神と宇宙のポリティクス

 

僕は。(翻訳のために主語を置いておく。笑。)
ポリティクス、政治権力やその力学には興味がない。

神の支配、神の法による支配、民主主義の支配には興味がある。

前はもうちょっと現実の政治というものに興味があった。
でも今は、かなり興味を失っている。

 

もちろん政治は大切だ。

政治というのは泥臭い仕事だ。

その泥臭い仕事をやっているすべての人を尊敬する。
足を棒にして働いている人たちを尊敬する。
身を粉にして働いている人たちを尊敬する。

だから僕だって可能な限り取り組みたいし、取り組めたらいいなと願っている。
それが民主主義っていうものだから。

投票に行くのは当然のことだ。

僕にだって政治的な立場や、主張が無いわけじゃない。

でも、これはまた、それとは別の話だ。

 

 

単なる分類、ラベルの問題であれば、日本にはキリスト教徒の政治家はいっぱいいる。
いっぱいいた、し、おそらく今でもいっぱいいる。

それは、明治とか大正とかそういった近代の時代に、日本の知識人、文化人、財界人といった層に、キリスト教を信仰した人物が多かったことが理由かもしれない。たぶん。知らん。推測。その名残りか。

だがそういった政治家が、キリスト教精神にのっとり、弱者のための政治をやったかというと、必ずしもそうではないと思う。
そういった政治家たちが、キリスト教徒の方を向いて何かしてくれたかといえば、それもたぶん違うだろうと思う。
(かといって、してくれたからどうこう、というのも、また違うけれど。)

 

 

宗教と政治は密接な関係にある。
そんなことは、太古の昔から決まっている。
そもそも大昔、人間の社会では宗教と政治はひとつのものだった。

だから、近代現代になり政教分離とか言っても、やっぱり宗教と政治が密接な関係にあることに変わりない。

 

人はみんな権力を欲しがる。
人間というのは、権力というものが大好きだ。
見ていてそう思う。

華やかなスポットライトの光に惹かれるのとおんなじような理由で、人というものは皆、権力に引き寄せられていく。

残念ながらミュージシャンでもそれは同じだ。
多くのバンド、若い野心のあるバンドが、「僕たちはもっと成長して大きくなり、皆さんに恩返しします」(とかなんとか)と言った時、ほとんどの場合、それは音楽的な向上や芸術的な進歩のことではなく、政治的な立場の向上を指している。

(残念ながらそれはシステムの中での政治的ランクの向上であり、社会のシステムそのものを変えることではない。)
(残念ながら今更誰が東京ドームや武道館でコンサートをやったところで、社会は変わらない。それなら一人の人間を本当に救う努力をした方がいい。)

 

影響力。情報を拡散する力。
それはつまり政治力ということだ。

知名度。皆に知られているという事実。
それはつまり政治力ということだ。

人を説得する力。
金を集め、人を集め、数字を集める力。
それはほとんど権力の定義そのものに他ならない。

お金っていうのも権力というのとだいたいイコールだ。

つまりそれは世の中を思い通りにする力ということ。
人間は、だいたいみんな、それを望み、理由はどうあれそれを望み、皆がすすんで権力のレースに参加する。

 

僕だってそういった権力(パワー)が欲しくないわけじゃない。
ただ、僕は人とくらべて、そういったものを追いかけるのが不器用だっただけだ。

でも、だんだん、時がたつにつれて、年を経るにつれて、これでよかったのかも、と思えてくる。

なぜなら、キリスト教の信仰、キリストの救済、そしてイエス・キリストの十字架ということは、そういった政治権力や、政治の力学、政治のゲームとは、まったく関係のないものだということがわかってきた。

 

 

宗教の看板を背負って政治をやるなんていうことは、他の宗教もみんなやっていることだと思う。

あの宗教組織も、あの宗教派閥も、この宗教団体も。
みんなその看板を使って、政治の世界に手を出し、人を送り出している。
(芸能の分野でも同じだが。)

そして、たとえばアメリカにおいては、キリスト教というものは政治と密接に結びついている。(芸能の分野でも同じだが。)

ヨーロッパとかはよく知らないからわからん。

けれども、この日本の地においては、もし出来るのであれば、キリスト教はなるべく政治とは一定の距離を保っていてほしいとそう思っている。個人的にそう思っている。

まったく関わるなってことじゃないけれど、一定の距離はあってほしいと思う。

なぜなら、たぶんそれは結構貴重なことだからだ。
キリスト教が、政治権力の側にいない、ってことが。

他の安っぽい宗教とは違うという何かが、そこにあってほしい。(個人の願望です)

 

 

僕は看板に書かれた安っぽいキャッチフレーズは信用しない。少なくともあまり信用しない。

クリスチャンアーティスト、という立場からすると驚かれることがあるが、僕は曲を書く時、あるいは曲を聴く時、「歌詞」というものはあまり重視しない。

重視しないわけではないが、あくまで二次的なものだと思っている。

音楽の中に込められた霊的なメッセージこそが「主」であり「本質」であり「真」だからだ。

歌詞はそれを補足し、支える二次的なものに過ぎないと思っている。

 

皆が「わかるー」と言って共感するような、安っぽいキャッチコピーのような歌詞を書くことは誰にでも出来る。(商才があれば)

しかし同じ歌詞でも、その行間から言葉以上のものがにじみ出るような、本当の意味での「詩」を書くことは、言葉の「霊」を扱う力を持った本物の詩人にしか出来ないことだ。
(そうして初めて、ヨハネの福音書が理解できるようになる。)

残念ながらそういうのはだいたい商売とは関係がない。
そして政治とも関係がない。

 

音楽そのものの中に、そして言葉の裏側に、込められた霊的な、あるいは芸術的なメッセージ。

残念ながら、それは誰にでも読み取れる、というものじゃない。
どちらかといえば、読み取れない人の方が、現実には多数派だろう。
霊的な感性を閉ざして生きている人の方が、現代には多いのだから。

けれど、それらのものに意味がないとしたら、僕がこれまで人生の中でやってきたことはすべて無駄になる。
そして数多の芸術家のやってきたことも、ただの飾りになってしまう。

 

 

現実の政治がよくなることはないんだろうなという気がしている。
少なくとも、foreseeable futureというか、自分が生きている間ぐらいのタイムスパンでは。

そして、たぶん、人間のやること、人間の行い、そういったものが、本当の意味でよくなることも、残念ながらないのだと思う。

でも、最近僕は、そのことをいちいち気に病まなくなった。

歳を取ればみんなそういうものかもしれない。
たぶんそうだろう。

 

世界の中で、そして宇宙の中で、人間の世界、人間がやっていることなど、ほんの小さなものに過ぎないのだということに、改めて思い当たった。

人間は確かに地球環境を破壊しており、数多の生き物にとって、人間は災厄と呼べる、大量虐殺者たる存在であることに間違いはないが、

たとえそうであっても、人間がどれだけ大暴れし、自然を破壊したとしても、当の「自然」そのものからしてみたら、へっちゃらであろう。
生きるための環境が悪化して困るのは人間自身だ。

母なる自然に、人間が打ち勝つことは出来ない。
神が作り出したシステムに、人が逆らうことは出来ない。
そして宇宙を支配している神の法を、少しでもねじ曲げることは人には出来ない。

そう思えば、世界はちゃんと正しい方向に動いている。
正しい法則に従い、正しい作用に導かれて、正しく営みが行われている。
政治権力はやっぱり関係ない。

 

 

トリガーになってしまう言い方かもしれないが、
たとえば海外のキリスト教の保守派の人たちは、LGBTQや性的マイノリティといった論点について大騒ぎするが、
何がそれほど問題かと思う。

人間がどのような「乱れた」セックスをしようと(それはゲイだろうとストレートだろうと変わりはあるまい)、
結局は子供を作るには男と女が必要なのだから、
どんと構えていればいい。
神の創造した根本の法則は変えられない。
テクノロジーにはどこまでいったって限りがある。
そして人が罪を犯すのはどっちにしても昔からずっと変わらないことである。

 

やっぱり誰かをトリガーしてしまうかもしれないから、
補足しておくと、
そうやってupsetする保守的な人たちも僕は嫌いではない。
彼らは真剣であり、守りたいものがあるから、そうやってupsetな気持ちになり、人を非難する。
けれど、本当に大切なもの、たとえば神の道みたいなものは、決して滅びたり、廃れたりはしないのだということに、最近気がついた。

そのことについて補足の意味でもうひとつブログ記事を書いてみた。
次の記事「世は滅びても道は滅びない」

 

 

狭い世界の中で生きる人間が、その中のさらに狭い世界のなかで行っている政治という名のゲーム。
それはやっぱり、神から見れば子供のおままごとだ。
自然から見れば、宇宙から見れば、取るに足らない線香花火だ。
(その線香花火のはかない光に、必死で大騒ぎするというのもまた人間らしいけれども。)

そう思えば、
惑星のひとつやふたつ。
人間社会のひとつやふたつ。
ましてや国のひとつやふたつ。

ならば目の前の命を大切にして生きた方がいい。

かけがえのない愛を大切にして生きた方がいい。

神への信仰を貫き通した方がいい。

その方がよっぽど確かだ。

その方がよっぽど大きなことだ。

 

もちろん現実の政治だって大切だ。

政治というのは泥臭い仕事だ。

その泥臭い仕事をやっているすべての人を尊敬する。
足を棒にして働いている人たちを尊敬する。
身を粉にして働いている人たちを尊敬する。

だから僕だって可能な限り取り組みたいし、取り組めたらいいなと願っている。

それが民主主義っていうものの義務だから。

もちろん投票に行くのは当然のことだ。

 

僕にだって政治的な立場や、主張が無いわけじゃない。

なるべく皆が幸せになるような政治が行われてほしい。

だけど、それはやっぱり、線香花火のかすかな光に大騒ぎするだけの取るに足らないお祭りだということは、やっぱり覚えておきたい。

 

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