理想スピリット現実

普通はこういうことバンドのブログに書かないと思うんだけど、いつも言っているようにこの日本語サイトは僕の個人的な思考記録、いわゆるチラシの裏状態になっているから。
あと、思い返してみると、ブログに書いたことって、わりとその後、「なんとかなってる」ことが多いんだよね。気のせいかもしれないが。これも祈りの一種と言えるのだろうか。

 

本当はあんまし政治っぽい話題とかしたくないんだけど。
おかしなもんで、きょうび、政治の話とかすると、ほんのりスピリチュアルっぽくなっちゃうのよね。
結局、何を信じるか、ってことには、人それぞれのスタンスがあり、人それぞれの解釈があるからだと思う。
同じことなんだろうな、と。

 

全部見たわけではないけれど、今回の「れいわ新選組」の大西つねき氏をめぐる「ごたごた」は興味深く報道を見ていた。

僕は基本的に、この「流行り」っぽい政党、政党と呼んでいいのかもある意味あやしい、くらいの政党を、興味深く見守りつつ応援してきた。

僕は基本的に「政治」には期待していない。
「政治」に出来ることは限られていると思う。
そして、僕はその昔、音楽を作り始めるにあたって、「政治」も含む社会や世界の現状にさっくり絶望するところから始まっている。
つまり「だめだこりゃ」の状態から音楽を作り始めた。

ロックの世界であれ音楽の世界であれ、また宗教の世界であれ、僕はだいたいにおいて、皆が褒めそやしているもの、ほとんどのものは「信じていない」。ただ、「イエス・キリスト」とその「十字架」だけは信じられたので、それを自分の音楽の世界に取り入れた。(という言い方はちょっと不遜だけど)(むしろ最初から自分がその一部であった、という方がまだ近いだろう)

なので「政治」に期待していない、というのは前提のデフォルト状態なのだけれども。

 

そんな僕であっても、昨年「れいわ新選組」を見たときにはやはり衝撃を受けた。
なぜって、およそ「政党」には見えなかったからだよね。

なんというのか、不思議な言い方になってしまうけれども。
僕らも普段、たまに演奏している(してきた)ような、
アンダーグラウンドなハコ、寂れたライヴバーみたいな場所。
そういうところで見かける個性的な(世間のメインストリームからかなり外れた)アーティストみたいな人たちが、候補者となって演説とかしていたからだ。
(今の例で言うと、安富氏とかまさにそんな感じだっただろう)

で、僕自身も「組織」というものがあまり好きではない人間なので。
それが「組織」ですらなく、「寄り合い」のような集団であることに驚きを感じた。

で、言ってることが、とりあえず既存の「政治」の範疇を越えていた。

そんな感じだろうか。

 

僕は「政治」というものは信じていない。
そんでもって、現在、少なくともこの時代において、民主主義がうまく機能している、とはさらさら思っていない。

けれども、それであっても、僕は「民主主義」という概念は非常に信じている。

たぶん僕が信じているところの民主主義っていうのは、政治の制度とかよりももうちょっと広い範囲のことを指しているのだろうと思う。
制度ではなく、仕組みでもなく、人々が「なんやかんや動いたり騒いだり」することで、社会やら政治やらが形成されていくことを信じたいのだと思う。

僕はそういう意味では、インターネットもソーシャルメディアも信じてはいない。
けれども、そういったものを通じて少しずつ社会が変わり、世界が変わっていくことは願っている。

なので、そういったソーシャルメディア等を通じて、新しい形で政治が動いていく世界の中、今までとは違った民主主義の表れ方、こういう形の政治があってもいいではないか、と思っていたところ、
まさにそんな「政党」が出現したので、ちょっとびっくりしたのであった。

そんな「空気」みたいな政党があっても面白いと思うが、その「空気」の向こう側には、案外と重要なものがあるような気がしたのだ。

 

で、いろいろあったけど中略。

 

今回、問題になっていた大西つねき氏の発言について、どのように判断し、どのように考えるのか、
これは簡単な問題ではないと思う。

視点によって変わってくるし、立場によっても変わってくるし、解釈によっても変わってくる。
要するに「スタンス」が問われる感じだ。

とてもシンプルに簡略化して語るのであれば、理想と現実ってものがあると思う。
世の中には理想と現実というものがある。

人の命を差別してはいけない。
命を選別することは許されない。
それは理想だ。

けれども現実には、「政治的な判断」というものの中には、紛れも無く、直接、間接において「選別」が含まれる。

僕が昔からなんとなく思っていた持論なのだけれども、政治というのは、巨大なブルドーザーを街のど真ん中で動かすことのような気がしている。
ブルドーザーをどちらに動かしても、何かを踏みつぶし、誰かを犠牲にしてしまう。
西に動こうと、東に動こうと、何かは、誰かは、その下敷きとなり、犠牲となる。

それでも「為政者」ってやつは、判断を下し、ブルドーザーを動かさなくてはいけない。
だからこそ、どちらに動かすのが最善なのか、非常に重い責任を負うことになる。

そーゆー意味では、「命の選別こそが政治の仕事」みたいな大西つねき氏の発言も、わからなくはない。
そして、同じように、「それはわかる」と思った人も、世の中にはたくさんいることだろう。

 

僕はくだんの動画は全部は見ていない。
(追記。なのでさっき見た。両サイドの会見も見てみた。)
さりとて大西氏の動画やら、話を聴くのはまったく初めてってわけではない。
けれども、大きな話の流れで、大西氏が、もうちょっと大きな文脈の中で、それらのことを語っていたであろうことは想像がつく。

(つくんだけれども、違和感がひとつあるとすれば、お金という概念を越えていくことをテーマにしていた、っぽい、大西氏が、結局そのお金ないしその他の形の経済の価値観の中で、今回の「現実的な」発言をした、っぽい、ことは、ちょっと、あれ、と思う)(お金のシステムについて語ってはいても、お金の価値観を越えていない、ような印象)

 

また、大西氏の発言が問題だったとして、それに対して、なんだか政党っぽくない「れいわ新選組」が、どのような対応をするのか。
理念に照らして厳しく処分するのか。
あるいは、これもテーマっぽいところの、「やさしく、やりなおしがきく社会」みたいな感じで、許容していくのか。

これも人によって解釈によって変わってくるポイントだったと思う。

 

結果として、れいわ新選組は大西氏の発言を許容しないことになり、除籍という結果になったみたいだ。

ちょっとだけ驚いた。
なぜかというと、「現実的」に考えたらもう少し許容する対応もあっただろうから。

つまり「れいわ新選組」は、「現実」というよりは、もっとも「理想」に近い形を選んだ、と僕には思えた。

その判断をもって、政党としての「れいわ新選組」を、また、政治家としての山本太郎氏を、「現実的でない」として批判することはたやすいことだろうと思う。

その現実的でない対応を見て「だめだこりゃ」と思って離れていく人も結構いるだろう。

ただひとつ言えば、「理念」は確かに守られたのだと思う。
むしろ「理念」は、よりはっきりと示され、より強固なものとなった。

その「理念」に、人々が賛同するか、反発するか、それはまた別の問題である。

 

れいわ新選組というのは、まだ若い政党である。
昨年、デビューの際に「ちょっと」ブームはあったかもしれないが、それはやっぱりブームだ。

党としての規約もまだ不完全で、そもそも「組織」というものがない。
それは政党、というか、人の集まり、としては、ごく初期の、原始状態なのではないかと思う。
で、言ってしまえば、なんというか、それは民主主義の原始状態であると思う。

なにもそんなところからやりなおさんでもいいではないか、とも思えるが、
きっとやりなおす必要があったんだろう。
今の人間社会においては。
民主主義 is deadって思うのであれば。

それが、これから進化していくのか、いかないのか。
進化するとして、そのために核となる「理念」や「理想」というものが、もし大事なのだとしたら、今回の判断はどう考えても正解であったと思う。

現代のインターネット社会では、いわゆる「ポリコレ」も含めて、全方向から批判にさらされる状態が非常に簡単に引き起こされるが、そのような中にあって、ひとつひとつの概念をかいくぐるように発言し進んでいる山本太郎氏は、案外と行くところまで行くかもしれない。

 

僕は大西つねき氏を非難しようとは思わない。
大西氏の発言は、たぶん、普通の人々からしてみれば、「普通」の範囲内だ。
そして、僕は大西氏はたぶんいい人であろうと思う。
いい人、という言葉が適切でなければ、普通の人であろうと思う。

けれども、普通の人の普通の発言であるからこそ、それは問題なのだ。
そして、「いい人」であっても、人はこのような考え方を、ごく簡単にしてしまうものなのだ。それが問題だ。

キリスト教の人に言わせれば、世の中に「いい人」とか「正しい人」というのはいない。
聖書にそう書いてある。正しい人間など居ない、と書いてある。

そして「原罪」というものを理解していれば。
人には罪がある。

なんというか、
人間というのは、本来、人を差別し、自分と異なる者を嫌い、自分よりも弱い者を見下し、場合によっては見殺しにする、そのように出来ている生き物だと思う。

僕だって一皮むけば、きっとそういった差別意識みたいなのがきっとあるだろう。
二皮も三皮もむく必要ない。一皮むけば、きっとそういうものが僕の中にもあふれている。

 

だから、普通の人、一般の人、いい人、の集まりが、笑顔で善意でもって、弱者や少数派を今日も殺していく。

世の中の状況がひとつ傾けば、人間の社会ってやつは簡単に、「虐殺」ってやつを始めるだろう。しかも、例の「嵐のような賛同の中で」っていうフレーズを伴って。

だからこそ、たとえ現実がそうであっても、やはり叫ばなければいけないのだ。「命の選別など許されない」と。

君は、全世界で起きていたBlack Lives Matterのデモやらパレードを、冷笑的に見ていた方か?

あんなのを支持するのは馬鹿だと、そう言って賢いふりをしていた方か?

僕はどちらかといえば、馬鹿で構わないと思っている方だ。

 

そしてさきほど、政治は巨大なブルドーザーだと言ったけれども、
もしそのブルドーザーを動かす決断をしたのならば、
その下敷きになる人々を全力で救い出さなくてはいけないわけだよね。

それが出来る人はたぶん決して多くない。残念だけど多くない。
そんでもって、旧態依然とした旧式の殺人ブルドーザーじゃなくて、もっと新しくて高性能な、なるべく人を殺さないブルドーザーの方がいい。そういう政治があってもいいじゃないか、と思う。

 

人間というのは、賢いふりをしたがるものだ。
というよりは、人間というものは、「自分は馬鹿だと思われたくない」そういう生き物だ。

それくらい、人間は人の目を気にするし、様々な雑念やノイズが判断に入り交じる。
その結果、好きな音楽くらいならまだしも、自分の人生においてもっともっと大切な問題でさえ、自分で判断できなくなる。そういう人は多いと思う。

損をしたくないから、孤立したくないから、そして馬鹿だと思われたくないから、人は「真実」とか「愛」みたいなものから目を逸らすのだ。それらのものに背を向けるのだ。

 

僕はあまりテレビは見ない方だったが、その昔、子供とか少年だった頃に、テレビで山本太郎氏が画面に映った時、あまり好感を持たなかった。どちらかといえば嫌いな印象だった。

けれども、その人が、今や、「政治」の範囲を越えて、ほとんど「愛」みたいな勢いで、メッセージを世の中に訴えてるのよね。

そして、世の人間というものが、そういった人に対して、どのように反応するかは、昔から決まっている。
反感。不信。怪しみ。などなど。

 

愛って言えば宗教なんだろうけれども、少しだけキリスト教の世界も見てきたから、なんとなくはわかる。
愛を説いているはずの宗教の世界でさえも、人間ってやつは、やっぱり「自分がかわいい」ものだ。

だから、人は皆、自分がかわいいので、そのへんを基準に、政治家に対しても、アイドルやミュージシャンに対しても、勝手なものを期待する。自分を「いい気分」にさせてくれるものを選ぶ。自分のものさしに合うものだけを求める。

だから、いくら「理想」や「理念」を説いてみせたところで、人々はそこに自分勝手な都合や理屈を重ねるだけであって、本当に通じることは少ない。

今回のことでも、「れいわ新選組」から離れて行く人はきっとたくさんいるでしょう。
それは皆、自分の意見や、主義なんてものがあるといっても、人間というものはそれぞれに「自分がかわいい」からです。自分が正しいと思っているからです。
人間のそれぞれの理想や考えなんてものが、本当に一致することなんて少ない。
人間にとって、本当に一致することは、とても難しい。

それに対して、「現実」ってやつは、つまり現実においては、人は「利害」であるとか「欲得」のようなもので団結する。そのような現実的な理由でつながる方が、人間にはよほど簡単なことだ。利権、とか、保身、とか、そういう理由の方が、ほとんどの場合には「理想」なんかよりもよほど強い動機となる。
もっと言えば、人は「憎しみ」(ヘイト)でつながる方が、よほど簡単で、効果的だ。なぜか。それは気持ちいいからだ。

だからこそ、「理念」「理想」を振りかざす者は、「利害」で一致する現実派に、勝利することはほとんどない。
残念ながら、特に、この国においてはそうじゃないかな。

 

キリスト教でいうところの「罪」「原罪」ってやつは、つまりは人間の持つ愚かさってことだ。

そんな「罪」「愚かさ」を抱えた人間の世界の中で、「民主主義」なんてものが、果たしてうまくいくと思うか?

これは、結構絶望的な問いかけだ。

だからこそ僕の中では、人間の「救済」ってことと、「民主主義」の理想ってやつは、結構ひとつのテーマになっている。

「人間」ってやつを、「民衆」ってやつを、信じない限りは、民主主義なんて語れないんだよな。

「それでも人間は、最終的には良い方向に向かっていくはずだ」って思ってなきゃ、民主主義は成り立たない。

 

けれども実際においては。
少なくともまだ今の時代においては。
民主主義とは、何人もいる「候補者」の中で、もっとも最悪な人物を選ぶための制度ではないかと思う。

人間というのは、たとえば、清廉潔白な人と、ちょっと悪どい人がいた場合、
むしろ清廉潔白な人よりも、ちょっと悪どい人を信用するようなところがある。

どこの国でもそうかもしれないが、特に日本では、昔から歴史を見るとそういう感じじゃないだろうか。

ちょっと悪どい人の方が、「現実的」であり、「親近感」があり、「理解できる」からだ。
また、世の中というものは、そういう「ちょっと悪どい人」の方が、うまく対処できる、ということを、人々は知っている、少なくともそう思っている人が多い、からだ。

だからこそ、どれだけ「清廉潔白な」人を選ぶことが出来るか、というのが、その国の人々の『スピリット』や『モラル』を測る基準となり得る。

 

けれども、現状ではだいたい世界中、ソーシャルメディアが支配する世の中にあって、「よりによっていちばん最悪な人を選ぶ」結果になるのが現状ではないか。

それは、皆が「馬鹿と思われたくない」「自尊心を守りたい」「自分がかわいい」そう考える結果、いちばん最悪な嘘つきがもっとも人気を集めるような仕組みになっているからだ。

だけれど、たとえそうであったとしても、それが民主主義制度の上で行われる政治である以上は、為政者は「民衆」を無視できないのだ。

もっとも最悪な政治家を選んでおいて、その上で、その政治家に皆でよってたかって文句を付ける。
今のところそれが、民主主義という政治システムの定番のセットメニューであるように思える。
(で、僕は半分くらい、それでいいんじゃないかと思っている。)

 

でもね、昨年、重度の障害を持つ二人の議員が誕生した時に、僕はちょっと誇りに思った。
こんな政党は、このような形の政党は、このようなメッセージを発している政党は、世界のどこにも無いのではないか、って。

だから私はまだ日本をあきらめていないですよ。
この政党がどう、とかじゃなくて、人々の意識が、ってことに関してです。

僕は、世の中を変える、ってことは、政権を取る、ってこととイコールじゃないと思う。
だから期待を持っている。
このストーリーが面白くなっていくかどうかは、皆さん次第だと思います。

いつも言っていることだけど、やるのは誰でもいいんだよ、それが民主主義なんだからさ。
いつの間にか世論が変わっていた。それでいい。
リベラルは選挙で勝つことはあまりないけど、世論を変えることについては、ずっと着実に勝利してきてるわけだからね。右も左も、しょせんは車の両輪でしょう。

 

とりあえず貼っておくか。
XTCの中でもかなり好きな曲、Peter Pumpkinheadのムービー。
MVというかビデオクリップの内容はちょっと微妙(思わせぶり)だけど、歌詞はシンプルにして的を射ていると思う。

 

ビデオクリップ(MV)に関しては、こっちのCrush Test Dummiesのバージョンの方がいいような気がするな〜。

 

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