Jesus Calling vol2の個人的な記録

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昨日、東京のはずれにある老舗ライブハウスである、町田プレイハウスにおいて、日本初(たぶん)クリスチャンロック専門レーベルである「Calling Records」の企画イベント”Jesus Calling vol.2″が行われた。
 
これが非常に良いイベントだった。
僕は、自分のバンドでは演奏しなかったが、裏方としてイベントに(ちょっとだけ)携わり、そしてレーベル内においては、「Calling Recordsメタル課長として、しっかりライヴを見て、詳細なレビューを書く」という役目をおおせつかっていた。
 
なので、書かなければいけないのだが、外部に向けた、メタル課長としての公式なちゃんとしたレビュー文章は、また別途、キッチンナイフレコーズ名義のブログに掲載するので、ここでは取り急ぎ、より個人的な感想について書いていきたい。
(もっとも、友人たちが期待しているのは、そういう個人的な、ちょっといっちゃってる文章かもしれないが、笑)
 
 
絶対に読みにくい文章になるので、最初に目次を示しておく。
 
目次としては以下である。
1: Imari Tonesの不参加について
2: 大化けした石川ヨナの圧倒的なパフォーマンスについて
3: それぞれのバンドが果たした役割について
4: 神の前に示されたものについて
5: 自分の霊的活動と祈った内容について
 
 
 
1: Imari Tonesの不参加について
 
不思議なもので、運命(神様)っていうのは、人間が心から願っていた祈りを叶えるとき、そのかわりに何かを取り上げる。
 
何かを得れば何かを失うというのは宇宙の普遍的な物理法則だし、
英語でよく言うことわざにBe careful what you wish for… っていうのがあるのもそういう意味だ。
 
つまり、願うときには、何を望むか気をつけなさい、なぜなら、それは実現してしまうかもしれないのだから、っていう。
 
願いっていうのは基本的に叶うものだ。夢っていうのは基本的に叶うようになっている。それが本当に心から望んでいるものであれば。
それは別にどこの自己啓発書とかを読むまでもなく、子供でも知っている事実だ。
 
そして、だからこそ怖い。
夢や願いっていうのは、叶ってしまえば、その責任も結果も自分に降り掛かってくるからだ。
 
話が大幅にそれたが、
昨晩のイベントは、僕としては本当に感動し、喜ばしく、心から嬉しく思うイベントだった。
それは、この日本において、クリスチャンロックという表現をもって、本当に神を賛美し、信仰を表現する、そんなロックンロールのイベントを、見ることが出来たからである。
 
僕はここ数年、XTJ (The Extreme Tour Japan)を始めた頃から、またこのコーリングレコーズの立ち上げ以来、この日本の地において、クリスチャンロックをともに鳴らす仲間たちと出会えたこと、そしてその仲間たちと力を合わせるようになったことを、本当に喜ばしく思ってきた。
 
けれども、毎回のイベントや演奏のたびに、「まだまだだな」と思ってきたことも事実である。
それは、音楽、ロックンロールというものは、それほど甘いものではなく、また、それ以上に信仰なんてものは、とってもとってもとんでもなく難しいものであるからだ。
 
だが、昨晩のイベントは、実に高いレベルで、しかも本当の意味での神への賛美や信仰というものを、形にして表現出来たイベントだった。
 
それは、アメリカの地でThe Extreme Tourに参加してかの国のクリスチャンバンドたちと一緒にやった時と同等いうべきか、はっきり言ってそれを上回る霊的なボルテージの高さのものだった。
 
だから、昨晩、僕にとっては本当に、これは願い、悲願といってもいい、それが実現した、本当の意味での信仰を、ここから立て上げることが出来る、そう思えるような、そんな一日だった。
 
もちろん、運営面をリードしてくれたXieの皆さん、企画主催のXieのベーシストつるべさん、参加された皆さんがそれぞれに大活躍して素晴らしいパフォーマンスを見せてくれたのはもちろんだが、
 
自分にとって決定的だったのはやはり一年ぶりの東京帰還をした石川ヨナが見違えるようなパフォーマンスをし、霊の意味においても演奏の意味においても「その領域」(Zoneってやつか)に到達する演奏を見せてくれたことだった。
 
だから石川ヨナにはお礼を言いたい。
非常に励まされたし、僕にとっても色々なものがクリアになった。
 
知らん、儀式にはなんらかの霊的な生贄(捧げもの)が必要なのだとすれば、あるいは巫女や神官みたいなものが必要だとすれば、うちが参加しなかったことで、神が選んだのが石川ヨナだったか。意地の悪い表現だが。でもどちらにしろ石川ヨナはイベントの大トリとしてそれらの役割を十分すぎるほどに果たした。
 
 
またも話がそれたが、うちが参加しなかったのは、知ってのとおり、今うちのバンド(イマリトーンズ)は、バンドをバラす直前で、わかりやすく言えば崩壊状態なので、とても参加できる状態ではないからだ。
 
その理由とか、状況については、周囲の皆さんにご心配をいただいているけれども、
 
日本発クリスチャンメタルなんてことを言い出して、わざわざアメリカまで演奏しに行ったりして、また逆にアメリカとかいろんなとこからアーティストを迎えてXTJやったりして、とにかく「クリスチャンロック」というものを通じて、日本の霊的な状況を変えたい、と願ってきたが、
 
その願いが実現した、形になったと思った時、
その引き換えに、神は僕からこのイマリトーンズというバンドを取り上げたのである。(現在の形、10年一緒にやってきたHassy&Jakeというラインナップの形を、ここで脱ぎ捨てることになった)
 
 
だから、思い出してみよう。
 
2011-2012の頃、うちのバンドは活動の面で上り調子にあり、特にナッシュビルのThe Objectiveで現地の音楽業界関係者から絶賛されたり(本当です、笑)、参加したアメリカ版エクストリームツアーでも絶好調ウケまくりだったり(本当です、笑)、という経験を経て、さあ、これからもっとアメリカをツアーしよう、あわよくばビザをとって活動を本格化させよう、みたいなタイミングの時があった。
 
だが、僕らはそうしなかった。
そこには色んな理由がある。
でも理由はどうあれ、後悔はしていない。
 
代わりに、僕らは、XTJ (エクストリームツアージャパン)なんていう、日本で草の根のクリスチャンロックツアーをやる、という、勝ち目のない企画に乗り出した。
 
それは明らかに、自分たちのバンドの海外におけるささやかな成功を捨てて、その代わりに日本で「土壌を耕す」という気の遠くなるような仕事をすることを選んだ、ということだった。
 
人間っていうのは誰しもそういうものだと思うが、僕もアメリカを何度か演奏して回る中で、逆に日本人としての立ち位置やアイデンティティを意識するようになり、そして自分の中に、母国である日本と、そこに住む人々に対しての愛みたいなものがあることに気が付いた。だからアメリカで演奏した時にも、会う人会う人、そして演奏するたびに、「日本のために祈ってくれ」と言っていたのである。
 
だから、たぶん皆は、本気だと思っていなかったかもしれない。
日本の霊的な状況、信仰をめぐる状況を変えたい、と僕が言った時。
そして、今でもそうだが、日本だけでなく、世界の中で信仰をめぐる状況について考える時、本当の意味での信仰を築き、建て上げたい、と僕が言った時。
また、日本において信仰をめぐる(そしてロックをめぐる)状況を改善するため、そのための土壌を耕したい、と言った時。
そして、僕が「日本のために祈ってくれ」「日本の人々が本当の神を知ることが出来るように祈ってくれ」と言った時、誰も本気だと思っていなかったかもしれない。
 
けれども、本気っていうのがどういうことなのか、きっと皆はわかっていない。
それは、100年かかるってわかってても、やっぱりやるってことだった。
目の前の固く、荒れた土に、今日も少しずつ、ひとつずつ、鍬を入れることだった。
 
とりえあず僕は途方に暮れているし、いつも途方に暮れているし、だいたい途方に暮れているし、やっぱり今日も途方に暮れている。
 
でもやるしかない。
別に俺1人野垂れ死んだって誰も気にしやしない。
 
 
幸いなことに、XTJをやるようになって2年目。
一緒に「耕したい」と言ってくれる人間に出会った。
 
それが、ソルフェイのヴォーカリストであるオオハラシンイチであり、
彼に出会っていなければ、僕は今、こうしてここには居なかっただろう。
 
そして、もう一人、非常にピュアな情熱と感性をもって神について歌う三木裕季(ex. CLOD)という人間が加わり、彼の発案によってコーリングレコーズが発足した。
 
そこから後は省略する。
 
でも、ちょっと大変だった2014/2015のXTJをやり遂げることが出来たのは彼らの協力があったからだし、
とってもハッピーだった2016の(今のところ最後の)XTJ、チリからビクトリアノを迎えて行った年のやつ、あれを現行のCalling Recordsのメンバー皆で行うことが出来たのも素敵な経験だった。
 
 
俺は、Calling Recordsの現状や今後については、いつも心配しているし、大丈夫かな、と思うことも多い。
 
けれども、昨晩のイベントは、自分のそんな迷いや心配を吹っ飛ばしてくれるくらいの内容だった。
 
つまり、俺は、自分のバンドのささやかな成功よりも、皆で協力して日本の地にクリスチャンロックを根付かせる、そっちの方を、選ぶことができる。
そして、実際にそう選んできた。
 
だから、非常に複雑で、言葉にすると悲しいことかもしれないが、今の僕は、自分のバンドであるイマリトーンズ(現行メンバー)と、コーリングレコーズ(の仲間たち)を天秤にかけたら、コーリングレコーズの方を選ぶことが出来る。
 
というよりも、神は俺に、そういう二択を突き付けた。
ここ数年、ずっとそうだった。
フェアではないから、ちゃんとそう書いておく。
で、俺はそっちを選んだ、ということだった。選ばざるを得なかった。
自分のバンドの成功よりも、信仰を持った仲間たちと手を携えていくことを、俺は選ばざるを得なかった。
 
 
だから本当のことを言えば、これはスピリットの問題だった。
 
スピリット、というのは、信仰、と訳してもいいし、あるいは志(こころざし)と訳してもいい。
 
自分たちの小さな成功を願っている時は、まだよかった。
けれども、日本という国の、信仰や、霊的な状況、魂の問題をめぐる状況を、本気で変えたいと思う時。
 
俺が本気だということに、メンバーがまず、着いてこれなかった。
その志のために、俺が前に進んでいるのに、彼ら二人は止まったままだった。
その意識の違いが、どうにもならないところまで、広がってしまった。
 
それが真相です。
ここ数年の、うちの状況の。
 
それでも、”Revive The World”、”Jesus Wind”、”Overture”と、作ってきたんだぜ。
そして、XTJやCallingの中でも役割を果たしてきた。
 
それだけ、やれるチームだったんだ。俺たち3人は。
でも、もうこれ以上は無理だってところまで来た。
 
 
だから、今回のこのイベントにおいては、
我がイマリトーンズとして果たした役割は、「参加しない」ということが、最大の仕事であったと思う。
 
参加しないことで、他のバンドの皆さんの果たす役割にしても、イベント全体のダイナミズムとしても、明らかになり、得るものがあり、そして俺自身も示された発見があった。
 
立ち上げ当初から言っているが、そのうち軌道にのったらうちはもう必要なくなる、みたいなことを、口癖のように。
 
じゃあ俺はもう必要ないじゃん。
みたいなことは言わないよ。
 
むしろ逆に、昨日のイベントを見ても、
やっぱりCalling Recordsに我がImari Tonesはまだまだ必要だな、と。
 
日本のクリスチャンロック、そしてこの日本の地に、まだまだ我が伊万里音色は必要とされているな(キラーン)、と俺はドヤ顔で言うことが出来る。
 
けれども、今回はやっぱり、参加するよりも、参加しなかった事で、得るものの方が多かった。
 
 
一昨日のリハの際に至っても。
俺の中には迷いは消えなかった。
 
なんで、ずっとやってきた[Tone – Hassy – Jake]のラインナップを、捨てなきゃいけないんだよ。もったいないじゃないか、って。
本当にこれでいいのか、って、ずっと迷ってた。
 
でも、昨日のCalling Recordsのイベントを見て、迷いが消えた。
 
あ、やっぱりこれは必要なことなんだ、って。
 
別にCalling RecordsやXTJがイマリトーンズをぶっ壊した、なんて言わない。
 
けれども、本当に信仰を持って、大きな志のために歩める人間でないと、伊万里音色の究極のサウンドである「鍋島」は鳴らせないんだ。
 
神に示されたんだったら、やっぱりそうしなきゃいけないんだよ。
勇気を持って。
 
音楽的、運営的には理解できても、人間的な面で、迷いが最後まで消えなかった。当然だろ、10年一緒にやってきた仲間なんだぜ。人情ってものが、誰にだってあるだろう。
でも、信仰という、神の視点から見て、やはり神がそう言うのであれば、俺は従わなきゃいけないんだ。
 
 
本当に厳しいことを言えば、
これまでの[Tone – Hassy – Jake]がやってきたクリスチャンロックは、音楽的にはいざしらず、活動的には「信仰ごっこ」だった。本当の意味でクリスチャンロックバンドではなかった。
そして、ロックバンドとしても、やはり本質的に「バンドごっこ」であったと思う。本物のロックバンドでは無かった。
だからこそ、本物の信仰に向き合った活動をしようとした時、二人は去らねばならなかったのだ。
 
今までは、それでも良かったかもしれない。
だけれども、これからはそうじゃない。
俺は、自分の仕事を完遂するために、「鍋島」を鳴らさなくてはならないんだ。
 
 
もうひとつ、こうして考えているうちに気が付いたことで、これは本当にささやかなことであるのだけれど。
 
一人の人間として、そして一人のバンドマンとして。
 
自分個人の限界や、自分のバンドのちっぽけな成功を越えて、
仲間とともに、
ひとつの大きな志(こころざし)に向けて、
皆で歩むことを、喜び合えるということは、
 
これは、どんなに素晴らしく、そして幸せなことであるだろう。
 
そして、その中心にある「信仰」というものは、どんなにすげえものだろう。
 
そのすべての真ん中にいる、イエス・キリストという人、そしてその人が背負った十字架の奇跡に。
あらためて賛美と感謝を捧げたい。
 
 
 
 
 
2: 大化けした石川ヨナの圧倒的なパフォーマンスについて
 
 
石川ヨナが神戸に移住するということで、Calling Recordsの仲間たちと、関内の小さなジャズバーで送り出しイベントを行ったのが、去年の2月。それから一年と一ヶ月。
 
当時、会話すると、ヨナさんは「私、一年くらい音楽活動しないかもしれないです」とか言っていた。
しかし、実際には引っ越してから一ヶ月もたたないうちに、彼女のFacebookのタイムラインには、関西のライブハウス、ライブバー等でイベントに参加します、みたいな書き込みが、どんどんと上がってきていた(笑)
やっぱりな、みたいな(笑)
 
そして、そこから彼女がどんな経験をし、どんな修行をし、どんな思索を重ね、そしてどんな祈りを続けてきたのかは全然知らない。
 
けれども、事実、結果だけを書けば、
一年ぶりに見た石川ヨナのステージは、「大化け」と言っていいくらいの、まったくもって見違えるような、とんでもない迫力の、鬼気せまる凄まじい演奏だった。
 
友人たちともよく話をしていたものである。「ヨナちゃん、上手いし、良いんだけど、もうちょっとこうだったらな。」みたいな。たとえば、もうちょっと突き抜けた部分が、とか、もうちょっとブチ切れてくれたら、とか、色々。
 
願ったり叶ったりというのか、一年ぶりに拝見した石川ヨナは、そんな「○○だったらいいのに」が、すべて実現したばかりか、それをはるかに越えるステージを見せてくれたではないか。
 
ギターをエレクトリックに持ち替えた石川ヨナのパフォーマンスは、あらゆる面でサウンドの化学反応が一変しており、ブルーズやロックの本質である「官能」の部分で、上手過ぎるがゆえに、クリーン過ぎるがゆえに、それまでに足りなかった「圧倒的な官能」が、音の面でも、霊の面でもほとばしっていた。
 
もちろん、アコースティックだの、エレクトリックだの、というのは表面的なもので、きっと今のヨナさんなら、アコースティックでも凄い演奏が出来るに違いないと思うが、とにかく、その音と霊の上での官能の部分を、歌いながら感じることが出来、それを演奏の中でフィードバックさせることが出来るようになったことで、演奏がまったく別次元の立体的なものになっていった。
 
 
評論はさておき、俺の中ではこういうことである。
 
「真の意味でイエス・キリストをRepresentすることが出来る人間が、新たに誕生したことを祝う」
 
石川ヨナは世界全部をその肩に背負っていた。
 
おとぎばなしや、ファンタジー、フィクションの世界ではあることだ。
 
世界全部を、その矛盾を、一身に背負い込む。
 
でも、実際にそんなことをやってしまうと、生身の人間ではとてももたない。
もつわけがない。
 
世界中で起きている悲劇を、知覚できるようになったらどうなるか、想像してみるといい。出来ないけど。
 
でも、彼女はそれをやっていた。
どんだけ、生真面目で、純粋なのかと思うが、そのへんは、周囲も心配するべきである。特に俺たち、同胞であるクリスチャンロッカーの仲間たちは。
霊的にあれだけ背負ってしまった反動は、必ず来るからだ。(祝福も来るけどね。)
 
そんな彼女の願いや、希望が、どんなものであるか、俺はその一端くらいは理解できる。
 
霊の上での戦いってのがあってね、それがどんな質のものなのか、経験として俺も理解できるわけよ。
 
その戦いを経たものにしか鳴らせない音がある、っていうのもわかるわけだ。
 
それがどんなに孤独なものなのか、ずっと知っている人間(の一人)としては、
その孤独な領域に、向き合うことの出来る人間が、新たに誕生したことを喜びたい反面、
それと同じくらいに、心配でもあるわけだ。
 
本人にも口頭で伝えたけれど、
もういっぺん文字にして書いておこう。
なにしろ彼女は作家でもあるから。
文字を「読む」ことも出来るに違いないから。
 
たった一人で、世界すべてに向き合って魂の戦いをしなければならない時。
とんでもなく孤独で、誰も助けてくれない、絶望的な戦いをしなければならない時。
そんな時こそ、イエス・キリストはいちばん近くにいるのだと。
なぜなら、イエス・キリストも、同じように、たった一人で、世界すべての罪に向き合い、十字架を背負ったのだから。
 
そして、人それぞれに十字架の背負い方はあるにせよ、
そんなに大きな十字架を背負うことの出来る祝福を、あなたは持っているのだと。
それがあなたの運命なのだ、と。
 
「そして、それをステージ上で行うことが、クリスチャンロッカーの仕事なのだ」と。
 
厳し過ぎるだろうか。
 
命すり減らすからなあ、どうしたって、これは。
 
 
俺に言えることは、
アドバイスにならないかもしれないが、
もし欲を言うのであれば。
 
次のステップは、笑い飛ばすことだ。
 
全世界を背負った上で。
その上でさらに、そんな自分を笑い飛ばせるようになることだ。
 
俺はもともとVan Halenをはじめとする、アメリカンロックが大好きな人間だからね、Don’t take it seriouslyっていうのかな、Don’t take yourself too seriouslyっていうことは、いつでも頭の中にあった。ユーモアや、ジョークを忘れないってこと。それが、俺がロックから学んだことのひとつでもあるんだ。
 
もちろん、真に受ける必要はない。
人それぞれに、スタイルがあるからだ。
音の鳴らし方も、人生の歩き方も。
 
けれども、ひとつのコツとして、言うことは出来る。
 
全世界の悲しみを背負ったとしても、そんな自分を笑い飛ばせるくらいの強さを持つことだ、と。
 
俺が、自分がこんなキャラクターであることに、
そして、歌がへたっぴで、ひっくりかえった素っ頓狂な声しか出ないことに、
感謝しているのは、そのへんだ。
 
自分自身を笑い飛ばして、それを表現に変えることが出来るからだ。
 
これは、俺が愛するヘヴィメタルという音楽の特性のひとつでもある。
つまりは、色物の美学というのだろうか。
 
ヘヴィメタルというのは、いつだってしょせんは、少数派であり、アンダーグラウンドであり、色物であるからだ。
 
そしてクリスチャンロッカーの立場として言えば、
そんなふうにして自分を色物として提示しながら、
自分自身を笑いの対象として提供しながら、
人知れず十字架を背負うことが出来るからだ。
 
でもよく考えれば、みんな大なり小なり、そうやっているだろう?
エンターテインメントというものの本質が、そこにあるからだと、俺は思う。
 
 
寿朗閣下が昨日のステージを見ていたら、きっと、半分くらい嬉しそうに、でも半分くらい悲しそうな表情で、言うに違いない。
 
だから、僕が代わりに言っておこうと思う。(もう言ったけど)
 
可哀相に、これから大変だぞ。
 
でも、このままいけば伝説になるな。
 
けれども、あんまり早く伝説にならないように、マイペースで、ゆっくりと、燃え尽きない程度に、お願いね!
 
なにしろ、これほどのレベルで「イエス・キリスト」を体現できる「人間」は、日本のみならず、世界的に見ても、貴重なんだからねっ!!!!
 
 
神の「孤独」に向き合える人間。
 
ともあれ、新たな「ジェダイ」の誕生を祝いたいと思います。
 
色々なものを、示してくれて、ありがとう。
 
間違いなく、有名無名を問わず、今まで人生で見た中で3本の指に入る演奏だったし、俺にとっても自分の人生を変えてくれるようなライブだったことに間違いないです。
 
 
 
 
 
3: それぞれのバンドが果たした役割について
 
今回のイベントは、Xieのベーシストであるつるべさんの企画によるものだったし、運営面でもXieさんがリードしてくれて、また会場である町田プレイハウスはXieさんにとってはホームグラウンドということで、
実に気持ちよく、本領を発揮したXieさんの演奏に触れることが出来た。
 
今回のイベントは、つるべさん、Xieさんの力なくしてはあり得なかったので、本当に感謝したい。
 
僕としてもXieさんの音楽や表現をより理解することが出来た。
Xieさんは、非常に音楽性も高度で、演奏技術も一流なのだけれど、その高度さも含めて、音楽性、その方向性が、どちらを向いているのか、どういったものに向けた表現なのかが、理解できなかった。
楽曲自体はもちろん、キャッチーで覚え易く、印象的なものなんだけれども、どこに向けた表現なのか、誰に向けた表現なのか、その狙いが僕はすぐにはわからなかった。
でも、昨日のステージを見たら、それがやっとわかった。
 
俺は、そのXieの皆さん、リーダーのMachiさんの選択と、表現の方向性について、最大の敬意を払いたい。
つまりは、Xieさんの音楽性は、高度で、ラウドで、ヘヴィであるのだけれども、その実、メロディは非常に平易で親しみ易い。そのギャップの中にこそ、Xieの音楽が伝えていきたいものがあるに違いないからだ。そしてそれは、日本のロックバンドが皆、宿命的に向き合うことになるテーマとしても共通する。(平たく言えばそれは、ロックのラウドなサウンドと、日本の伝統的な演歌や歌謡曲の、せめぎあいである。)
 
 
クリスチャンロックバンドの人というのは、基本的に、皆、「歌のお兄さん」だと思う。
 
かく言う僕も、ヘヴィメタルバンドをやってはいるが、自分の演奏の映像とか見ると、なんだこの歌のお兄さんみたいなステージングは、と思うことがある(笑)。
 
ただ、それぞれが、ヘヴィメタルのリフに乗せるのか、あるいは、アコースティックギターのコードの上に乗せるのか、あるいは、テレキャスターのカッティングの上に乗せるのか、あるいは、インダストリアルロックの重厚な音の上に乗せるのか、とか、そういった違いはあるけれど、基本的にはみんな、「歌のお兄さん」だ。
 
そして、その歌のお兄さんが、皆にわかりやすく伝えたいのは、ただひとつ、イエス・キリストの十字架の物語なわけだ。
 
それはもちろん、人類の歴史の中で、世界中のいろんなところで、大人に向けて、子供に向けて、くりかえし、何度も何度も、ずっと語られ、伝えられてきた物語だ。だからこそ、そんなストーリーテラー(語り部)は、そして「歌のお兄さん」は、いつの世にも存在しなければいけない。
 
そして俺は、Xieの皆さんと、リーダーのMachiさんが、そのイエス・キリストを伝えるための「歌のお兄さん for Jesus」として一流であることが、やっと理解できた。
 
そして、そこに至るまでの経緯や葛藤も、音の中からちょっとだけ想像できた。
 
そして、俺はそれを、すげえことだと思う。
 
 
三木くん > めっちゃ素敵な歌だった!
ソルフェイ> めっちゃ盛り上がった!
サルーキー> めっちゃ楽しかった!
 
ごめん、力つきたから詳細なレポートは「メタル課長ブログ」の方で。。。(汗)
 
本当にみんな凄いパフォーマンスだったから、すごい良いイベントだったんだよ。
 
だからみんなが笑顔になったのも、ごくごく当然のことだったのさ!
 
 
 
 
4: 神の前に示されたものについて
 
やっぱりミュージシャン、バンドマンにとっては、演奏することがすべて、っていうかね。
音を通じてしか語り合えない、理解し合えない、みたいなところがある。
 
だからこそ、こうしてまたひとつ、イベントを一緒にやって、皆で演奏する機会を持つことで、お互いの絆が深まる。それは当然のことだと思う。
 
こうして、個性も毛色も方向性も違うたくさんのクリスチャンバンドが一緒に演奏することで、わかることがある。それは、イベント全体として、実はいちばん大事なメッセージだったかもしれない。
 
それは、神の前にあっては、みんなひとつだ、ということ。
そして、俺たち人間は、神の前にあっては、みんな同じだ、ってこと。
 
一人一人は、違うかもしれない。
けれども、神の前にあって、同じ人間であることに、何の違いもない。
 
そして、ステージに立った時、それぞれのバンドがそれぞれの音を鳴らしていても、大きなひとつのもののためにその音を鳴らしていることに違いはない。
 
ゲストのサルーキ=も、神戸から里帰りの石川ヨナも、子育てに奔走中で久々のステージ復帰の三木裕季も、ホームで貫禄を見せたXieも、いつも通り絶好調のソルフェイも、ステージの上で、それぞれにめいっぱい輝いていた。
 
それぞれが個性的なのに、みんながひとつに溶け合っていた。
そのことが、やはり素晴らしかったと思う。
 
これは、やっぱり、音楽のジャンルとかスタイルではなく、「信仰」っていうキーワードでつながることの出来るゴスペルミュージック、そして「クリスチャンロック」の醍醐味だと思う。
 
 
 
 
5: 自分の霊的活動と祈った内容について
 
クリスチャン、っていうのは、祈ることの出来る人々であるから、こういうことを書くわけである。
 
いよいよアレな内容であるが、今までも書いてきたから、今回も書く。
 
なぜなら書くことによって、祈りの力を意識することは、よりその力を有効に使っていくためのステップになるからだ。
 
僕は今回のイベントにあたって、自分のバンドでは不参加だったし、裏方の仕事も、ちょっと手伝っただけである。もちろん、しっかり見てレポート記事を書くという仕事はおおせつかっていたので、それはこれから行う。(これは個人的な日記としての感想である。もちろん、ここで書いたことを下敷きにしてオフィシャルな記事を作成するけれども。)
 
だけれども、運営はちょこっとしか手伝わなかったし、物理的な面でも、人的な意味でもたいしたことはしていないが、けれども霊の面では、多少の手助けを行ったつもりである。
 
公言しているように、昨年、とある出来事をきっかけに、僕は自分の能力に自覚的になった。それは、僕が冗談混じりに「スタンド」と呼んでいる、霊的な実体として霊的なアクティヴィティが出来る(出来るような、出来ないような、笑)能力のことだ。つまり、霊的な実体を以て、周囲の霊的な事象に作用することが出来る能力のことだ。
 
よくよく考えてみれば、自覚するかしないかだけで、これは別段、普通のことだと思う。なぜなら人間は霊的な生き物だからだ。(万物の霊長、って言うじゃん)
 
 
だからそれ以来、僕にとって「祈る」という行為は、単純に言葉として思念するものではなく、それ以上に、霊的な実体を以て実際の霊的な事象に働きかける、というものになっている。だから、僕は正直、祈るという行為がどうやっていいのか、わからなかったが、今は、もうちょっと中身をともなって具体的な行為として理解できるようになった。ただ、そのぶん、本当に祈ることは、肉体労働とおんなじような感じで、本当に祈るのであれば、それは結構疲れることになる。
 
そうした「祈り」が出来るのであれば、それを人のために使うことが出来れば、それは良いことだ。
だから、なるべくそういった機会に使いたいし、ていうか、そういった機会でもなければ、こんな疲れることはあんまりしたくない。人知れずやればいいが、基本的に、人からおかしいんじゃないか、って思われるのはもちろん、自分でも自分はおかしいんじゃないか、って思ってしまうしね。それは、結構つらいんだよ。
 
だから今回も多少、祈った。
 
霊的な作用とか、事象についてどうこうするのは、別にキリスト教に限った話ではないと思うし、だからこそ余計に厄介だが、
さっきも言ったように、クリスチャンっていうのは祈ることの出来る人たちのはずだ。
そして、その中には、やはり大きな祈りの力を、実際に持っている人も、当然いるに違いない。
僕なんかは、その最初の一歩を踏み出したところに過ぎないのだから。
 
 
だからこうして記録するわけだが、
そうでなくても、俺は人類のこれからの行く先として、
「霊的な領域」というものに興味を持っている。
 
つまり、インターネットが発達し、コンピューターのネットワークが現実の世界以上に重要な意味を持つ、それが現実になった。
そして、AI、人工知能が発達して、物理領域を、それらに任せることが出来るようになった後、人類の次の活動領域は、そういった霊的領域に移っていくのではないかと、僕はそんなふうに想像しているからだ。
 
だから、そういった感性や能力を、今後人類は少しずつ発達させていくに違いない。その意味ではガンダムやスターウォーズは決しておとぎ話ではないと思う。
だから、最近は俺は、コンピューターのネットワーク以上に、そういった霊的なネットワークの方に興味が出てきている。
 
で、参考になるかどうかはわからないが、俺が祈り、行ったことは、いくつかあるが、最も簡単で、重要なことはこれである。
 
俺は、その場にいるすべての被造物と、霊的事象に向けて、主を賛美せよと、命じただけである。
 
なんでそんなことが出来るのか、それは知らない。
けれど、一介の無名のバンドマンであり、平信徒である俺に、出来るのだとすれば、たぶん誰にでも出来る。
 
日本ではキリスト教徒は数が少なくて、人口の1パーセントとかよく言われる。
1パーセントだとして、100万人。
 
さらにその中の100ぶんの1として、1万人。
 
仮にそれだけの人間が、本当に「祈る」ことが出来るようになったとしたら。
ひとつの国を変えるのには、十分過ぎやしないかと思う。
 
だからこうして言葉にしているつもりだ。
 

 

 

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