新しいとはどういうことか

人生の中で、答えが出るということはあるだろうか。
 
自分の人生の中で、追い求めてきたものに対して、また信じてきたものや、こだわりを持って向き合ってきたことに対して、明確な答えが出ること、天啓のように答えが示されることは、どれくらいあるだろうか。
 
答えを得るためには、まずそのための問いを発しなければいけない。
 
一人の人間にとっては、人生におけるひとつひとつの選択や判断が、その問いかけであり、行動することがすなわち問いかけであり、また生きることとは問いを発することでもあるだろう。
 
だから常に問いかけることだ。
意識しようとしまいと、答えはおそらく、与えられる。
 
幸いにして、僕は自分が向き合ってきた「音楽」というものについては、
子供の頃、ないしは少年時代から発してきた問いかけについて、
これまでにいくつもの明確な、決定的な答えをいくつも得ることが出来た。
 
だが、そのことについては今回は語るまい。
 
僕は、こう見えても新しいものを求めている。
もちろん、自分は「ハードロック」「ヘヴィメタル」といった、どちらかというと一定の型にはまった古くさい伝統的な音楽に取り組んでいる人間であり、最新流行のものに触れる機会は間違いなく少ない部類の人間だけれども、
それであっても、自分なりに心の中ではいつも新しいものを求めてきた。
 
ロックの黄金時代や、人間の創作力のピークが商業的に華やかだったロックと噛み合っていた時代には、新しいものはオーバーグラウンドにあり、世界的なスーパースターたちがそれを届けてくれた。
 
けれども、僕たちの知っているロックというものが崩壊し、21世紀を迎えてからは、オーバーグラウンドからは「良いもの」は出てきても、「新しいもの」は出てこないというのが現実になってしまった。
 
「新しい」ものに触れたければ、もっとアンテナを張り巡らせて、インディペンデントにやっているアーティストたちに目を向ける必要があった。
そして、そんなシーンもたぶん、ロックという音楽が成熟して以降、世界的に大いに盛んになっていったのだと思う。
 
2010年代の初頭くらいまでは、そうやって僕は「新しいもの」に触れることが出来た。
 
だけれども、いつの頃からか、そう、ちょうど僕が大好きな敬愛するbloodthirsty butchersの吉村秀樹氏が急逝してしまった頃を境目にして、
僕はそれ以来、本当に新しいと思えるものを見つけられなくなってしまった。
 
もちろん、良いと思えるアーティストを見つけることは出来る。
ここ数年、見つけてファンになった世界のどこかのインディーバンドたちの中にも、良いアーティストはたくさん居る。
 
けれども、社会的に新しい、という要素はあるかもしれないが、音楽的にはどうしても、過去にあったものの再生産や焼き直しのものばかりになって、本当の意味で「新しい」と思えるものに、たぶん僕は、2013年以降、出会っていない。
 
その結果、それ以来、どういったわけか1960年代のバンドに夢中になったり、
つい先日、いちばん最近好きになった自分の中で最も新しいアーティストは1930~1940年代に活躍したアーティストだった、という始末だ。
 
そのアーティストについて語りたいのであるが、それはまた次回の投稿にするとして、では「新しい」というのはいったいどういうことなのか考えてみたい。
 
 
「新しい」というのは、いったいどういうことなのだろうか。
 
僕の考えでは、「新しい」ということにも、いろいろな種類というか、段階がある。
 
 
 
一番もっとも本質的、というか、本来の意味で新しい、と僕が考えるのは、
「創造的に新しい」という段階だ。
 
これは、はっきり言って説明できない。
音を鳴らすにあたっての、創作の部分、音が出てくる根本の部分において「新しい」と感じるもののことだ。
これはきっと、自分の考える「自由」というものに深く関係しているのだと思う。
「自由」というものをその手にがっちりと掴み取り、その上で時代に向き合って音を鳴らす時、それは新しいものになるのではないか、と思える。
でも、それは言葉で説明は出来ない。
 
要するに、言ってしまえばこれはソングライティングのことであり、作曲や創作の上での根本のところだ。
昔からよく、腕の立つロックギタリストやギターヒーローとして知られる人物が、「自分はギタリストではなく、ソングライターとして認知されたい、名を残したい」みたいな発言をするけれども、それはやっぱりこの部分を目指していることの表れだろう。
 
創造の領域において、根本的に新しい、ということ。これが難しいのは、実のところ、この領域の音を鳴らしているアーティストは、見た目にはとりたてて変わったこともなく、ごく普通の伝統的な演奏形式をしていたりすることも多い。
 
たとえば、21世紀になってからこっち、というか今ではそういうのも出尽くして飽きられていると思うが、ちょっとエスニックな楽器とか、ポストロック的な、ロックバンドには珍しい編成で演奏すると、それは新しい感じがするので注目を集め易いと思うが、
 
根本的に新しいというのは、そういうことではなくて、たとえコンベンショナルな、一般的な楽器を使っていたとしても、音の選び方や、音の鳴らし方そのものが、なんというか、あえて言えば世界との向き合い方そのものが、まったく違う、ということなのだと思う。
 
そういった領域に連れていってくれるアーティスト、ミュージシャンと出会えた時は、本当に幸福な気分になれる。
 
けど、そんなことは、滅多にないし、今の時代にあっては、たぶんもっと無い。
 
 
 
 
その次の段階として例示できるものは、「音楽的に新しい」ということ、「サウンド的に新しい」ということ、「奏法的に新しい」ということ、だと思う。
これらは、レベルとしてはおんなじようなことのように思うので、まとめて扱ってしまう。
 
音楽的に新しい、なんて、これも意味が曖昧で、ちょっとよくない例かもしれない。
けれども、たとえば、一般的にあまり使われないような、これまであまり使われていなかったような音階を、これまであまり使われなかったような文脈の中で鳴らせば、たぶんそれは、音楽の要素としては新しい。
少なくとも、世間一般には、新しい要素として認識される。
 
僕はクラシックは詳しくないので知らないが、どこかで聞きかじったことによると、たとえばワーグナーが「トリスタンとイゾルデ」で鳴らした和音は、それまでには常識的にあり得なかった音の並びだったらしく、当時は衝撃をもって迎えられたらしい。たぶんそういうようなことだ。
 
現代においては、あらゆる種類の音楽が出尽くして、あらゆる音楽とか技法が研究され尽くしているから、そしてそれらのものもインターネットを通じても簡単に手に入ってしまったり学べたりするから、「音楽的に新しい」なんていう音を、本当に見つけることは、きっと簡単なことではない、ということも、皆さんみんなみんな、前提として知っているはずだ。
 
 
 
次に「サウンド的に新しい」ということが言える。
これは、楽器であるとか、機材であるとか、テクノロジーの進歩としてとらえることも出来るし、実際に、テクノロジーの進歩という形で表れることが多いと思う。
古い時代にはギターの歪みを得ることは簡単ではなかったが、現代ではハイゲインのギターサウンドを得る方法はいくらでもある、みたいなことだ。
それは録音機材の進歩ということでも言うことが出来る。
どの時代においても、その時代に使われていた録音機材や録音の手法とか、音作りのメソッドがあって、それはつまり、その時代の流行ということでもあるけれど、そうやって進歩した機材や技法を使い、それまでになかったサウンドを作る時、それはきっとサウンド的に新しいものになる。
 
わかりやすく言えば、アコースティックギターがエレクトリックになったり、シンセサイザーが開発されたり、シーケンサーやリズムマシンやサンプラーが開発されたり、そしてそれを使いこなすアーティストが現れたりすると、そこに新しいジャンルが生まれたりする。
そんな技術の革新が、これからどれくらいあるだろうか、また、どれくらいそんな「革新」の余地が残されているのだろうか。
 
 
 
またその次に、「奏法的に新しい」ということも言えると思う。
たとえばギターにおいては、どれくらい昔のことかはわからないが、ボトルネック奏法というのかスライド奏法が最初に生まれた時は、きっとそれは新しい、画期的なものだっただろう。
 
ロックギターで言えば、ジミ・ヘンドリクスがトレモロアームというのかワーミーバーを使って破壊的なサウンドを作り出したり、エディ・ヴァン・ヘイレンがいわゆるライトハンド奏法を(発明したかどうかはともかく)大々的に提示したり、そういう例はとてもわかりやすい。
 
こうした奏法面における新しい方法論というのは、その楽器の本質の部分においては、生み出すことはとても難しいが、ギミック的なものであれば、実はいくらでも方法はあるような気がする。楽器そのものを改造してみたり、要するに何でも逆立ちして演奏してみればいいのだし、逆立ちして演奏している人は現代のインターネット上にはいくらでもいるだろう。
 
とはいえ、そういった奏法なんてものは、それがソングライティングの面に影響を及ぼすような本質的なものでない限り、実のところその音楽を聞くリスナーにとっては、あまり関係がない。
 
だけれども、それがたとえ見た目だけのギミックだったとしても、それによってオーディエンス、リスナーが喜んでくれるのであれば、やっぱりそれは立派な「奏法」と呼べるかもしれない。ジミヘンで言えば、歯で弾くあれとか。
 
そのへんはいつだってfine line、きわどい一線だ。
 
 
 
その「奏法」とも多少からんでくるかもしれないが、
「提示の仕方」ということも言うことが出来る。
同じ音楽であっても、新しい「提示の仕方」によって伝えられることによって、
人々の上に新しい印象を与え、新しいものとして認識される、というものだ。
 
これはよく考えると非常に奥深いもので、特にマーケティングということを考えると、いちばん重要な要素であると思われる。
そして、世の中というものはマーケティングによって動いているので、実際の世の中で音楽を演奏していく上では、これはいちばん重要な部分だろう。
 
けれども、面倒なので、これには深入りしないでおこう。
というのは、きっとこれについては、僕が書くよりも、皆さんの方がよく知っていらっしゃるだろうから。皆さんは何も言わなくても、前提のようにして、これについてたくさん考えているのではないだろうか。
 
演奏というものはパフォーマンスであり表現だから、提示の仕方はとても重要だ。だけれども、大事なのは音楽そのものであって、提示ではない。音楽が主であり、提示は従である。けれども、現実にはそれが逆になっている場合が多いのではなかろうか。この部分が音楽を鳴らす大前提になっている人は、きっと僕とは話が合わないだろう。
 
 
 
 
その次に言うことの出来る「新しい」の種類としては、「社会的に新しい」というものを挙げることが出来る。
 
このへんになると、実のところ僕はあんまり興味がない。
 
たとえ、音楽的にまったく新しくなく、サウンド的にまったく新しくなく、そして奏法や、いわんや創造の面において特に新しいものがなかったとしても、
そこに社会的な要素として新しいものがあれば、それはやっぱり世間では「新しいもの」として認知される。
 
たとえば、あんまり良い例ではないけれど、古くさいスタイルの弾き語りフォークシンガーが居たとして、その人が普通に一般的なラブソングを歌っていれば、特に新しいと認識されないかもしれないが、その人がたとえば、地球温暖化なり同性愛者の権利なり、その時代においてタイムリーな話題について歌っていれば、きっとその方が「新しいもの」として扱われる可能性が高い。
 
たとえば、これもあんまり良い例ではないけれど、1980年代の半ばにデビューしたヘヴィメタルバンド「Stryper」は、別に世界最初のヘヴィメタルバンドという訳ではない。当時、ヘヴィメタルは流行していたので、Stryperよりも前にヘヴィメタルバンドはいっぱいいたし、そしてStryperの鳴らしていた音楽も、とりたてて新しいものではなかった。
だけれども、彼らはそれを「キリスト教」という環境の中で鳴らすことによって、「クリスチャンメタル」というジャンルを生み出した。それは音楽的には別に新しいものではなかったけれど、社会的な意味では新しいものだった。
 
またこれもあんまり良い例ではないけれど、アイドルの女の子たちにヘヴィメタルを演奏させる、みたいなことも、音楽的には新しくなくとも、社会的な意味において新しい、という例として挙げることが出来ると思う。
 
 
 
 
その次に挙げることの出来る「新しい」の段階としては、「メディアの上で新しい」というものがある。
 
これは、音楽的にはまったく新しくなく、10年前にアンダーグラウンドで流行していたようなサウンドを焼き直し、それっぽいルックスのメンバーを集めて、音楽評論家に絶賛させ、「これはヤバい。最新流行のサウンド!」とメディア上で書いて喧伝することによって生まれる。
 
確かに人々の耳目を集めるような音作りや、パフォーマンスをしていることもあるが、多くの場合、冷静に聴いてみれば、そして後から振り返ってみれば、それは別段に新しいものではなかった、ということになることが多い。
 
そして、世の中にある「新しい」アーティストのほとんどが、残念ながらこのケースに分類されるのが現実だと思う。
 
その事を責めはしない。
こんな世の中にあって、音楽業界というものは、あの手この手でリスナーをその気にさせ、レコードを(今ではレコードですらなく、イベントとかグッズとかかもしれない)買わせなければいけないのである。
 
だからして、メディアというものはもう長いこと、そうやって毎月(あるいは日替わりで)ヒーローを捏造してきたのだし、リスナーもわかっててそれに付き合わなければいけない、というか、みんなきっとそうしてきたはずだ。
 
 
 
 
新しい音楽、そして音楽の革新は、多くの場合、上に挙げたような「新しさ」の要素を、いくつも組み合わせて生まれる。
 
でも、自分としては、メディア的に、とか、世間的に、新しいものではなく、今までに聴いたことのないメロディとか、今までに聴いたことのない和音とか、今までに聴いたことのないリズムやサウンドを聴きたい。
そしてなにより、今までに聴いたことのないような新しいメッセージを聴きたい。
人間の価値観そのものを変えてしまうようなメッセージを。
 
 
でも、覚えておいた方がいいこととして、
とある高名な音楽家が、こういうようなことを言っていた。
「音楽の世界には、バッハが平均律を生み出して以来、本当に新しいものなんて何もない」
というものだ。
 
だから、本当の意味で新しいものなんで、実は何にも無いのかもしれない。
 
 
“かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。”
 
旧約聖書 コヘレトの言葉 1章9節、10節

 

 

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