救済リハーサルep1

 

そうだね、俺だって人を救いたいと思ってる。
それなりに熱心はクリスチャンの一人として、俺だって人を救いたいと思っている。

でも、俺は人を救うってことが、まだわかんない。
そして、人を救うってことについて、数を考えられない。

何百人、何千人を救う、なんてことはわからない。

なんかしらんけど、どうやら俺の感じてる「救済」ってやつは、みんなの言うやつとちょっとだけ基準が違うような気がしていて。

これは、俺はわかってて言うんじゃないんだぜ。
わかんないけど、ここまでやってきて、どうやらそんなふうに感じるから、推測で言ってるだけなんだ。

だから、間違ってるかもしれないし、そこを、聖書にはこう書いてあるって言われても、俺にはゴメンとしか言えないんだが。

つまり、俺は、教会で洗礼を受けてクリスチャンになる、ってことと、「救済」ってことが、あんまりイコールに思えなくて。

どうやら俺が感じてる「救済」ってのは、もうちょっとハードルが高いみたいなんだよね。

これ、俺、いつも言うんだけど、有名なローマ書にある一説。
口で信仰を告白し、心で復活を信じれば、それで救われる、っていう一説。

俺はこの箇所を読めば読むほど、信じるっていうことは、そんなに簡単なことじゃない気がしている。

でもって、俺はこのことからあんまり、目を背けたいと思わない。
ちゃんと考えてみたいんだ。

俺の感じる「救済」っていうのは、それはすなわち、愛のうちにある、ということなんだけれど、
それはたとえば、イエスさんが、サマリアの女に言ったみたいに、一度受け取ったら、ずっと涸れることのない、そんな「命」。あふれでる「命」そのもの。

それを説明することなんて出来ないよ。
でも、感じることは出来るし、伝えることもきっと出来る。

だから俺にとっての伝道っていうのは、人に愛を伝え、人を愛のうちに包み、ひとりでもふたりでもいいから、本当に信じる人間を作り出すことじゃないのかな。

その時、天国では大騒ぎでパーティーしてくれるんだろ?
たったひとりでも、ふたりでも。

 

 

(かといって、「愛のうちにある」というのは、誰の差別なく、みんなが、その中にいるのだし、
そういったみんなみんなの救済の希求は、仏教を始めいろいろな宗教に共通するものだ。
それを説明はできないが、それでもやはり「救世主もう来ちゃった。救いは為されちゃった。みんなもう救われてます!よかったね!」というのが、キリスト教の真髄であることに違いはない。だからこそ、おめでとうございます〜!!)

 

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