか?

うまいこと言った、と思ったが、たぶんよくあるダジャレだろうな。

No(4822)

■…2017年 2月13日 (Mon)…….フェンダースケール10-46
久しぶりに曲を書いた。
驚くことに、2017年になってからやっと初めての作曲だったらしい。
パソコンの中の作曲メモを置いておくフォルダに2017というファイルがまだ無かったのである。
そしてチェックしてみたら、前回このように作曲のメモを残していたのは昨年9月に”Mistake”を作曲した時以来だった (“Mistake”は、今年取り組む”Overture”に収録予定の楽曲である)。だから約5ヶ月ぶりというか、約5ヶ月くらいなんにも書いていなかったことになる。(もっとも、”Overture”や”鍋島”のデモ制作や仮歌づくりはやっていたけれども)

出来たやつは、やっぱり大人しい、オシャレ系というかインディー系アコースティックのリラックスしたやつだったので、Imari Tonesの曲では間違ってもないものであって、やはりImari Tonesの曲としてはもう既に自分の中で、というか天から降ってくるものとして、打ち止めになっているという認識は間違っていないようだ。(正直、これ以上降ってきてもらっても困る。年齢的にもやってる時間が無い。)

こういう形式でサイズの小さな音声ファイルで作曲のメモをするようになったのはフォルダを見る限り2012年からのようであるが、昨年の「2016」のフォルダには実に18個のファイルしか入っていない。
「鍋島」の作曲の大部分をやった2015年のフォルダには91個、2014年のフォルダには78個、2013年のフォルダには24個、2012年のフォルダには40個のファイルが残っている。これを多いと考えるか少ないと考えるかはその人次第だろう。
2012のフォルダに入っているものの中には”Revive The Nation”アルバムの楽曲がほとんど入っているし、2014のフォルダには今年発表する予定の”Jesus Wind”の楽曲がほとんど入っている。

話題の矛先を変えると、今日書いたものはギターのハイポジションでややこしいフォームのバレーコードをずっと押さえまくる曲だった。(仮タイトルは”FeltFelt”となっている。)
で、Bacchus Windy PLDこと「白猫」ギターを使いたかったのだが、あれはフェンダースケールに10-46の弦を張っているので、テンションが強めで、非力な僕としては1曲通してそのハイポジバレーコード地獄が左手の筋力がもたずに力尽きてしまった。(パンチインすればいいじゃん、とも言えるが)
なので結局Bacchus Duke Standardこと「ショコラ」を使う羽目になった。これなら同じ10-46の弦でもギブソンスケールだからテンション低めで力が要らないのである。

この時に思い出したのは、例の、いつだったか以前に見たスケートボードのHow ToモノのYouTubeビデオで、日本人スケーターがキックフリップのことを「キックフリップはギターでいうFのコードと同じ。これが出来なくてスケートをやめる奴が多い。」的な発言をしていた件。

ギターを弾く人はそもそもみんなそうだと思うが、Fのコードが難しくて挫折、というのは意味がわからんのである。別に普通である。良いたとえが思いつかないが、きっとスクワットを10回とか、腹筋を10回やる方が難しい。
そこへもってきてキックフリップというのは、おい、それよりまずオーリーを先に飛んで、みたいな、現実に半数以上の人間はオーリーで挫折してスケートボード辞めるだろ、みたいな。
両方やってみた僕の感覚としてはキックフリップというのは、ギター(エレクトリック)で言えば基本的な3連のタッピング(ライトハンド)に相当するかな、という感じの技である。フリップ技のバリエーションが色々あるように、タッピングもそこから色々複雑なバリエーションがあるのである。
しかし僕の場合、ギターを始めたその日にCrazy Trainをコピーして3連のタッピングも普通にやってしまっていたのだが、なるべく公平に考えてそんな感じ。だから僕の実際の感覚としてはキックフリップ=レベル10、3連タッピング=レベル3、といった感じだ。

だからあの動画で「キックフリップはFのコードと同じ」と言っていたあのスケーターは、よっぽどスケートボードが上手いか、よっぽどギターが下手か、その両方か、である。たぶんその両方なんだと思う。僕が思うにキックフリップをレベル10とするならばFのコードはレベル0.0001くらいの難易度だから。

と、そんなふうに思っていたのだが、今日のこの「ややこしいフォームのバレーコード地獄」をフェンダースケール10-46で1曲通して弾けなかったことから、「なんだ俺も結局、Fのコードが弾けない人を馬鹿にできないじゃん」と思って落ち込んだのでした。

非力なんだよね、俺。
知ってる。
だからアコギの弦もいちばん細いやつを使ってる。

それだけ。
ちゃんちゃん。

No(4823)

■…2017年 2月16日 (Thu)…….泡の中から2017冬
どこかのアイドルとどこかの新興宗教との関連でニュースのヘッドラインになっていた。
そのアイドルのことはまったくしらないし、その新興宗教の教義も知らない。
どちらにせよ日本国には仏教系の新興宗教とかいろいろな宗派はいっぱいある。
それらを批判するつもりも糾弾するつもりもない。
みんなでがんばって人類の精神の向上のためにやっていけばいい。
皆でがんばって、天国の門まで辿り着いたのなら、カギはほら、キリストだから、俺だったら、皆のためにその扉を開けてあげる。皆が先を争って中に入ろうとして、カギを開けた僕は押しのけられたり、踏みつけられたりするかもしれないが。

人が、「愛の力学」とか、ロックンロールで言えば「音楽の力学」で動いたことなんて、歴史上でいったいどれだけあっただろうか。あったとして、それは果たして商売とか成功といったものと結びついただろうか。僕たちが敬愛する音楽家の皆さんを思い起こしてしまう。

形式が模倣され、一般化し、陳腐化すると、そこに働くのはもうはじめにあった力学ではなくて、別のものになる。すなわち、資本の力学、政治の力学、組織の力学、宗教の力学、商売の力学。数集めと、場所の取り合い。それは壁を作って囲い込む、囲い込みの力学であって、壁を乗り越え、壁を壊して伝えようとするロックンロールとは逆の作用だ。

原初においてはそうした音楽の力学によって突き動かされていたはずのロックンロールの歴史も、それがすっかり形骸化した時代以降は、人間社会が本来持っているところの悪徳というべきか、それら本質とはかけ離れたものによって支配されるようになっていった。

であるからして、僕らはクリスチャンロックバンドになるよ、つって宗教的なテーマを掲げてバンド活動を2008年から始めたわけだけれども、実際にはそれよりもずっと前に、少なくとも90年代くらいからは次第に(音楽ビジネスや世の中が不況っぽくなるのと同時進行で)、世の中は囲い込みを生業とする「宗教バンド」ばかりになっていった。

そして、21世紀になって気が付けば、別に俺らみたいにクリスチャンロックとかじゃなくても、気が付けば世の中、周りはみんな「宗教バンド」しか居ない、という状況になっていたのである。みんな、宗教の力学でバンドやってる。

芸能人とか音楽業界とか芸能界が、そうした新興宗教とかとつながりがあったところでまったく不思議ではないし、そういった話は、昔から何度も聞いている。けれども今僕が言っているのは、そういった宗教団体や宗教組織とつながりが無かったとしても、宗教ビジネスとしての囲い込みの力学でバンドやってる人がいかに多いか、ということである。

これは自分としてはギャグであって、最大クラスの皮肉であるのだけれど、うちのバンドは「クリスチャンロック」「クリスチャンヘヴィメタル」を名乗って、実際にそうした内容の音楽をやっているけれども、「宗教の力学」は頭っから否定している、というところである。

そして、もうわかりきっていることであるけれども、だから売れないのである(泣)
なんで俺たちが「宗教の力学」を否定しているのか、それは、言わなくてもわかるだろ、と言いたい。好きでこうなってるんじゃない、こういうふうに生まれついちゃったんだから仕方ない。

そんでもって、「信仰」に対して、本当に本気だからこうなっている、ということはたぶんご理解いただけるだろう。
つまり、お題目とかかけ声じゃなくて、本当に信じちゃったということである。神を。キリストを。
その結果、キリスト教世界を含めた様々なものから、「一定の距離を置く」結果になっている。

音楽と、信仰だけが頼りだ、ということです。
言ってみたいよ。「音楽の力を信じてる」って(笑)。

この前、遠藤周作の原作小説の映画「沈黙」の感想という命題で、「泡」(bubble)ということを書いた。
すなわち、現代に生きる人間が、どれだけ、それぞれの「bubble」の中で生きているか、それによって人々が分断されている、という状況について。

“Bubble”の中に入り、その中で生きる、ということは、その泡の住人のようになる、ということを意味する。それは、明示された言動によっても示されるだろうけれども、半分くらいはきっと、暗黙の了解みたいなものであろうと思う。そして、その暗黙の了解というやつは、大抵、説明されない。明示して説明されることはない。前提みたいなものだからである。

その前提ってやつを疑ってしまった場合、きっと「泡」の住人にはなれない。
残念ながら俺は、前提の前提の、そのまた前提くらいから考えてしまう方だ。聖書を読む時もそうである。だから「聖書は四次元的に読むべし」と思っているのであるが。

現代社会においては、世界はとても狭くなった。そして世界はひとつの村のようになり、かつて日本は村社会、とか言われていたが、今では世界中が、世界全体が次第にひとつの村社会みたいになって来ている。

そこでどんな心理とか、社会学的な力学が作用するのかは、日本に生まれ育った僕たちは、容易に想像できるだけでなく、実際に体験として知っているはずだ。

それぞれの「泡」(bubble)という村社会の中で分断された僕たちは、その「泡」を打ち破り、乗り越えるソニックウェイヴ(Sonic Wave)、すなわちロックンロールを、鳴り響かせなければならない。

だが、そんなものに耳を傾ける人間が、果たしているか。泡の中で心を閉ざしてしまった現代人たちの住む、この地球で。聖書の時代から、人間というものは「かたくな」だったのではないか。

そう書いているこの俺もまた、自分自身の小さな泡の中に生きているのだろうか。
壁を決して作るまい、と決意して、かえって皆の住む壁の外へと追い出されてしまったこの俺の、閉じこもるしかなかった小さな泡は。

その中から、時々、外へ出て叫ぶ。
それが精一杯である。

壁の中に閉じこもる地球人たちに向けて、
壁の外、とても広いが誰もいない新世界から。
こっちに来いよ、広いから。
まだなんにも無い、果てしなく広がる壁の向こう側へ。
最後のラヴコールを、俺はこれから鳴らすべく。

誰もいない広大な大地に、しょうがないから城を築き上げる。
天守閣は未完成で終わるかもしれない。
でもそれでも構わない。

あとは、誰かがやってくれ。
今は誰もいなくても、きっといつかは、ここにも人がやってくる。
そう信じている。

No(4824)

■…2017年 2月16日 (Thu)…….Spiritual Growth Today
だいたいこういうことかな。泡の中から脱却すること、そして霊的に成長し向上すること。
Grow in Spirit. Get out of the bubble. Both left and right. I love you all:)

こちら

No(4825)

■…2017年 2月17日 (Fri)…….俺もだいたいそう思う
このライターさんここ数年の俺のウェブ日記のEVH論をコピペしたんじゃないかw (違
いや、ファンなら解る、という事かw
こちら

No(4826)

■…2017年 2月17日 (Fri)…….特攻服笑2号
明日のライブはオケージョン的に6年くらい使ってる「神は愛なり」と書かれたレザーベストかなと思ったけれど、時節柄まだ寒いので「義人なし」の[特攻服(笑)2号]で行こうかとw 表には写真のようにMark13:31の文字が。曰く”天地は滅びても、神の言葉は決して滅びない” 。同じ内容はマタイにもルカにもあるが、マルコを選んだのは数字の語呂というか字面がいいから。ちなみに”Jesus Wind”(今年発表予定)にDon’t Stop Walkingって曲があって、それはエレミア51:50が題材なんだけど、それはもちろんVan Halenフリークのダジャレ。見た限り聖書の中で5150って数字の箇所はここしか無い(笑)
ライブは関内ジャズカフェGIGにて、Calling Records主催イベント、お待ちしております~。
#christianmetal #mark1331 #callingrecords

No(4827)

■…2017年 2月19日 (Sun)…….Blessed night Yokohama once again
昨日はCalling Recordsの仲間たちと横浜は関内にあるジャズカフェGIGにてライヴイベントでした。写真はまた自分のバンドのやつだけ数枚、良い感じに写ってるやつ、他のバンドの皆さんの写真はCalling Recordsのイベントページを見てね。

うちみたいな「射程距離こそ妙に長いが非常にニッチで近付き難いバンド」に、こんな祝福されたイベントの場に参加できる機会を持たせていただけることに、仲間たちや関係してくれるすべての人たちに本当に感謝したい。
こういう密度の高い仲間たちの和や、祝福の輪をどんどん広げていくことが出来たら、どんなにか良いだろうなと思う。そして、実際にそうなっていくかもしれないし、実際にそうなると思っている。

そのために必要なことというか、やるべき役割を、うちのImari Tonesとしても果たして、貢献したいと思う。それぞれ立ち位置とか得手不得手、役割というものがあるが、僕らにしか出来ない役割がきっとあるはずだ。

このイベントは、昨年からCalling Recordsの仲間として一緒に活動しているクリスチャンブルースシンガー「石川ヨナ」の壮行会の意味合いで行われたイベントだった。だから、会場の規模も決して大きくなく、また集客の見込める都内の会場ではなくて、石川ヨナの地元横浜というチョイスで、関内は大通り公園に面したアットホームなジャズバーが選ばれた。
そして、僕らも初めて訪れる会場であったけれど、実際にイベントは、非常にアットホームで心地よく、あたたかく、皆で共有し、ばっちりと盛り上がった、そんな祝福と言う他ない、幸せなイベントになった。
皆さん本当にありがとう。

出演したアーティストは、皆すべて「クリスチャンアーティスト」であった。その意味でも珍しいというか貴重なイベントだった。そして以前から名前やお噂はお聞きしていたが、これまで邂逅の機会が無く、ようやくお会いすることのできた斧寺カズトシ&マリナさん。ようやく拝見することの出来た彼らのパフォーマンスは素晴らしいものだった。この人たちはどこの天使ですか、というくらいに美しかった(笑) こんなに感銘を受けたのは久しぶりだったかな。もちろん[B.D.Badge / 栄光号 / 寿朗閣下]の限界知らずのパフォーマンスと比べれば、まだまだかもしれないが、でもそういった、B.D.BadgeさんやGee-Barsさんといったような偉大な先輩たちと比較できるくらいに素晴らしいクリスチャンロッカーだった。

その他、主役の石川ヨナを含め、また盟友とも言えるソルフェイ(Soul of Faith)も含め、他の共演のバンドの皆さんも、それぞれに最高に素晴らしかった。みんながみんな素晴らしかった。だが、詳細な批評は、俺はこういう人間で何をどう言っても辛口なことしか言わないからやめておこう(笑)

僕らImari Tonesは、会場のサイズや音量や機材などの関係、またオケージョンという意味もあって、ヘヴィな曲をやらずに、軽めのライトな選曲で臨んだ。そして、あらためて曲目を見返してみると、いわゆる決め曲というのか定番曲とか必殺曲をまったくやっていない。だが、そういういつもの必殺曲を一個もやらなかったにも関わらず、共演の素晴らしいバンドの皆さんと互角に渡り合えるステージが出来たことは、大きな収穫であり手応えだった。そんでもって、一番大事なことに、よくわからんが「愛のメッセージ」みたいなものは、ちゃんと放ったはずである。よくわからんが、なんか妙に濃ゆい、いつものやつを(笑) Ridiculous Loveである。Ridiculously Intense Pure Loveという感じである。

セットリストというのか曲目はこんなだった。
1:Changes, 2:Precious, 3:Overture, 4:Unknown Road, 5:Yokohama Dreaming

そんでもって、この機会に、年始に石川ヨナとコラボで(ヴォーカル部分を)録音し制作したラップの曲”Revive The Nation”のビデオの撮影も行うことが出来た。皆さんご協力ありがとうございます。これは、可及的すみやかに、形にしてYouTube上に発表したいと思っています。

石川ヨナに関しては、そうだねセンチメンタルなことは書きたくないが、そして文章の上では多少センチメンタルに見えるかもしれないが、実際にはまったくぜんぜんセンチメンタルにはなっていないのだが(笑)、それでも構わずに書けば、

石川ヨナに関しては同じ歳ということもあり、背格好や雰囲気もいくぶん似ているところがありの、なんかこの人は兄弟なんじゃないかというか、「生き別れた弟の生まれ変わり」なんじゃないか、という感じの距離の近さを感じていた。俺には弟もいないし、同じ年の人間なのに弟の生まれ変わりとか既に言葉が矛盾しているが(笑) ジャンルやスタイルこそ違うが、ハードな音楽をやっていたり、同世代ということで音楽的なバックグラウンドもかぶるところも多いという点で。

そして間違いなく素晴らしいシンガーであるので、信仰とかルックス的なイメージの方向性などを考えても、もし10年早く出会っていたら、たぶん僕は自分のバンドのヴォーカルに誘っていただろう。だが現実には10年早く出会わなかったので、誘わなかったのだが。

だが、というか、そして、というか、昨年にCalling Recordsに参加してもらって以来、共演の機会や、いろいろなことを話し合う機会が何度かあり、また今回もコラボ楽曲に取り組むなどするうちに、段々彼女の姿が、これも何年かに渡りサイドプロジェクトで共に演奏してきた友人である「熱きリョウ」とかぶるようになってきた(笑) これはつまり、「熱きリョウ」もスタイルこそ違えどやはり優れたシンガーであるが、「ああ、やっぱシンガー、少なくとも上手いシンガーっていうのは、みんな天然なんだな」みたいなことである(笑) だから今、俺の中では「熱きリョウ」と「石川ヨナ」はだいたい同じカテゴリの人間として分類されている(微笑)。

だが俺も彼女の演奏をこれまでに何度か拝見する中で、いろいろと良い点も悪い点も思うことはたくさんあったのだが、昨晩、Xie(サイ)の楽器陣の皆さんをバックバンドとして演奏した石川ヨナのステージを見て、あらためて気付くことがあった。
それは、俺はこれまで、そして、たぶんみんなも大なり小なりそうだと思うのだけれども、石川ヨナが、あまりにシンガーとして素晴らしいので、あまりに歌が上手いので、そしてルックスの面でも非常にかっこいいので、そこに目がいってしまい、もっと大事な点に気が付かなかったのである。そのことに、文句なく優れた技術を持つXieの皆さんをバックにしてのバンドスタイルの演奏を見る中で、俺は気が付いた。

そして、そのことに気付くと、これまで石川ヨナが話していたことや、彼女がどんな思いで、色々なことに悩みながら、これまでこうして演奏活動を、信仰をテーマにした音楽活動を、やってきたのか、やっと、もう少しきちんと、わかるような気がした。

彼女は今まで、もちろん過去に色々活動してきた経験や、その中でバンドもやってきた、ということは聞いているが、現在の石川ヨナは基本的に一人での弾き語りスタイルを基本としてずっと演奏活動をしてきたと思うが、今、彼女は「バンドをやりたい」「バンドで演奏したい」ということをしきりに言っている。

そのための試金石として、最近も色々なプレイヤーの人たちとコラボレーションして、バンドスタイルの演奏を何度か行い、昨日もXieの皆さんと一緒にバンドスタイルのステージを演ったのであるが、

そして活動の拠点を神戸に移しても、きっと神戸において、バンドの形で音楽活動をするべく、きっと良い出会いがあるといいなと思い、祈っている。

俺が思うのは、その行った先で、出会った場所で。
ぶつかり合い、ケンカし合い、わがままを言い合い、譲ることなく、それでも許し合えるような、そんなバンドメンバー、そしてコラボレーター、創作上のそんな仲間と出会えるといいな、ということである。

一人で書いたものというのは、どうしてもやはり、つまらない。
それは、音楽理論上のどうこうではなくて、ロックミュージックというのは、人間関係そのものだからだ。自分と世界との関係であり距離でもあるし、アンサンブルというのは人間関係そのものだということもである。作曲家の頭の中で思い描いたものは、バンドアンサンブルという人間関係の中で、必ずしも思い通りには響かない。

俺は自分のバンドにおいては、基本的に音楽的なことは事実上の「独裁体制」で運営している。それは、俺が独裁でやりたかったからではなく、どうしてもそうならざるを得なかったから、である。そんな俺としては、他者からのインプット、他者とのぶつかり合いというものに、非常に飢えていて、そうしたものを常に求めている。創作の面では形式上1人で向かわざるを得ないこの俺が、どうやってそうした、自分と世界とのぶつかりあい、異質なものとのぶつかり合い、そして他者の存在を、自分の創作の中に織り込んでいくのか、それは企業秘密だ(笑)

だが、現実に例を言うならば、今回もこうして石川ヨナとのコラボレーションでひとつ、普段やったことのないヒップホップの楽曲を作り上げたではないか。
ほんの小さな共作であったが、たったそれだけの中においても、俺と石川ヨナは間違いなくぶつかりあっていた(笑) それは、出来上がったものを聞いてもらえばわかる。ある意味、間違いなく、この楽曲の上で、私と石川ヨナは「平行線」を行っているのである(笑) ハモリの部分の声の相性も確実に悪い(笑)。だが、俺は、それでいいんじゃないかと思ったのだ。一緒にやる、ってことは、他者と共作する、ということは、すなわち他者と共存するってことは、そういうことだからだ。そしてその上で、それでも作品のメッセージをまとめることが出来るのであれば、それはあれだ、力量ってやつだ。つまりは、俺としては狙い通りである(笑)

どちらにせよ、
また一年とか二年、あるいは彼女にはそんな長い時間すらも必要無いかもしれないが、より大きくなり、一皮、二皮も向けて、関西地区においても人気アーティストとなった石川ヨナの、凱旋ライヴを、また横浜の地で、見ることができることを、希望し、そうなるように祈る。

俺も負けないように頑張るが、俺はこんな人間だから、自分なりのことしか出来ん(笑)
だが、そうだね、こんな俺でも、また「破るべき殻」が、この先にあることも、たぶん事実だ。果たしてその「殻」を破ることが出来るのか、俺も自分自身、自信があるわけではなく、不安だったりもする。でも、何も考えずにありのままを受け入れるしかない。

神の導きを信じます。
イン・ジーザス・ネーム。

No(4828)

■…2017年 2月21日 (Tue)…….その最涯て、しかと検分いたす
自分の人生の中で3本の指に入るバンドであり、自分が過去に体験した中でもっともすげえライヴを見せてくれたバンドである+/-{plus/minus}の、7年半ぶりの来日を、どんな気持ちを持って見るべきか。[嬉しい][感激][懐かしい]どれも違うな。感傷はいらない。「骨は拾ってやる」やはりこれしかない。彼らが辿り着いた「最涯ての音」を、この日の出ずる国に鳴り響かせる様、とくと検分させていただくでござる。
こちら

No(4829)

■…2017年 2月23日 (Thu)…….Nagoyaにて瞬間、btb降臨す
bloodthirsty butchersは確かに孤高の孤独なバンドだった。だが海の向こうに本当にわかりあうことの出来る孤高のバンドがもうひとつ居た。あの曲を歌う資格が地球で最もあるのはライバルであり同志であった彼ら+/-{plus/minus}しか居ない。そして小松さんのドラム飛び入り。たった1曲だけ、確かにブッチャーズが甦った。このためだけに名古屋まで足を運んだ甲斐があった。

No(4830)

■…2017年 2月25日 (Sat)…….南蛮より宣教師再来す
7年半ぶり、フルメンバーとしては8年半ぶり、となる+/-{plus/minus} (プラスマイナス)の来日公演が行われた。僕は名古屋公演と最終日の渋谷O-Nestにおける東京公演の2つを見た。(在来線に6時間くらい揺られて名古屋横浜間を往復、なんて、やったの何年ぶりだろう。)

これから、史上最高にいちばん長く、いちばん濃ゆい感想文を書きます。
めっちゃ長いのを書きます。
よろしく。

2007年は3月。僕はテキサス州オースティンに居た。
当時お世話になっていたプロデューサーY氏に連れて行かれた形で、人生で初めて訪れたアメリカ。そんな僕の人生初のアメリカは、SXSWでした。

そのSXSWで色々なものを見て、いろいろな体験をして、また少なからず、色々な人々に出会って。そして間違いなく、僕の人生、僕の音楽人生は変わった。
けれども、その最後の日に、この「プラスマイナス」というバンドに出会っていなかったのなら、きっと僕は、この2007年の時点で音楽を止めていただろう。(惜しかった。止めておけばよかった。苦笑。)

2007年、まだ「インディーの祭典」としての色彩が色濃く残っていたSXSWの、その最終日だったと思う。最終日の夜。営業や売り込み、コネクション作り、人との面会。一週間近くにわたるそんな活動もすべて終えて、プロデーサーY氏は、すっかり疲れたという面持ちであったが、僕は最後の日も、なるべく、夜遅くまでなるべくいろんな会場を回って、なるべくたくさんのバンドを見ておきたかった。
だってそうだろう。僕は音楽が好きで、ロックが好きだからバンドをやっている。そして、世界中から集まった、才能のある優れたバンドたちが、どんな最先端の音を作り鳴らしているのか、貪欲に見ておきたかった。そして、世界とか、本場というのか、最先端の音楽が鳴る現場を少しでも体験したかった。そしてYプロデューサーは基本的にHR/HMの人であり、80年代の人であるけれども、僕はヘヴィメタル以外にも、オルタナやパンク、インディーポップからヒップホップに至るまで大好きな人間だ。宿泊していた安モーテルにプロデューサー氏を残して、僕は一人、夜のオースティンの街に向かい、そこで最終日となるSXSWのショウケースライヴをひたすらはしごして回った。

そして、その夜の、確かにほとんど一番最後に、僕はこの+/-{plus/minus}というバンドを初めて目撃した。
彼らは当時すでに、僕の大好きな日本のバンドbloodthirsty butchersと関係が深く、何度かの来日も行い、ブッチャーズとのスプリットアルバムも出していた。だから、名前は何度か耳にしていて、良い機会だから見てみよう、と思ったのだ。

そして俺は、ぶっとんだ。
それは間違いなく、その2007年のSXSWで見た、有名無名含めて見た中で、もっともすげえ音だった。
ブッチャーズに匹敵するほどの轟音。そして、ブッチャーズを上回るダイナミズム。間違いなく美しいソングライティング。そして、鳴っている音の、ひとつひとつが、ほんのひとつひとつに至るまでが、笑っちゃうくらいに自由で、新鮮だった。
それは俺がこの2007年のSXSWで得た、最大の収穫であり、そして俺が、確かに「自分にとってのアメリカ」を見つけた瞬間だった。

いつも僕が話しているように、僕が少年の頃に憧れたアメリカは、Van Halenが豪快なハードロックを、巨大なスタジアムで鳴らしているアメリカ。
けれど僕が二度目に好きになったアメリカは、アジア系のやつらが、小さな会場で、種々雑多な音楽を鳴らしている、そんな世界だったんだ。

そして、そんなplus/minusは、皮肉なことに、もちろん本国アメリカでもインディー規模の支持は十分得ているけれども、それよりもやはり、日本で人気のあるバンドだった。それは、やはり日本には、そうした音楽を愛して、そうした音楽を支える人たちの土壌が、やはり少なからず、ある、あった、ということなのだと思う。

そして俺はそんな+/-{plus/minus}に惚れ、そして間違いなく、彼らの音の中に、未来を見つけた。そして、自分が追いかけ、追求すべき音を、見つけてしまった。

だから、何度も言うが、この2007年のSXSWに行った時、俺がもしこの+/-{plus/minus}に出会っていなければ、おそらく俺は、そのまま音楽を止めていただろう。

オースティンの夜に見たプラマイは最高に美しかった。
ちょうど、3枚目のアルバム”Let’s Build A Fire”の時期だったから、あのアルバムの開放的で南国的な、夏を思わせるサウンドが、南国オースティンの野外ベニューに気持ちよく響いて、最高の体験だった。そもそも初見だったし、記憶は曖昧だが、”Blueprint”はもちろん”Important Thing”とかもやっていた記憶がある。そして間違いなく、あの印象的な”One Day You’ll Be There”もやっていた。

そして、翌年、プラマイは4枚目のフルアルバムとなる”Xs On Your Eyes”をリリースし、その2008年にやはり渋谷Nestで行われた彼らのライヴは、おそらくきっと僕が人生で体験した中で、メジャーインディー有名無名規模の大小を問わず、もっとも感動し、もっともぶっとんだ、もっとも素晴らしいコンサートだった。そのことは、先日も書いたとおりである。今日、というか昨晩、その同じ会場である渋谷O-Nestにて、それから8年ぶりに、彼らのコンサートを見たが、俺の記憶の中にある「人生最高」は、更新されただろうか。
その結論は、これから書いていこう。

その2008年の来日があり、しかしその翌年2009年の来日は、Patrick Ramos抜きのフルメンバーではない来日だった。そして、それを最後に、プラマイの活動はスローダウンして行き、新作のリリースの音沙汰はなくなり、そして、今回の来日が実現するまで、実に7年半の歳月を待たねばならなかった。

(新作のリリースは無かったが、2009年の日本企画EP、2010年のレア曲集Pulled Punches、2011年の震災リリーフアルバムに提供された2曲、どれも素晴らしかった。それらを聴きながら、俺は自分のバンド人生を必死に歩いてきた。)

7年。8年。もうそんなにたつのか。それは、僕も先日の日記にそう驚きを記したばかりである。そして、今回の来日でも、共演の日本のバンドの人たちも、「もうそんなにたつなんて信じられない」といった発言を何度も繰り返していた。

射守家さんも言っていたように、というか、言う必要もないくらいに、その7年半の間に、様々な出来事があり、そして、吉村秀樹という不世出の偉大なロッカーが、この世を去った。7年前、そこに居たはずの、「最も頼れる男」が、すでにここには、居ない。この7年半ぶりのプラマイの来日公演は、プラマイの来日公演であるにも関わらず、そこに居たはずの吉村秀樹という男の存在を感じ、そして吉村秀樹という男の存在の大きさを、皆で確かめ合い、思い出すような、そんなイベントでもあった。

ブッチャーズの最後の2枚のアルバムは、とんでもないものだった。
何度も書いているが、俺はあの最後の2枚。そして特にあの最後の「YOUTH 青春」というラストアルバムで、ほとんど間違いなく、吉村秀樹という男は、「地球最強」の称号をもぎとっていってしまった、と思っている。そして、そのままあの世に勝ち逃げを決め込んでしまった。

そして、吉村秀樹のいなくなった世界に、残されたPlus/Minusの、ようやくリリースされた5枚目にあたる”Jumping The Tracks”が響き渡った。2014年の1月、日本盤は2月、のことだった。

変わってしまったのは、プラマイの方なのだろうか。それとも、俺自身の感性が、変わってしまったのだろうか。あるいは、世界そのものが、変わってしまったのか。

2000年代に出会ったバンドの中で最も好きなバンドであり、間違いなく、自分の人生の中でも3本の指に入るくらいに夢中になったバンドなのに、そして間違いなく、今まで、というのか、それまで、いちばんのお気に入りのバンドであったはずの、プラマイの新譜を、俺は気に入らなかった。あの時、オースティンの夜に見た、平然として、普通に余裕ぶっこいた顔をしたアジア人が、最高に鋭く尖った、世界でもっとも先を行く音を鳴らしていた、その切れ味鋭く、最高に美しいプラマイ。けれど、吉村秀樹がいなくなり、何年もの、ほとんど活動が停止したような期間を経て、彼らから届いた久しぶりの音源には、かつてのそのような切れ味は、感じられなかった。いや、相変わらず鋭く、力強く、そして美しかったが、それが真実に美しかったからこそ、俺は彼らが行き着くところまで行ってしまったことを実感し、つまりは、これが彼らにとっての限界であることが、痛いほどに理解できて、余計に涙が出てしまった。

つまり、長い旅路を経て、人生の旅路、すなわち、家庭を持ったり子供が出来たり離婚したり、そうしたあたりまえのことも経た上で、そしてきっといくつかの挫折や失望も経た上で、長い音楽の旅を歩いてきた彼らの、これは「最涯ての音」なのだ。

ここまで来た彼らに、そして音楽人生における「最涯て」に辿り着いてしまった彼らに対して、俺はこれ以上を、期待はしない。それはとても残酷なことだからだ。だけれども、言ってしまったな。「音楽を作り続けろ」「ブッチャーズを越えるものを作れ」と。うっかり口がすべって、言ってしまった。

だから今回、俺が7年半ぶりに+/-{plus/minus}を見に来たのは、そんな彼らの、限界を見届けるためだった。おそらくはこれ以上は無理なんだろうなというところの、彼らの最後の、「最涯て」を見届け、その「骨を拾う」ためだった。

変わってしまったのは、俺なのか、彼らなのか、それとも世界そのものなのか。

彼らの素晴らしい来日公演を見た2008年。そして2009年。
俺にとっては、自分のバンドであるImari Tones (伊万里音色)が、「クリスチャンロック」「クリスチャンメタル」なんてことを言い出して、そして現メンバーになって、初めてのアメリカ遠征を経験して、そして現メンバーでの最初の作品であるところの”Victory In Christ”を作る前のことである。

“Victory In Christ”を録音制作したのは、その2009年の暮れから、2010年の初頭にかけてのことである。その間、スタジオに向かう道すがら、プラマイの”Thrown Into The Fire”のEPを聞いていたことを思い出す。

誰も言ってくれないし、気付く由も無いのだけれど、その俺たちのアルバム”Victory In Christ”のソングライティングには、この+/-{plus/minus}の影響が、非常に強く出ている。似たような方法論を取り入れたとしても、それがオルタナやポストロックではなく、ハードロック、ヘヴィメタルの文脈とサウンドの中で鳴らされると、また違ったものになるからだろう。見も蓋も無いことを言えば、ファッション的にも、客層的にも違ってくる。そして、案外とファッションが違えば、それは「違うもの」と、ほとんどの人はそう認識する。

俺がこの自分のバンド伊万里音色を立ち上げるにあたっては、もっとも尊敬する大好きなVan Halen、そしてEddie Van Halenが1998年のアルバムで画期的な方向性を示しながらも商業的、世の中的に失敗したことを受け、「その先を鳴らしたい」という気持ちが強かったことは、何人かの友人には話しているが、その他に目指すものがあったとすれば、このplus/minusの世界観と方向性こそが、俺にとってはそれだった。ただ、たった今書いたように、それをヘヴィメタルの文脈の中でやっているので、誰も気付いてくれない、だけである。

とにもかくにも。
プラスマイナスに出会って、彼らの素晴らしい2008年の来日公演を見てから。
俺は、俺たちは、4度にわたるアメリカ遠征を経て、その中でThe Extreme Tourを含む色々な様々な熱い場所、熱い体験、熱い戦いを経て。その後、今度は逆にアメリカからクリスチャンのバンドを招いて共に日本で草の根ミッショナリーツアーをやるというThe Extreme Tour Japanを4度行い。それが確かに、8年。そして、それがどれだけ熱いものだったのかは。そして、その間に、俺たちがどこまで、音楽的に先へ進み、自分たちの進む道や、自分たちの鳴らすべき音を見つけていったのかは。

そして特にその後半の4年間。この日本において、アメリカ、カナダ、そしてチリから、バンドを招きつつも、この日本において、どれだけ熱く、かけがえのない友人たち、仲間たち、そして同志と呼べるクリスチャンロッカーたちと出会い、共に研鑽してきたのか。そして関わってくれたすべての人々や、聴いてくれた聴衆の皆さんと、どれだけの魂の交流があったのか。その熱い時間は。
とても数値にして説明できるようなものじゃない。

そして、俺は、プラマイ的な影響が色濃く表れたたぶん最後の作品である”Revive The World”を作り上げただけでなく、きっと生涯作れないだろうと思っていた歴史ものコンセプトアルバム”Jesus Wind”(仮タイトル。変えるかも。)を昨年完成させ、今年なんとしても発表するつもりだけれど。そして人生の究極の到達点である「鍋島」を、ついに視界の中に捉えた。その「鍋島」の音世界は、すでにプラマイの影響がどう、ということは既に、それとはまったく違ったものになっているだろう。

この4年間。吉村氏がこの世を去ってからの4年。そしてプラマイの「最涯て」のアルバムである”Jumping The Tracks”が届いてからの3年。それだけの間にも、俺はどれだけのものを見つけ、どれだけ変わってきただろう。
だから、James Baluyutに話しかけた時、ぎらぎらした視線だけは未だに目つきが悪いままの俺かもしれないが、当然のことながら俺は8年前の俺ではないし、そして半年前の自分さえも、すでにここには居ない。

8年前の俺も、確かにブルーズにはそれなりに傾倒していたけれども、それは今のようにまだPeter Greenという一人のギタリストにぞっこん惚れる前のことだった。
自分はXTJ (The Extreme Tour Japan)をやるようになった後に、ギターというものについての価値観がまったくひっくりかえるほど変わり、ついに自分の人生におけるエレクトリックギターというものの答を見つけたが、8年前の俺は、まさか自分が、自分の究極のギターとしてレスポール(日本製)を選ぶなんて、夢にも思っていなかった。
8年前の俺は、自分が「雲井調子」とか「古今調子」とかみたいな、和風のお琴スケールを、実際に楽曲に取り入れて作曲をするようになるとか思っていなかった。
そして当然のことだが、シンガーとしてもギタリストとしても、俺は8年前よりも、よほど上達したし、ライヴの場における「戦い」は、あれから比べれば圧倒的に経験し、自分の人生の中における戦いに、間違いなく勝ち抜いてきた。
自分の進むべき答を、見つけてきたということだ。
そしてその「答」は、今この瞬間も、否応無いくらいに、神から示され、突き付けられている。

「ははは、俺が音楽やるのも、これが最後だな。よし、よくがんばってきたな、俺。」
と思っている矢先、神からメッセージが届く。
「ここまでは遊びだったのだ。お前はこれからやっと、本格的に音楽に取り組むのだ。」
と。
無茶いってんじゃねーよ、神。

俺は、2014年初頭に出たプラマイの現時点での最新作「Jumping The Tracks」は、素晴らしいアルバムだと思うし、ものすごく美しいと思うし、実際に好きでたくさん聴いたし、今でも聴いているし、プラマイらしいアルバムだと思うけれど、けれども、俺は正直、満足はしていないし、正直、「ぬるい」アルバムだと思っている。

だから、今の俺にとっては、プラマイは、「ぬるい」のだ。

そして、自分自身がそう感じてしまうことは、何より、誰より、俺自身が、いちばん悲しく、切なく思っていることなのだ。

つまり、俺は、あれほど好きだった、あれほど「そこに行きたい」と思っていた、美しく、心地よい、プラマイの音世界に、「もうこれ以上、浸ってはいられない」のだから。

そういうことなのだ。
これ以上、ここに止まり、この音世界の中に、浸っていてはいけないのだ。
俺には、目指さなくてはいけない場所が、鳴らさなくてはいけない音が、もっと違う場所に、あるのだから。
それが「どの場所」なのか、それはまだ、分からない。
でも、音はすでに、聴こえている。
その音に導かれて、その音を辿って、これからの人生を歩いていくことになる。

だから、誤解を恐れず、有り体に言えば、今回の、この奇跡的に実現した7年半ぶりのプラマイの来日公演、俺は、あれほど大好きだったプラマイに「さよなら」を言うために、俺自身がプラマイを「卒業」するために、そのために俺は、彼らを目撃しに来たのだ。それは、彼らの音世界に憧れて歩き続けてきた自分自身の過去の日々に、さよならを告げるために。そして彼らの「最涯ての音」を、この目で、ライヴで、見届ける必要があったのだ。

だからこそ、複数回の公演を見ておきたいと思い、初日の六本木が自分らのCalling Recordsのイベントと重なっていたからして、わざわざ名古屋まで各駅停車を乗り継いで行ったのである。

名古屋まで行った甲斐があったのは、名古屋今池Huck Finnは、本当に小さなライヴハウスであったが、小松さんのバンドが共演だったので、小松さんのドラム飛び入りでの「Jack Nicolson」を聴けたということである。あれは間違いなく、ハイライトだった。最終日の渋谷でも、射守家さんとひさ子さんが飛び入りしての「Jack Nicolson」および、ひさ子さんバージョンの「Waking Up Is Hard To Do」が聴けたが、ブッチャーズの特異な点として、射守家さんのベースはグルーヴをあまり担当していないので、グルーヴや音の推進力という意味では、小松さんがいかに大きな役割と果たしていたのかが逆によく分かった。

今回、良かった点のひとつは、まあ俺はToddleは見逃したけれど、小松さん、射守家さんのユニットがそれぞれ見れたので、ブッチャーズの全体ではなく、パーツとしてのプレイヤーとしての小松さん射守家さんの特色が単体でよく聴けたということである。ブッチャーズのメンバーのうち、言わずもがなリードギタリストとして華のある存在であるひさ子さんは別の話として、技術的に実はいちばん優れていた、というかプレイヤーとしていちばんまともだったのはドラマーの小松さんであると思うが、ブッチャーズは、プラマイと違って、吉村氏が不器用だからか、あるいは頑固に意固地だったからか、変拍子はほとんど取り入れていなかった。けれども、今の小松さんのユニットは、小松さんのドラマーとしての力量や特色を最大限生かす形で、楽曲が書かれ、最大限生かす編成、形態になっている。ギターの女性の方も、そういった小松さんのドラマーの力量、ブッチャーズではほとんど無かった変拍子やプログレ的な展開も含め、小松さんの力量が十二分に生きる形で作曲や音を作れる方で、才能があるなと思ったが、やはりそうは言っても、プレイヤーとして、サウンドそのもので小松さんを凌駕するくらいであって欲しい、と思うのは欲張り過ぎだろうか。つまり、こんなに強く鋭く大きな音が鳴らせる小松さんだが、ブッチャーズでは、それ以上に、吉村秀樹の音は、強く、でかく、うるさかったのである。

そして射守家さんのユニットにおいては、やはり射守家さんの特異な立ち位置というか、ブッチャーズの意味のわからん分厚く複雑で絵の具をまき散らしたような色彩感の和音は、吉村さんがギターで意味のわからんコードを鳴らしていたのはもちろんだが、その他にも、実は半分くらいは、射守家さんがベースで鳴らしていたのだな、意味のわからん和音を、というのが実感できた。そしてリードベースと言えるくらいに、上の方で色々やっていたんだな、と。そんで逆に、一般的なベースの役割というようなリズムやグルーヴは、やはりあんまりブッチャーズにおいては射守家さんは担当してなかったんだな、そのぶん、小松さんががんばって叩いていたんだな、ということが、よく分かった。

あとは、ステージ上では非常に強そうで怖そうで男らしい射守家さんが、in personで見ると、意外なほどに小柄な人だったことに、今回本当に驚かされた。でも、あの労働者的なルックスとヴァイブは、本当に素敵である。

もう一度言うが、+/-{plus/minus}は2000年代に出会った、俺のいちばん好きな、お気に入りのバンドだし、彼らに2007年に出会っていなければ、俺は音楽をその時にきっと止めていたし、つまりはその後のクリスチャンバンドとしてのImari Tonesもきっと彼らに出会っていなければ存在しなかった。

だけれども、俺がここ数年というか、震災の後になってから聞き出して好きになったバンドの中に、これも古いバンドだが(1970、80、90年代)XTCというバンドがいるが、XTCなんつったって、これも偉大なバンドだし、決して商業的に大きな成功は収めていないバンドであっても、偉大なカルトバンドとして、世界中のミュージシャンに影響を与えたし、言うまでもなく+/-{plus/minus}だって、そう言われてみるとプラスマイナスってちょっとバンド名を傾けてみるとXTCみたいになるし、もちろん影響を受けてないなんて言わせない、って感じだけれど。

最初、XTCを聴き始めた頃には、俺の中ではプラマイの方が上って感じだったけれど、何枚も作品を聴き進めて、聴き込んでくると、やはりこの偉大なるXTC、その凄さは、いつのまにか俺の中での序列は、プラマイよりもXTCの方が上になっている、そのことに、ふと気付かされた。

たったそれだけの事でも、俺の中では、やはりこの何年もの年月の中で、色々なことが変わっているのだ。

最終日の渋谷公演は、共演のMoolsも、やはり久しぶりに拝見して、ああ、こんなに真面目な(ステージングはこれ以上ないくらい不真面目だが)ファンクバンドだったんだな、と、改めて感銘を受けると同時に、謎の「ゴスペル」発言をして、プラマイをゴスペルバンド扱いして、神に感謝、とかニューヨークのチャペルでコンサート、とか発言していて、実際にゴスペルバンドやってニューヨークのチャペルでコンサートもやったことのある俺としては非常にこの展開に困惑したのだが(笑)

しかしインターネット上での情報の拡散もあるし、こういうふうによくわからんところで「ゴスペル」発言が広がるのも、たとえばこれも俺たちが8年間「クリスチャンロック」やってきたことの影響と言えるのだろうか(笑)

そのゴスペル発言を受けて、ってわけじゃないだろうが、この最終日のプラマイの姿は、サポートの長兄リチャードの服装がなんだか修道士のような着こなしだったり、あとは先日「沈黙」の映画を見た後だからかもしれないが、くるくるの長髪に、東南アジア系の顔をしたプラマイの面々が、ちょうどフィリピンとか、確かに当時の「南蛮」だし、まるでその「南蛮」からやってきた修道士だか宣教師のように見えてきた。

8年前、俺はやっぱりクリスチャンロックを始めたばかりの頃だったから妙にその話題に燃えていて(笑)、James Baluyutともそういう話をしてしまったことがあるが、彼らはやはりフィリピン系ということもあり、「家庭が、母親がそうだったから」という理由で子供の頃に普通にカトリックの洗礼は受けているといったようなことを言っていた。(Queen of Detroitという曲からもわかるように)マザコン気味な気配を感じるJamesは当然として、長兄リチャードもきっとそうなのだろう。だから、その意味では確かに「南蛮からの修道士」で間違いない。

そう、確かに彼らは「宣教師」だった。
遠くニューヨークはブルックリンの地から、この日本に、最新最先端のインディロックという福音を伝えるため、やってきた宣教師だった。
そして彼らの音楽は商業メインストリーム音楽に支配された本国よりも、こうして不思議な形で、おしゃれ系インディを愛する人々の多く住む日本で、受け入れられ、そして、bloodthirsty butchers吉村秀樹という一人の偉大なロッカーとの熱い魂の交流を経て、ここに、世界のどこにも無い、もっとも純粋で、もっとも熱いロックの魂の交流が行われた。これは、ロックの歴史の中でも、間違いなくもっとも美しく、奇跡的な出来事だ。
そして、その現場に、確かに俺も居た。

非常に美しい、まさにロックの神の導きとしか言いようのないことだ。

最近ちょっと、「沈黙」をきっかけに遠藤周作を読んでいることもあって、だからってわけじゃないし、うまく説明ができないが、今俺たちが居る、そして俺たちがこれまで生きてきた時代が、そのロックの時代が、20世紀の商業ロックがあり、その果てに鳴り響いた、俺たち世代だけが見つけ、信じることのできた「最涯て」のインディロックが。そのあまりにもかけがえのないロックの時代の奇跡に。そこに確かに、俺たちは生きていて、人々が生きていて、そして、そこに確かに神が居る、キリストが居る、とそう実感した時に、なんだか涙があふれて止まらなかった。

そしてさっきから何度も書いているように、そんな彼らの鳴らした「最涯ての音」によって、確かに俺は導かれ、救われたのだ。(彼らに出会ったことによって、音楽をやめずに続けて、その結果音楽に導かれて神を信じるに至り、クリスチャンロックを始めたとか、そう言えば、文字通りの意味で、「救われた」のだよな。)

そんで、結果としてそんな彼らの「熱量」と「最先端」とその影響を、俺は自分らの活動を通じて、この狭くて小さな日本の「クリスチャンミュージック」の世界に、きっと持ち込んだはずだ。そして、あるいはThe Extreme Tourなどなどを通じて、本国アメリカのクリスチャンシーンにも伝えたはずだ。その熱は、共に活動している仲間たちには、きっと伝わっているだろう。

世界、そんでアメリカの音楽シーンも、多様で裾野が広いのは承知しているが、新しいもの、新しいスタイルが生まれる時、それがメジャーのマーケティングを通じて大衆に届くのは、ほとんどの場合、そのスタイルが何度かコピーされ、薄められ、一般化した後の事だ。それが現代社会の音楽シーンの現実だ。だからこそ、本物のオリジナリティを持つ、コピーではない「源泉」に出会った時、たとえそれが商業フォーマットに乗っからないものであったとしても、それは非常に美しく、貴重な体験となる。プラマイは、まさにそんなバンドだった。

そんな「世界最先端」を鳴らしていた、そして、未だに彼ら以上に先を鳴らした者は居ない、そう、「吉村秀樹」ただ一人を除いては。
そんな「もっとも先」を鳴らしていたはずの、彼ら+/-{plus/minus}。そんな彼らの辿り着いた「最涯ての音」。つまり、すなわち、「ああ、彼らも、これで限界なんだろうな」ということを実感させる今の彼らの音。
そして、たとえアルバムの内容に俺は満足していなくても、そして、「ぬるい演奏しやがったら許さない」と思っていたが、彼らは決してやはり、ぬるい演奏はしなかった。あのとんでもない熱量。クリスの化け物のようなドラミング(と酒量)。あまりにも連日ショウが組まれていたのでやはり最終日にはJamesは声を痛めていたが、それに比して、よりハードにレンジの広いスタイルで歌うPatrickの声は大丈夫だったのはさすがとしか言いようがないが。そしてとんでもない圧のギターサウンド。そして美しい轟音。

プラマイはやはり、「世界でもっとも美しい轟音」を鳴らすバンドということで間違いない。その轟音の迫力や、根性や、情念においてはブッチャーズが勝るだろうけれども、「美しさ」という点ではやはりプラマイの方が上だ。世界でもっとも美しい轟音、プラマイ。
そんな彼らは、やはり、手を抜いて演奏なんてしていなかった。
さすがだった。
だから、あのアルバムも、彼らは、手を抜いて作ったわけでは決してないのだ。
彼らは、手を抜いてなんかいないのだ。
変わったとすれば、それは、俺の方なのだ。

だから、+/-{plus/minus}は、21世紀になってから出会った、俺にとってのもっとも大好きなお気に入りのバンドであった。
けれど、それも、昨日までのことだ。
自分の中の、本当に大好きだったプラマイと、プラマイを大好きだった過去の自分と、その生きてきた日々に、俺はさよならを言った。

最高のショウだった。
Young Onceは鮮烈に美しく、壮絶に勇壮だった。
Bitterest Pillで様々のことを思い出し、泣けてしまった。
Important Thing Is To Loveでやっぱり思い出して泣いた。
Megalomaniacはやはり美しかった。いちばん好きな曲だった。
これ以上の「最涯て」を鳴らせるバンドなど、有名無名を問わず、地球上にそうそう居まい。

けれども、今の俺にははっきりと、「もっと上」があるのだ。
そして「もっと先」が見えているのだ。

それが何なのか、俺だけしか知らないし、俺は今日のこの日に対しても、責任を持ってこれからを生きねばならない。
かけがえのない、「奇跡の時代」を、俺は生きてきたのだから。
。。。
。。。

お節介なのか。
偉そうなのか。
最先端の「宣教師たち」に対しても、あくまで上から目線なのか。
あるいは単純に、口が減らないのか。

名古屋のショウの際に話したガールフレンドさんから、うっかり聞いて知ってしまったJamesの私生活のあれこれ。個人的にはショックだったり。
今回は持ってきていなかったが、ずっと愛用している彼のジャズマスター、聞いてみたら’64年(って言ってたと思う)のヴィンテージらしい。
とか。

やめておこうとよくよく思っていたのだが。
言ってしまえばそれは残酷だから。

けれど、やはり伝えた。
「俺はブッチャーズもプラマイも大好きで両方聴いてきた。
音楽的にはいつでも、プラマイの方が一歩か二歩、先を行っていたと思っている。
けれども、最後の二枚、No AlbumおよびYouth、吉村秀樹の最後の二枚。
あれで、ブッチャーズはプラマイを追い越して先へ行ってしまった。
お前は、あれを越せるものを作れると思うか。」
とか。

そして、ついつい。
Keep making music.
って言ってしまった。
残酷で、無責任な言葉。

でも、そうだ。
俺もかつて、2007年に。
彼らに出会ったからこそ、その時、音楽をやめなかった。
そんで、せっかく音楽をやめられそうだったのに、続ける羽目になった。
結果は、見てのとおり、大変な人生だ。
だから、その仕返しに、いっぺんそれくらい、言ってやる資格は、きっとあるだろう。

無理かもしれん。
無理は承知だ。
でも、越えてみせてくれ。
その時には、また、夢中にさせてくれ。
君らは、地球上でもっとも、才能のあるミュージシャンに、違いないのだから。

No(4831)

■…2017年 2月25日 (Sat)…….100年ブランド
100年、200年、って。すげえなあ。いろいろ凄え。
そしてBacchusはやはり「音楽の神」という意味だったことが判明、名付け親は百瀬さん。「酒の神じゃん」というツッコミがやはり入るが、俺にとっては、
音楽の神 => ロックの神 => Jesus is the ROCK => JESUS!!
酒の神 => ワインの神 => 水をワインに => JESUS!!
酒の神 => 日本酒の神 => 松尾様 => 日本酒大好き!!
日本酒の神 => 酒造技術 => 渡来人の神 => ユダヤの神 => JESUS!!
と、そんなふうにしかならんので、Bacchusを使うことはカンペキにmake sense している(笑笑笑)
こちら

No(4832)

■…2017年 2月26日 (Sun)…….やっとできたヒップホップ
そんな訳で、横浜が誇るクリスチャンブルースシンガー「石川ヨナ」さんとコラボレーションさせていただきました!

こちら

石川ヨナさんとは、クリスチャンロック専門レーベルCalling Recordsで活動を共にする仲間として、昨年から何度か共演の機会をいただいています。
で、「日本初クリスチャンヘヴィメタルバンド」を名乗る僕らImari Tones (伊万里音色)と、「横浜が誇る(間もなく神戸に移住予定だそうですが)実力派ブルースシンガー石川ヨナ」とのコラボ楽曲ですが、これがまさかのヒップホップになりました。

私と石川ヨナさんは同世代、同じ歳なんですが、90年代に青春を過ごした者として、実はHipHopというのは共通のバックグラウンドだったりします。
私はヘヴィメタル、ハードロックのカテゴリに属する音楽を一応ずっとやってきていますが、実は90年代のヒップホップは昔から結構好きで、「いつか挑戦してみたい」と思いつつもなかなか機会が無かったものです。
数年前にこのトラックというのか楽曲がたまたま出来て、サウンド的には「Led Zeppelinがヒップホップをやったらどうなるか」というようなテーマでやってみたんですが、よくあるミクスチャーとはまた違った方向性でロックとヒップホップの融合を提示できた気がします。

で、このトラックに乗せてラップしてくれるラッパーをずっと探していたんですが、2、3人のアメリカ人クリスチャンラッパーに声をかけてみるも、なかなか上手くいかず、日本人のラッパーにも友達が居らず、そのまま数年間、お蔵入りになっていたものです。しかし、Calling Recordsの仲間たちに相談してみたり、色々考えているうちに、「もう自分でラップしちゃえ」と思い立ち、そしてラップのパートだけでなく、メロディのパートが必要でしたので、女性ヴォーカルが欲しい、となった時に、石川ヨナさんしか居ない!と思って、コラボレーションが始まりました。

お互い、クリスチャンアーティストなので、もちろんクリスチャンヒップホップでしょ、と思って書き始めたんですが、私はラップなどやったことがなく、もちろんラップの歌詞も書いたことが無かったので、なかなか思い通りに行かず、そうこうしているうちに昨今の世界情勢、アメリカや世界の政治状況とか、それをめぐるキリスト教世界の現状とか、そういうのを見ているうちに、やっぱヒップホップは世相を斬るべきだよな、と思っていたら、結構激しいリリックになってしまいました。ある意味、クリスチャンヒップホップの枠からもはみ出してしまったかもしれませんが、真実のメッセージを投げかけるという意味では、これでいいのかなと思っています。

僕のリリックが結構攻撃的になってしまったのに対して、ヨナさんのメロディパートは、「あの声に聞け シェマ・イスラエル」と、神に救いがあることを指し示し、愛、平和、寛容のメッセージを発するものになり、その対比が、楽曲のメッセージに重層的な立体感を持たせることに成功しているんじゃないかと思います。
そして、そんな対称的なメッセージとパフォーマンスを展開するヨナさんと私なんですが、最後のパートで十字架を示すと共に「This is our faith」とユニゾンで一致する、という演出になっています。

ヨナさんの歌はさすがのクオリティで、レコーディングでもほとんど一発で決まりでした。そしてヨナさんの歌唱が素晴らしいのはもちろんですが、私も負けじとギターソロで見せ場を作っています。ラップはぶっちゃけ、初挑戦でどうしていいかわからないうちにレコーディングが終わってしまったんですが(笑)、聞いてみると、思ったよりも自然にやれたかな、と自分では思っています。ただ、ビデオを撮影した時に、アテ振りをどうしたらいいか全然わからなくて、歌詞と動きが全然合ってませんね(笑) それっぽい動きをいろいろやってみたんですが、しょせん僕はヘヴィメタルとか、いってもグラムロック止まりで、ラッパーのような動きは無理みたいです。しかし、そんな僕の不自然なアクションに笑っていただければ幸いです。その分ヨナさんは全編、ばっちりとかっこよく決まってますね。

そんなわけで、ある意味クリスチャンヒップホップの枠すらも越えて、コラボレーションという名のバトルを繰り広げてしまった感じの我がImari Tonesと石川ヨナさんなんですが、Calling Recordsの誇るこの2組のアーティストの実力を遺憾なく発揮する、レベルの高いものに仕上げることが出来たことは確信しています。

映像の撮影は2月18日の横浜関内で行われたライヴイベントのリハーサルの合間を利用して行いましたが、石川ヨナさんはもちろん、協力していただいたCalling Recordsの仲間たち、当日のライヴ会場だった関内Jazz Cafe GIGさん、そしてこの日のイベントに来ていただいたすべての皆さんに感謝します!

God bless you ALL!!

No(4833)

■…2017年 2月26日 (Sun)…….なんか来たww
おおお、俺はロックンロール神学を提唱し建て上げなくてはならない!!!wwwww

このプラマイの7年半ぶりの来日公演、名古屋までわざわざ行ったりしたが、やはり自分にとって非常に大きな転記となった。決定的な体験をやはりした。それは別に彼らの音楽の中にってことじゃない。むしろその場に居なかったはずの「吉村秀樹」を通じてである。

そして俺は片道6時間の各駅停車の電車の中や、一晩を過ごした(4時間近くハイトーンで歌い続けたww)カラオケ屋さんの中で、XTCを聞き、遠藤周作を読んでいた。もちろん自分の未来の指針である「鍋島」のデモも聞いて検証していたが。
それはやはり非常に大きな収穫だった。

まずは遠藤周作さんについて言えば、こんなことは基本的なことだから改めて言うまでも無いのだけれど、真面目なクリスチャンの中には遠藤周作さんがその作品の中でイエスキリストの奇跡パワーとか神パワーを否定する形で書いていることに文句をつける人は多いだろう。だが俺は音楽家だから、そんなことは彼の本を読むまでもなく、遠藤周作という4文字を見ただけですでに、そんなことの理由は理解できるのだ。そんで実際に読んでみたらやっぱりはっきりちゃんと書いてあったし。それはつまり彼が作家、文章書きとして、「本物」であり「天才」だということの証明に他ならない。つまり彼はそれでも、勝ち目なんて無いとわかっていても、聖書という「謎」に、「神」の書物に、立ち向かっていったのだ。それは彼がプロフェッショナルの一流の物書きだったからである。だから彼はそのために、たとえ人間最強クラスの物書きであったとしても、神の前に、すべての武器を捨てて、丸腰で、身ひとつで、その「謎」の中に挑んでいくしかなかったのだ。そして、案外と「神」は、その「聖書」という「人類史上最強の謎」は、その遠藤氏の潔い姿勢に、答えてくれたのだ。そして、すべての奇跡を捨てる替わりに彼は、いちばん大きな奇跡を手に入れることになった。ひとつだけ言うのであれば、聖書というのは多重的構造を持った多次元書物だから、その解き明かしをするにあたっても、やっぱり多次元的なアプローチを取らなければ読み解けるわけがないのである。それがわかれば、遠藤周作さんがイエス・キリストの神パワーを1ミリも実は否定していないことがわかるはずだ。

俺はイエス・キリストというのは2000年前に偉業をやった人だと思っていたし、ロックンロールの歴史はすでに黄金時代を終えたと思っていたし、原始キリスト教は2000年前に形成されたものだと思っていたし、そんなん知らんと思っていたが、違った。
今がその時だった。
今まさに、それをやらんといかんのだった。

うおおキリストの再臨さえも、俺は今、「近いぜ」と言える。
そして、「あるいはもう半分くらい来ちゃってるかもしれないぜ」とか思う。(勘違いの可能性も大、笑)
誰もやれなかったことが、今、ここに、成るかもしれない。
もしそうだとしたら、おおおイエスさんはなんて凄えんだ!!!

俺は、昔、1990年前後に作られた”Bill&Ted”というお馬鹿なロック映画シリーズ、若き日のキアヌ・リーブスが出演しているところのあれ、その第2作目のエンディングを見て、ロックンロールの神学が成立し、それによって世界が変わっていき、世界は平和になり、夢のような未来がやってくる。
それは冗談みたいに笑えるストーリーだったけれど、
そんなふうになればいいな、と思っていたし、ていうかそんなふうになるべきだ、と思っていた。
でも、本当にそうすることができるかもしれない。

俺はこの神話を語らねばならない(笑)
そして、その中心にはやはりイエス・キリストしかいない!(から安心して欲しいww)

No(4834)

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