シンエヴァに嫁さんが出ていた話

さて、こうしてちゃんとしたレーベルからアルバムを出そうとしている矢先に、今まで通りに好き勝手にこの日本語ページに個人ブログを書き続けるのは抵抗がないでもない。

でも、このバンドは基本的に海外向けにやってるところがあるバンドであり、英語の発信については多少は「お客さん向け」に営業っぽく書くことがあっても、日本語の発信については、あくまで親しい友達に日常や内幕をシェアする気持ちで発信してきた。

あくまで思考や生活の記録だし、それでいいやと思っている。

 

時間が無くてなかなか書けなかったから、ソーシャルメディア的にはもう遅い話題になると思うけれど、一ヶ月ほど前に、エヴァンゲリオンの映画を見た。完結編のやつだったらしい。
シンエヴァっていうのかな。

シン・エヴァンゲリオン劇場版(繰り返しの記号)、みたいなタイトルのようだ。

それの感想を書いてみようと思って。

 

僕は決してアニメファンというわけではない。
また、残念ながらオタクカルチャーといったものにも疎い方だと思う。
ある程度の年齢になって以来は、アニメやゲームといったものにも興味がなく、その意味では本当につまらない人生を送ってきたと思う。
(また、僕がそういったオタクカルチャー的なものに接点がある人間であれば、このバンドの売り方、世間とのコミュニケーションの仕方も、もっと違っただろう)

 

今回、エヴァンゲリオンの映画を見てみようかなと思ったのは、純粋にノスタルジーからだ。

報道のされ方もそんな感じだと思うが、世代的に、エヴァンゲリオンというコンテンツは、ロスジェネホイホイ的な立ち位置のものだろう。
ロスジェネと重なるかどうかはわからないが、ロックに置き換えれば、90年代の後半とか2000年前後に、レディオヘッドを聴いていた世代、みたいな言い方が出来ると思う。
日本で言えばナンバーガールとか。

僕らはロスジェネの最後の方にあたる世代と言えるが、
90年代が青春だった僕らにとっては、エヴァンゲリオンは、その頃から付き合ってきたコンテンツであり、自分たちの青春時代のあれこれと重なるコンテンツであると言える。

世間でエヴァンゲリオンというアニメがブームになったのは、1990年代の後半のことであったと思う。それで、その時に映画が公開された。その時の映画は、現在では「旧劇」という呼び方で呼ばれているようだ。

 

僕は決して熱心なアニメファンではない。
日本人だから、それなりに好きなアニメとか多少はあるが、あったとしても、一般的な人気作品とかとは、ちょっとずれる。わかりやすく言えば、ガンダムに全然思い入れがなく、ボトムズの方が好きといった具合だ。
また、2000年代以降のアニメとかゲームについての知識はほぼまったく無いと言っていい。

御存知のとおり、アニメやゲームといったオタク系ポップカルチャーは、今では政府も認める日本のメインストリームの文化であり産業である。いつの間にか、世の中ではそれが主流になってしまった。
それらの話題に全然乗れないというのは、一般的な日本人男性として、ビジネスにも支障をきたすんじゃないかと思うくらいだ。

 

そんな自分が、90年代当時、エヴァンゲリオンを見てしまったのは、当時、自分が人生の中の状況において、精神的につらい状態にあったからだった。

当時、まだかなり若かった自分は、ひとりの女性にひどく恋をしており、しかしその女性になかなか会えない状況にあった。また人生の状況においても、先が見えない状態にあり、精神状態はとても暗かった。

それらの説明を、いちいち、今ここですることはしないが、今、僕らがやっているこの音楽は、それらの状況があったからこそ、生まれてきたものだったということは言うことが出来る。
そして、英語版のプロフィールでいつも言っているように、そのように精神的に支障をきたし、ブレイクダウンを経験した自分は、基本的にその後、ずっと「治療継続中」であると言える。

 

自分はそんな暗い、追い詰められた精神状態の中で、夜中にたまたま見たそのアニメに対して、当時の自分の状況を重ね合わせていたのだった。あのアニメは、わりとそういう、崩壊しつつある世界の中での、極限の中での生存をかけた戦いみたいなのを描いていたからだ。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、当時の自分も、だいたいそんな感じの状況にあって、だいたい同じような感じの、生きるか死ぬかみたいな戦いに晒されていたのだった。

そのエヴァンゲリオンというアニメが、当時のアニメの世界の中で、表現として、どのように斬新だったとか、どういったキャラクター描写が画期的だった、とか、そういうことは、皆さんがさんざん語っているだろうから、僕は書かない。でも、それは単に、その時代の、僕らの世代における表現ということに過ぎないと思う。

それ以上の思い入れということは、書くまい。
なぜなら、僕はそれほど熱心なファンというわけではなく、別に「綾波レイ」に熱を上げた方というわけでもない。
もっと熱心なファンは、世間にたくさんいらっしゃるだろうから、ここに、それ以上に作品に対しての個人的な思い入れや、自分なりの解釈を書くことはあまりしたくないのだ。

 

そんな僕が、僕らが、「なんか完結編らしいよ」ということで、ちょっとその気になって映画館に足を運んでみた。

そこにはやっぱりノスタルジーというものがあり、ちょっとあの90年代を振り返ってみようか、という気持ちがある。

で、個人的な思い入れや、自分なりの解釈や感想を書きたくないと言ったものの、その、見に行ってしまった新劇場版の、感想をこれから書くのである。つとめて、なるべく簡潔な形で。

 

ひとつ断っておくと、キリスト教的な観点からの感想は書かないでいこう。
エヴァンゲリオンといえば、そのタイトルからして、宗教的なテーマとか、なんか死海文書だの秘密結社的な、そういう宗教的、ないしはキリスト教的なモチーフが散りばめられているが、
それらの観点からの解説をしている人は、たぶん他にもたくさんいるだろうし、言ってしまえば、それらは単なるモチーフに過ぎず、実際の宗教的な意味はほとんど無いものだし。

キリスト教的な感想も書けなくはないし、逆に言えば、ナルニアや指輪物語を引き合いに出すまでもなく、「人の作り出す物語はすべてキリストの福音の物語」だとも言えるが、それをやると長くなるし、今回の趣旨はそれではない。

だから今日、書くのは、そういうのを抜きにした個人の感想だ。

 

このエヴァンゲリオンの「新劇場版」というのは、
なんでも、リメイクの作品として、
「序」が2007年、「破」が2009年、「Q」が2012年に公開されて、やっと今回、この2021年に、その完結編が公開された、という流れらしい。

で、僕は、90年代のテレビ版とか、1997年の映画版は当時に見ているものの、
それ以降、これらの新劇場版はぜんぜん見てない。また、スピンオフ的なゲームとかそういうのも全然知らない。
(ほんと言うと、何年か前に、実家に帰省した際に、妹がなぜだかテレビで録画したやつを見ていて、それを2分くらい眺めていたが、それくらいだ)

そして、それらのリメイク版の新劇場版も、ぜんぜん予習とかせずに見に行った。
(なので、ファンとしてのまともな感想とは言い難いだろう)

 

時代というのか、今の時代ならではの表現というのか。
ああ、今の時代のアニメの表現というのは、ずいぶん進化しているんだなあ、という呑気な感想。
そこには、やっぱりそれだけでも、自分たちが生きた時代というものを重ね合わせて、感慨を感じるものである。
それだけでも、やっぱり「いい歳」になって自分たちなりのささやかな人生を経験してきた僕らにとっては、十分な価値であり、感慨である。

なぜなら優れた作品というものは、だいたいにおいて、時代とかその時の社会の状況を反映するものだからだ。
だから作品の中に映し出された、自分たちが生きてきた、生きている、社会や世界の状況を見出して、そこに様々な実感や感慨を覚える。

 

しかし、そんな順当で、穏当な感想は脇に置いておいて、僕は不思議な、そして身も蓋もないほどに、安直で安易で、そして予想もしなかった感慨に襲われた。

見慣れないキャラクターが出ている。
なんか、眼鏡をかけて、ピンク色のコスチュームに身を包んだ、女性パイロットのキャラクターだ。

それは、もともとのテレビ版では存在していなかったキャラクター。
新劇場版から登場した新キャラクターで、その名を「マリ」と言うらしい。
どうやらフルネームだと真希波・マリ・イラストリアス、というようだ。

 

そして、なんか僕は、見てるうちに、その「マリ」というキャラクターが、うちの嫁さんに見えてきた。
というか、うちの嫁さんにしか見えなくなってきた。

「あれ、なんでうちの嫁さん、エヴァンゲリオンに登場してんの?」

そう思った。
見慣れないキャラクターが、記憶の中の「エヴァ」には居なかったはずのキャラクターが、画面の中を躍動して、それがどうしてもうちの嫁さんにしか見えない。

 

そして、その事実というか感慨を以て、僕にとってのエヴァンゲリオンは、見事に完結してしまった。
これ以上ないくらい、きれいに、見事に、完璧に、完結した。

 

言い訳をさせてもらえば、うちの嫁さんは、決してアニメの美少女キャラクターのような容姿はしていないかもしれないが、
だがしかし、近年、仕事の際には常に眼鏡を着用するようになり、家庭においても「眼鏡っ娘」になっていることが多い。

比較的高めの身長設定とか体形も似ているし、そんでもって語尾に「にゃ」とか「にゃん」とか付いているあれだ。

うちの嫁は、記憶に残っている限りにおいても、西暦2000年前後くらいから会話は大抵「にゃん」の人である(家庭内では)。その証拠は、2001年に録音した作品”Entering The New World”の収録曲「幸せ育て」にも「にゃんにゃん」言っている様子が収録されているくらいである。

なので、似たような容姿でにゃあにゃあ言っている、その「マリ」なるキャラクターが、どうしてもうちの嫁さんにしか見えなかった。

 

ていうか、普通に名前まで同じだしね。

知ってのとおり(知らんか)、うちの嫁さんは、本名はバンド名にもらってしまったので、自然な流れとして、通称はアナグラムであるMarieで呼ばれるようになった。結果、周囲の人は八割方、彼女を「マリさん」と呼ぶ。そして、本人もその方がしっくりくるらしい。

 

その「嫁さん」の姿を見てもらうため、
ここはちょうど、バンドのウェブサイトであるからして、
ちょうどよく宣伝というわけではないが、
昨年末にリリースした「アコースティックEP」の企画から、
「一匹の羊」(One Sheep)および、「血まみれのメサイア」のビデオを見てもらうことにしよう。

これは、昨年、コロナ状況下のバンドで動けない中でなんかリリースしたいということで、急遽作ったアコースティック作品、メタルではない作品であるが、
ちょうど、この2本のビデオにおいて、Marieは眼鏡姿で出演している。

あれだよね、恥ずかしいのは、Marieはつまりうちの嫁さんのことであるが、僕はまさか、彼女がこのバンドのメンバーになるとは思ってはいなかったのだ。2018年に長年のメンバーであるHassyとJakeが辞めた時、いろいろ考えた末に、このバンドが生まれる理由となった張本人である彼女を、バンドメンバー(ベーシスト)として迎えることを決断したのだが、今ではその決断はやはり正しかったと確信しているが、でもやっぱり、まだ少なからず、照れを感じている、僕は。

 

アニメのファンの方からは、別に似てないと言われるかもしれないが。
しかし、なんなら髪も似ていると僕は思っている。
このビデオではそういう髪型をしていないが、ツインテール等、後ろに束ねたら、もっと似るはずだ。
夏(7月)には公開されるはずの”God Anthem”のビデオにおいて、彼女は髪を束ねているので、それを参照していただきたい、その折には。(もっとも武道系の服装のせいで、どちらかといえば、「るろ剣」のヒロインみたいになっているが)

 

今まで、Marieが、似ていると言われたことのある有名人は、あまり多くはないが、
たとえばグラビアアイドルの森下千里さん(なんでも政治家に転身されるそうで、また話題となっていますね)。
それで、アニメのキャラクターだと、銀河鉄道スリーナインのメーテル。これは、謎めいた美女、という意味ではなく、長い髪と、いつも黒い服ばかり着ているからだろう。

彼女は、過去に、周囲にそう言われたので、とある機会に「メーテル」のコスプレをしたことがあるらしい。(とても受けたそうだ)

だが、ピンクのプラグスーツのコスチュームを着せて、髪をツインテールに束ね、同じデザインの眼鏡をかけたら、かなりのところまで、この「真希波・マリ・イラストリアス」に似るのではないだろうか。(ちょっと試してみたい)

 

しかしまあ、他人から見て、似ているかどうかはここでは問題ではない。
僕の視点から見て、この「マリ」が、Marieにしか見えなかった、ということだ。

そして、作品の中の役回りも、それにふさわしいものだった。

解説とかが書いてあるウェブサイトとかを見ると、
この「マリ」というキャラクターは、
無限ループを続けているこのエヴァンゲリオンの世界の中で、そのループを断ち切り、本当の結末へと向かわせるためのキャラクターであるらしい。

そして、もともとのテレビシリーズのエヴァンゲリオンには登場せず、なんか商業的な事情で起用されたキャラクターらしいが、結果的に、制作側とか、監督の立場からは、「異質な他者」みたいな役割で作品を完結させるためにうまく機能したらしい。

 

エヴァンゲリオンの監督であるところの庵野監督は、2002年に漫画家の安野モヨコさんと結婚されている。
それによって、その後、庵野氏の中で様々なものが変化し、奥さんの影響があったであろうことは、想像に難くないし、たぶん世間でもそのように指摘されていることだろう。
今回の「シンエヴァ」においても、そのような影響は、おそらく随所に表れていたに違いない。

その意味でも、この「マリ」というキャラクターは、作品そのものにとっての、「嫁さん」という名の他者であった、という解釈は、たぶんそんなに外れていないはずだ。
自己内で完結した、閉鎖的な一人の人間の精神世界を、そっから解き放つための「他者」としての役回りだったと思われる。

 

そして、それは、熱心なファンとは言い難く、90年代当時に見て以来、久しぶりに「エヴァンゲリオン」の世界に触れた僕にとっても、同様のことであった。

 

言うまでもないが、先述した、僕がその90年代当時、つらい精神状態にあった、その原因となった人物、僕が当時、ひどく恋をしていた女性とは、Marieのことである。

僕は、様々な事情があり、その当時、彼女と離ればなれの状況にあり、よって、1997年当時の「旧劇場版」を、僕は一人で見た。それは「夏エヴァ」と呼ばれているらしいが、たぶん今はもう無いであろう川崎の小さな映画館で見たことを覚えている。些細なことであっても、忘れられるわけがない。

だが、僕らはそこからいろんなことを乗り越え、様々な経験を経て、こうして彼女のことを「嫁さん」と呼べるようになり、世間的に見てどうかはしらないが、ここまで人生を歩いてきた。

それが果たして、正しかったのか。
自分たちの選択したこの人生が、「正しいタイムライン」「正しい時間軸」なのか、ハッピーエンドにつながるものであるのか、それは知らん。

けれども、どうやら、これでいいらしい。

たぶんそういうことを問いかけるために、人は映画や小説に限らず、芸術作品に触れるのだろう。
優れた芸術作品や創作は、それに触れた人が自分の内面や、人生経験を、それを通じて投影出来るものだから。

1997年に見た「旧エヴァンゲリオン」を、僕は不安定な精神状態で、一人で見た。

けれどこうして、2021年に「シン・エヴァンゲリオン」を、彼女と二人で、まるでなんでもないことのように、見ることが出来た。

僕にとってそれは紛れもなくハッピーエンドであったし、見事な完結であった。
たぶん、同年代のファンの人たちは、それぞれに、おんなじような気持ちで、おんなじような感慨で、今回の「完結」を見届けたのだろう。

 

24年越しに、やっと一緒に見ることの出来たエヴァンゲリオン。
隣に彼女が居たのはもちろんのこと、スクリーンの中にも彼女が居た。

スクリーンの中の「マリ」は、作中世界の無限地獄のループを打ち破り、異質な存在として世界の流れを変え、戦いの最後に主人公(シンジ君)を助け出した。彼女は閉ざされた主人公の心を開き、「他者」としてそこにあり、ラストシーンでは主人公(シンジ君)と手をつないで走っていくのだ。

だがどうやら、スクリーンの中だけではなく、現実においても、僕は彼女(Marie)に救い出されたのかもしれない。

そこには様々な戦いがあった。内面においても、外面においても。
けれども僕の人生において、彼女は「他者」として登場し、(そして計画されていた諸々のすべてをぶちこわし)、そしてそれ以降もずっと「他者」として僕の人生に存在してくれた。

「他者」としての彼女が僕の人生に現れ、そして居てくれたからこそ、自己完結した僕の世界は壊れ、新たに生まれ、そして広がっていったのだ。
少なくとも、そこから様々なものを生み出すことが出来た。他人の評価はともかくも。

(ここで果たして「他者」とは何か、という問いかけをしたくなったのだが、長くなるから今日はその話はしないでおこう)

 

どういう事情で、この「他者」なる「マリ」が登場したのか。
僕の人生において、彼女が登場したのは、それは神さんの意志によるものだ。
唐突で、計画していないもので、まったくはた迷惑な、それが神さんの意志ってやつだ。

だが、このエヴァンゲリオン新劇場版において、彼女が登場したのは、
それは、もともと予定になかった、商業的な事情からのものであり、
その予定外の出来事をもたらしたのは、これもやはり、なんかしらんが神の意志みたいな偶然だと、僕は思う。

なので、作中世界、僕らの生きる現実世界、その外にいるこの世界の作り手である神さんの意志、みたいな重層構造を思う時(これは芸術、創作に携わる者ならすべからく実感しているはず)、
まるでこの「マリ」をこの世界に遣わしたのは神さんの意志、神の手によるもので、それはつまり他でもないSalvation(救い)の形そのものである、と僕は感じざるを得なかった。

これが、今回僕が書く、キリスト教的な視点からの唯一の感想だ。
もっとも、これは男性視点から見た救済というひとつの形であり、女性の視聴者はまた違ったように感じるかもしれない。

 

冷静に分析すれば、この「マリ」という新キャラクターは、実は年齢が「シンジ」や「アスカ」よりも随分上らしい、とか、むしろ生年月日が僕らの世代に近い、とか、アニメの中の女性キャラクターの中では、わりと実際の女性ファンが自己を重ねやすい設定にあるように思える。
昔からのファンである30代、40代のファン(の女性)が見た時に、自分自身が作品世界に飛び込んで、シンジやアスカの尻をひっぱたいて(という言い回し自体、今の時代でアウトっぽいが)、なんとかハッピーエンドに持っていく、みたいな爽快感があるのかもしれない。

 

その意味においても、このキャラクターがなんか嫁さんに見えた、というのは、順当なところかもしれないが、
ひとつ言っておきたいのは、僕は90年代当時にエヴァンゲリオンを見た時には、「カヲル君推し」であったのだ(笑)
それは、僕が基本的に美少年フェチだからである(笑)

僕は、アニメの中の「萌え」みたいな美少女キャラクターとか、ぶっちゃけ大っ嫌いであるが、美少年キャラにはわりと、萌えてしまう方なのだ。

だから今までは、エヴァンゲリオンで好きなキャラクターは誰かと聞かれたら、「カヲル君」と答えていた。

でもどうやら、今後はあくまで「気軽なカジュアルファン」として、こう答えなければならないようだ。

「そうだね、お気に入りのキャラは、なんといっても真希波・マリ・イラストリアスだよ。なぜかっていうと、それはね・・・」

 

その後の話をわかりやすくするためにも、ここは一度、Marieにコスプレをしてもらうべきだろうかね(笑)

 

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