下着の中の戦争

僕は特にSNS上には報告等はしていないものの、個人的なFamily Issueによって周囲の皆様にご心配をかけてしまっているだろうとは思っている。具体的に言えば嫁さんのお母様の件である。

その件についてはまたぼんやりと報告を書き記しておきたいと思っていて、それはもちろん家族ということや夫婦ということについて、また愛というものについての私的な言葉を書き綴るだけかもしれないが、人生の記録、ジャーナルとして、報告を兼ねて記しておきたい。具体的には無理でも、象徴的に心象風景を書き記そう。

 

と、そんな愛に満ちた言葉を書き綴ろうと思っていた矢先であるが、「バージョン5」と呼んでいる、Imari Tonesの現在準備中の新体制の立ち上げについて、黄色信号が灯っている。

演奏力としてドラマー氏に十分なものがあることを前提としたプランだったため、演奏力で未熟なうちの嫁さんをベースに起用するという安易なアイディアに飛びついてしまい、
当初、試しにレッスンしたところ、最初の一ヶ月でわりと良い成長を見せたので、踏み切ったのであるが、リハーサル用の楽曲を少しずつ、簡単なものから順番に取り組む中で、(カバー曲は除外して)3曲目にあたる楽曲に取り組んだ時点で、やはり能力的に致命的に足りないものが明確になってきた。

もちろん、今、うちの嫁さんは、人生の中で一番「言い訳をしていい」時期である。練習時間が取れなかった、とか、それ以外に、人として一番「機能しなくて当然」な時期ではある。

だが、音楽つーものにはやはり嘘は付けない。それを差し置いても、やっぱり根本的なところでの能力の欠如が、ここへきて問題になってきた。

具体的な例のひとつとしては、指弾きの際のオルタネイトピッキングがやはりきちんと身に付いていない。これは、「適当でいいや」とやってきたサイドプロジェクトのジーザスモードでいい加減に弾かせてきたのが裏目に出てしまった感すらある。

それ以上に根本的に足りないものがあまりにもたくさんあるのだが、書いていくと絶望的になるのでやめておこう。

 

そう書いている、明日は約一ヶ月ぶりのバンドリハーサルであるが、果たしてどうなるだろうか。

明日のリハの出来は大目に見るとしても、
ある程度長期的に見て、もしうちの嫁さんがベースに向き合う上でこれらの問題を乗り越えられないようであれば、この「新体制」のプランはやはり却下、失敗とせざるを得なくなる。

他人にはわからないかもしれないが(わかってほしいが)それは非常に深刻なことであり、
この新体制計画が失敗すれば、僕にとって失うものはとても大きい。

僕にとっての「ジャパメタ」すなわちJapanese Heavy Metalというものへの情熱。
幼い頃から夢見ていた革命としてのロックバンド。
「鍋島」の完成に向けての道。
それらを失うばかりか、
ひょっとするとこの日本という母国に対する情熱も失うことになるだろう。

それは人生および人間というものに対しての情熱ってことでもある。
じゃあ、嫁さんがやっぱりボツだったから、サポートベーシストを入れて演奏しましょう、とか、そんな発想にはならない。

これと信じて踏み出したのだから、
それが上手くいかなければ、それまでなのである。
わかってもらえないかもしれないが、それが真実だ。

 

家庭内レッスンの様子を他人が見たら、
たとえば音楽の先生や、ベースを教えている講師の人が見たら、
きっと笑われるだろう。
あるいは驚くだろうと思う。

普通であれば、
30回は、才能がないからやめなさい、
と言うところであり、
現場であれば、100回はクビになっているところだろうと思う。

それでも、まだ「やめちまえ」と言わないのは、
これが家庭内のことであり、
なおかつ「下着の中」の事であるからだ。

 

自分もいつもちょくちょく言ったり書いたりしているが、
僕は昔、かのエディ・ヴァン・ヘイレンが「自分の下着の中でやれないことは、やっても無駄である」という哲学をインタビューで語っており、その言葉を結構、信奉している。

もっとも、インタビューってものは翻訳されているので、今のようにインターネットでもともとの英語の記事が読める時代でもなく、エディの発言はただの英語の言い回しのひとつであった可能性も高い。(例えば似た例として、僕はエディのインタビューで”Catch22″という言い回し、及び小説、について知った)

 

うちの嫁さんに音楽の才能がまったく無いのは周知の事実であるが、
それでも僕が今回、(早まったかもしれないが)嫁さんをベースに起用しようと思ったのは、それが「下着の中」の問題として対処できるからだ。

夫婦というのは文字通りお互いに下着の中の関係である。

だからこそ、他人であればとっくにあきらめているような状況であっても、
下着の中だからこそ、普通だったら絶対に面倒を見ないような領域までさかのぼって、まるでリハビリのごとく絶望的なレッスンに付き合うことが出来る。

それは、決して別に血のにじむような特訓でもなんでもない。
その逆で、たとえば、歩けない人に、リハビリで、3メートル歩いてみましょうね、とか、手すりにつかまって立ち上がってみましょうね、とか、恐ろしく簡単な課題を与え、それに3時間かけて取り組むようなものだ。
恐ろしく絶望的なほどに簡単なトレーニングなのである。

あるいはもっと絶望的に、空を指差して、あれは青い色なんですよ、と教えるようなことだ。
林檎を指差して、あれが何色かわかりますか? 林檎は赤い色なんですよ、と教えるのだ。

他人がそれを見たら、とても丁寧に教えている、とか、とても優しい先生だ、と言うかもしれない。
けれど、きっとあまりに絶望的なので見ていると悲しくなってくるだろうと思う。

それでも辛抱強く取り組むしかないのだが、
やはりそのうち、限界が来るかもしれない。

その日は明日かもしれないし、一ヶ月後かもしれないし、あるいは半年後かもしれない。
どっちにしても半年後には結論は出さなくてはいけないだろう。

 

こんなことをしていると、自由になりたいな、と思えてくる。
もっと自由に、音楽活動がしたい、と思えてくる。

だけれども、自由って何だろう。
バンドのメンバーの人選とか、バンドの運営、歩き方についての話だ。

世間一般で、「自由」と言ったとき、それは行動の自由かもしれない。
経済的な自由かもしれない。

一般的に自由ということを言うとき、
それは何かを得るための自由、
現代人であれば社会的、ビジネス的な成功に向けての自由ということを指すことが多いと思う。

つまりバンドマンにとっては、成功に向けて邁進するための自由だ。
たとえばニューヨークに移住して音楽業界で仕事をするとか。

けれども、僕はその「成功するための自由」「身を立てるための自由」ってやつを、ほとんど基本的に最初から放棄していた。

Hassy&Jakeと一緒に10年やってきた、ということはそういうことだったのであるが、
つまり、「お前みたいなヘタクソと一緒じゃ成功できないんだよ」という理由でメンバーをクビにしたり、
その逆に成功するための基準でバンドメンバーを選ぶ、ということは、決してすまい、と誓ったのである。

 

だからこそ僕の欲しい自由は、「成功のための自由」ではない。
「他人を押しのけて成功する自由」ではない。

僕が信じている自由っていうのは、先述のとおり、やっぱり「下着の中の自由」なのだ。

それはつまり、個人の、人としての自由ということだ。
人として生きる自由。
一人一人の人間が、人生の中でかけがえのない大切なもの。
なぜって、その「下着の中の自由」は、皆が持っているじゃないか。

それはむしろ、「成功しない自由」と言える。
「成功するための自由」は現実には色々なものと引き換えであり、
成功するための自由を放棄した時、
人生の景色はより広がり、音楽はより豊かに鳴る。

それは、現代の才能あるインディーズミュージシャンばかりでなく、
古今東西の芸術家が証明しているはずだ。

そして、「創作」という行為は、僕にとってその「下着の中」にあるかけがえのないものにあたる。

その「下着の中」の目標を実現するためであれば、僕は何だってやるだろう。

僕がHassy&Jakeをクビにしたのは、それは「最低限の演奏活動」という、下着の中の自由が失われたからこそ、(それでも数年は我慢した上で)、そうしたのだ。

(もっとも、その「最低限の演奏活動」というやつが、毎年何十本ライブをやることなのか、海外ツアーに行くことなのか、それは自分にもわからないが。)

 

何を書きたかったのか、忘れてしまった。

そうだ、「下着の中の革命」ってこと。

僕が昔から欲しがっていた革命が、
別に政府を転覆させたり、
あるいは製品を普及させたり、
技術革新をもたらすことでは無いことは明白で、

変えたいものがあるとすれば、それは価値観ってやつだった。

世の中に基本的に二種類の人間がいるとすれば、
それは、現在の世の中には何も問題がない、と考え、
現状を維持していこうとする人間と、
その逆に、現在の世の中には根本的に間違いがある、と考え、
現状を変えていこうとする人間。
それは別に政治的な保守と進取とかに関係なく、
根本の世界観にそれがあると思う。

僕は明らかにその後者に属するし、
それはキリスト教の立場からあってもそうであるはずだが、
それは突っ込むときっと深いから突っ込まないでおくけれど。

どちらにせよロッカーっていうのは、
世の中の価値観ってやつに真っ向から向かっていく運命にあるのだ。

どっちにしろ、僕にとっての「自由」っていうのは、
別にニューヨークとかロサンゼルスには無く、
それが何かを追いかけるための自由ではなくて、
何かを追わないための自由であることは明白だった。

僕が欲しい自由ってやつは前述のとおり下着の中にある。

僕にとっての革命は、
その自由ってやつと、現実との狭間の境界線において、
「道」ってやつを見つけ出し、
新しい価値観を提示して見せることだ。

 

んでもって、関係ないかもしれないが、
これほどまでにどんくさくて、才能のない、
およそどんな音楽の先生でも匙を投げるような、
そんなうちの嫁さんが、
「下着の中」において
変わっていけるようであれば、
それはきっと革命の始まりと呼べるだろう。

 

と、そう書いたまさに今日、その夜。
やはり才能の無さを遺憾なく発揮し、
新体制、解散の危機。
どんだけ、どんくさいねん、うちの嫁。

いや、わかってるんだけどね、
音楽の才能の無い人と結婚したい、
って、ガキの頃から言ってたのは、僕自身なんだし。

ほとんど絶望の境界線の瀬戸際。
海外ドラマみたいな劇的なトラブル。
I don’t want any more drama.

でも、逆説的に考えよう。
これだけ、ドラマティックにトラブっているのだから、
このプロジェクトはきっと成功するに違いない、と。

だって、この世界はそもそも逆説で出来ている。
キリスト教だって、逆説で出来ている。
イエス・キリストの十字架が、すべてを象徴している。

生きるか死ぬか、
のるかそるか、
本気でバトルしてます。
下着の中の革命。
進行中。

お祈りが必要です。
We appreciate your prayer.
Thanks.

 

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