[底辺バンドマン日記]ブラック企業は新興宗教なのか

もうちょっとインディペンデントに働いていくため、各方面を模索しつつ翻訳の仕事(英語to日本語)を一件受注したが、これが上手くいって次につながってくれればいいのだが、

ここしばらくの間お世話になっていたバイト先は日本には普通によくある典型的なブラック企業だった。とはいっても、それは本当に日本にはいくらでもあるブラックな体質の企業のひとつである、というだけに過ぎない。

 

で、思ったのだけれど、ブラック企業というのは新興宗教みたいなものだと思う。

というか、人並みに世間を知っている人なら、これくらいのことは何もしないでも常識なのだろう。僕は鈍いので、この歳になるまでそういうこともやっぱり知らず、「ああ、これは新興宗教だあ」って素直に感じた。

すなわち、最初から無理なものを可能と信じて、それを前提として「がんばる」ことで乗り切ることを至上とする。その信念を共有する人間の集団ということだろうか。根本的なところで設計に間違いがあることには、誰も気付こうとしない。それを口に出すことはタブー、というか、タブーというのはつまりこういう心理のことなのだね。

 

元をただせば企業なり経営なりの方向性が、無理のある強引な拡大路線である、等の要因があり、そして何代目かになる社長さんの周囲にはイエスマンが多いのかもしれない。よって、計画、デザイン、設計、運用、に、無理があったとしても、「やれます。いけます。大丈夫。」と看過されるのではないか。なんか、幻を見ているのに違いない。あるいは、たとえ近い将来にどこかで無理が生じて破綻しても、責任を取る必要がないか、そのつもりもないのかもしれない。押し付けられて迷惑を被るのは現場の人たちである。

 

そこに無理があることをわかっている人間は、どこか諦めつつ割り切って役割をこなすわけだが、その「諦め」と「悟り」まで共有するようになったら一人前なのかもしれない。時給をもらっている大多数の従業員(つまり、おばちゃんたち)はそこを「愚痴」や「悪口」として処理し、共有することで生活するのがいちばん普通の一般市民の姿であろう。

 

これが本当にカルト宗教であれば、「抜けるのも難しい」「やめたくてもやめられない」となるところだが、やはり大なり小なり、そういうところがあった。理不尽を共有している共同体にはそういう作用が働くのは自然なことだろう。つまり、不幸とは皆で甘んじて共有するものであり、そこから自分1人、勝手に抜けることは許されない。

そして現場で何が起こっていようと、従業員がどういう扱いを受けていようと、事務所にいる社員さんたちにとってはそれらはすべて「ありえないこと」「なかったこと」であり、彼らはすべてが順調で平和だと信じているようだった。彼らは幸せなのである。

 

もちろん、バンドやりながらふらふらする人生をやってきたので、今までにもいわゆるブラック企業的なところでバイトとか一時的に働いたことがまったく無いわけではない。直近では昨年の雇われオフィスワークも、ブラックではないものの、体質的にはやはり「宗教」を思わせるものだった。

そういう意味では、ほとんどの会社、営利企業、っていうのは、大なり小なり、みんな「宗教」なのだろう。

ビジネスっていうのはそういうものなんだろうと思う。本質的に。何をもって忠誠を誓わせるのか、その内容はそれぞれであろうけれども。

 

だから日本国民はだいたい、そういうブラックなり、カルトなりを笑えない。

自分だってそういった何かを信じているに違いないからだ。それがビジネスであれ、社会生活であれ、政治であれ、何であれ。

そして、それは、カルト宗教に限ってPR活動に熱心、っていう事実ともつながる。それはカルト宗教とはビジネスと相性が良いからだ。というより、カルト宗教の心理こそがビジネスそのものだ、とも言える。

それは、週末になればどこの駅前でも見かける、それらカルト宗教の冊子を配っている人たちを見ればわかることだ。というか、見るまでもなくわかることだろう。

 

その職場は、仕事内容は確かに人々の生活に直結するものであった。

それらの仕事を重要なもの、崇高なもの、と言うのであれば、本来であれば、それに従事する現場の従業員さんたちをもっと厚遇してしかるべきである。

だから方向性が真逆なのだ。

この仕事は崇高である、と言いながら、実際は従業員さんたちに対してお粗末な扱いをし、その犠牲の上で利益を優先して拡大路線を図る、のではなく、
言葉通り、人を厚く遇することで、人を集め、仕事を運用して回していく。

根本の方向性と価値観が、逆なのだと思う。

 

確かにビジネスというのは厳しいもので、勝てば官軍、数字が正義、拡大と成長が第一義かもしれない。

また、仕事の内容を鑑みれば、(それが重要で、崇高なものであるかどうかにかかわらず)、カルトっぽく新興宗教みたいに盲目になってやらないと、とてもじゃないと回せない、そんな業務かもしれない。

また現実には、そんな絶望的で残酷な仕事って世の中にたくさんあるのだろう。

 

でも、だからこそ、弱い立場から搾り取る価値観ではなく、
人を大切にする価値観で、仕事を機能させるような経営者が、世の中に増えて欲しいものだ。

などと言うこのセンテンス、
そういう僕の言葉も、やっぱり宗教っぽくなる。

ビジネスであれ何であれ、結局人はそれから逃れられない。

だから、ちょっとでも「マシな」宗教を用意しなきゃいけない。
必要としてる人のために。

それは、日本に限らず、キリスト教うんぬんに限らず、ちょっとでもましな世界になるように。

 

一応、そういう「崇高な」業務だと信じて、こんな僕であれ音楽をやっているつもりなのだが。
小規模なしがないインディにそんなことが可能なのか。

確かにこれも「最初っから無理な計画」かもしれない。
だがこれは、俺の信じていることだ。人に押し付けるわけじゃない。

それを「宗教だ」と呼ばれるのであれば、ああ、そうです俺はクリスチャンロックをやってます、と答えるしかない。

きちんと看板にそう書いてあるのだから。

 

とりあえず、現場で働いている人たちの、安全と健康と幸福を祈るばかりである。

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