禁酒に失敗した話

 

ここ一ヶ月半くらい、禁酒をしていた。

「いやあ、俺、今、禁酒してるんだよね」
とか言っている僕の発言を聞いて、きっと何人かの友人たちは「おいおい、君にできるわけないだろ」と思ったに違いない(笑)

 

理由はいくつかあった。

最近、歳を取るにつれて、人間的な不器用さが増して来てしまい、人と会う時、人と接する時、お酒を飲む場面で、(実はお酒を飲まない場面でもそうなのだが)、その時は陽気な気分になったとしても、後になって自己嫌悪に陥ってしまうこと。

もともと、お酒は好きで、(頻度は高くないものの)、飲む時にはかなりがばっと飲んでしまうこと。しかも、問題のある性格のせいか、お酒を飲む時ですら、妙にストイックになってしまい、まるで自己の限界に挑戦するようにして、ぶっ倒れる限界まで飲んでしまうということが、たびたびあること。

その限界は、年齢と共に、実のところ、まだ低下しているという感覚はないのだが、そのうち低下するに決まっていること。

この前受けた健康診断で、ほんのわずかではあるが、肝臓のひとつの数字が基準値を越えていたこと。(原因は別にあるような気がしていて、そっちの方が問題なのだが・・・)

長年、音楽をちまちまインディでやっていることの、また、ここで人生最大の制作に向き合うことの苦しさに、ここ最近、お酒の助けを求めがちになっていること。

 

そして直接のきっかけは、とあるお店で、「気合いを入れて」飲む機会があり、それは何かというと、東銀座あたりに地ビールのお店があり、まるで映画とかファンタジーに出てくる「酒場」かよ、という趣きの場所なのだが、知っている人は知っていると思うのだが、僕の意見ではそこでは現代ではおよそあり得ないような、世界で一番美味いビールが飲めるのだが、そこでがばっと飲んでしまったところ、あまりに美味くてよほどがぶ飲みしたのか、たかだかビールで酔ってしまい、店の親父さんに迷惑をかけてしまった。それは僕としては、非常に恥ずかしいことだったのである。(だが、美味かったことには違いはない)

 

そして、翌朝、やっぱり軽い二日酔いを感じつつ、色々なことに思いを巡らせていた僕は、「よし、ちょっと禁酒でもしてみるか」と思い立った。

人生観が変わったわけではないが、酔って少し脳内がリフレッシュされたというか、思い立ったのであった。

 

考えていたのはやはり、いつも言っているが日本で最高のロッカーであった尊敬するBTB吉村氏のことである。吉村氏は、確か46歳で亡くなったはずだ。その原因は公表されていないはずだが、その中にお酒というものがあったことは誰もが推測できることだろう。
なので、僕の今の目標は、btb吉村氏よりも長生きすることが、ひとつの人生の目標だ。恥ずかしながら、ちまちまとそれでも音楽を作り続けるための目標である。

そういったこともあり、僕はまるでその朝、ブッチャーズ吉村氏に、「よし、じゃあお前は、酒をやめろ!」と言われた気がしたのである。

 

そして、尊敬する偉大なミュージシャンといえば、僕はもちろんEddie Van Halenの大ファンなので、彼のインタビューはたくさん読んでいるが、エディ・ヴァン・ヘイレンも長年、アルコール依存症に苦しんできた人である。それは彼がごくごく若い少年の頃、父親と一緒にクラブで演奏した時に、プレッシャーをはねのけるために飲んだところから始まっていると言われている。EVHは言うまでもなく偉大な人だが、どうやらかなり繊細な人であり、(悪く言う人もおり、それも真実だと思うのだが)、彼が問題を抱えていることについて、一方的に批判するのはフェアではないと思う。それは、彼の音楽で人生が豊かになったり、心を救われてきたのは僕たちであって、そして苦しんでいるのは彼自身だからである。

 

だがそのエディが、後年のインタビューでお酒をやめたことについて、これもある種の定型句ではあるが、「神様は俺にひとつのおおきな酒瓶をくれた、そして俺はそれをすべて飲み干してしまった気がしている」という発言をしていた。(英語っていうのは、人生の95パーセントが定型句で出来ているように思う、が、それはまた別の話題)

だから、僕もこの日、「ああ俺も、この人生で神さんにもらった大きな酒瓶を、たぶん飲み干したな」と思った。

じゃ、やってみるか、と。

 

そうはいっても、禁煙とかでもそうだと思うが、「よし、もう一生絶対飲まない」とか盛大に決意するわけではなく、とりあえず一週間ノンアルコールで過ごしてみよう、というところから始めて、二週間、一ヶ月、一ヶ月半、とやってみたのだった。目の前の小さなところから始めていかないと、続かないし、体調や心身の調子がどうなるか、試してみよう、と思ったのだ。

 

実のところ、体調は、確かにわりと良かったように思う。
そして、もともと僕は、そんなにしょっちゅう飲む方ではないので、ノンアルコールの生活は、それほど違和感なく続けることが出来た。

 

で、それなりに順調にやってるな、と思っていたのだが、やはり次第に、問題が出て来た。

それらは以下のことだった。

 

ひとつは、僕はもともとかなり不眠症の要素を持っており、そのことには長年苦しんできた。
お酒でそれを緩和する効果はあったのだが、これをやめてしまうと、”high and dry”(不眠症ハイ、anxietyハイ)な状態に置かれてしまうこと。

もうひとつは、これは結構現実的に実際的な問題なのだが、私生活において、つまりは家庭生活において、嫁さんと一緒に暮らしていて、楽しく過ごす時間であるとか、ある程度ロマンティックな瞬間というものがあると思われるが、そういった時に、お酒があると無いとでは、随分違うということ。つまり、禁酒しているのは僕であって、嫁さんは普通に(量はもちろん少ないものの)飲んでいるので、そこで付き合わずに僕だけ飲まないというのは、やはり幾分不自然なことであった。
もちろん僕が禁酒期間に入ってから、自然とつられて嫁さんの酒量も半減していたのだが、それは確かに、家計としては節約になり助かるというメリットはあったが(笑)、かといって同時に、嫁さんに気を使わせ、一緒になって禁酒を強いるのは、やはり不自然なことであった。
もちろん、お酒があろうと無かろうと、もともと嫁さんは機嫌のいい人だし、お酒があろうとなかろうと、僕たちは仲良くやっているわけだが、要所において適度にお酒を用意するということは、夫婦生活において、楽しい時間を過ごすことに効果があることを認めざるを得なかった。

 

またインディバンドの人として言えば、見てのとおり僕は、クリスチャンメタルバンドとしてのImari Tonesをやるようになり、Hassy&Jakeと何度かアメリカを演奏して回る経験をし、日本人にとっての信仰というテーマで”Jesus Wind”という作品を作るとか、そういう、やたら魂の深くに潜るような活動、表現、創作に向き合ってきた結果、人間としてどんどん機能しなくなっていってしまった。わかりやすく言えば、年々、ダメ人間になっていってしまった。
そんなダメ人間である自分に、僕は常日頃から、自己嫌悪や無力感を感じてはいるのだが、困ったことに、音楽家(芸術家?呼び方はなんであれ)としての創作力、つまり、創作に向き合うための精神的な場所、その精神の中の創作を可能とする場所にアクセスするための能力は、自分自身の「ダメダメ具合」「ダメ人間さ」と比例し、深く関わっていた。
つまり、健康になってしまうと、精神の深い場所に降りていって創作モードに入ることが出来なくなってしまうわけだ。お酒をやめるということは、少なくとも今回の場合、僕にとっては、その創作のための精神状態に入っていく行為そのものから背を向けることと同義になってしまっていた。

 

そして一番大きく、またもっとも切実な理由は、性格が非常にネガティヴになってきてしまったことだった。

もともと、近年、そして今年は「鍋島」という人生最大の制作を孤独にやらなければならない、というプレッシャーのある場面でもあり、上記の自己嫌悪や無力感に苛まれる中で、具体的に例をあげることは出来ないが、とにかく表に出て来る性格が、暗く、ネガティヴで、後ろ向きで、destrucive(自己破壊的)なものになってきてしまったのである。

普通は、アルコールに溺れると人間はdestructiveになるものであるから、逆と言えば逆だ。
おそらくは、自分の人生において、もともと内的、外的のどちらにせよ、状況として問題や困難があり、そこからくるプレッシャーを緩和する役割を、適度なアルコールが果たしていたのだと思われる。

なくなってみて初めてわかることがある、と言うが、これもその一例だと言える。

なので、色々なところに悪影響が出るほどに精神的にネガティヴになってしまうことがわかった時点で、これはちょっと、これ以上無理はしないでおこう、と感じて、僕は「禁酒失敗」を悟った。

現時点では、まだ、完全な禁酒はしない方がいいと判断したのだ。

 

 

そしてやはり、平たく言えば、お酒をやめると僕は、「非常につまらない人間」になってしまうようだ。
もともと僕はつまらない人間だ。
一応はバンドマンとして、陽気な面も人前では見せているが、音楽を聞けば察してもらえるとは思うが、もともと僕はくそ真面目で陰気な人間である。

少年の頃に、アメリカンロックに憧れたのは、そんな陰気な自分とは真逆の要素、陽気で、開放的で、理屈のいらない、そんな楽しさに憧れたからだ。

だが、一皮剥けば自分は、他人とちょっとした日常会話すらできないほどの陰気で孤独な人間だ。

そんな自分がお酒を完全にやめてしまうと、おそらくは救いようのないほどに、つまらない人間になってしまう。

 

いつかはアルコールの必要ない、悟りの境地に達したような、そんな生活が出来たらいいなと思うが、
まだまだ修行が足りないようだ。

なので今しばらくは、アルコールと縁を切らずにいることにした。

 

とはいえ、色々書いたが、もともと僕は、そんなに頻繁に飲んでいるわけではない。制作に没頭している時とか、二週間くらいまったくお酒を飲まずにいることは普通にあったと思う。そして、そんな時は一切気にならない。そういうものだ。

だから、もともと、節度のある、適度な付き合い方であったわけだし、そして今回、一度禁酒を試みたことで、自分の中の意識も変わり、今後の酒量は今までよりもおそらく減るだろう。必要な場面だけ、「あまり陰気になり過ぎないように」摂取するということになる。

 

 

もちろんのところ、お酒、アルコール、あるいは煙草をはじめとするその他の嗜好品、これらのものとの付き合い方は人それぞれだし、そこに当てはまるルールは人によって違うと思う。

だから、今回、僕が、やはりまったくお酒を絶ってしまうのは良くない、と結論づけたのは、僕個人の現在の状況に対する判断に過ぎない。

人によっては、まったくやめてしまうことが有益であったり、やめる必要がある、ということは言うまでもない。

 

たとえば西欧の人々を見ていると、アルコールの問題についての向き合い方も日本人にくらべより深刻に思える時があるが、それは日本人のもともと持つ節度やモラルということもあるし、また肉体的な違いがあるだろう。たぶん欧米人の方が酒量はどうしても多いだろうし。
その肉体的な違いが、ひいては宗教的、キリスト教的な「罪」について考えるときも、意識の違い、というよりは前提の違い、としてそこにある、と感じているのは、僕だけではないだろう。

たぶん人の持つ「罪」ということに関しては、西欧の人の方が、なんかしらんが、切実に迫ってくるものとしてそこにあるように感じることがある。たとえば「肥満」というキーワードひとつ取っても、欧米の「太っている人」って、ほんとに太ってるでしょ。

だから、(そういった欧米の人たちと)信仰とかキリスト教の話をしていても、前提の部分で話が噛み合わん、と思うことが、僕自身の経験の中でも何度かあった気がしている。

 

でも、この話は、また違う話題だし、その逆に考えて、日本人とか東洋人にとっての宗教思想とか、罪の認識とか、魂の救いとかを、考えていくことが必要なのは、言うまでもない。そんで、そういうことは、先人たちがいっぱいやってるだろうし、今、僕が作っている音楽もその目的に寄与するものであるはずだ。

 

僕は自分勝手に音楽を作っているだけの、ただの無名のインディのバンドマンだが、それでも創作、制作というものは、魂をすり減らす。精神的にも、肉体的にも、その代償を払うことになる。これは、他人にはわからない。だから僕も、btb吉村氏が46歳で逝ってしまったことを、責める気にはならない。彼が作り出した音楽を知っている者なら、みんなそうだろう。あんなものを作り続けて、「まとも」でいろ、なんて、無理な注文だ。

もし長生き出来なければ、それは運命だ。
作るべき音楽に、身を捧げようと、始めから決めていた。
でなければ、やらない。

 

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