どこぞのレーベルに提示されたプランなどを見て、営業ということを考えています。
もしお金をかけて宣伝費、みたいなことを戦略的に考えるのであれば、それはなんというか、メディア対策みたいな話になる。
結論をぱっと言ってしまえば、成功(fame&success)というものはメディアの中にある。
世の中において成功するというのは、メディアの中で成功することを指す。
すごく、馬鹿馬鹿しい、しかしわかりきったことを言ってしまえば、自分たちを売り出したいのであれば、もっと派手な格好をして、ヴィジュアルにお金をかけるべきだ(笑)
ヴィジュアル的なコンセプトを考えて、どこまでsurrealに、またetherealに、つまりは、アートな方向性に全開で、ヴィジュアルをとんがらせることが出来るかを考えるべきだ。
だが、それをやってしまうと、色々問題もある(笑)
音楽は若い人たちというか、ポップミュージックの世界においては、若さがすべてみたいなところがあるが、それも今の時代においては必ずしも、ということも言えるが。
たとえば、ああ、同世代だなと思っていたアーティストが、なんか知らんが売れてきて、メディアに露出をするようになってくると、いつのまにか歳下になっているものだ。これは、今までに何回もあった、そういうこと。笑。
アーティストであれ俳優であれ芸能人であれ、それはメディアの中に「像」が作られるのであって、それは実物というか、実体とは必ずしも関係がない。
その「像」は、メディアの中で最大限に効率よく機能するように、最大限に注目を浴び、数字を生み出すように、デザインされ、最適化されている。
だからこそ、それは、時代によって変わったり、場所によって変わったり、「先進的なアーティスト」であればアルバムごとに変わったりするものだが。
人によっては、そのメディアの中の虚像ゲームに、アーティストおよび芸人としての表現の可能性や、生き甲斐を見出す人もいるだろう。それは役目であり、特性であり、運命というものだ。
そういった表現や、アートを否定する気はさらさらない。ただ、自分はそれにあまり興味がないだけだ。
また、人によっては、そういった、メディアを通じて数字を生み出す現象や、組織や、戦略といったものに価値を見出し、それをもって、凄い、上手い、素晴らしい、といった評価をする人も、世の中にはたくさんいるだろう。
これもわからないではないし、否定はしない。人間、誰だって、勝者の側に立ちたいし、うまく立ち回りたいものだから。あるいは、単純に商売に興味があるのかもしれない。商売だって、その道は勉強なのだから。
でも敢えていえばそれは、アートを好きになっているんじゃなくて、システムを好きになっているのだと思う。マシーンに恋をしているのだと思う。
じゃあ、僕はここで、自分の中にある尖った部分の可能性を引き出して、戦略的に、思い切り尖ったヴィジュアルに変身すべきか。
うちのバンドは、たぶんそういったヴィジュアルはあまり考えてこなかったし、それほど気にしてもこなかったし、長年やった[Tone, Hassy, Jake]のラインナップにおいては、メンバーは、メタルっぽい格好をすることさえも、始めから拒否していたくらいだ。売れる努力をする、とか、売れよう、という気持ちすらなかったと思う、あの長年のメンバーたちは。自分も含めて、だけど。そして、それで良かったと思っている。つまり、「頑張って売れよう」「頑張って成功しよう」みたいな「やる気」にあふれたメンバーだったら、こんな音楽はそもそも作れなかっただろうから。
今のメンバー、ラインナップは、歴代のラインナップの中では、いちばんメタルっぽい格好をしているが(笑)
それでも、もしメディア対策として、メディアに特化して尖ったヴィジュアルにしようとすれば、たぶん色々と無理があるだろう。たぶん色々と限界があるはずだ。
もしやるのであれば、僕ひとりの、ソロプロジェクト、ソロアーティストみたいにする方が、まだ可能性がある。
じゃあ、やります?
“Nabeshima”は、Japanese Traditionalなのだから、アーティスティックに、そういう日本的かつ幻想的な格好で、尖った演出を。
やってもいいんだけど、果たしてそれは、音楽的にいいことなのか?
予算も時間も、試行錯誤も必要だしね。(めんどくさい、というのは結構本音)(そしてめんどくさい、というのは結構、正義だったりする)
ヴィジュアルを気にしてこなかったといっても、やはり自分の目指すものはあって、そして、「どんな格好で演奏するか」ということについては、年月をかけてやってくるうちに、これでもそれなりに、自分なりのスタイルを見つけてきたつもりだ。
それは、「メディアの中」においては、必ずしも派手な格好では無いかもしれないが、「ライヴの場」においては、それで十分であり、またきちんと自分を伝えられる「出で立ち」だった。
つまり、いいライヴ、伝わるライヴ、ライヴの場でメッセージを伝えるためには、この格好、このスタイルで十分だったし、何も問題は無かった。
もっとも、それはインディな規模のライヴの話であって、これが、でっかい会場でやれ、という話になったら、多少は違うのかもしれないが。
インディならではの姿勢、考え方、というものがある。
今の若い世代は、そういう感覚すらも知らないのかもしれないが、90年代のオルタナティブ時代を通過し、00年代ノーティーズの頃のインディシーンの匂いを知っている世代としては、メジャーっぽい方法論、メジャーっぽい表現の方法論は、生き方として否定するようなところがあった。
一般的な考え方の人は、よりゴージャスな、よりお金をかけた立派なものにしたい、と思うのかもしれないが、インディ的な考え方を持つ人間としては、なるべくチープに、なるべく手作りの風合いで、なるべくDIY的な発想で、表現していきたいと思うものだ。
たとえば、僕らはこれから、近い将来において、「オシャレ系インディロック」のプロジェクトを立ち上げることになると思うが、それにおいても、ヴィジュアル面は、きっと匿名性の高いものか、あるいは少なくとも「どこかはずした」「皮肉のきいた」ものにするだろう。
それはつまり、「メディアなんてそんなものよね」「ビジネスなんてそんなものよね」「成功なんてそんな程度のものよね」という意思表示でもある。
成功というものは、つまり”Fame”というものは、メディアの中にあるのだね。
様々な方策によって、メディアの中に虚像を作り出す。世間はそれで「アーティスト」「タレント」「○○」を認知する。
だからこそ、メディアの中で「よく見える」ように、様々な要素を最適化しなければならない。(それをやるのはアーティストではなくて、各メディアの専門家である)
そうしていくうちに、やがて音楽そのものも「最適化」される。
僕は「メタ情報」と呼んでいるのだけれど。
つまり、メディアの中で映えるように「最適化」され、「記号」だけになった音楽のことだ。
即時的なインパクトを重視し、すごい、おもしろい、と言わせるための「記号」や「メタ情報」のみによって効率よく構成された音楽。
だが、それと引き換えに、音楽の中からは本来あるべきメッセージや、人間にとっての本来大切な情報が、失われる。
これは、結構な矛盾である。
メッセージを伝えるために、音楽をやっているとする。
だが、それを世の中に伝え広めるためには、メディアの力が必要となる。
しかし、メディアの中で成功を掴もうとすると、メッセージの部分はかえって邪魔になる。
世の中の音楽がつまらなくなっていくのは、こういう構造的な問題があるからだろう。
そしてこれは、音楽家だけではなく、昔から、あらゆる宗教家が直面してきた問題でもあると思う。
大衆を救済したい、と願う思想家、宗教家は、けれども、高度な教えを究めれば究めるほど、それが一部の者や、少数の者にしか伝わらないという現実に直面してきたはずだ。
教えを広めるために、少々、教義を曲げてでも、わかりやすい感情的な概念や、実行しやすい風習や慣習を取り入れるべきか。
あるいは、教えを広めるために、世俗の権力と手を組むのか否かといった現実的な問題でもあっただろう。
民主主義というシステムにも同じことが言えるかな。
マイノリティ(少数派)や、弱者を救済するという志を持って政治家になるとする。
けれども、政治家として成功するためには、少数派ではなくて、多数派の支持を得なければならない。だから、多数派の利益を代表しなければ、政治家になれない。
そんな現実があるよね。
けれども思い出してみると、これって、僕らの世代がまだ若い頃に、「ヴィジュアル系の化粧をするのか、しないのか」という命題がそこにあったことと、同じことのように思える。
僕らの世代は、たぶんきっと、当時、日本でロックをやろう、とするならば。(そして、ある程度成功したい、と思うならば)ヴィジュアル系の化粧をするのが、現実的な選択だった。そうしなければ、「商売」が成り立たなかったからだ。
当時の、メタルプレイヤー、というのか、ヘヴィメタルを志向するミュージシャンたちは、多数派といっていいかなりの割合が、ヴィジュアル系として活動をしていたはずだと思う。
そして、僕は、こんな言葉を何度も聞いたことがある。
まずは売れて、それで成功して有名になったら、その後に好きなことをやればいい。
というお決まりのフレーズを。
皆わかっていることだが、だからこそヴィジュアル系のバンドという人たちは、成功してメジャーになると、お化粧がだんだん薄くなるのだろうと思われる。(当時、スラッシュメタルのバンドにも似たような現象があったが、これは皮肉にも逆の理由からくるものだ。彼らは成功すればするほど、好きなことが出来なくなっていったのだ。)
だが、何かを伝えるということは、果たしてそれほど簡単なことだろうか。
僕自身のことを振り返るのであれば、僕はそもそも、お化粧をするということなど、考えもつかなかった。考えもしなかった。
だからこそ、そんなふうに世間や周囲が見えていない自分は、out of touchであり、のろま、であり、とろい、のだ、と言うことが出来る。
けれども、僕はそもそもヴィジュアル系のバンドを見て、憧れなかったし、すごい、とも思わなかったし、自分もああなりたい、とも思わなかった。
必要がなかった。
メディアの中で注目を浴びようとは思わなかった。
輝かせたいものが違った。
表現したいものが違った。
伝えたいメッセージが違った。
目指している場所も違った。
で、今更、この歳になって、どぎつい化粧をしようとでも言うのかい。笑。
ライヴの場において、自分が見出したスタイル。
表現したい美しさ。
それは命そのままの輝き。
イエス・キリストは、確かなんかこんなことを言っていたよね。
野に咲く一輪の花を指して、あの栄華を誇ったソロモン王でさえも、この花ほどには着飾ってはいなかった、って。
だから、俺が着飾りたい衣装っていうのは、ソロモン王が着ていたような華美なもんじゃないんだよな。
神さんがくれた、野に咲く花の、命の美しさの方なんだよ。
僕が表現したいのは。
そっちの方が、はるかに貴く、美しいから。
どんな格好をするにせよ、アートな表現を追及するにせよ、いちばん大切なのは、「本当の自分になること」だと思う。本当の自分を追及すること。それが本当の自分の表現だというなら、俺は止めないよ。
でも、どうかな。ヴィジュアルは考えずに、音楽の中だけに真実を求めたいと思わないか。
ヴィジュアルっていうのは文字通り、目に見えるもののことだ。
だけど音楽には形がないじゃない。音楽っていうのは目に見えない表現だ。
だからいいんじゃないか。
本当に伝えたいことっていうのは、その目に見えない音の中にだけ、あればいいんじゃないのか。
昔の人は、写真というものが発明された時。
魂を抜かれる、とか言って、撮影を嫌がったりしたんだよな。作り話かな。
そういう迷信。
でも、そういうのも、ある意味では一理あったと思う。
キリスト教徒は、偶像崇拝はダメじゃない。
食べ物とか戒律とか、あまり気にしないんだけど、ここだけは、僕はわりと真剣で。
神イコール本質だとすれば、偶像崇拝っていうのは本質から外れることなんだよね。
それは、ロックンロールの本質とか、ヘヴィメタルの本質でも同じこと。
メディアの中の虚像、ってのは、それは偶像崇拝じゃない。
自ら、偶像を作り出して、偶像崇拝の対象になる、みたいな行為じゃない。
だから、よく考えないといけないんだよな。
PRはしてもいいかもしれない。
けれど、偶像を作り出したり、偶像に支配されたり、それが崇拝の対象になるようなことは、ちょっと気をつけなければいけないんだと思う。
さっきの話。
大衆を救いたい宗教家も、
弱者のために働きたい政治家も、
ヘヴィメタルを演りたいミュージシャンたちも、
そうやってみんな悩んできた。
だからこそ、「ナムアミダブツ」って唱えてみたり。
ChangeとかMAGAとかOnce Againとか言ってみたり。
顔を塗って悪魔を名乗ってみたり。
したわけだよね。
で、それに対する、イエスさんの答えは、十字架だったわけだ。
シンプルだよな。
これこそ奇跡なのかもしれない。
すごい奇跡みたいに思える。
ロックンロールでいえば、
それはやっぱり、ギターのリフ一発なんだと思うよ。
それとシンプルなビート。
他に何か要るかなあ。
メディアは関係がない。
現場を作りたいと思うよ。
現場を大事にしたい。
少なくともそれを基準にしたい。
たとえ、メディア無しには表現も発信も出来なかったとしてもね。
そんなわけで、だんだんと広告宣伝PRというものに興味がなくなってきたね。
メディア対策。興味ないね。
メディアを信じていないよ。
メディアの中にある虚像を信じていない。
そして数字を信じていないよ。
そういう虚像、偶像から距離を置いた発信を、今後も続けていきたいね。