日曜に教会に行って何が悪い (第一章)

恥ずかしいことだがひさしぶりにまともに「日曜礼拝」なるものに行った。
通っていた某教会が消滅して以来、音楽を作りながら数年間、もちろん色々と考えていたけれど、逆に言えば、この数年、余裕がなくてどうしようもなかったところ、音楽人生が節目をむかえてひと段落したので、どこかの教会を訪れてみる余裕が出来たということでもある。決して軽い行為ではないので、少なくとも僕にとっては、一応、自ら足を上げて、こうしてどこかの教会を訪問できたことだけでもご評価をいただきたい。
 
もちろん、そうはいっても時折どこかの教会を訪れることはしていた。
友人に会う際の野暮用とか、音楽活動の一環とか、いろいろを含め。
昨年オフィスワークをやっていた時も、働きながら2、3の教会の祈祷会に出席してみたりしたものである。たかが3つくらい、と思うかもしれないが、そこを訪れることはやっぱりあんまり簡単なことではない。ご理解いただけたらと思う。
 
もう一ヶ月以上前のことになるが、先日のイースターサンデイの日に、千葉県某所の教会に行ってきた。それは、熱心なクリスチャンとして知られる某ロックギタリストのイベントがあったからである。クリスチャン界隈ではよく知られていると思うが、Kのつくアメリカの超有名なバンドのあの人だ。とある人の案内がきっかけで、そこに行って人に会ってくることになっていた。
 
そんで、そのイベントについても、ブログ等に書きたいと思いつつも、うまく書けずに時ばかりがたったが、その際に、そこの牧師さんと話して、横浜にどんな教会があったかねえ、という話をして、話に出てきた中で、まだ行ったことのないところがあったので、そこに行ってみようと思ったのであった。
 
もちろん、横浜界隈にもあれやこれやの教会もあるのは知っているが、あまり友人知り合いがいるところだとかえって気恥ずかしかったりもする(笑)
早起きできなかったので、一般礼拝には間に合わず(責めないでいただきたい)、ユース向けの礼拝にしょうがなく寄ってきたが(邪魔にならないように隅っこにいたつもりではある)、一応のところ、特段に知り合いに出くわすということはなかった。
 
もちろん、元気に歌っている若者たちと違い、僕は既に人生に疲れ過ぎているので(笑)出席しても座って眠っているだけなので、そんな人にいきなり来られても教会側も迷惑かもしれないが、かといってやはりあまり人と交流することが出来ないので礼拝だけひととおり参加してそのまま帰ってきてしまった。
 
いい歳をした男性が、髪も伸びていてゆるい格好でいるだけで、不審者扱いだし、そういうのも悲しいかなもう慣れている。出来ればやはり嫁さんに付いてきてもらうべきかなとも思う。多くの教会には、”Come As You Are” (そのままのあなたで来てください)と書かれているが、それがあんまり真実でないことは、別にキリスト教徒でなくてもわかることだ。
 
ここ数年、もうずっとそうなのだが、チャーチというのか教会というのは気持ちが楽になる、とは言わないが、どちらかといえば癒されたり元気をもらいに行く場所かと思うが、これはライヴとかコンサートにおいても近年そうなのだけれど、行くたびに却って悲しくなったり、寂しくなってしまうのは何故だろう。
 
これについて、それはお前が人間的にいけないんだ、とか、僕のひねくれた性格のせいだ、とかは言わないでほしい。そこはお願いしたい。好きでこんなふうになってるやつなんていないからである。
 
 
思い返してみれば、僕がクリスチャンになったばかりの頃、自分のバンドで「クリスチャンロック」「クリスチャンヘヴィメタル」なんてものに取り組み始めたばかりの頃。その時、すごく恵まれていた。いろいろな環境やタイミングに、恵まれていたのである。それは、後になってみるとわかることだ。
 
では、なぜ神はそれから、様々なものを僕の手から取り上げられたのか。
様々なものを見せた上で、なぜ神はその後、それらのものを一度、私の手から取り上げられたのか。
 
それは、建て上げろ、ということなのだろうな。
築き上げろ、ということなのだろう。
 
何をか、っていうと、それはたぶん、神を礼拝するってことを、である。
 
それがどういうことなのか、軽く考えているつもりはないが、それでもやはり、僕はまだ考え足りないのかもしれない。
 
自分自身を忘れるな、ということである。
いや、自分自身のことなど、とっくに忘れ去って久しいのであるが、自分の使命だけは忘れるな、ということなのだろう。
 
だから、今日もいろいろと考えた。
 
 
誤解しないで欲しいが、当時、環境に恵まれていた、と言っても、僕が通っていたのは、アフリカ出身の牧師さんがやっていた単立の小さな教会だ。どこの組織にも属していないホームチャーチみたいなものだった。だから、そこで友人を作るとか、そういう感じではなかった。そこからネットワークが広がるとか、そういうことも無い。そういった場所にいたことが、クリスチャンミュージックをやる上で、良かったのか、良く無かったのか、それは、人によって考え方があるだろう。けれども、もちろん僕は、小さくてもアットホームな環境に居られたことを、「良かった」と考えている。そこに「信仰」があったか、なかったか、と言えば、やっぱりそこには、かなりピュアな形で、信仰が確かにあったからである。そこで過ごした時間は、やはりかけがえのない財産であると、後になってみてわかる。
 
 
話は変わるが、神の教えであれ、キリストの救済であれ、それを理論的に説明すること、人間的に言葉の上でプリーチすることは出来るだろう。
だけれども、霊の言葉でそれをできるやつはそうそういるもんじゃない。
 
とはいえ、霊の言葉でそれを語るようなやつは、だいたいにして多かれ少なかれそれは詐欺師だったりする(笑)
そこがまた、問題である(笑)
(俺自身は音楽を演奏する上では詐欺師で構わないと思っている、笑)
 
なぜみんな、霊の言葉に対してここまで無神経でいられるのか。
 
理由は、もちろん僕も人間である以上、わからないではないが、俺はやっぱりわからない。
 
よほど耳がわるいのか、という話である。
 
騒音に慣らされ、魂の言葉に耳をふさぐことに慣れ切っているのか。
 
その結果、心理的な「前提」の外側を、誰も見ようとしないのか。
 
霊の言葉にちょっとだけ敏感な「自称スタンド使い、笑」の愚痴であるが、こんなことを冗談でも言わないで済むような世の中にはやくなってもらいたいものだ。
 
 
教会みたいな場所に行くとわかるが、
俺の中には確かに、神を礼拝することへの希求がある。
それは最高のサウンドで、真のワーシップをするためである。
 
「神を礼拝する」なんていう行為を「建て上げる」ために、
何をすればいいのか。
 
俺自身は、自分の音楽活動のチャンスをつかむために、
たとえばこれから、たった1人でも、ナッシュビルでもニューヨークでも乗り込んでみたい。予算ないけど。
 
けれども、なぜだかしらんが神さんから、まずウェブ上の仕事を「建て上げろ」と言われている気がする。
 
まずは自分の声が聞かれるようになれと。
 
それをやってからでないと、どこへ行っても意味がない、と。
たぶんそういうことなんだと思う。
 
だからやっぱり、ちょっとこれを、時間を費やしてやってみる必要があるのだと思う。
 
そうでないと、僕はまだ、ナッシュビルに乗り込むどころか、
近所のスタジオにメンバー募集の張り紙をすることさえ、まだ早いのではないかと、ためらってしまうくらいだ。
 
 
失礼にあたるだろうから、ブログやインスタに載せるとかのために、礼拝の写真とかは撮ってない。あしからず、というか、ご理解ください。
 
弱音や愚痴は嫁さんに聞いてもらおうと思う。
神様ありがとう。
 
愛の言葉でしか、キリストの十字架は語れない。
愛のサウンドでしか、キリストの救済は鳴らせない。
魂の音でしか、真の賛美は成し得ない。
 
そういう私は、一応クリスチャンロッカーのはしくれのつもりである。

 

 

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