奇跡のタネ

マジックのタネを知ってしまったそれはもうマジックじゃない。
奇跡の仕組みを知ってしまったらそれはもう奇跡じゃない。
であれば、僕は神にどんな奇跡を期待すべきなのか。

インスタにちょっと写真を上げたが、こんなことを書いているのは、先日、いい歳して初めて「星の王子さま」を読んだからかもしれない。
(子供向けの童話のフリしておいて大人のハートを直撃する実に卑怯な本だった、笑)

 

自分は祈ることは得意ではないと思っている。
かといって、だいたい毎日、祈っているし、あるいは祈っていないと思っている時にも祈っているのかもしれない。
そもそもだいたい、人が生きることは祈りそのものだ。それは誰でもそうだと思う。

また自分はいわゆる一般のキリスト教の人たちが言うような「宣教」および「伝道」ということも苦手だ。
これはクリスチャンロックバンドとしての活動をしていく中で次第にわかってきたことだ。

 

自分にとって神を信じるということは、コミュニティに参加することや、どこかの教会に所属することではない。
自分がどうしても伝えたい、と思い、心から願っていることはあり、それは心の底から強くそう思っていることだ。
それは神の愛のうちにある、ということ、そして決して涸れることのない希望があるということを伝えること、そしてその根源とひとつになり、つながること、そのことを知ることだ。

それは一度知ってしまえば、決して変わることのないものだ。

それを伝えたい、そう強く願っているが、それは教会のコミュニティに所属するということとは別のものだ。
もちろん、神に出会い、それを信じるからこそ、キリストの体たる教会に所属し、交わるようになるのだが、僕は神を信じることをなにかのクラブの入会と同じようには考えていない。

また僕はそこに自由意志というものをおそらくは尊重し過ぎるほどに尊重しているのだろう。
契約書を取り出し、何かを売りつけるみたいなことはできないし、たぶんそもそも営業職というものに向いていない。

 

かといって、音楽を通じて、それがライヴであれ、レコーディングであれ、作曲であれ、たとえばステージ上で、そのメッセージを伝えること、それは、かなりの熱さでやってきたと思う。自分なりにはやってきたはずだ。

そして、できればその機会を、これからもっとほしい。
もっともっと、それを伝えていきたい。

 

いろいろな人の「証」(テスティモニー、テスティモニアル)を読んでいると、不思議な気持ちになることがある。
そういった証を読む機会がちょっと最近、またあった。

人々は奇跡に驚き、感動し、その奇跡に心を動かされる。
そういった奇跡について、人々は興奮気味に語る。

だが僕は思うのだ。
なにかの本にも書いてあったセリフだが、奇跡というものは、一度、そのタネや仕掛けを知ってしまったなら、それはもう奇跡ではない。
それは奇跡ではなく、一般的な物理現象になる。

僕がちょっとした奇跡に興奮できないのは、たぶんそういった心理からだ。
別にすべての奇跡のタネを知っているわけではないし、むしろ僕は何にも知らないのだけれど。

 

自分がこの世で与えられた仕事を行う上で、奇跡が手助けしてくれる部分は大いにあるが、それでもかなりの部分は、やはり自らの手を動かさなくてはならない。

そしてすべてが上手くいくとは限らない。
いや、どちらかといえば僕は、わりと上手くいっていた方だけれども、それだからといって何かを変える、何かを伝える、ということは、一朝一夕にはいかない。

 

何度も書いている持論だが、僕が遠藤周作氏の大ファンなのは、そのへんの「奇跡」を最大限にちゃんと書いているからだ。

人それぞれが思い描くイエス・キリストの像があると思う。
強いイエス、優しいイエス、かっこいいイエス、あるいはかっこわるいイエスかもしれない。
それはきっと、どれも間違ってない。
私のイエス様。それでいいんだと思う。
ただひとつ確かに言えるのは、皆が思い描くイエスは、どれも間違ってはいないが、神であるイエスを全部理解できる人間なんていないということだ。

 

けれども遠藤周作氏が描いたイエスは、おそらくは人間の作家に描くことのできる最大限に近いほどのイエス像であったと僕は感じている。

遠藤周作の描くイエスは、愛を持っているが、実際には無力で何もできないイエスだ。
遠藤周作の描くイエスは、奇跡のひとつも起こすことの出来ないイエスだ。

それを以て、そんなのは本当のイエスではない、と批判するキリスト教の人はたくさんいただろうし、今でもたくさんいるだろうと思う。

だが、そう言って批判する人たちの描く「イエス」は、果たして遠藤周作の描いたイエスよりも大きなものだろうか。

 

遠藤周作氏は、たぶん、作家としての天才的な才能を以て、人である自分には神であるイエスを本当に描くことは出来ないということをよくわかっていた。

水の上を歩く。水をワインに変える。死人を甦らせる。
そういった奇跡を、遠藤周作氏は書かなかった。
だがそれと引き換えに、遠藤周作氏は、愛の奇跡という、もっとも大きな奇跡を描くことには、確かに成功している。

僕が信じている奇跡は、そういう奇跡だ。

 

水の上を歩く。水をワインに変える。病気が治癒する。死んだ人間を甦らせる。

たぶん僕は、そういう奇跡を耳にしても、あるいは目の当たりにしても、たぶん、たぶん、感動も興奮もしないのだろうと思う。
もちろん、自分はそれらの奇跡のタネを知っているわけではないし、自分でそういったことが出来るとも思わない。

けれども、たぶんそれらを見て、無邪気に驚いたり、感動したりは、おそらく出来ないだろうと思っている。

 

そんな自分は、いったい神に、どのような奇跡を期待して、どのようなことを求めて祈ればいいのだろう。

僕はワインのファンではないが、日本酒のファンではあるので、たとえばイエス・キリストが水を日本酒に変えてくれるというならば、一度飲んでみたいとは思う。
けれども、イエスさんが奇跡を行使して一瞬で作ってしまった完璧な日本酒よりも、たとえ不完全であっても人が創意工夫と努力で生み出した日本酒を飲みたい、と思うことは、少なくともこの世に生きているうちは決して不自然なことではないと思う。

 

自分が求めているものは何だろう。
自分が本当に求めているものは何だろう。

経験上、神さんは、僕が本当に求めているものは、与えてくれるし、与えてくれた気がする。
逆に言えば、神さんは、僕が本当に求めているものしかくれない。これまでも、そうであった気がする。

 

あまり、数字に縁の無い人生であったな、と思う。
これは、今までも、自分を顧みる時に常に思っていた。

人に対して、世間に対して結果を示す時に、数字は絶対的な基準だ。
数字を使って示せば、それは誰にでも伝わるからだ。

けれども、それは僕が求めているものとはだいたい対極にあるものだったらしい。
求めているものではなかったから、神はそれを僕に与えなかったのだろう。

もちろん、ありがたいことに、最低限の数字は頂いてきた。それは人様から善意で恵んでもらったものであったと思う。
逆に言えば、最低限ぎりぎりの数字しか与えられなかったし、また逆に言えば、ぎりぎり最低限の数字は、常に与えられた、ということだ。少なくともこれまではそうだった。

 

もちろん、数字ということには、お金という概念も含まれる。
人の世において数字が重宝されるのは、数字というものがだいたいお金とイコールの関係にあるからだろう。

歳とともに、僕はこのお金という概念、その数字を数えることを、放棄するようになった。
その数字がどこから生まれ、どこへ行くのか、判然としなかったからだ。だいたいそういうお金とか数字というものは、幻みたいなもんだと思うようになった。それは、あると思えばあるし、ないと思えばない。無いと困るかもしれないが、それはそう思い込んでいるからであって、おそらくは無くてもそんなに困らない。
少なくとも僕にとっては、考えるのは時間の無駄なのであった。
(もちろん、小市民的なやりくりは、それでもしているつもりだ。)
(念のために言っておくが僕はダメ人間であり、会計係には絶対に向いていない。)

 

ありがたいことに数字に表せないものに関しては、かなり恵まれたと言っていい。

たとえばクリエイティヴィティ。
僕にとって生きることの意味、生きることの証明は、だいだいこのクリエイティヴィティと同義だった。

神は祝福をあふれんばかりに、とめどもなく、次から次へと与えてくれる。
そんな言葉が聖書の中にはいくつもあると思うが、
ことクリエイティヴィティという面においては、僕にとってこれは紛れもない事実だった。

そもそも僕の「神との個人的な関係」は、音楽や創作の分野と深く関わっているものだ。
音楽や創作を通じて、僕は神を感じ取り、神のメッセージを受け取り、神と会話をしてきた。

そういう意味では、僕と神との関係が途切れたことは、確かに一度たりとも無かったし、神はまさにどばどばと、溢れんばかりに、溺れるんじゃないかってくらいに、僕の上に「祝福」ってやつを注いでくれた。

 

あるいは愛。人生の中での個人的な愛情関係。
これに関しては、最初からそうだったが、自分の想像の範囲をはるかに越えているので、まったく言葉にしてコメントが出来ない。
だが、与えられた。最善、ないしは、最善に近いものが与えられたと感じている。

何かひとつ、人生の目的があったとすれば、それはやはり、この愛情、その関係。
それこそが求めていたものであり、そこに答えがあったのではないかと、時々思う。
成果というものを出さなくてはいけない大人になってからのことはともかく、心の幸福だけが重要であった子供や少年だった頃のことを思い出すと、特にそう思う。

自分が求める答えは、およそすべて、そこにあるのかもしれない、と思わないでもないし、
また奇跡というのであれば、これこそ奇跡としか言いようがない。これは説明が出来ない。

 

また青春という言葉でもいいし、自由という言葉でもいいだろう。
心の自由というものが、どれだけの価値があるものか、たぶん僕は、多少は知っている。

 

あるいは奇跡というものがあるとすれば、それは僕の気が付かないところで、いつの間にか起きているのかもしれない。誰かが、何かが、それをしてくれたのだ。それによって、今僕はここに立っている、それがどれだけの奇跡なのか、人は決して知ることが出来ない。

 

それらのものを、確かに神はやたらと、どばどばと、僕の人生の上に大盤振る舞いしてくれた。
それが果たして、どれだけ幸運なことだったのか、どれだけ幸福なことだったのか、僕にはわからない。
自分の曇った眼では、また、個人の視点では、わかりようがない。

 

だが残念ながら、これらのものは、数字にして示し、人様から評価をいただくようなものではない。

けれども、それを音楽や芸術に込めることは出来る。
そして、それは必ず伝わると信じている。

だから、僕はこれを、やる価値がある、と思ったのだ。

 

そこに求めていた奇跡は、あっただろうか。
これ以上、どのような奇跡を、僕は神に求めるべきだろうか。

想像を越えていて、とても僕にはわからない。

僕に出来るのは、日々の小さな「やりくり」のみだ。

求めているのは数字では無いのかもしれない。
けれどももちろん、それらになるべくがんばって最低限の「数字」をいただけるよう、僕は不器用に微力であっても、日々の「やりくり」をやはりするだろう。そうして人生をすり減らしている。それでいいと思っている。

ただ、バランスはやはり考えなければいけない。

とはいえ、いかにバランスを心がけたとしても、人はいつかは死ぬ。そして、人の人生は短い。
バランスの基準さえ、何を基準にし、どこから見るかによって変わってくるだろう。

だから、人から見てありえない不自然なバランスであっても、ここまで生きてこれたし、ほんの一時、命を謳歌することが出来ればいい。世の中には、それすら許されない立場の人もいるのだから。

 

常々思っていたことであり、過去にも日記などに書き記したことがあるかもしれない。
うちのバンドを好きになってくれるのは、misfitsというのか、outcastというのか、どこかバランスの悪い、かっこわるい子たちばかりだ。

もともと、どんなカルチャー、どんなジャンルにおいても、「ファン」というのは「痛い」ものだということも言える。痛いからこそファンなのだ。そして、やってる側からすると、そういったファンはありがたい。どんなバンドだってアーティストだって、そういった人たちに支えられている。

けれども、うちのバンドは、(歴代のメンバーもそんな感じであったが)、その中でも、霊的に、宗教的に、文化的に、社会的に、あり得ない立ち位置で「外側」にいる子たちが、なんだか夢中になってくれているような、そんなふうにずっと感じている。

 

平均するとうちのバンドに興味を持ってくれる人は、アメリカ、ないしはブラジル等の南米が、これまでだと統計的に多いような気がする。もちろん、アジアやヨーロッパからのアクセスやメッセージもそれなりにはあったが。

出来れば、日本の皆さんにもっと知ってもらいたいし、もっと届けたいのだけれども。
そのために、これまでの何年かを費やして”Nabeshima”を作ったのだし、あるいは”Overture”だって、日本語による、日本人に向けたサービスの意味合いが大いにあった。

(もっとも、うちのバンドが持つ「手札」としては、日本人のオーディエンスに対して演奏する時、日本語で直接的にキリスト教のメッセージを歌うよりも、英語で歌って、ハードロック、ヘヴィメタルの定番といったサウンドを奏でることの方が、まだ通じる、というのは、ずいぶん前からわかっていることだ。)

だから僕は、もっとライヴをやって「信じるもののためにバイクで走るのだ、Faith Rider!!」「こいつを聴いて悔い改めよ、Repent!!」っていうのを、もっとやりたいのだけれども。

 

話はそれたが、少年の頃。子供の頃。たとえば小学生とか、中学生の頃だ。
僕のまわりにはかっこわるいやつらが集まっていた。
いわゆるスクールカーストとか、ペッキングオーダーの話だ。

僕はひどいいじめられっこをやっていた時期がかなりある。
だが、いわゆる勉強ってやつは出来た方だったので、いじめられっ子と優等生を同時にやっている、という、よくわかんない立ち位置にあった。

僕の周囲に出来た友人と言えば、そういった「ペッキングオーダー」の下位にあたるような、いけてない子たちが多かった。かっこわるい子たちが多かったのだ。
子供ながらに人並みに自尊心はまだあったので、僕は時にその状況を、面白く思わないことがあった。

また思春期の荒れた時期にさしかかると、やはり僕はかなりひどいいじめにあっていたわけだが、僕はその意味がずっとわからずに苦しんだ。
だが、ある時、彼らは僕をいじめているのではなく、僕に助けを求めているのだということが理解できた。
その瞬間に、僕はいじめというやつを克服したのだった。
(いじめはいけないことであって、皆にもそうやって「克服」しろ、とは言わない。)

 

今では、というか、より大人になってから少しずつわかってきた。

自分の周囲に集まっていた、それらの「ペッキングオーダー」の下位にあたる人たちこそ、自分のかけがえのない大切な友人だったということ。

自分の周囲に集まっていた、それらの「いじめっ子」たちこそ、自分が守り、救わなければいけない相手だったということ。

だから僕の中では、それは彼らとの約束になった。

 

その約束を、大人になっても忘れられなかったので、僕は今でもこんなことをやっている。

それは世間で賞賛されるような数字としての結果には、決してならないものかもしれない。

だが、彼らに、彼らのような人間に届けるためのメッセージは、貫いてきたつもりだ。

なので、世界のどっかにいる、そんな「あり得ないくらい外側」にいる子たちが、自分たちの音楽に夢中になってくれることを、僕は「これでいい」と思い、手応えを感じて確信している。

 

「いけてる子たち」向けの音楽や、「普通の子たち」に向けた音楽は、他の人がやればいい。またクリスチャンの「いい子たち」に向けた音楽も、僕がわざわざやる必要はない。

僕が音を鳴らすのは、いけてる子たちではなく、普通の子たちでもなく、またいい子たちでもなく、そのどれにもなれない、置き去りにされた子たちのためだ。

この世界にあっては、石ころのひとつにだって、大切な役割がある。
あるはずだ。

 

で、僕は、神にどんな奇跡を求めて祈ればいい?

奇跡のタネ、と書いたが、それを種、と表記すれば、クリスチャンの人には誰でもわかるはずだ。
マジックにタネがあるように、奇跡にもそれを起こすための種がある。それは聖書に書いてある。

ほんの小さな辛子種(マスタードシード)ほどの信じる心があれば、山でも動かせる。

 

それは奇跡かもしれない。

でも僕はそれを奇跡とは呼ばない。
僕はそれをたぶん、一般的な物理現象、と呼ぶだろう。

 

数字にはあまり興味がないかもしれないが、
山を動かすことにはそれなりに興味がある。

問題はどういう山を、どちらに動かすかだ。

できれば山よりも、もっと大きなものを、動かしたい。
それは何だろう。

考えてみる価値はある。

 

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