この道を共に歩こう

 

人に何かを伝えるっていうのは難しいことだと思う。
ましてやそれが大切な何かであれば尚更だ。
ずっと前から思っていた。

 

クリスチャンの人たちが同意してくれるかはわかんない。
けれど、本来はJesus Followerというか、「イエスに従う」「イエス・キリストをfollowする」というのは、結構大変なことだと思う。

つまり聖書にあるように、本来的にそれは、「この世から離れる」「この世のものと敵対する」ことを意味する。ちょっと言い方は違うかもしれないが。

そしてそれは、イエス・キリスト本人がそうであったように、最終的には誰からも理解されず、皆に見放された上で十字架にかかるという、そういった道かもしれない。

だからそれは苦労する道だと思う。
決してみんなからちやほやされたり、社会的に何かが保証される道ではない。

 

なんか音楽とか芸術をやることにも通じるものがある。
芸術に限らないかもしれない。
きっとどういった道でもそうで、
何かに向き合う、ということは、本来そういうものかもしれない。
人間社会の中で、物事の本質に向き合おうとすれば、自然とそういった矛盾に出会うことになる。

 

ずっと前から言っているように、僕は「道を伝える」(伝道)ってことを、何かの営業活動だとは思っていない。
営業だったら契約書にサインさせればそれで終わりかもしれない。
また、名簿にリストアップすればそれで数として成果としてカウントされるのかもしれない。
(フォローアップやアフターサービスは必要だったとしても。ていうかそれこそが出来る営業の本質なわけだが。)

 

だから、僕は、よほど、よほどのよほどに親しい人でなければ、「一緒にこれをやろう」とは言わないだろう。
性格的なものや、人との距離感によるのだろうけれども、少なくとも僕は無理だ。
むしろその逆で、「こんなに大変なこと、こんなに苦しいことは、自分一人でいい」と思ってしまう方だ。

そう言った意味では僕は「営業」はもちろんのこと、「伝道」や「宣教」といったことには向いていないのかもしれない。

 

だけれど、本当に大切に思っている人であれば、それは別だ。

いつもジョークのように言っている、一種の証(testimony)がある。
うちの嫁さんがどのようにしてクリスチャンになったかという話をする時に、いつも言うジョーク。

 

それは、2008年初頭の頃。

僕「あのさあ、僕、クリスチャンになろうと思うんだけど、君もならない?」

嫁「うん、なるなる〜」

と、そんな調子で、実際にはもちろん彼女の人生の中で、少女時代からの色々な伏線があったわけなのだけれど。そして、やはりもちろんそこに至るまでには色々な経緯があり、色々な理由があったわけなのだけれど。(本人に聞いてみて)

 

だけど実際にその時は、こんな感じのノリだったのは事実なのだ。

「え、そんな軽いノリだったの!?」

ということで大体みんな笑うのだけれど。

 

でも、どうしてそんな軽いノリで、キリストを信じる、キリストに従う、そんな決心をするという、重大で大切なことが伝わったのか。

それは、やはり愛する人だったからだ。
親しい仲であったからだ。

通常よりも近しく、自分や他人といった区別を越えたところにいる人だったから。
僕にとって嫁さんが。

 

けれど、これが他人であったならば、僕はそれをわざわざ言ったりはしないだろう。
(いや、それでもやっぱり、結構それでも言う方かもしれないが、僕は、笑)

個人個人の魂に関わる、心の中の信仰といった、重大かつ個人的な決断について、自分の信じている何かを押し付けるようなことは、僕はあまりしたくないし、そういったことをするのには抵抗がある。

ましてや、それが決して楽なものではないとすれば。
かなりきつい、困難や矛盾に向き合う性質のものだとすれば。

 

それは真実っていうものかもしれない。
信仰の中には確かに真実っていうものがあるだろう。
だけど、真実なんか見ない方が幸せってこともある。

そして真実を見るっていうのはやっぱり、何であれそれは勇気の必要なことだと思う。
誰もが出来ることではないのかもしれない。

 

誰もが歩ける道ではないのかもしれない。

苦しい旅路には他人は連れていけない。

だけど、本当に大切な人だったら、たとえそれが苦しい旅路だったとしても、一緒に来て欲しい、と思うじゃないか。

 

それを分ける線はどこにあるのだろう。

本当はそんな線なんて無いかもしれない。

 

僕にとって、音楽を鳴らすということは、
その線を出来るだけ無くしていくための、ひとつの大きな試みだ。

なぜかといえばそれが僕の信じているものだからだ。
ロックを、ブルーズを、ヘヴィメタルを、自分のやっている、やってきた、その表現形態を、その流派の中にある「道」みたいなものを。

 

この人は天国に連れて行きたい。
神の国に、神の愛の中に居て欲しい。
私はこの人を救いたい。
たとえそのために、どんな困難や犠牲が伴うとしても。

そんなふうに思うのは、愛以外に無い。

そして本気でそう思った時、もう他人とか自分とか、そういうことは関係ない。

それは破壊的であり、また創造的でもあると思う。
なぜならもともと愛とはこの世のものではなく、それは常軌を逸したものであるからだ。

 

みんな知っていると思うが、傷つけずに愛するなんてことは出来っこない。
だからこそ、本気でなければならない。

だからやっぱり、愛っていうのは、ぐちゃぐちゃに濡れたものであり、
そしてキリスト教っていうのは、本質的に血なまぐさいものだと思うね。

 

覚悟が無いなら、触れちゃいけない。
でもロックだって、もともとそういうものだからね。

聖書に何度も「神は岩(ロック)」って書いてあるのは、やっぱり冗談じゃない。

 

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