新しい闇の中で

たとえばその昔、原始時代があったり、科学が発達していない時代があった。
中世とか、人々が迷信にとらわれている時代があった。

そんな時代には、科学的な知識もなく、情報もなく、よって論理的な判断もなく、人々は何もわからない中で、闇雲に迷信とか、宗教とか、権威とか、慣習とか、そういうものを信じるしかなかった。(たぶん)

時代が進み、自然科学とか、そういうのが発展して、教育も発達し、人々は知識や情報を得られるようになった。
人々は迷信とか、盲信とか、そういったものから解放され、理性と知性の明るい光の中で、新しい生活を始めた。(たぶん)

 

ところが現代。
インターネット、ソーシャルメディア、国際化、などなど。
そういうものによって、情報技術が人間の感覚を越えて発達してしまった結果。
僕らはまた闇の中に突き落とされた。

ネットワーク上を飛び交う、あまりにも多種多様な、数多の情報。
そして、それらは皆、嘘、嘘、嘘。
いや、ていうか、本当、なのか。
何が本当で、何が嘘なのか、誰にもわからない状態になってしまった。

前の時代にあった情報源、報道、常識、権威、学問。
そういったものも陳腐化して、相対化され、一概に信じられなくなってしまった。

 

結果、今人類は、またも闇の中にいる。
インターネット社会、ソーシャルメディアに支配された社会の中で、人々は「迷信」を信じ、乱立する「新たな宗教」や「新たな権威」を盲信し、自分たちを解放してくれたはずの「科学」や「知識」や「理性」を手放してしまった。

価値観そのもの、世界観そのものも多様化し、
人間が誰しも持っているはずのモラルや道徳心といったものさえも、必ずしも信じられないものになった。

人間の心の発達が間に合わないスピードで、情報技術が発展した結果、人間が持つ、人類社会が持つ、心の弱さ、悪意、憎悪といったネガティヴな感情の弱さが、社会を前進させるよりも、後退させ、停滞させるようになってしまった。

 

今回のアメリカの選挙をめぐっても、そのような「新たな闇」に突き落とされた地球人類の、盲目と混乱が、自分たち自身でも痛いほどに感じられたのではないだろうか。

 

アメリカの大統領選挙は盛り上がった。
僕もなんだか、見物しながらポップコーンをたくさん食べたような気がしている。

いや冗談だ。
だけれど、好き勝手に書きなぐっているこの日本語ブログはさておいて、バンドのアカウントにおける英語の記事に関しては、僕はなるべく政治的な発言はしないようにしている。
できればそういう発信もしたいんだけれど、なかなかそう出来ない。
その理由はいろいろある。
けれどその話は、後回しにしよう。

 

たとえば盛り上がった大統領選挙の中で、
たとえばバイデンさんの支持者の人は、バイデンが負けたら民主主義の終焉だ、と思っていたかもしれない。だから絶対に負けられない、と。
それとは逆に、
たとえばトランプさんの支持者の人は、トランプが負けたら人類が滅ぶ、と思っていたかもしれない。だから絶対に負けられない、と。

たぶん、どっちも本気でそう思っていた人は、いるに違いないと思う。
そしておそらくは、結構な数の人が、そうだったのではないかと思う。

けれど、うふふ、あはは、どうだい、僕の勘じゃあ、(わざとらしく笑う)
たぶんどっちも違うぜ。笑。
(もちろん、これは、わりと冷静な人なら、あたりまえのことなので、わざとらしくこう書いたのです)

 

どっちも、それなりに理由のあることで、もちろん軽く考えるつもりはないけれど、
バイデンが負けたって、それで民主主義の終わりってわけじゃない。
ましてや、トランプが負けたって、それで世界が終わるわけでもない。

どっちも、もちろん重大なことではあるけれど、
どっちも、やっぱり、大したことでは無いのだと僕は思う。

(もっとも、前提として、人類なんて、いつ終わってもおかしくないけれども)

 

僕が書きたかったのは、この今という時代に人類が暮らしている、この新たな闇のことだ。
情報原始時代に突き落とされた、哀れな現代の人類のことだ。

 

この新たな闇の中では、これまでに頼りになったはずの、いろいろなものはもう効力を持たない。

科学。知識。論理。
それらのものも、(少なくとも今の時点では)、まだ完璧とは言えず、
またそれらはやはり人間社会の諸々の約束事といった前提によって支えられているからだ。

たぶん、本当にその本質を理解したプロフェッショナルでない限りは、それらのものは効力を持たない。
だが、今のこんな社会の中で、そういったプロフェッショナルの言葉に、耳を傾ける者はどれだけいるだろうか。
本質を語るプロフェッショナルの言葉よりも、ソーシャルメディア上のインフルエンサーによる感情的、または煽動的な言葉の方が、何十倍、何百倍と効果的に人々の間に広まってしまうのではないか。

 

あたりまえのことだが、実は昔から同じことだ。
単に、僕たち人間は、しがない一般庶民は、なんもわかっちゃいないし、なんも知らされちゃいない、そんなあたりまえのことが、よりはっきりとしただけかもしれない。

 

この新しい闇の中で、物事を見るには、僕の意見では、そんでもって僕の言葉では、霊の目を以てするしかない。
霊、って、日本語の響きがいつも嫌なんだよ。スピリット、の、目、のことだ。
物事の裏側にある精神の本質を見抜けるかどうか、ということだ。

どんなに情報を求めても、それらの情報を裏付けするソースを求めても、たぶんあまり変わらない。(もちろん、検証しないよりは、する方がよほどいいけれど)

結局は誰も、自らの感情を超えられない。
そんでもって、感情を超えるには霊を以てするしかない。

ジャーナリズムでも同じだ。
それが真実であれ、捏造であれ、それは作品であることに変わりはない。
その作品の本質を見極める目があればいい。
作品に込められた霊を見ればいい。

 

霊の目ってのは、不思議なもので。
どんなに頭のいい人でも、どんなに知識のある人でも、あるいはどんなに権威のある人でも。

その人の持つ「霊」の視点のレベル以上のものは、やっぱり見分けられない。
学問のレベルが30であっても、霊のレベルが2だったら、やっぱりその程度の安っぽいものを信じてしまうんだ。

そんな不思議なところがあるように思う。
霊の視点というものは。

 

そんじゃ、その「スピリット」の視点を高めるには、どうしたらいいのか。
知らん。
わからん。

僕はキリスト教徒だから、信仰、って言いたいところだ。
だけれど信仰っていうのも、言うほど簡単じゃない。

信じれば救われる、って言うけれど、
実際には「信じる」っていうのは言うほど簡単じゃない。

本質に向き合うってことは、難しい。

キリスト教徒は「賛美」って言って神のために音楽を鳴らす。
けれど、賛美って言っても、実際には本当に神様のことを思って音を鳴らすのは簡単じゃない。
まっすぐな気持ちを鳴らすことは難しい。
声をひとつ発声しても、ギターのコードをひとつ鳴らしても、そこには様々な違うものが混じってくる。
本当に神様のために音を鳴らす、なんてことは、簡単じゃない。
これはロックでもブルースでもおんなじだ。

 

そういった違うものが混じっていれば、それで目が曇る。そこにつけ込まれる。
霊の目を開くってことはとても難しい。
そもそも、人間は目の前の現実をまっすぐにありのままに見ることすら、最初っから難しい。

いつも思うが、信仰なんて言っても、神ってやつをまっすぐに見ることの出来るやつなんて、そんなにいやしない。
みんなだいたい、違うものを見ている。
いわゆる偶像崇拝ってやつだ。

人間ってのは、誰でも、宗教を持たない人であっても、何かを崇拝したがる生き物だ。
自分の欲望を満たすために、自分の弱さを埋め合わせるために、偶像を求め、偶像を崇拝する。
そうやって皆、それらの偶像を通じて、誰かに支配される。

(僕がキリスト教を気に入っているのは、どこかの権力者とか、どこかの英雄とか、どこかの妖怪を崇拝するよりは、「キレイごと言って処刑された哀れなオッサン」を崇拝する方が、まだずいぶんマシだと思っているからだ。)

 

けれど、霊の問題っていうのは、感情の問題とも密接に結びついている。

不幸な人間よりも、ハッピーな人間の方がいい。
だから世界にはもっとハッピーな人間、幸福な人間がもっと増えるべきだ。

そして、霊のレベル、スピリットの視点を高めるための鍵があるとすれば、
それは、他者を受け入れる、っていうことじゃないかと思う。
それはたぶん言える。

自分と違う存在、自分と意見の異なる者、自分とは異質な存在。
それらの存在を、そういった多種多様なもので満たされた世界を、どれだけ認め、受け入れることが出来るか、みたいなところがある。

 

それが出来ない人は、他者を攻撃することになる。
それは恐怖心というものだと思う。

無理もないことだと思う。
誰だって、闇の中で何も見えない状態に居れば、恐怖してしまうものだ。

僕らは、人類は、だいたい今、そんな闇の中にいる。
だから、その恐怖を利用して、人々を煽動して、力を手に入れようとする者も、たくさん、たくさん、たくさんいるだろうと思う。

これからもきっと、そういう人たちは、まだまだ現れるだろう。

 

霊の目を開くべきだ。
霊の目で見えるようになるべきだ。
この闇を打ち破るために。

その道しるべは、それでもやっぱり、信仰の中に、その歴史の中に、あると言いたい、し、それに、人類がここまで培ってきた、哲学や、科学や、理性や、モラルの中に、やっぱりあるはずだ、と思いたい。
それは文学でもいいし、ロックンロールでもいい。

恐怖しちゃいけない。
信じるべきだ。本当に信じられるものだけを。

 

政治のこととか、アメリカの選挙のこととか、僕自身の姿勢とか、いろいろ書きたかったんだけど、あまり書けなかった。
今、人類が置かれている状況とか、この現代の闇についてももっと書きたかったし、信仰についてももっと書きたいと思っていた。

もっと言うと音楽もまったく同じだから、そのことについても書きたかった。
自分なりの意見を表明したかった。

けれど、もう僕にはこういう形でもちゃんと書くことは出来ないみたいだ。
でも、僕にはまだ、だからこそ僕には、音楽という手段がある。

考えてみれば別に僕がそんなことをわざわざ書く必要なんてない。
僕は政治活動家じゃない。
どうせこんな文章は、誰も読んじゃいない。
真実が知りたいのなら、釈迦にでもキリストにでも、好きなだけ聞いてみてくれ。
(本物に出会えたら、の話だけど)

抽象的だけれど勘弁してください。

 

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