永遠のラブソング

昔はウェブサイトに「日記」みたいな機能があって、若い頃は毎日でもそういった場所に日々の雑感であるとか、報告みたいな文章を書くことが出来た。またSNSに関してもmixiとかが流行っていた頃にはたわいもない文章を毎日投稿することが出来たが、いまどきみんなとっくにソーシャルメディアには疲れているだろう。

けれど今はなかなかそうはいかない。
音楽についてだけではなく、社会的、政治的なことについても、その気になれば書けることはたくさんあると思うが、どうしてもうまく書けない。
それは時間がなかったり、他に優先すべき事項があったり、また自分の偏った意見のようなものを別段に表明する必要がないと考えてしまう、などといった理由がある。

 

1,2ヶ月ほど前にも、ふとブログに書き残しておきたい文章を書いた気がする。確か信仰や人生についての内容だ。後でもう一度内容を確認して、良いタイミングがあればポストしようと思っていた。
その後で火事の件があり、タイミングを失った。
その文章はたぶん、もういっこの方のパソコンに保存されているので、(教会にお世話になっている関係上)、今ここに手元には無いので、やはり今日、それをポストすることは出来ない。

だが別に書き記しておきたいことがあったのでキーを叩いてみよう。

 

ついでに言えばやはり火事の一件はなかなかダメージがあったと言っていい。
神様の導きや、皆さんからのご支援や、様々な人にお世話になったりと、良いこともたくさんあったと言えるが、
そうであったとしても、家財の大半を失ったことであるとか、楽器や機材関係にしても、楽器はわりと大丈夫だったとも言えるが、それでもやはりダメージはある。
そういったものは、最初は元気にしていも、だんだん気付いていくようなものだと思う。
また精神的なものもやっぱりある。

 

今作っている作品、アルバム、僕らはインディバンドなので、「アルバム」とか言うのにはどうしても抵抗がある。ずっと昔からそうだ。商業的に世の中に大規模に流通させるために作っているわけではないのだからして。
だから「作品」と言う方がしっくりくる。

「ツアー」とかでもない。遠征と呼びたい。それが日本の地方であれ、アメリカとか外国であったとしても、単純に遠くまで言って演奏する。それだけのことだ。
商業的に、プロモーターと組んで定番のベニューやフェスティバルをブッキングして大規模に宣伝するようなものは「ワールドツアー」とか「全国ツアー」とか呼んでいいと思うが、僕らは一個のインディバンドが自主的に遠征を行っているだけである。

だが、英語で発信する時には、他に言葉を知らないので、しょうがなく「アルバム」と呼ぶし、「ツアー」と書くけれども。英語で書いてしまえば別に普通の言葉であり、一個の名詞にすぎないかもしれない。カタカナで書くと違った意味合いになるという、これは日本語特有の現象だ。

 

どちらにしても今作っている作品だが、音楽的にはひさしぶりに「1980年代のハードロック路線」を前面に押し出した、とても楽しくストレートな作風になる予定だ。
だが、歌詞は結構良い感じで書けた。
クリスチャンメタルバンド、日本のクリスチャンロックバンド、そしてImari Tonesの物語としても、「見事にハッピーエンド」と言って間違いないくらいの、楽しく、メッセージがあり、感動的な、そんな作品、歌詞の内容になると思う。(別にこれで最後の作品ではないが、いつでも毎回、これを最後にするつもりで作っているのだからして)

特に今回はタイトルが”Coming Back Alive”となっている。
これは、ほとんどの人にはわからないと思うが、前作(EPはのぞく)である”Nabeshima”は、自分としては、霊的なレイヤーの上では福音書の物語をなぞっていたつもりなのであるが、よく考えると、その後にハッピーエンドが必要であった。

 

つまり、イエスさんは生きて戻ってくるわけである。
戻ってきたら、それは当然、パーティーとなるわけだ。
そのパーティーを描くべきであると思った。計画したわけではない。単なる音楽的な必然性の話だ。

そして「生きて戻ってくる」というのは、とても前向きなことだ。ハッピーなことだ。そして、そうであるべきことだ。
そうすれば、また会えるではないか。

そして現実には、世の中には別れがある。大切な人を失った人もたくさんいる。というか、人間は人生の中で、そういった大切な人との別れを経験するものだ。
だからこそ、「生きて戻ってくる」と書き記したかった。だから”Coming Back Alive”かな、と思った。このタイトル自体は、もう何年も前からあった。

そしてもちろん、今回の火事の一件で、このタイトルにもうひとつ違った意味が加わることになった。
けれどいろんな意味で、あらゆる意味で、バンドにとっても、”Coming Back Alive”と言える作品になると思う。そうしたいと思っている。

 

そのような内容の楽曲であり、また歌詞であるわけなのだが。

その歌詞の中に、何度か、「手紙」が出てくる。

すべての曲がそうではないが、いくつかの曲で、そういった「手紙」といったものが出てくる。

それは単純に新約聖書においてパウロが書き送った手紙でもあるし、また、現代に生きる人間が今、誰かに書き送ろうとするメッセージでもある。
場合によっては別次元、並行宇宙といった場所へ伝えようとしているメッセージだ。
それは時を越えたり、空間を越えたり、次元を越えたりして、伝わっていく。

 

なんだか、キリスト教徒やってると、思うことがあって、たとえば、古いキリシタンについての本を読んでいたとする。そこに、江戸時代あたりに書かれた手紙の内容が載っていたりする。

あるいは、別にナルニアみたいなものでもいいけれど、本や小説の中に、著者が信仰を持った人だった場合、それが描かれることも多々ある。

そしてもちろん、新約聖書にあるパウロとかペテロとかそういった人たちが書いたもの、誰が書いたにせよ。

 

そういった手紙を読む時、不思議な感覚を覚える。
それが何百年、場合によっては千年、二千年ほども前に書かれたものであったとしても、
その言葉を書き記した者が、まるで、なんというのか、今ここに、同じ時間を共有しているように、感じられることがある。わかりやすく言えば、それが「昔のものである」みたいには、感じられない。

これはもちろん、あらゆる古典や、名作、名著についても言えることであるが、ことキリスト教の文献(ものにもよるけれど)については、ちょっと違った感覚がそこにはある。

たとえば聖書を見ていても、旧約聖書を読んでいる時の感覚と、新約聖書の中でも、福音書にイエスさんの言動があって、使徒の働きがあって、その後で、「手紙」コーナーになると、そこでがらっと空気が変わるというか、その「手紙」コーナーにおいてパウロだかヨハネだか、そういった人々が書いたり言ったりしていることを見ると、「ああ、ここは現代と陸続きだ」というか、「同じだな」と感じるものだ。これは、きっとそういうものだと思う。

 

なので、なんか不思議な話だけど、昔々に、誰かが書いたもの、それが、当時の社会的なものであるとか、その時代の社会通念みたいなところは、「昔のもの」であるけれど、信仰について触れている箇所では、「同じ場所、同じもの」と感じたりするし。

そして、江戸時代の初期とかに書かれた手紙であったとしても、「互いに祈りましょう」とか言ってると、なんか、そんな昔のことに思えず、自分たちとまったく同じ、同じ場所、同じ時間の中にある人々の言葉のように、そんなふうに思えるのだ。

 

ごめんうまく書けんかった。

 

つまり、信じているもの、信じている真実、あのイエス・キリストという人、そのことは、千年だか二千年だか、ずっと変わらないのである。
それを通じて、僕らはみんなつながっているということだ。

これは、信じてみなければわからないことかもしれない。

もちろん、同じようなことは何にでも言える。
ロックンロールを愛しているからこそ、たとえば、初対面でも、違う国、違う言葉を話す人であっても、一瞬で仲良くなれる、みたいなことがある。
どんな分野でもそういうことはあるだろう。

けれど、この大切なものを信じている、それを共有している、ということは、何かもっと、それらを越えた大きなものがある。
個人の信条や立場や趣味志向を越えた、もっと大きな何かである。

 

 

で、ここから本題だ。
ここから、今日、書き記しておきたかったことだ。

いつもの通り、前置きがとても長い。
ここまでは単なる前置きだったのだ。

それは幾分に個人的なものだからこそ、余計に前置きが必要だったかもしれない。
ちょっとした照れがあるからだ。

 

うちの嫁さんに出会ったのはもうずいぶん前のことだ。
今ではバンドのメンバーになっているMarieのことであるが。

ご存知の通り、彼女は最初はバンドのメンバーではなかった。HassyとJakeが脱退した2018年に、その後で彼女はベーシストとしてバンドの一員になったのである。

 

それまでは、どちらかというと、僕にとって彼女は「彼女のために音楽を作る」その対象であって、一緒に演奏する仲間ではなかった。
だが、彼女はこの伊万里音色と名付けられた音楽が生まれた瞬間からそこに居るし、そのほとんどの冒険も、その場で共に体験してきた。
だからこそ、10年間一緒に演奏してきた仲間であるHassyとJakeが脱退した後、(脱退という言葉が適切かどうかはわからないが、”let go”と言う方が僕にはしっくりくる)、これまでもすべてを共に見てきて、歴史を共有しているところの、彼女が一緒でなければ、僕はもうそれ以上やれる気がしなかった。

 

ラブソングについて書きたいのである。

僕らは典型的な、社会的に一般的な夫婦とは違うかもしれないし、まったく一般的な生き方をしているわけではないかもしれない。

 

いつも言っていることだが、僕は最初からミュージシャンを目指していたわけではない。自分の主観ではミュージシャンを目指したことは一度も無い。たぶん今でもそんなものは目指していない。
自分はもっとちゃんとした職業で、社会的な立場や役割を果たし、より一般的な人生を送りたかった方だ。少年時代の夢は、ミュージシャンではなく、もっと別の夢があった。

そして僕は、一般的な家庭を持ちたかった方だ。子供を持ち、家庭を築きたかった。少なくとも、若い頃にはそういった人生を夢見ていた。

 

音楽を作るという決断は、状況的なものであって、自分が主導的、能動的に「よし俺は音楽を作るぜ」と決断したわけではない。

そして子供を持たないという判断があったとすれば、それは僕が能動的に選択したものではなく、どちらかといえば彼女の判断によるものだ。しかもかなり、人生の早い時期にだ。

女というものは、歳を取れば変わるよ、と、何人かの人には言われたものだ。
若い頃には多少すっ飛んでいても、年齢を重ねれば落ち着いて、家庭を持ち、子供を持ちたがるものだと。

 

僕が常に、どうやって音楽をやめようかと思案していたように、家庭ということについても、ある程度の時期までは、僕は希望や期待を少しは持ち続けていた。
(僕のバンド人生は、さてどうやったら音楽を辞められるだろうか、と、そのための最短距離を常に試行錯誤してきたものだ。もちろん、ある年齢にさしかかってからは、それもあきらめたのであるが。)

だが現実には、それから何十年という年月がたった今でも、彼女はこんなふうである。
そんなふうに見えないという人もいるだろうが、彼女が人間的に丸くなり、安定してきたのは、30歳を越えてからであり、クリスチャンになって以降のことである。そしてまた、彼女はとても「内弁慶」な性格でもある。人前ではわりと、おとなしく見えるかもしれないが、実際はそうではない。

 

僕らの人生における、ジェンダー的なあれこれ、つまり、社会一般に期待される性質と、現実との食い違い、そういったものについてここで改めて書いても仕方あるまい。だから書かないが、僕は常々、これが逆だったら良かったのに、と、何度も何度も思ってきたものだ。
つまり、音楽をやっていて奔放な性格の持ち主が彼女であり、一般の仕事をしていて生真面目な性格をしているのが僕の方であったら、そうであったらどんなに良かっただろうか、と。
それならば、一般的に期待される役割にもっと沿っていただろうから。

 

けれど実際は、その逆だったからこそ苦労してきた。

(だけど、長年やってきたので、少しずつ成長し、彼女は生真面目に仕事に取り組むことを学び、また僕も、ロッカーらしく奔放になることを学んできたのである。まだ互いに、下手ではあるけれど。)

 

で、やっとこれが本題である。

ラブソングについて書きたいものだ。

たとえば恋愛のゴールとは何だろう。

ラブソングが愛を歌うとき、その目的、ゴールはどこにあるのだろう。

J-pop的なラブソングであれば、「この告白を受け入れて、僕と付き合ってください」といったものが典型だっただろうか。

70年代80年代の古典的なロックソングが、「今夜お前の愛を感じたいぜ」と歌った場合には、一夜を共にすることがポイントだろうか。

21世紀以降のJ-popみたいなファミリーでマイルドな世界観であれば、一緒に家庭を築いて、家族や友人と一緒にバーベキューしたりする光景が、理想として描かれるのだろうか。

 

若い頃には意識していなかった。

あるいはきっと、意識はしていなくとも、感じてはいたのかもしれない。
というか、感じていたのだろう。だからこそ、すべてのことが起きるのだ。

一般的な恋愛、結婚というものが、家庭を持ち、子供を産み育てるといったところにゴールがあるとする。もちろんそれだけではないが、生物学的にはそうだし、また社会的にもそこに主眼が置かれると思う。

ではそうでなかったとして、ラブソングの目的はどこにあるのだろう。

 

僕は、いわゆる日本語で言うところの「恋」といった感情は、運命の呼びかけであると感じてきた。
それは運命の呼ぶ声であると。

だからこそ、どんな運命を選ぶのかということは、結構、スリリングであり、ドラマティックでもある。
(僕にとっては、それもまた音楽的なことであった。今日はそれについては触れないけれど。)

 

結果的に僕は、Marieという女性と共にする人生を選んだことによって、「ヘヴィメタルな人生」を選び、「音楽を生み出す」人生を選び、またそれによって、なんだかしらないが、キリストに導かれた。(だからこそ失うものもたくさんあったが、結果オーライ、と言いたい。笑。)

だから音楽的な人生であったとは言えるだろう。
そして音楽的には、結構恵まれた人生だったと言っていい。

けれど、僕は何を望んでいるのだろうか。

何を望んで、僕は、ひとりの女性を愛するなどといった決断をしたのだろうか。
(決断と言えるのかどうかすら、定かではないが。)

 

で、音楽を作りつつも、一般的な家庭の形を持たず、そしてこの歳まで共に歩いてきて、やっとようやく、少しずつ実感として思い当たるようになってきた。

僕は永遠が欲しいのだ。

 

What do you want?
お前は何を欲しがり、何を求めるのだ。

そういった素朴な問いかけをしてみる。
世界征服か。
億万長者か。
地位か。名声か。
人の上に立つことか。
ゲームをクリアするみたいにしてレベル999になることか。
ハーレムに美女でもはべらせたいのか。(はべる、っていう動詞の意味がわからん)
あるいは、美味いものでも食えればいいのか。(それはある)

 

そうじゃない、そんなもんはいらん。
たぶん永遠が欲しいんだ。

でも、永遠って何だ。

 

普遍性、っていうものとは、あるいは多少はつながりがあるのかもしれない。

歳を取るにつれて、普遍性を持ったものに惹かれる、ということはある。

楽器で言えばヴィンテージギターとかが、わかりやすいかもしれない。
(僕は実際にはヴィンテージギター、1950年代に作られたGibsonとか、それほど興味はなくて、ヴィンテージ的な精神を持って作られた現代の日本製のギターに、より惹かれるのだが。)

音楽で言えば、ブルーズかもしれない。
(別にクラシックでもいいし、他のジャンルでもいいけれど。)

そういった時を越える普遍的な何かに惹かれる、というのは、たぶん「永遠」に関係しているものだからかもしれない。

 

人生において望んだ物があるとすれば、あるいは、「旅」と「冒険」は、子供の頃に心で望んでいたものかもしれない。

けれど、その旅と冒険の果てに何があるだろうか。

その旅路は、その「道」は、永遠へとつながっているか。

 

僕は、現実には、あまり男らしい方ではない。
特に音楽表現の上では、マッチョっぽいメタルよりは、中性的なグラムロック的な表現に惹かれることも多い。
あらゆる面で一般的な男らしさからは程遠い。

だけど、男性の役割のひとつとして、もし女性を愛するのであれば、「天国までエスコートする」ということは、あるのだろうな、と考えている。(それはもちろん、逆も然りである。女性に導いてもらうという事は、当然ある。)

愛の導きなんてものがあるとすれば、それはキリストの導きに違いない。
だからこそ、自分が永遠を望んだとき、キリストに導かれたのは必然だ。

 

永遠って何だ。
それはどこにある。

それはとてつもなく長い時間なのか。
いやたぶんそれは、時間の外側にあるものだ。
だからたぶん、時間とは何の関係もないものだ。

はっきりと言葉には出来ないが、この歳まで生きてくれば、なんとなく思い当たるものはある。

そしてきっとそれは、神の愛の内に存在するものだ。

 

僕が理想とするラブソングは、きっと永遠を求めるものだ。

そんでもって、神は愛であり、愛っていうのは、やはりキリスト教の本質そのものであると思う。

さしあたっての僕の望みは、この物語を最後まで歩くことだ。

 

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