検事になるのが夢だった

Twitter上で、なんだか「検察庁法改正案」についての抗議や反対が盛り上がっている。
自分の意見を言葉にして説明するのは気が進まない。
けれども、なんだか個人的な意味で不思議な感慨を覚えている。

 

このバンドのヒストリーページとかを見てくれた人であれば、そのへんにも書いてあるかもしれないし、いつも隠さずに話してきたつもりだけれど、
僕はミュージシャンとかロックスターに憧れたことはない。
10代の頃、僕はバンドをやったり曲を作ったりしていたが、ミュージシャンにはなるまいと決意していた。つまらない、くだらない、と思っていた。
そのへんの理由はここで語っても仕方が無い。でも見ていればなんとなくわかってもらえるんじゃないだろうか。
どっちにしてもスターダムも虚飾もハイプも成功も名声も商売もシステムも信じていなかった。

僕は法律家になりたかった。
それが道から逸れてしまい、なぜだか音楽に取り組むことになったのは(しかも商売になっているわけではない)、その10代だった頃に「うちの嫁さん」に出会ってしまったことが直接の原因だ。
それは何度も語ってきた通りだ。

 

で、法律家になりたいと思っていた、といった場合、いわゆる法曹というのか、弁護士、検事、裁判官、の中で、僕がいちばん興味があったのが検事だった。

10代の少年の頃。少なくとも嫁さんに出会うまでは、僕がいちばん憧れていた職業、つまりは将来の夢、ってやつは「検事」だったのだ。

遠い昔の話だから、今の僕の姿からは、あまり想像がつかないことかもしれない。

 

なぜだろう。理由は言うのが難しい。
お金とか商売のことを考えたら弁護士の方がポピュラーな選択だと思うのだけれども。
検事というのはかなり地味なポジションだと思う。

 

だが、そんな中でも「東京地検特捜部」ってやつはスポットライトの当たる存在であったと思う。
巨悪と戦う、というそのポジションは、純粋にかっこよかった。
子供の頃に、それらの「東京地検特捜部」の活躍をテレビのニュースで見る度に、「ううむ」と僕は(子供なりに)唸っていたものだ。
堀田なんとかさんの本も読んだ。
たぶん僕はそういう子供だったと思う。
気持ち悪いけど事実だ。笑。

 

嫁さんに出会った後、なんだか見える景色が変わってしまった。
価値観が全部変わってしまった。
いろいろなものが信じられなくなった。
というよりもほとんど全部信じられなくなった。

「社会正義」というものを信じられなくなった。
僕は少年の頃、その「社会正義」ってやつのために戦いたいと思っていたはずだ。

政治ってものも、社会ってものも、商売ってものも、学問ってものも、それらのシステムも、全部信じられなくなった。
この日本という国そのものの形もね。

だから何も出来なくなってしまった。

 

僕は判断したのだ。
そう思っている。

認識したのだと思う。
もう全部手遅れだと。

何をやってもだめ、というくらいにすべてが手遅れだということを。

音楽は、そんな世界の中でできる「せめてものこと」だった。

1990年代の後半。
芸術も文化もロックンロールも、もちろんとっくに「手遅れ」になっていたけれど、
芸術、という概念の部分からやっていくしかなかった。
それしか、もう守れるものが無かった。

 

その判断が正しかったのか、時々、思いを馳せることがある。

 

今回、この検察庁の人事をめぐる法律のことが話題になって、
人々の間に論点として広まった。
検察のことが、これほど広く皆の話題になったのって、これまでにあんまりなかったんじゃないか。

検事って言えば、たとえばドラマとか、刑事ドラマであれ法廷ドラマであれ、大抵は悪役で、あまり華やかとは言い難い、地味なポジションなんじゃないか。
それがこんなふうに皆の話題になっているのは、なんだか不思議な感慨がある。
たんなる感傷なんだけれどね、個人的な。

 

 

僕が、たとえば嫁さんに出会うことが無かったとして、少年時代の夢を叶えて、法曹となり、願い通りに「検事」になっていたとしたら、どうだっただろうか。

たとえばそのような巨悪と戦うような場所で、自分の人生を捧げることになったとしたら、どうだっただろうか。

少しは仕事をすることが出来ていただろうか。
あるいは自分の無力さに歯嚙みをしていただろうか。
組織や、権力や、社会のそういった中で、やはり納得のいかぬ思いをしただろうか。

遅かれ早かれ、みたいな気はしている。

 

たとえば大人になり、時代が進むに連れて、その「東京地検特捜部」の活躍や仕事ぶりにも、どちらかといえば落胆を感じるようになってしまった、そうじゃないか?

 

僕は音楽などやりたくなかった、といつも言っているが、
嫁さんと出会ったことをきっかけにこのような人生を送ることになり、
そのことでひとつ良いことがあったとすれば、クリスチャンになった、ということは挙げることが出来る。

このような人生を選ばなければ(選んだわけでは、正直、ないけれど)、キリストに出会うこともなく、それを信じることもなかっただろう。

それをもって、その他のメリットもデメリットも差し置いて、「よかったね」と言ってしまっていいのかは僕にはわからない。
もちろん、魂の救済、ということを思えば、そして曲がりなりにもキリスト教徒の一人としては、このような人生を歩み、イエスに出会えたのだから、これでよかったのだ、と言うべきだけれども。

 

 

この国はいつから駄目になったのだろうか。

この世界は、と言ってしまってもいいのかもしれないが、

それも気に入らなければ、ロックンロールはいつから駄目になってしまったのか、と言い換えてもいい。

 

この日本は、かつては世界をリードする経済大国、技術大国として、その繁栄を世界に誇っていた時期があったかもしれない。

けれどもたとえば、僕の覚えている中でも、
そんな自分の祖国である日本が、ついに「三流」の「後進国」になってしまったのだな、ということを実感する象徴的な瞬間が、やはりあった。

それが何であったかは言うまい。

けれど、その後、そういったことは何度も、何度も繰り返された。

 

けれどもそれでも、ここに至っても、僕は日本という国と、その「おおもと」の何かと、何よりそこに生きている人々を信じている。それはほら、自分の祖国だからなんだろう。
これからどこに行っても、どのような人生を送るとしても、自分が日本人であること、日本という国が自分の祖国であること、それは変わらないのだから。

 

言う人に言わせれば。
政治や経済の知識のある人に言わせれば、
もっともっとずっと前から、最初っから、「駄目」であったのだ、と、そう言うかもしれない。

そうだったのかもしれない、と僕も思うことがある。

僕は少年の頃、テレビや本で、「東京地検特捜部」のことを見聞きして、使命感を感じたり、胸を熱くした。

けれどもその時にも、すでにこの国の社会の中の真実は、実際には「社会正義」などというものからは、ほど遠かったのかもしれない。

もちろん、そんな中でも懸命に戦っている人たちがいる、いつであれ、どこであれ、いる、それも事実だろう。

 

人生の選択をやり直すことは出来ない。

たとえばタイムマシンに乗るとかして、18歳当時の自分に向かって、「おいその女には近づくな。人生変わっちまうぞ」と警告するわけにもいかない。

振り返ってもいつも、自分に選択肢なんて無かった、というのが実感だからだ。

 

一人の人間に出来ることは小さい。
けれど、今、そしてこれからの自分に出来ることを、与えられた領域で、大切なものを守るために、戦っていくしかない。

そういったわけだから、実際には来週というか今週というか、その検察の人事をめぐる法律は、国民多数の反対にも関わらず可決されてしまうのかもしれないが、
それ自体は、小さなことであると僕は思っている。

それよりも、多くの人が声を挙げている、という事実に、僕は大きな力と、大きな意味を感じる。

 

日本人は大人しい。
秩序正しく従順だ。
けれど、だからこそ本質的な粘り強さを持っていると思っている。
この国のモラルはまだまだ簡単には崩れない。
そう期待している。

 

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