ヘヴィメタルという伝統芸能の継承: Judas Priest “Invincible Shield”

Tone個人の音楽論評ブログ記事です。

 

ロックにとって、ロックンロールにとって、今はどういう時代なのか。

その捉え方は人それぞれに違うだろうと思う。

 

人類の歴史そのものについての見方も同様だろう。

時代が進むに連れて、物事は進歩し、良くなっていくと考える人もいる。

その逆に、良かったものが、時代と共にすたれ、堕落していくと考える人もいる。

 

だいたい古代の文献とか、各地の神話とかも、そういう話になっている。
昔、神々の統治する理想の時代があった、みたいな伝説がある。

聖書においても、エデンの園でアダムとイブが暮らしていた頃があったり、あるいは、ダビデ王やソロモン王といった古代の王様の統治が良き時代として描かれていたりする。

 

ロックの歴史で言えば、黄金時代というものが確かにあった。
1960年代や、1970年代。
商業的に華やかだった時代といえば1980年代。

The Beatles、The Who、Queenといった伝説的なバンド。
Led Zeppelin、Deep Purple、Pink Floydといったバンドが存在していた時代。
それは、ロックの歴史における神話の時代だ。

 

物事には、自然の成り行き、自然のプロセスというものがある。
芽が出て、花開き、実がなって、やがて枯れていく。
すべてが良いタイミングで実る時があれば、またそれらが枯れて、腐り落ちていく時もある。

 

ロックの歴史は、間違いだらけだったと僕は思っている。
それは人間のやることであり、人間の歩みであるから、間違いで満ちている。
商業主義や、人のエゴや、集団主義や、うわべだけの模倣や、間違った解釈や、様々な要因によって劣化し、腐り落ちていく作用がそこにある。

メインストリームにおいては、1980年代のある時点で、すでにロックのスピリットは瀕死の状態であっただろうと思う。
そして、1990年代以降、少なくともメインストリーム、オーバーグラウンドにおいては、ロックは死んでいたと思う。

僕の属する流派というか、ヘヴィメタル、ハードロックの世界においても、それは顕著で、それゆえ、僕はある時期以降のヘヴィメタルには、時代の流れとして賛同できないものも多い。単に僕の頭が固いだけかもしれないが。

 

これは、録音のサウンドの話になるので、少しトピックが変わるかもしれないが、
ヘヴィメタルのサウンドということについて言えば、21世紀になり、レコーディングがコンピュータ上でDAWによる録音制作が一般的となって以降、ヘヴィメタルのギターサウンドは、ほとんど間違っていたと思う。

デジタル録音において、きちんとしたギターサウンドを収録し、再現することに、ほとんどのアーティスト、ほとんどのレコードは失敗していたと思う。

特に伝統的な70年代、80年代的な音楽性のバンドの作品においてそれは顕著で、その昔、当時はアナログ録音だったからこそ、アナログの自然な劣化により「いい具合」になっていたギターサウンドは、デジタル録音においては、ふやけ、膨張し、フォーカスを失い、エッジを失い、ハードネスを失い、とにかく間違い続け、その魅力の大半を失っていったと思う。

かえって、オルタナティブ的な音像であるとか、デジタル録音のダイレクトな音圧を生かしたメタルコア系のバンド、さらにはギターの機材がデジタル化したことの恩恵を最大限に受けたジェント、プログメタル系のバンドにとっては、それは有利に働き、それらのジャンルが隆盛したのも自然なことだったと思う。

 

最近、というか、近年というか、
2020年代に入り、デジタル録音(ProTools等のDAW上でのレコーディング制作)が一般化して20年が経過し、ようやく、人類はデジタル上でギターサウンドを録音する事に慣れてきたのか、近年になってようやく、良いと思えるギターサウンドを、ヘヴィメタル系の新作のレコードで聞くことが出来るようになってきた。

気のせいかもしれないが。

 

今年、僕の好きな、僕が「ファン」であるところのふたつのバンドが、同時期に新作のアルバムを発表する。というか、発表した。

ひとつは僕が少年の頃に、最初に「ファン」になった、とあるヘヴィメタルバンド。
もうひとつは、僕が大人になってから、最後に「ファン」になった、とあるインディロックのバンド。

 

最初に好きになったそのバンドは、他でもない、メタルゴッドと称される伝説的なヘヴィメタルバンド、Judas Priestだ。

僕が思春期の頃に、最初に好きになった、夢中になったバンド。僕にとっては、そう、初恋のバンドだと言える。
そのJudas Priestの新作アルバム”Invincible Shield”が、今年の3月にリリースされた。

 

最後に好きになったバンドは、ニューヨークを拠点として活動しているインディロックバンド、+/-{plus/minus}だ。
インディロックのバンドであるから、規模としては、それほど有名ではない。しかし、USインディの愛好家にとっては、かなり名前が知れている存在だし、少なくとも2000年代から2010年代にかけて、日本でもそこそこ人気があったと記憶している。

僕にとっては、「最後にファンになったバンド」かもしれない。
もちろん、それ以降にも、良いバンド、好きなバンドにはいくつも巡り会っているけれど、本当に夢中になり、身も心も持って行かれるほどファンになった、と言えるような存在は、やはり僕の人生の中では、彼らが最後かもしれない。

その+/-{plus/minus}の新作アルバム”Further Afield”が、もうすぐ、5月末にリリースされる。これを書いている時点で、3曲がすでにシングルとしてリリースされ、YouTubeにミュージックビデオが公開されている。

 

多くの人はこの時点で気付かれると思うが、普通であれば、このふたつのバンドを同じ文章の中で紹介する事自体が、あり得ない事というか、珍しいことではないかと思う。

それは、このふたつのバンドのジャンルというか、文脈的な位置づけがまったく違うものであるからだ。

音楽を聞く上で、デモグラフィックな部分や、派閥とか、見た目とか、ジャンルとか、そういった事を気にしない人であれば、別にこの2者を並べて論ずる事にも、特段に問題は感じないだろう。

けれど、現実には世の中は、たぶんそうではなく、前者の音楽を愛好する人は、後者の音楽は聞かない。後者の音楽を愛好する人は、前者の音楽を聞くことはない。そして、残念なことだが、たぶん両者のファン層は、お互いを嫌い合っている。そのような現実があるように思う。(Prove me wrong and I will be happy.)

 

僕は、このふたつのバンドの新作が、同じ年の同時期にリリースされる事について、個人的にとても楽しみで、かつ興味深く思っている。

それは個人的に、僕がその両者の作品をどう感じるのか、そして僕は、どちらの作品により惹かれるのか、どちらの作品に、より感銘を受けるのか。
今の時代に、この2024年という時に、その二者の作品を聴き、時代について、ロックの未来について、どのようなビジョンをそこに見るのか。

それが、個人的に興味深く、楽しみにしているのだ。

さよならプラマイ

 

ヘヴィメタルを演っている人間には、結構そういう側面を持った人は、実は多いのではないかと思っているが、僕自身も「デトロイト・メタル・シティ」の主人公みたいな面があり、自分ではずっと、ヘヴィメタル系のバンドをやっているが、自分がリスナーとして愛好する音楽は、必ずしもメタル系とは限らず、オシャレ系の音楽が好きだったりする。

僕の場合は、世代的に、90年代オルタナティブロック、90年代ヒップホップといったものは、自然に聴いてきて身に付いているわけだが、ブリットポップの影響も非常に強く受けているし、また2000年代から2010年代にかけてのインディロックについては、非常に好きなものがあった。

そこには色々な理由があるし、たとえ自分が古典的なハードロック、ヘヴィメタルをやっているとしても、様々な点で、そういったオルタナティブロック、ポストロック、インディロックといったバンドに共感し、影響を受けてきた。
それはあるいは、劣化コピーが当然となり、細分化したジャンルのたこ壷(バブル)に閉じこもり、形骸化してトクシックなものになっていったヘヴィメタルの世界から一定の距離を置き、ロックの本来の自由な鳴らし方を探すための、自分なりの模索だったのかもしれない。

 

特に、この+/-{plus/minus}というバンドには、本当に夢中になり、自分の人生の中でも5本、いや3本の指に入る個人的なフェイバリットバンドとなり、たぶん影響もたくさん受けてきた。

自分が自分なりの音楽の鳴らし方を追求してくる中で、そして人生の旅を続けてくる中で、この+/-{plus/minus}の鳴らす音に、本当に憧れ、彼らの存在はひとつの理想として、僕の中にずっとあった。

だからこそ、そこにはずっと葛藤があった。
仮にもメタル系の音楽、伝統的なハードロックを志している僕には、彼らのような音は決して鳴らせないし、彼らのいる場所に、僕は行くことは出来ない。彼らのような生き方、あるいは、彼らのような音の鳴らし方は、たぶん僕には出来ないことであり、手の届かない人生だ。

なぜか。
それはやはり、それよりも熱い何かが、自分の中で燃えているからだ。

 

実際のところ、インディロックの時代も、すでに、とうに終わっている。
ソーシャルメディアが世界を支配する時代となり、また、人々がストリーミングによって音楽を聴くようになり、良質のインディロックが作られる時代は、あっさりと終わってしまった。
インディロックは陳腐化し、その手法はメインストリームによって模倣され、本来の意味でアーティスト個人の芸術性が反映されるような表現は、隅に押しやられた。

 

僕は2014年にリリースされた+/-{plus/minus}の前作を、かなり複雑な気持ちで聴いた。
もちろん素晴らしい作品ではあるが、2008年の前作から6年かけて届けられたその作品には、かつてのような「僕を夢中にさせた何か」が、すでに薄れ、影を潜めていたからだ。わかりやすくいえば、歳を取り、マイルドになり、かつての作品にあった革新的な、そして野心的な何かが、あまり感じられなくなっていた。(もちろん、彼らくらいの音楽になると、そのような単純な言葉で片付けることなど出来ないのだが)

そして、2019年、2020年にリリースされたEPにおいても、良い作品ではあったが、基本的にはその印象は変わっていない。

だから、もう髪の毛も結構白くなった彼ら+/-{plus/minus}に、今更、世界をひっくり返すような作品は期待しないし、それは酷というものだ。

それでも、好きなバンドの新作なのだ。心に染みない筈がない。今のところ、公開されている3曲を聴いて、やはりそれでも、年を経て、心に染みる何かがある。何らかの答えを、間違いなく、僕はそこに見出すだろう。人生の中にある、音楽というものに対するひとつの答えが、きっとこの作品の中に見出されるだろう。何かの、最終的な答えが、たぶんそこにある。

 

けれども、結論を言ってしまおう。
プラマイの作品は、まだ先行公開された3曲を聴いただけだから、現時点でフェアな評価は出来ないのだけれど。

現時点では、プラマイの新曲よりも、プリーストの新作の方が、僕の心には、がぜん、ガンガンと、熱く響いている。

 

これは、結構自分でも意外な事だ。

「プリーストなんていう古くさいバンドの、型にはまった退屈な作品なんかよりも、おしゃれな最先端インディロックの、センスのいいサウンドと、エモーショナルなメロディに夢中だぜ」

普通はこうなると思っていたのだ。
でも現実は違った。

 

今のところ、僕はこのJudas Prietの新作に、結構夢中になっている。
というか、いつ以来だろう、こんなふうに、ハードロック、ヘヴィメタルの著名バンドの新作を、少年みたいな気持ちで夢中になって聴くなんていう事は。

 

鍵はもちろん、伝統、そして革新、その継承にある。
つまり、現在のJudas Priestは、ジイさんのバンドには違いないが、音楽的な鍵を握っているのは、Richie Faulknerである。
若い、というわけではないが、高齢化が進む現在のロック、メタルの世界においては、まだまだ若手であり、そして、脂の乗った年齢にあるミュージシャンだ。

つまり、プリーストはとっても古いバンドだが、現在主導権を握っているメンバーのリッチー・フォークナーは、むしろプラマイのメンバーたちよりも若いのだ。だからこそ、こういう比較になる。

 

 

僕はJudas Priestの大ファンであり、また先程書いたように、僕にとってJudas Priestは「初恋のバンド」と言える。
だが、21世紀になってからの(再結成後、ロブ・ハルフォード復帰後の)Judas Priest、そして現在のJudas Priestに関しては、複雑な思いがある。

ロブ・ハルフォード復帰後の作品も、決して嫌いではなかったが、半ばセルフ・パロディのような、世間のメタルファンが期待する典型的なサウンドの最大公約数のような楽曲に対して、本気で夢中にはなれなかった。

そして、Richie Faulknerが加入してからのJudas Priestは、以前のプリーストとは完全に別のバンドとして認識している。

 

リッチー君が加入して、最初のPriestのアルバム(Redeemer of Souls)は、結構良い作品ではあったが、僕にはJudas Priestには聞こえなかった。それは僕には、Judas Priestの作品というよりは、リッチー・フォークナーの作品に思えた。リッチー・フォークナー with Judas Priestという感じ。

だから、リッチー君加入以降のプリーストは、リッチー君がJPの古参メンバーと共に、古典ヘヴィメタルのリバイバルをやっているバンド、というように認識していた。でも、それは僕にとってはJudas Priestではなかった。曲を聴いてもJudas Priestには聴こえなかった。

 

次の作品、”Firepower”を聴いても、その印象は変わらなかった。
世間ではかなり評判が良く、一般のメタルファンの間では評価された、人気のあるアルバムだということは知っているが、やはり僕にはJudas Priestには聴こえなかった。トリビュートバンドではないものの、それはリッチー君が主導で、古参のメンバーと一緒になって、古典的なヘヴィメタルのリバイバルをやっているバンドに思えた。

それは、新しい音であるとか、革新的な音では、全然なかったし、古くさい、型にはまったヘヴィメタルであった。本質的にがつんと来るものでもなかった。少なくとも、僕にとっては。

 

だから、今回の新しいアルバム”Invincible Shield”についても、大きな期待は持っていなかったのだが。

だが聴いてみると、どうだろう。

今回のアルバムは、ちゃんとJudas Priestに聴こえるではないか。

確かにギターはリッチー・フォークナーなのだけれど、けれどもそこに表現される楽曲と、そのサウンドの世界観は、確かにJudas Priest、あの世界そのものではないか。

 

これは正直、結構驚いた。

 

これはどういうことか。

 

現在のJudas Priestは、リッチー・フォークナーのバンドであると思う。僕はそう解釈している。
リッチー君は、Judas Priestという伝統の後継者として、2011年のバンド加入以来、自分なりの、彼なりの”Judas Priest”というものを構築し、提示してきた。

それはつまり、伝統的なヘヴィメタルの、Judas Priestという存在の、そしてヘヴィメタルという概念そのものの再構築である。
ヘヴィメタルの、いやロックの栄光のすべてが過去となり、劣化コピーとなり、形骸化し、パロディとなってしまった21世紀の現代において、Judas Priestの伝統のヘヴィメタルという概念を再構築する作業である。

 

彼の加入以来、”Redeemer of Souls”アルバム以来、そこに提示されてきたJudas Priestは、リッチー君による「彼なりのJudas Priest」である。

それは古典的なヘヴィメタルでありつつ、モダンなプレイヤーの解釈と感性によるものであり、またリッチー君の個性が反映されていた。

しかしそれは、決して本当の意味でJudas Priestではなかった。
少なくとも、過去の伝説と同質の熱さを持ち、世界観を同じくするものではなかった。

 

だが年月を経て。”Redeemer of Souls”から10年の時を経て。
リッチー君の”Judas Priest”は、ついに完成した。

Richie Faulknerは、そしてプロデューサー(およびセカンドギタリスト)のAndy Sneapは、Judas Priestの再構築に、ついに成功したのだ。

 

新世代の彼らによるJudas Priestの再構築。
リッチー君によるJudas Priestは、ついに過去の伝説と同じ熱さとなり、ひとつの世界として融合し、過去の伝説の続きを、現代に鮮やかに奏で始めた。

Richie Faulknerは、ついにJudas Priestとなったのだ。
もはや若き助っ人でも、後任のメンバーでもない。
彼自身がJudas Priestとなった。
彼はJudas Priestそのものとなったのだ。

ついにリッチー君のバージョンのPriestは、本物のPriestと融合し、そして過去の伝説と比肩するものとなった。そして、それを越えていく存在となったのだ。

 

これは恐るべきことである。

 

伝統の継承。
黄金時代はとうに過ぎ去り、ロックの時代は終焉を迎えつつある。
伝説的なミュージシャンたちは高齢化し、多くの者はすでに世を去っている。

 

かつては反逆者であったロッカー、ロックバンドというものは権威となり、伝統となり、そしてその世界のところどころで、「継承」「世襲」といった行為が行われている。

ロックは伝統芸能となっていくのか。
答えはおそらくイエスであろう。
そして、伝統芸能となっていく以外に、生き残る道はないのではないか。

 

その「伝統芸能」の継承が可能なのか。
今という時代に、ロックに突きつけられている大きな問いのひとつはそこだろう。
その本質を継承出来るのか。
「形」を継承出来るのか。「精神」を継承出来るのか。「本質」を次世代に受け渡すことが可能なのか。

それは極めて難しいことのように思われる。
ほとんど不可能に近いものかもしれない。

だが、Judas Prietというヘヴィメタルの本丸において、我々はそのひとつの成功例を目撃した。
その答えが、この”Invincible Shield”である。

 

このアルバムの内容について、若き旗手Richie Faulkner、およびプロデューサーのAndy Sneapについて、賞賛すべき言葉はいくらでも見つけることが出来る。

だが、ひとつ賞賛したいのはギターサウンドだ。
先述したように、21世紀になって以降、デジタルレコーディングの環境の中で、このようなヘヴィメタルのギターサウンドで「良い」と思われるものは非常に少なかった。

だが、この”Invincible Shield”におけるギターサウンドは、デジタル時代になって以降に耳にしたギターサウンドの中でも最良の部類に入る。

 

ひとつ指摘したいのは、ギターサウンドがあまり歪んでいないことだ。

あまり歪まずに、ナチュラルなニュアンスをともなったギターのアタックが、はじけとぶ歪みの成分が、立体感をともなって、だが確かなエッジを持って迫ってくる。

そのサウンドは、ともすれば1970年代的だと言うことも出来る。
だが、最新のデジタル録音技術によって、それはより鮮明な、新鮮なサウンドとして新たな命を吹き込まれている。

アンプのサウンド、そのゲイン、歪みの質についても同様のことが言えるだろう。ナチュラルな、それほど歪んでないクランチーなサウンドとはいえ、現代のアンプは、昔のものとくらべれば音に深みがある。それらの「良いもの」を確実に積み上げて構築された、新しくも伝統的なハードロックのサウンドと言うことが出来る。

 

Premier Guitarだったかのインタビュー記事によれば、リッチー・フォークナーの今回のアルバムのギターパートの録音は、自宅にてコンピューターで録音した演奏のDI経由のギターの生音をプロデューサーであるAndy Sneapに送り、それをAndyがリアンプする形で収録し、音作りが行われたらしい。(インタビュー記事の中で示唆されている言葉を信じるのであれば、使われたアンプはMarshall JCM800、EVH5150III、Marshall Plexi等であるようだ)

リアンプなんていう手法も、現代においてはとっくに当たり前のものになっているが、最低限の歪みによるニュアンスを生かした絶妙なギターの音作りも、こういった手法だからこそ可能となったのではないかと思う。

ギタリストとは、音を歪ませたがるものだ。それは、音の力感、そもそも歪んでないと弾く気にならないといった理由もあるが、やはり、歪んでいるからこそ弾きやすい、演奏が可能となるプレイがある。
だが、リアンプであれば、その行われた演奏から、一歩引いた音作りが可能となるし、プレイヤーではなくミキサーの視点から、また信号の経路という面でも、別次元の音作りが可能となる。

 

どちらにしても、この”Invincible Shield”は、現代においての新たなギターサウンドの指標と成り得るものだ。

それは伝統的なオールドスクール・ヘヴィメタルが、ついにデジタルレコーディングのモダンで冷たい音空間を克服した瞬間でもある。

 

僕はヘヴィメタルなどという音楽は、とっくにあきらめていた。
そして、Judas Priestというバンドについても、とっくにあきらめていた。
どちらもそれこそ、20年以上も前には、とっくにあきらめていたものである。

だが、2024年にもなって、本物のJudas Priestが、あの伝説の続きが聴けるとは思ってもみなかった。

これは、僕は21世紀になってから聴いたJudas Priestの中では一番好きな作品であることは間違いない。というか、ひょっとすると過去のJudas Priestのアルバム全部の中でも、かなり上位になるくらいの作品だ。そこにあるのがGlennとKKのギターではなく、(Glennのギターはほんの少しは入っているかもしれないが)、自分とほぼ同世代のギタリストであるリッチー君のプレイであるというのが意外ではあるが、確かにこれは紛れも無いプリーストの音だ。

 

1990年代以降、特にロブ・ハルフォードの復帰以降、Judas Priestは常に伝説的な名作である”Painkiller”の影を引き摺り、常に”Painkiller”のサウンドを踏襲しようとしてきた印象がある。
だが、その試みは殆どの場合において失敗に終わっていたと思う。

しかし、もう”Painkiller”の幻影を引き摺る必要はない。
この”Invincible Shield”は、”Painkiller”のサウンドを踏襲することについに成功したばかりか、そこに新たな息吹を吹き込み、まったく新しい時代のサウンドとして築き上げることに成功した。
永きに亘って冷凍状態となり、封印されていたヘヴィメタルの伝説は、ついに動きだし、止まっていた時計の針は、ついに未来へと進み始めたのだ。

 

これは、時代が何周もして、すべてが無になり、フラットな状態となった現代だからこそ、達成することが可能となった事だ。

その意味では、ロックの時代は終焉しつつあるとは言っても、また、人類社会の未来が混沌としていたとしても、やはり、進むべきものは進んでいくというヘヴィメタルの希望を指し示している。
そして、進まなければならない、という決意と使命も、また同時に指し示している。

 

この作品、”Invincible Shield”を論評するにあたって、ひとつ、触れなければならないテーマがある。
それは、僕自身が「クリスチャン・ヘヴィメタル」というサブジャンルに属するミュージシャンであるからだ。

この”Invincible Shield”の楽曲の歌詞の中には、ある意味ではクリスチャン的な、ある意味ではクリスチャン・メタルとも受け取れるような内容の歌詞が何度も登場する。

たとえば、”Crown of Horns”。たとえば”Serpent And The King”。あるいは”As God Is My Witness”等において。

 

それらの楽曲のビデオが公開された時、ファンの中には、これがクリスチャンメタル的であるという指摘をする者も一定数居た。

そしてStryperのMichael Sweetは、「これはクリスチャンメタルだ。私はこれを誇りに思う」とソーシャルメディア上で発言した。(同意する者もいれば、反論する者もいた)

 

だが、一応クリスチャンメタルという音楽を自ら演奏している僕の視点、そして僕の解釈からすれば。
これはクリスチャンメタルではない。

Judas Priestの新作、Invincible Shieldは、確かにクリスチャン的な要素を含んではいる。だがこれは、クリスチャンヘヴィメタルではない。

 

もともとJudas Priestは、楽曲の世界観の中に宗教的な要素を強く含んでいるバンドだった。
その宗教的なテーマの重さが、楽曲の世界観に深みを与え、またドラマティックな高揚感を生み出していた。

今回のInvincible Shieldも、そういった神話的な大きな視点から、善と悪、神と悪魔といったようなテーマを描き出しているに過ぎない。
そこにはキリスト教のモチーフは使われてはいるが、そのメッセージはキリスト教のものではないように思われる。

それが果たして、良い事なのか、悪い事なのか、それは僕にはわからない。

 

これは神の音楽なのか、それとも悪魔の音楽なのか。
それは問うだけ無駄な質問であろう。
これは人間の音楽だ。
善の要素も、悪の要素も併せ持った、この世界における人間の作り出す音楽なのだ。

 

疲れてきたからこのへんにしておきたいと思う。

書こうと思えばいくらでも書ける。
賞賛することも出来れば、批判することも出来る。
伝統は確かに継承されたけれど、それでもやはり、型通りの古くさいメタルだと言って批判することも可能だ。

 

でも、僕も歳を取ると、感じている本当のところをすべて書くことはもはや出来ない。情報量があまりにも多すぎるし、正確ではなくなる。
本当のことは言葉にできない。
本質というものは言葉にはできない。
だからこそ僕は音楽をやっているのだし、それでいい。

 

自分にとっての「初恋」のバンドが、この歳になってよみがえり、ある意味で最高傑作かもしれないくらいのアルバムを作ってきた。

僕は、自分の作った新しい作品”Coming Back Alive”と、その新しいプリーストを聴き比べることが出来る。
大物バンドの作品と違い、自分のバンドの作品は非常に素朴な音作りだ。敢えて音を重ねない、すっぴんで素朴な作品だ。

それでも、プリーストの横に並べて、「うん、僕はこれでいい」
そう思えることが、自分にとってのひとつの答えではある。

 

リッチー君に、リッチー君の答えがあるように。
僕には僕なりの、「伝統」「継承」に対する答えがあるのだ。

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