リバイバルってどんな形なのか

先輩とか先人とか、師匠とか恩人とか、
そういう、人生において頭の上がらない目上の人の存在というのはとても貴重なものだ。

僕はとっつきにくい性格の人間なので、(態度ではなく、内面がとっつきにくい)、友達を作るにも、いまだにどうやってやるのかわからないくらいなのだけれど、
幸いなことに、救いというか、尊敬する先輩、先人、恩人、師匠、みたいに呼べる人は何人か持っている。

 

もちろんそれは、直接に会ったことのないEddie Van Halenのような遠い存在から、
もう少し身近で見ることの出来たBloodthirsty Butchers吉村秀樹のような存在もいれば、
勝手に師匠呼ばわりしていいかわからないが今でも尊敬しているJ-Pop界の作曲家として熊谷幸子さんや、
そういうスターの人たちから始まり、

たとえば音楽人生の中で出会った人で言えば、米持師匠もそうだが、かなりお金もふんだくられたが、学ぶことも同じくらい大きかったから、近年にお会いできる機会があった際にやはり会いに行ったし、ていうかそれ以降のうちのバンドの「世界を目指した」音楽活動においても、やっぱり根底に米持師匠の影響があったことは事実だ。

そんでもって、音楽活動をしてくる中でもっともっと色々な人たちにお世話になったのは言うまでもない。
アメリカを訪れた際に何度もお世話になったKさんや、あとはやっぱり僕にとってはいつまでも”My Pastor”であるヤオ師であるとか。
お世話になった人はたくさんいて、それはとても幸運であり、幸福であり、ありがたいことだ。
かくも色々な方々の世話になって人は成長し生きるのであって、それは人間誰しも言えることだろう。

この狭い日本のクリスチャンミュージック(と呼んでいいのか定かではないが)の世界では、
僕がお世話になった先輩方の中で、特に頭が上がらないのはご存知B.D.Badge寿朗閣下、ならびに萩原ゆたかさんだ。
なぜなら僕は萩原ゆたかさんの演奏を聴いて感銘を受けクリスチャンになったからである。これは本当だ。

 

そんなゆたかさんに声をかけられたので、ミクタムの40周年の記念コンサートを見に渋谷まで出かけていった。
これはとてもありがたいことで、そういう頭の上がらない人に声をかけていただきでもしないと、僕はぐーたらなので、また普段それほど日本の「教会シーン」とつながりがあるわけでもないので、こういったイベントに足を運ぶ機会はなかなか無いからだ。

だから、こうやって声をかけていただき、イベントを見て、いろいろ勉強の機会を得る、ということはありがたいことなのだ。

 

 

さて、話は変わるが、しかも、かなりイカれた方向に話が変わるが、昨年秋に自分の「スタンド能力」(笑)に意識的になって以来、
疲れるし、あまりやりたくないし、スケートボードの練習以上に滅多に「練習」しないのであるが、たまにその「スタンド」の練習をしてみようかなと思い立つことがある。

先日、まだ午前中だっただろうか。
部屋の外でカラスが鳴いていた。
しかも、それが、まるでしゃべっているかのように、様々な表情の声で、抑揚を付け、何かを訴えるかのように、あるいはまるで歌うかのように、鳴き続けているのである。

面白いなあ、と思い、また、これは何かのお告げなのか、悪い兆しかしらん、とも思ったので(思っちゃうでしょ)、
しばらく観察していた。
まあ、カラスは脳がかなり発達しているというし、九官鳥だってしゃべるんだから、カラスがしゃべったって、それほど不思議ってわけでもない。

ずっとわめきつづけているので、しかもそれは別に「お告げ」でも「吉兆」でも「不吉」でも何でもないな、と言うのは見てりゃわかるので、
ちょっと思い立って、興味本位でスタンドを起動してみた。

 

要するに霊体とか意識体なんだろうけれど、少なくとも今のところ、自分で意識的に動かすっていう感じじゃない。何が起こるかはブラックボックス状態というのが今のところの経験だ。
けれど、無意識で出来る動作。つまり無意識でもやれちゃうくらい身に付いて熟達した動作、つまり僕にとってはギターを弾くこととか、は、スタンド上でもわりと出来たりするので、
これはミュージシャンの性なのだろうが、セッションしてみたくなったのである。

で、そうすると、面白いことにやってみると、こちらの「スタンド」がギターを鳴らしている間は、あれだけひっきりなしに鳴いていたカラスが、黙って聞き耳を立ててくれるではないか。

僕としてはもっと掛け合いみたいなインタープレイのセッションを期待したのだが、相手はミュージシャンじゃないし(ていうかカラスだし)、仕方なかろう。
でも、ああ、ちゃんと聴いてくれるんだな、って思って、多少交流も出来た結果、別に不吉なお告げとか意味があって鳴いているわけではなく、それはそのへんのおっさんとか、よっぱらいとか、辻説法とか、わめいているおっちゃんと大差ないことがわかったのである。
誰だって歌ったり声をあげたりしたくなることはあるだろう。

 

 

と、それはさておいて、
先輩、先人、といえば、このミクタムのイベントである。

僕らもこの数年、いくつかの「野良」なクリスチャンバンドで集まってCalling Recordsなんてものを立ち上げ、たまにイベントをやったりしている。
それはレーベルというよりは、ミュージシャンの「寄り合い」みたいなものなので、ミクタムみたいに立派に「レーベル」「レコード会社」みたいに言えるものではない。

(ごめん俺がこういうところでこういうことを書いてるとCalling Recordsの皆に迷惑がかかるよな。でも、イカれてるのは俺だけだから。笑。皆はまともだから。)

けれども、日本のキリスト教世界の中でCCMというのか、バンドとかポピュラーミュージック的な活動をしてきたミクタムさんは、言うまでもなく偉大な先輩にあたる。

 

で、ここから先は、多少、文章の雲行きがあやしくなる。
だから読みたくない人は読まなくていいし、読まない方がいい。
ていうかそもそも、上の「スタンド」の話の時点で、たぶん結構な割合の人は読むのをやめているはずだ(笑)

 

なぜかというと、僕はStryperが相手であってもやっぱりケンカをした。文句をつけた。
日本でクリスチャンメタルっていうあり得ない立ち位置で、海外向けに売っていて、たぶんいちばんケンカしちゃいけない相手であるところのStryper(のMichael Sweet)が相手でも、やっぱり文句を付けたし、ケンカした。

だから、相手が誰であってもやっぱり文句を付ける。
それは、真剣だからだ。
本当に神の愛を伝える、ってことについて。
そんでもって、神を信じる、ってことについて、神の救済ってことについて、真剣だからだ。

 

 

一応のところキリスト教徒やっていて、いろいろな教会で、まあ説教もそうなんだけれど、ワーシップ演奏というのか、賛美、その演奏を見て、聴いて、触れることが何度となくあるが、
最近では見るたびに思う。

賛美をする。
つまり神を賛美する。
演奏を神に捧げる。
っていうことが、どれだけ難しいかということを。

別にちゃんとやれてないからと言って、それが意味がないとは思わないし、完璧でなくても「神」はもちろんそれを見て、喜んでくれると思うが。

けれどもやっぱり、まっすぐに神を賛美するってことは、簡単ではない。

何のスポーツであれ武道であれ、またヴォーカルの発声でも同じことが言えるが、
力を入れる、力む、というのはそれほど難しいことではない。
けれども、力を抜く、脱力する、というのは、結構難しい。

力を入れるのは一瞬で出来るけれど、
脱力するためには、下手をすると何年もかかる。

そしてそれは人生においても同じことが言える。
力を抜いて自然に生きるためには、年齢と経験を重ねる必要があったりする。

賛美にもおそらく似たような側面があり、
つまり、楽器を演奏し、歌を歌う時。ワーシップをリードする時。
霊や魂が「脱力」した状態で、それを行うことは、たぶんきっと難しい。

わかりやすく言えば、「無私」の状態というのか、無我の状態というのか、
要するに純粋に神に捧げる何かがあればいいんだろうけれど、
なんかしらんがやっぱ難しいのである。

身もフタもないことを言えば、人はやっぱり、大抵の場合、多くの場合は、
神に捧げる演奏をしようとしても、
現実には、神(キリスト)の事なんか考えてなくて、自分のことばっか考えちゃうのである。

 

だから神に捧げる演奏っていうのは難しい。
けれど、パンクの演奏と同じで、
技術とか全然なくても、情熱とか魂があれば、それだけで神に通じちゃったりもする。
無我とか言っても、エゴを押し通したら、逆に無我に辿りついたりもする。
だから余計に難しい。

わかりやすい例で言えば、
才能も技術もあるミュージシャンが、自己陶酔的な演奏しか出来ないこともあるし、
別にミュージシャンでもバンドマンでも何でもないスーツを着た初老のおじさんが、きちんと神に捧げるワーシップリードをするのも見たことがある。

そんでもって、厳然たる事実として、
人に捧げる演奏と、神に捧げる演奏というものは、違う。
人に捧げる演奏の「成功」と、神に捧げる演奏の「成功」というものは、一致しない。
それは人と神の「基準」が、まったく違ったものだからだ。

 

 

ミクタムという偉大な諸先輩方がいらして、
その先輩方の功績や足跡が、とても素晴らしいものであり、
その土台の上で僕たちは次の世代を生きることが出来るというのは事実であり、

それはたとえば僕がStryperのMichael Sweetとケンカをしたとしても、
やっぱりStryperが元祖クリスチャンメタルとして、残して来た功績、苦労して築いた土台の上に、僕たちだってクリスチャンメタルを演奏することが出来ている、その事実には変わりない。
それと同じだ。

 

たった10分間にまとめられたミクタムのヒストリー映像は凄まじいものだった。
たったそれだけのダイジェスト映像でも凄まじかったのだから、現場でそれを戦っていた人たちにとっては、それは凄まじい戦いだったに違いない。

僕たちが考えられる以上の、僕たちが出来る以上のことを、小坂忠師や、師を中心としたミクタムの人たちは、やりとげてきたのだ。

80年代、90年代。
ミクタムは、大規模なイベントを行っていた。ジェリコジャパンとかそういうやつだったと思う。
そこに注がれたクリスチャンの人たちの、情熱と、信念と、努力と、汗と、血と、祈りと、信仰は、すさまじいものだっただろう。

けれども、じゃあ、何万人、10万人動員して、大きなイベントを成功させたら、
世界は変わるのか。

クリスチャンのワーシップコンサートで全国ツアーして100万人動員したら、日本という国は変わるのか。

クリスチャンのワーシップバンドがスタジアムコンサートをやったら、日本にリバイバルが起きるのか。

答は、残念ながら、そんなに甘いものじゃなかったということだと思う。

つまり、規模じゃないんだよね。
数字じゃない。
少なくとも、人の目に見える範囲の数字ではない。

たぶんリバイバルっていう数字は、もっと大きなものだ。
天文学的なやつ。

だからきっと、数字を追い求めても人の手には負えない。

天国目線から見たら、きっと、3000人の魂を救うためには、
3,000,000,000,000くらいの何かの犠牲が必要なのだろうから。

 

そのことは、もうわかったことだと思うんだ。
それは、ミクタムという先輩方が、身を粉にして、血を流して実践してくれたから。

そこじゃない、ということがたぶん判明した。

だから次の世代は、違うことをやらないといけない。
きっと考え方を、ちょっと変えなきゃいけないんだよね。

 

 

昨晩のミクタムの記念コンサートの賛美は素晴らしいものだった。

音楽ファンの目線から見れば、
ミクタムの面白いところは、
つまり小坂忠師の音楽的なルーツである、
1960年代とか1970年代の、良い時代の日本のロック、ポップス。
つまり、日本のロックファンであれば誰もが愛し、尊敬する、
はっぴいえんど、ティンパンアレイから連なる、
古き良きオリジナリティと日本人ならではの純情とロックへの憧れが同居した、
あの時代のサウンド。
そのサウンドが、冷凍保存されたかのように、比較的そのままの形で存在し、鳴らされるのが面白いところだ。

しかも、そこにキリスト教の賛美という要素が乗ってくる。
そして、それは確かに、その時代の、日本人ならではの真実の賛美であることに間違いはない。
昭和の、という言葉を使いたいが、そう言ってしまうと身もフタもないけれど。

 

そんでもって、演者たちのレベルというかパフォーマンス、演奏も素晴らしかった。さすがだった。
そんなイベントが無料だったのは、とてもなんというか、良心的なんていう言葉では済まされない。
それはもちろん、信仰と言ってしまっていい。

そしてステージに立つクワイヤー、シンガーのみならず、会場が一体となっての賛美。歌声。
そんな歌声がひとつになり、神を賛美する。

その光景に、その歌声に、キリスト教徒の一人として、ましてや日本の地に神を賛美する歌声が響くのを切に願うミュージシャンの一人として、感激しない方がおかしい。

だから感激した。圧倒的だった。

けれども思った。
この熱狂は、神にあってのものだろうかと。

なぜなら「熱狂」というものは、人の集まるところ、どこにだって存在するものだということは、この歳になれば重々わかっている。
それは、サッカーの試合のひとつも見ればわかることだ。

その「熱狂」は、別にキリスト教に限らない。
どこかの新興宗教にだって熱狂はある。

神ってやつは、霊ってものは、結構ややこしい。

その違いは、「人」の目線ではわからない。

 

その人々の熱狂が、ひょっとして福音を広げるのではなく、閉ざす方向のベクトルに向いているのではないのかと思った僕は、ここ一年近く、必要な時にはいつもそうしてきたように、冷静になって、自分の「スタンド」を立ち上げてみた。

つまりそれは、人の目では判別がつかないので、霊の目で見てみる必要を感じたのだ。

上空から、僕の(スタンドの)目に見えたのは、きれいな四角形をした、透明なガラスケースのような箱だった。
金魚鉢。そう思った。四角形だったけど。
そして僕の放った「音」(霊の上での)は、そのガラスケースの上を、さー、っと滑るように素通りしていった。

交わらない、とはこういうことかもしれない。
ガラスケースの中に響く音と、僕の放った音は、少しも交わらなかった。
酔狂なカラスでさえも、耳を傾けてくれたのに、ここでは、ガラスの上を素通りだった。

わかってるよ、酔狂なカラスくらいしか、聴いてくれないんだよな、俺の音(笑)
なんかね、寂しい人間にしか、伝わらないのよ。それは、ほら、経験上よく知っている。

 

 

40年にわたるミクタムの歴史を記したパンフレットには、
ミクタムの歴史は壁を壊すための歴史だったと書かれていた。
たとえそれがガラスケースの中であっても、
日本の「キリスト教業界」の中で、壁を壊し、風通しを良くして、確かに物事を変えてきた先人たちの、努力と人生には尊敬を感じる。

けれども、このガラスケース、を、なんかしらんが見えない壁を、これから壊すことが、果たして出来るだろうか。

別にそれは小坂忠師の責任ではない。
それは、僕たちを含めた(俺だってもうそんなに若くない)、これからの新しい世代の役割だからだ。

 

 

日本にはキリスト教が根付いておらず、
キリスト教の人口は、先進国の中では群を抜いて少ない。
それは仏教どうこうよりも、日本がビジネス優先の無神論の国だからだ。

そんな日本にあって、
クリスチャンたちは「リバイバル」と叫んできた。
日本にリバイバルを。
日本にリバイバルが起こるその日まで。
日本にリバイバルが起こることを信じている。
そう、口々に、合い言葉のように。

だけれども、それなりに何年かキリスト教徒をやってみて、
いろいろな光景を見ていくと、
だんだんわかってくる。
誰もリバイバルなんて、本当に求めてはいないのだということが。

神の愛を伝えたい、なんてことは、誰も思ってやしないのだということが。
ましてや、イエス・キリストのことなんか、誰も本気で気にしちゃいないのだということが。

それを証拠に、多くの教会や、キリスト教のイベントに行ってみても、
そこでキリストに出会えることは少ない。
キリストを見せてくれることはとても少ない。

教会や、団体や、組織や、共同体としての、
都合や、利益や、願望は聞かされても、
神の愛が語られる場面には、ほとんど出くわさない。

 

愛を語るってことは難しい。
ましてやイエス・キリストを「レペゼン」することは簡単なことじゃない。
それはわかる。

けれども、教会にあってイエスさんの不在を感じなきゃいけないのはすごく寂しい。

 

 

昨晩のイベントでも、MC(文字どおりのマスターオブセレモニーなのか)というかお祈りを担当されていた牧師の方が、「日本人が総崩れとなってリバイバルが起こる」という発言をしていた。
それは、別に言葉の選び方でたまたまそうなっただけかもしれない。

けれども、俺は、ちょっと気になった。
きっとこの人、すげえ勘違いしてる、って思った。

リバイバルって、どんなものなのか。
この日本という「かたくなな」国に、リバイバルが起こるとしたら、それはどんなふうなのか。

世界でもっとも、キリスト教を受け入れていない、「最後の国」である日本が、イエス・キリストを受け入れて、リバイバルが起こる時、それはどんなふうになるのか。

 

 

リバイバルっていうのは、
たぶん多くの日本のクリスチャンの人たちがイメージしているようなものじゃない。

仏教徒、あるいは無神論で関心のなかった99%の日本人が、「すみませんでした。神は存在して、イエス・キリストが本当の神でした。」と謝って、1%のキリスト教徒に合流する。
そういうものでは、たぶんない。

別に長年虐げられてきた(歴史を見ればこれは事実である)少数派の、勝利の日というわけではないと思う。

その逆で、
その少数派であった僕も含むキリスト教の人たちが、そしておそらくは世界中のキリスト教徒の人たちにとって、
ああ信仰というのは、本当はこういうことであったのか、
今までの我々の信仰は、まだまだ未熟であったのだな、
と、教えられるような出来事になるはずだ。

 

それがどんな形になるのかは、俺にはちっともわかんない。

けれども、信仰っていうのは、形じゃない。
そしてイエス・キリストが示した愛っていうのは、この世の政治とか権力争いとは何の関係もない。

地面に線を引いて、あなたも神を信じてこの線の中に入れば、天国へ行けるわよ、とか、そういうものじゃない。

その線を消して、そんな線のことなんか忘れて、
おい、知ってるか、お前、別に何もしなくても、そのまんまで、最初っから、神に愛されてるんだぜ、って。

お前ら、自分では汚れた人間だと思ってるかもしれないけど、
別に何もしなくても、そのままで、無条件で、神に愛されてるし、かけがえのない神の子供なんだぜ、って。

そう言ってやるだけの方が、また多少は簡単な気がする。

 

もちろん、実際にはそれはすごく難しい。
やってみればわかる。
むしろいちばん難しい。

真実を伝える、愛を伝えるってことは。

だからみんな、それを避けるし、あきらめる。

 

でもあきらめなかったやつもいる。

イエス・キリストっていうのは、そんなあきらめなかった大馬鹿野郎の代表だ。

だから俺だってあきらめたくない。

みんなもっと、イエス・キリストのことを知るべきだ。

愛にいっしょうけんめいになるべきだ。

その時に、その人がキリスト教徒かどうか、なんて、あんまし関係ないよ。

 

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