100点満点で80万点を取る方法

 

伊万里音色の究極の到達地点であるアルバム”Nabeshima”の制作。
この1年。
いや、この数年。
たぶんこの10年。
これを作るために歩いてきたのだと思う。

その制作も「ミックス」という段階に入り、
けれども自主制作で人知れず作っている以上、
それは最後まで自分の手にかかってくる。

正直なところここまで歩いてきて、
僕はもう疲れ切っている。
昨年の2月、ほとんどこの”Nabeshima”を作るため、という目的で引越しを行い、
生活を改めてスタートし、
そこから一年かけて必死で取り組んできた。

だが、今年の1月にリードヴォーカルを録り、
それは結果は良かったけれども、
リードヴォーカルを録り終えるあたりで、もうエネルギーが尽きてしまった。
肉体的にも精神的にも魂的にも、人生の上でも、といった感じだ。

最後のコーラス、ハーモニーを重ねる段階ではもう頭も体も機能しなかった。

だから今は休んだ方がいい。
たぶん冷静に考えればそういうことだ。

けれどもミックス作業は少しずつ進めている。

 

世間では、というよりは世界は、
今は奇しくもコロナウイルスによる「パンデミック」によって揺れており、
音楽イベントのみならず、様々なイベント、のみならずビジネスそのものが止まってしまっており、
それが世の中に与える影響を考えると、皆がそうであるように僕も深刻な思いになる。

大きなイベントや大きなコンサートも世界中でたくさん中止になっているけれども、
小さなイベントや小さなコンサートも当然たくさん中止になっているのであり、
それが草の根の音楽シーンに与える影響を考えると、
また同様に小規模なビジネスが被っている影響を考えると、
本当につらい気持ちになる。

もちろん、元気を出していこう、前向きに考えよう、希望を持とう、
これを機会に世の中が良い方向に向くように、と、
そう考え、そう発言したいところだが、僕には偉そうなことを言う資格はなんにもありはしない。(そのくらいの自覚はある)

 

不思議なことに僕らのバンドは、この時期にライヴを組んでいなかった。
それはバンドの内部の事情のあれこれもあって、
昨年の半ば頃から、新メンバーでライヴ活動を始動させ再開してきたけれど、
一度また準備期間が必要だということで、2020年のライヴ活動は何もブッキングせずに来たのである。
誘われてたやつも少しはあったけれど、かなり悩んで、今は見込みが立たないということで断っていた。
で、蓋を開けてみたらこれだったので、なんか無意識のうちに予感していたのかもしれない。
しらばっくれるのはよくないだろう、仮にも自分は「スタンド使い」の端くれを自称しているのだから。
笑っちゃいけない。

 

どちらにしても今はこのまさに佳境に入っている”Nabeshima”の制作にすべての精神と魂を集中して注ぎ込むべき時期であった。
その時期に、色々の都合によってライヴも入っていなければ、リハーサルもお休み期間に入っていた、というのは、偶然にしては出来過ぎている。

これから、色々なことを発信し、また新たな活動をすごい勢いで始めなければいけない。
だが、今はまだこの「ミックス作業」が一段落するまでは、やっぱり手が離せない。

ではひととおり”Nabeshima”が形になったとして、そこから「ライヴ活動」に力を入れていくかと言われれば、それはわからない。
今更、というわけではないが、地道にローカルで日本国内および首都圏で一般のライヴバンドと同様にライヴ活動を行っていくことが、僕たちのバンド、そしてImari Tonesと名付けられたこの音楽にとって、成功(の定義は置いておくとして)につながる道かと言われれば、おそらくは、それはたぶん違う、という答えになるだろうからだ。

今この時代において、ましてや僕らみたいな「性質」と「条件」の中で、発信すべき活動はたぶん違うだろうから。
それを行うために、身軽になって浮上するために、この形を選んだ、と感じている。
そのために、ここまで導かれた、と感じている。

しばらくの間は「バンド」の形すら必要ないだろうと予測している。

 

さて精神的にとてもつらいのである。
今まで、世間一般の「まっとうな人間」の道からばっちり外れていき、
(とはいえ、まだまだたいしたことない、と言われるだろうけれども)
「ダメ人間」の道をまっしぐらに順調に歩き続け、
そして様々なものを犠牲にして、
この”Nabeshima”を作るところまで来たのであるが、

そして今、やっと、ついに、それを完成させる直前まで来たのであるが、

ここへ来て、僕はもう疲れてしまっている。

やり遂げる精神力や、集中力が残っているのか、
やれないとは言わないものの、自信などはありはしない。
そして、とてもつらい。

自己否定の嵐に日々苛まれている。
もっとも人間とはそういうものだろうけれども。

 

さりとて自分の中に、新たなる闘志や、新たなる希望が生まれているかと問われれば、
それはばっちり、素晴らしく神から与えられて、それはあるのだ。

僕は世界を獲るつもりである。

なぜなら、これまで音楽をやることについて、
世間一般が言うような「夢」など持っていたことは無かったし、
自分自身の中にも「夢」など無かったのであるが、
今やっと、ここまで歩いてきて、自分は「夢」を見つけたからである。

 

僕たちは、僕は、これまで成功などというものとは縁が無かったし、
そもそもの条件の部分から、成功などというものからは距離が遠かった。

だが、今までに、控えめに見て、あるいは贔屓目に見て、
二度ほど、傍から見て成功というもののチャンスが見えた時期があっただろう。

最初はサシャ氏の下でドイツでのレコーディングを行い、”Japanese Pop”と題されたアルバムを作った時である。2006/2007年頃のことだ。
せっかくの有名プロデューサーによるメジャークオリティのレコーディングを行いながら、僕らはその価値を生かす戦略もなければ、人脈もなければ、政治力もなかった。
営業力もなかったし、どうしていいのかわからんかった。
おそらくは他の人々であれば、もっとうまくやっただろう。が、僕らはそうは出来なかった。

二度目は、2011/2012頃に、アメリカのクリスチャン業界の中でちょっと認知を得て、ツアーの中で好評価と手応え、人脈などをつかんだ時だ。
つまりはmomentum、モメンタム、条件などの勢いがあったタイミングだった。
だけれども、僕らはそれを生かすことも出来なかった。

言ってしまえば、それはバンドとして、団結力、成功するんだ、という意気込みが、メンバーそれぞれに欠けていた、ということになる。他人から見たらそういうことだろう。
もともと、「成功」というものにあまり興味のない3人が集まっていた、ということもある。

けれども、僕らはそこで貪欲に成功を目指すのではなく、僕もその状況を見て、かの地におけるチャンスを掴むことではなく、日本国内において「クリスチャンロック」の種を蒔くことを、そして、日本人の音楽家として魂の奥底にあるテーマを追求することを選んだ。

で、その結果として”Nabeshima”を見つけた。
その価値はあったと考えている。

 

つまりは、音楽的な運命を考えた時、それらの時には、僕は「成功なんてしたくない」と思っていた、と言える。
欲張りだと思うし、欲張り過ぎだと言われればそれまでだ。
また身勝手だと言われればその通りとしか言えない。
だが、世間からとか他人から見たときの「成功」なんてものよりも、自分にとって鳴らすべき音の方を信じていたし、そっちを選んだ。
そして、それを選ぶことで精一杯だった。

 

今回、この間もなく完成するであろう”Nabeshima”を作り上げたら、
僕は「死んだも同然」となる。

音楽的にこの世で行うべき使命、宿題を、100パーセント作り上げたことになる。
ここまで来れるとは思わなかった。
まだ、本当に完成する瞬間まで油断はできないが(笑)
一週間後に流行りのウイルスで死なないとは限らんのだし。

だが、それを作り上げた時、僕は「死んだも同然」となる。
なので、その後の事、その後の人生は「死んだもの」として行っていこうと考えている。

だからこそ、「もういいや」と僕は思えるのだ
もう、意地を張る必要は、何も無いのだ、と。

自分の頭の中の整理のためにも、書き記しておくべきことは、そこまでで十分だ。

もし僕にとって「夢」なんてものがあるとすれば、
それはその「死んだも同然」の後にあるものだと思う。

 

さて、戦うべき戦い、
戦うべき闘志。
そのことについてメモしておきたい。

馬鹿みたいな話だが、漫画があると思う。

僕は日本人男子の平均としては漫画をそれほど読まない方であると思う。
人気のある国民的な作品ですら知らないことが多い。

だが、現代に生きる日本人であるからには、多少は読んでいる。

読んでしまったものは、どちらかといえば偶然に、事故のようにしてアクシデント的に読み、好きになってしまったものが多い。

代表的なものを言えば、反骨精神を持ったミュージシャンには昔から定番であろうけれども、たなか亜希夫の「ボーダー」なんかはかなり以前から好きだ。

あれは「レゲエ」の漫画であったと思うが、そういう意味では僕は後になってヤオ牧師のレゲエバンドに参加出来て嬉しかったのだった(笑)

 

で、それとはまた全然ジャンルが違うが、某、ギャグ系、パロディ系の根性的な野球漫画において、映画化もされた作品だが、
高校野球のチームが、相手に100点差を付けられて、そこから根性で逆転する、という漫画があったと思う。
そう、「逆境ナイン」という作品だったと思う。

100点差を付けられて、そこから逆転する、ということは、現実的ではないと思うかもしれない。
そしてまた、そもそも野球とかやっていて、相手に100点差を付けられる、という状況が、すでに現実的ではない、と思うかもしれない。

 

だけれども、現代において、
人類が置かれている状況というものは、
人類がここまで来てしまった状況というものは、
100点差、などという生易しいものでは無いのではないだろうか。

野球で言えば1000点差くらい付けられてしまっている、
それくらい「手遅れ」な状況ではないだろうか。

政治の上でも、文化の上でも、宗教の上でも、精神の上でも、学問の上でも、技術の面でも、魂の上でも、である。

 

そしてもちろん、ロックンロールをめぐる状況を取っても、それは同様だ。
1000点差を付けられている。
もう逆転は難しい。
刻一刻と状況は悪くなる。
絶望する方がよっぽど早い。
そういう状況だと思う。

 

ロックンロールというものは、僕にとっては他人事ではなかった。
ロックンロールというものは、僕にとってはこの人の世の、この世界の、あらゆる大切なものの根源であったのだ。

僕は、とある、Eddie Van Halenという音楽家に惚れ込んだ。
だから、その音楽家の取り組んでいたものを、必死で見つめていた。
それは僕にとっては他人事では無かった。

Jimi Hendrixという音楽家が、
鳴らそうとしていたものを必死で見つめた。

吉村秀樹という音楽家が、
苦闘の果てにたどり着いたものを本気で受け止めた。

そしてまたSister Rosetta Tharpeという人が、この世界に編み出したロックンロールというものの真実、その答えを、驚きをもって知った。

神の手によって、神の愛と真実の中から、世の中すべてのために生まれてきたこのロックンロールというものが、
それ以降、人間がそれに向き合う中で、いかに間違い、いかに間違い続けてきたか、ということについて、僕は他人事では無いと感じている。

だからこそ、僕はそこから逃げることが出来なかった。

 

世界は、人類は、
今、「敵」に、「相手」に、1000点差を付けられている。

絶望的な状況だ。
どこをとっても、だ。

政治を見ても、文化を見ても、科学を見ても、社会を見ても、教育を見ても、宗教を見ても、
そしてロックンロールもだ。

このまま、人類は「負ける」しかないのか。
基本的には、ずっとそういう状況に、僕らは直面し、向き合い続けてきていると思う。

 

たとえばこれは個人的なことだ。
自分が人生における目標を達成するために、そこに必要な「点数」というものは、
やはり「100点差」などという生易しいものではなかった。

馬鹿馬鹿しいたとえだが、僕は少年の頃は比較的成績の良い方であった。
僕は高校生活最後の年に、まさに受験シーズンを直前に控えて、その時そんなタイミングで「うちの嫁さん」にキスをしてしまうまでは、わりと頭の冴えた少年であった。
だから偏差値も高い数字を持っていたし、「試験」などというもので満点ないしはそれに近い点数を取ることはわりと出来ていた。

だがもちろん、「うちの嫁さん」にキスしてしまった瞬間に、そんなものは何の意味も無いということに気付いてしまったわけである。だから、その後は何も出来なくなった。

それはさておいて、
そういった少年時代、ないしは子供だった時代というものは、
100点満点の試験において100点であるとか、95点であるとか、そういった点数を取っていれば、人生は結果が出るものであったわけだ。

そしてこれは、当然、人々の生活と人生においてはまったく当然のありふれたことであるのだけれども、

しかし、現実の社会においては、
100点満点の試験で、たとえ100点を取ったとしても全然足りない。
そういうものだということは、みんな知っているだろう。

そして、僕が自分の「やらなければいけないこと」に向き合おうとした時、
そこに必要なものというのは、
100点満点の試験において、80万点くらい取らなければいけないものだった。

だから僕は当然、少なからず途方に暮れた。
そして今も、やっぱりだいたい途方に暮れている。

100点満点で、200点取っても、まだ駄目。
100点満点で、500点取っても、まだまだ足りない。
100点満点で、10,000点取っても、やっぱり足りない。

途方に暮れながらも、とりあえず生きてきた。

足りないことを気にしていたら、生きてこれないし、歩けもしない。

こんなことを言っている時点で、まだ甘ったれているだろう、とは思うけれども。

それでも君は最後まで歩くことが出来るか、
この旅路を、最後まで歩き切ることが出来るか。
そう僕は、今こそ自分に問いかけなければいけない。

 

敵に1000点差を付けられた状況でも、歩き続けるのか。
100点満点で80万点を取らなくてはいけない状況でも、まだやるのか。

なぜならこれは自分で買った喧嘩だ。
自分で買った喧嘩は、最後までやり遂げなければ。
勝とうが、負けようが、関係ない。

 

聖書には、「勇敢であれ。私はすでに世に勝った」と書いてあったと思う。
ヨハネの福音書だってさ。16章かな。

だから天には勝利がある。
それは圧倒的な勝利だ。
たとえ地上で、ぱっと見て、80万点くらい差を付けられていたとしても、
天においては、もっととんでもない比較にならんくらいの差でもって、勝っている。
キリストが勝っている。

俺はその事を知っている。
それが信仰というものだ。
あとは省略だ。

 

“Nabeshima”の出来は、とんでもないものになる。
録っていて手応えは十分にあった。
今はミックスしていて、まだ実感は無い。
ミックス作業ひとつとっても、心がつらいから。
呻きながら、苦しみながらやるしかない。

けれど、仮にも「伊万里」の名を持つバンドが、
「鍋島」というタイトルの作品を作るのだ。
それが、「とんでもないもの」にならないはずがないのだ。

俺は、こいつで勝つ。
そんで、世界をひっくり返す。
少なくとも、僕はそのつもりだ。
本気だ。

これ以上、本気になったことが、自分の人生であったか。
問うまでもない。

本気でやるのだ。

とりあえず、最後まで歩けたら、拍手をしよう。
拍手をする元気も、残っていないかもしれないが。

 

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