政治でもウイルスでもなくスピリットの領域における

どういうわけだか、コロナウイルスをめぐるあれこれについては、ソーシャルメディア上などで、あまり発言したくないという心理が働いている。(だから、これ一回きりだ)

それは、政治的な発言をすることにちょっと疲れたこともあるだろう。
しょせんみんな、右も左も、自分の政治的な主張を通したいだけなんだろう、と思ってしまう。

それはだいたい、誰かを助けたい、実際に世の中を変えたい、という思いではなく、自分が正しいことを証明したい、という心理から来ている。

日本一億、どころか、世界何十億総アーティスト、総インスタグラマー、総ユーチューバー時代にあっては、誰だって皆の賞賛や、注目(attention)が欲しいものだからね。いいね(Like)のカウントが、現代の世の中における力なのだから。

ある政治家を応援するのは、その政治家の政策を支持しているからではなく、その政治家が「嫌いなやつら」をやっつけてくれるからだ。
でも、本当はその「嫌いなやつら」は、君の仲間かもしれないんだぜ。

 

ウイルスをめぐる対応について、自国の政府の対応やメディアの報道もまったくあてにはならないが、他国の状況をとってみてもやっぱりまったくあてにならない。

そもそもコロナウイルスはインチキなのだ、という言説は陰謀論をはじめ色々な形を取って、ひととおり出回っているし、Twitterなどを見ていれば、by now、この二、三ヶ月のうちに10回くらいずつは、そういう言説を見かけているのではないだろうか。

だが、個人的にはそれらの人々は「もっと」信用ならない気がしている。

 

もし、「支配層」なんてものがいて、「筋書き」を書いているのだとしたら、「コロナウイルスはインチキだ」という言説が広まり、そういう方向の反応を民衆がすることも「筋書き」のうちなんじゃないだろうか。

我々はしょせんは迷路の中のネズミだ。そのネズミに過ぎない我々一般市民は、あらゆる情報に踊らされ、右へ左へ、どちらに誘導され、最終的にどのような「袋小路」に追い込まれるのだろうか。

だから、「コロナはインチキだ」という言説が、そろそろ広まって主流になってきたら、それもきっと筋書き通りだから、気を付けた方がいい。

その先で「我々」が売りつけられるのは、ワクチンなんかよりもよっぽどタチの悪いものかもしれないのだから。

ストーリー(筋書き)は「彼ら」が好きに書けるのだ。
それを、いかにも大衆が喜ぶようなものに仕上げるのは、彼らの真骨頂なのではないだろうか。
だってそれはエンターテイメントなのだから。

僕らにできる一番いいことは、なるべくTwitterを見ないようにすることかな(笑)

 

正味な話、
ここらで腹を決めておきたいんだ。
何を恐れて、何を恐れないのか。

恫喝ってのは、人を支配しようとする時には定番だ。
脅かせば、人々を思い通りに動かせる。

何をもって脅すのか。
そういう情報はお昼のワイドショー、夏の怪談、コンビニの本棚あたりから始まり、インターネット上にはいくらでも溢れていると思う。
だからちょっと見回せば、世の中はコワいものばっかだ(笑)

 

けれども、本当に怖いものって何だろう。

思い立った俺はちょっと神に聞き、そんで腹を決めた。
何も恐れる必要はないのだ、と。

ああ、また誤解を招きそうな表現だ。

流行りのウイルスに警戒しなくていい、って意味じゃないんだ。
もっと本質的な話さ。でも、うまく伝えられないな。
俺たち人間は、まだまだやれる、ってことなんだ。

俺たち人間は、決して負けない、戦って克服し、必ず理想にたどり着ける、ってことだ。
(そこにいくまでずいぶんたいへんかもしらんけどね)

 

僕はマスクをするつもりですよ。
なぜなら、それが日本人の、いいところだとやっぱり思うからさ。

でも、暑い時は、無理をしないでおこうね。熱中症になっちゃうから。

日本人のナイーヴ(初心)さ、と、社会の中にある良心と、純朴な鈍感力に、少しだけ期待をする。

 

インターネット上には様々な言説が氾濫する。
ソーシャルメディア社会になって以来、ずっとそんな感じだ。

“Nabeshima”の中のある曲でも僕は、
When I go online I see the world has now become liars’ heaven
(インターネットを見ると、まるで世界は嘘つきのための天国になったみたいだ)
という歌詞を書いた。
きっとそれはみんな同様に感じているだろう。

 

僕は言葉の書き手でもあるから、音楽と同様に、言葉の裏にある霊を感じ取る能力は多少ならある。多少だ。

だからどんな「物語」であれ、作品として評価する。

言っておくが僕は文系の人間で、なおかつ芸術家のはしくれであるからして、エビデンスの正否とかはまったく気にしない。わからんからだ。どっちにしろ何が本当かなんて今の「なんでもあり」「どんな虚構も作り放題」のネット社会ではわからんのだから。
科学も人間が行うものである以上、近代科学を信じる前に人間を知らなければならない。その人間を信じるという前提の上に科学がある以上。

だが「小説」や「作品」としての世界観の完成度はわかるのだ。
「世界」を作る、ってことは、やっぱりそんな生易しいことじゃないからだ。

 

だからインターネット上の言説を見て、こんなふうに思うのだ。
特定の政治的な方向に読者を誘導するために、ストーリー構成に無理があり、世界観が破綻している、と。
よくできた作文だと言ってあげたいが、とても合格点はあげられないな。

なんてね。
難しいんだよ日本語は。

その「難しい」日本語こそが、この国のいろいろなものを、あるいはこれまでも守ってくれていたのかもしれない。

 

政治の話なんてどうだっていい。
ウイルスや生物学なんてわからん。専門家じゃないからな。だから僕は何も言えん。
けれども、本当の戦いは霊(スピリット)の領域にあるんだってことは、いつだってわかっている。

 

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