生涯でもっとも苦しい制作

 

苦しい日々が続いている。

なぜ、こんなに苦しい思いをしてまで、それをやろうとしているのだろうか、と思うくらいだ。

苦しみの質がどのようなものであるかは書くことができない。

それは「Nabeshima」を作るに際しての苦しみだ。

 

もしこれが自分にとって、命をかけて作るべき究極の作品であるならば、そのために苦しむのはむしろ必然と言える。

「Nabeshima」に向き合うということは、それは自分の中にあるもっとも深い真実と向き合うということだからだ。
そんなことが、そうそう易々と簡単にできてたまるか。

 

僕のこの2019年、もっともやらなければならない課題とは、この「Nabeshima」を作ることだ。

2014、2015年、2016年初頭にわたって書き上げ、2016年8月にデモの形にし、2017年初頭に仮歌を作ったところの、自分の音楽人生にとっての集大成と言える作品を、今年ついに作るのだ。

そして、この「Nabeshima」を作るということが、10年間続けてきた[Tone-Hassy-Jake]体制を終了させたひとつの理由でもあった。この作品を、このままでは作ることが出来ないと感じたからだ。

 

そして、この「Nabeshima」という作品は、僕が昔、最初にこの「伊万里音色」(Imari Tones)と名付けたバンドを始める時、その名前のもとに音楽を作り始めた時、「鍋島焼」、つまり伊万里焼の中で後期にあたる、異次元的に芸術性の高い作品群、に大きな感動と強い印象を受け、「いつの日にか自分にとって、このような究極と言える音楽を作ることが出来たら、それにNabeshimaと名付けよう」と決意した、そういう経緯のあるものだ。そしてその時が、ついにやってきたのだ。

(そして、その異次元の芸術性を持つ「鍋島焼」を代々受け継ぐ芸術家が、現代に存在するということを知った時には、戦慄と感動を覚えた) (https://www.imaemon.co.jp/)

 

2016年夏にデモの形にしてから、いつ、どこで、誰と、どのような形でこの”Nabeshima”を作るのか、問いかけ、悩み続けてきたが、今、神に示されたと思い、ここでこうして、「たった一人で」、作ろうとしている。

なんでこんな苦しいことをしなければならないのか。
本当に、毎日のようにそう思う。
これは自分が選択したことなのだろうか。

けれども、やらなければならない。
これは、誰かがやってくれる、ってものじゃない。
これがやれるやつは、俺しかいないのだから。

 

本当は、とっとと作ってしまいたい。
ささっとギターを録って、ささっと歌って、さっさと完成させたい。

しかし最初の、そして一番の山として、ドラムトラックをやっつけなければならない。

「Jakeではこれは叩けない」ということが、10年間続いたメンバーを終わらせた理由として、そこには確実にあった。

 

しかし、こうして自らドラムトラックに向き合ってみると、向き合えば向き合うほど、こんなもの、誰にも叩けるわけがない、と思えてくる。

たとえ世界のどこの国に行って、どんなに上手いドラマーに頼んだって、きっと無理だろう。
それは、単純なテクニック以上に、まずはそれを「信じられない」だろうからだ。(つまり、人としての交渉が成立しない)

量、曲数、手間、複雑さ、どれを取ってもだ。

 

僕が作ったドラムトラックは、これは、一般的なコンベンショナルなドラムの叩き方や、そのパターンから、大きく外れている。「こんなことを、なんでやらなければいけないのか」きっと、多くのドラマーはそう思うに違いない。例えお金を払って雇ったセッションドラマーでも、いやセッションドラマーなら尚更に、そう思うだろう。(そして現実的にはお金を払って世界一流のセッションドラマーを雇うことは難しい)

(たとえばかのJudas Priestが、名作”Painkiller”のデモを制作した後、プロデューサーのChris Tsangaridesに制作を打診した際に「おいおい、なんだこれは、これを叩くことのできるドラマーはいるのか」となり、そしてScott Travisを見つけ出すまでは、彼らにとってもひとつの試練だった。ヘヴィメタルの黄金時代に、世界一のバンドにとってそれが試練だったのであれば、今の時代に、無名のバンドである僕らにとって、それがどれだけ困難なことだと思うのか)

 

だからこそ、「なぜこんなパターンを叩かなければいけないのか」それを理解し、信じることの出来るドラマーが必要になってくる。だからこそ、自分でやることがベストだと判断した。自分は少なくとも、それを信じることが出来るからだ。

(ジェイクに人並みのリズム感があれば・・・ジェイクにもう少し表現力があれば・・・それは、しかし、長年わかっていたことであり、言っても詮無いことである)

 

そんな代物を、「自分で叩こうとしている」、のだ、自分は。

少しずつ練習を積み(もっとやりたいが)、技術的には「おそらくやれるだろう」とは思っている。(すでに、RepentやDying Propehtといった既存の曲も、ジェイクよりも上手く叩けるはずだ)

しかし、はっきりいえば、まだわからない。
ごめんなさい、やはりこれは、自分で叩くことは無理でした、となるかもしれない。

しかし、だからと言って「ドラムトラックなんて打ち込みで済ませちゃえばいいじゃん」とは、とても思えない。

 

2月末に引越しをする羽目になって以来、
新たなスタートのつもりで、精神的にも十年単位でのリフレッシュを経験したし、私生活でも非常に幸福感を感じている。それは本当だ。

だが、それに比例して、やたら苦しい思いを今僕は日々経験している。

 

演奏や準備の面だけではない。
生活の面で、そして精神の面で、なんの苦行だよ、という状態になっている。

しかしひとつ、救いがあるとすれば、ここで一度、技術を身に付け、この「Nabeshima」のドラムトラックをやっつけることが出来れば、この先、もうこれほどに難しいドラムトラックは出て来ない、ということである。

つまり僕は、今後の「制作」は、(その時間と機会が与えられるとするならば、の話だが)、小説としての内容と作家性、個人的な要素を踏まえ、ライブ演奏とは分けて、自分一人の手によって行っていくことを考えているからだ。

で、もうこんな難しいものを作る気はない。(笑)
ていうか、こんなもん、一生に一度しか作れん。

 

いろいろと、「やらなければならない野暮用」があったため、
他人から見ればきっと、およそ非効率であり、無駄な回り道なのだろうが、
それらにかまけて、少しずつの下準備しか進められなかった。

しかし、もう6月になってしまった。
このドラムトラックを打破することに、集中しなければならない。

ここが正念場だ。

 

色々他に書こうと思ってたんだけど、ドラムの話だけで終わっちゃった。
技術的なことは、一切書かなかった。

俺はドラマーじゃないしね。
技術的なことは、10年後に言うよ。

 

「なんで出来ないのか」
それは、考えてみる価値はある。
そこから得るものがあるからだ。

でも、なんか知らんが出来ちゃってる時には、
「なんで出来るのか」
その理由はあまり考えない方がいい。
それは神が与えてくれたものだ。
理由を考えたら、やれなくなる。

だから考えずに、ただやればいい。
そう思うからだ。

 

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